第21話 友達として
朝――広い部屋の中で、朝日奈零は自然に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに眩しい。時刻は六時を少し回ったところだった。
しばらく天井を見つめたまま、ぼんやりと瞬きをする。
……夢を見ていた気がする。
研究所にいた頃の夢。
内容は思い出せない。ただ、胸の奥に残る感覚だけが、わずかに重かった。
「……よし!」
その空気を振り払うように、朝日奈は体を起こす。
顔を洗い、制服に袖を通す。鏡の前で軽く髪を整えて、にっと笑ってみせた。
「今日もいい朝だな!」
部屋を出て、広い屋敷の廊下を歩く。
「おはようございます、零様」
「おはよう!」
使用人たちに、ひとりひとり声をかけていく。誰に対しても変わらず、明るく、まっすぐに。
それが当たり前であるかのように。
食堂の前を通りかかったとき、玲緒の姿が視界に入った。
「兄さん、おはよう!」
声をかける。
けれど、返事はない。視線も動かない。
まるで、そこに何もないみたいに。
「……」
一瞬だけ、間があく。
けれど朝日奈は、すぐにいつもの調子に戻った。
「まあ、いっか!」
特に気にする様子もなく、そのまま玄関へ向かう。
扉を開けると、朝の空気が肌に触れた。靴を履いて、勢いよく外へ出る。
「朝のヒーロー活動、開始だ!」
誰に聞かせるでもなく、堂々とそう言った。
通学路をまっすぐ行く……はずが、
「お、猫」
道端で見つけた一匹に、目を留める。
ふらりと進路を変え、そのまま路地裏へ入っていく。猫のあとを追って少し歩き回り、気づけばまったく違う道に出ていた。
「……む?」
だが、それも問題はない。
「困ってる人はいないかー!」
胸を張って周囲を見渡す。
ちょうどその時だった。
「おや……」
重たい荷物を抱えた老人が、足を止めていた。
「大丈夫ですか!」
すぐに駆け寄る。
「これ、持ちます!」
「いやいや、そんな……」
「遠慮はいらない! ヒーローだからな!」
半ば強引に荷物を引き受け、そのまま目的地まで付き添った。
何度も頭を下げられても、
「気にするな!」
と、少し誇らしげに笑う。
それからまた歩き出す。
寄り道ばかりの通学路。
それでも不思議と、学校に着く頃にはちょうどいい時間になっている。
校門の前で立ち止まり、空を見上げた。
「……うん」
小さく頷く。
さっきまで胸に残っていた重さは、もうどこにもなかった。
「今日もすばらしい日だ!」
そして、朝日奈零は歩き出した。
***
校門をくぐると、朝日奈はいつものように声を張った。
「おはよう!」
すれ違う生徒に、片っ端から挨拶をしていく。
「お、おはよう……」
「おはよー、朝日奈」
「元気だな……」
知っている相手も、知らない相手も関係ない。
教師とすれ違えば、さらに姿勢を正して、
「おはようございます!」
「おはよう、朝日奈。今日も元気だな」
「当然です!」
無駄に堂々と胸を張る。
その様子に、思わず笑みをこぼす教師も少なくなかった。多少騒がしいが、不思議と嫌われない。それが朝日奈零という男だった。
教室の扉を開ける。
中では、すでに何人かが集まっていた。
その中で――
「だから、それはおかしいと思うんだけど」
「いや、でも可能性としては――」
藤野と凪沙が、机を寄せて話しているのが目に入る。
「おはよう!」
勢いよく割って入る。
「うわ、びっくりした……ヒナくん、声でかいって」
「朝から元気すぎだろ、お前……」
藤野は頬杖をついたまま、呆れたように目を細めた。
「いい議論をしているな! 何の話だ?」
「議論ってほどじゃないけど……」
凪沙がくすっと笑う。
「昨日のドラマの犯人当て」
「ほう!」
朝日奈は目を輝かせた。
「オレも考察していいか!」
「いや、見てないでしょ」
「見てないな!」
即答だった。
「じゃあなんで参加しようとしてんの……」
藤野が深くため息をつく。
「ヒーローは常に状況を把握する必要があるからな!」
「ただの後出しじゃん……」
凪沙は笑いながら、机に頬を乗せた。
「で、ヒナくん的に犯人は?」
「うむ……」
一瞬、腕を組んで考える素振りを見せて、
「その場にいなかった人物だな!」
「雑すぎる」
「テンプレすぎる」
即座にツッコミが飛ぶ。
「なにっ!?」
朝日奈は本気で驚いた顔をした。
「違うのか!?」
「違うよ……」
「むしろ一番ありがちな外し方だぞ、それ……」
「……なるほど、奥が深いな……」
なぜか感心している。
凪沙はそんな様子を見て、くすっと笑った。
「ヒナくん、ほんと楽しそうだよね」
「楽しいぞ!」
また即答だった。
その迷いのなさに、藤野は小さく息をついた。
「……まあ、お前がそれでいいならいいけど」
「うんうん、いいと思う」
凪沙も軽く頷いた。
そのとき。
教室の隅、窓際。
足を組み、本を読んでいる男が、ふと視線を上げた。
灰薔薇燐。
朝日奈と目が合った瞬間、露骨に顔をしかめる。
「……下品な男だ」
ぼそり、と吐き捨てる。
「おはよう!」
だが朝日奈は、まったく気にしない。
むしろ、いつも通りの笑顔で返した。
「……チッ」
小さく舌打ちをして、再び本に視線を落とす。
完全な拒絶。
それでも、わざわざ席を立つほどでもないらしい。
藤野が、横で小さく呟いた。
「……相変わらずだな」
「仲良くしたいんだがな!」
朝日奈は腕を組み、うんうんと真剣に頷く。
「無理だと思うけど」
凪沙があっさり言った。
「なぜだ!?」
「その距離の詰め方が原因だと思うよ……」
「む……そうなのか?」
本気で悩み始める。
腕を組んだまま、真顔で考え込む朝日奈に、藤野が耐えきれず吹き出した。
「お前ほんと面白いな……」
「笑うな!」
「いや無理だろ」
凪沙もくすくすと肩を揺らす。
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
騒がしくて、くだらなくて、でも、どこかあたたかい空気。
朝日奈零の日常は、今日も変わらずそこにある。
そしてそれは、あまりにも穏やかだった。
まるで、なにも起こらないこと自体が、奇跡みたいに。
***
放課後。
いつものように部室で少し過ごしたあと、先に立ち上がったのは藤野だった。
「悪い、俺今日はもう帰るわ」
「む? どうした藤野くん」
「父さんの見舞い。今日は顔出すって言ってたから」
「あ……そっか」
凪沙が小さく頷く。
朝日奈はすぐに姿勢を正した。
「うむ! それは大事だな! 気をつけて行け!」
「おう。ありがと」
藤野が軽く手を上げる。
その様子を見ていた凪沙も、鞄を抱え直した。
「わたしも今日は絵の教室あるから、そろそろ行くね」
「絵の教室?」
「うん。近所の小さなやつだけど、最近入ったんだ」
「おお、そうだったのか!」
「また明日ね、ヒナくん」
「また明日!」
にっと笑って、大きく手を振る。
藤野と凪沙は、それぞれ部室をあとにした。
扉が閉まる。
しん、と静かになった部室の中で、朝日奈はひとり立っていた。
ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちる。だが次の瞬間には、朝日奈は勢いよく拳を握った。
「孤独なヒーローもまた、かっこいいものだ!」
誰に聞かせるでもなく、高らかに宣言する。
そのまま鞄を肩にかけ、部室を飛び出した。
廊下を歩く。
夕方の校舎は、朝や昼とはまた違う空気をしていた。
部活へ向かう者。
帰宅する者。
友人と話しながら笑う者。
そんな中でも朝日奈は変わらない。
「さよなら!」
「お、おう。さよなら」
「また明日ねー」
「朝日奈、最後まで元気だな……」
教師とすれ違えば、やはりきっちりと、
「さようなら!」
「おう、気をつけて帰れよ」
知っている相手も、知らない相手も関係ない。片っ端から、全員に声をかける。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
空は茜色に染まり始めていた。
風が吹く。制服の裾が揺れる。
朝日奈は空を見上げ、小さく頷いた。
「……よし」
その目が、少しだけ鋭くなる。
「放課後のヒーロー活動、開始だ!」
ひとり、街へ向かって歩き出す。
商店街の前を通り、横断歩道で困っている子どもがいれば声をかける。荷物を持つ人がいれば手伝い、迷子らしい犬を見つければしばらく追いかける。
誰かに頼まれたわけでもない。
誰かに褒められるわけでもない。
それでも朝日奈零は、当たり前みたいに足を動かす。
夕暮れの街を、ひとりで歩く。
その背中はどこか小さく見えて、それでも不思議とまっすぐだった。
孤独なヒーロー。
本人はきっと、格好いいつもりなのだろう。
実際、少しだけ様になっていた。
***
公園のベンチに腰を下ろし、朝日奈はふう、とひと息ついた。
「ふう……今日はたくさん人の役に立てたはずだ」
夕方の公園には、やわらかな風が吹いていた。
遊具のきしむ音。子どもたちの笑い声。遠くで聞こえる車の音。
どれも穏やかで、平和だった。
朝日奈は満足げに空を見上げる。
その近くのベンチには、ひとりの老人が座っていた。
「こんにちは。今日はいい天気だね」
「! こんにちは!!」
朝日奈はぱっと顔を向け、いつものように明るく返す。
「ええ、そうですね! 風もとても心地いい!」
「若いのに、風流なことを言う」
「そうでしょうか?」
老人は穏やかに笑っていた。
柔らかい物腰で、どこにでもいる普通の老人に見える。
朝日奈は、そのまま少し世間話を続けた。
今日は暖かいだとか、この公園は日当たりがいいだとか、近くの木はもう少ししたら色づくだとか。
とりとめもない話だったが、老人はゆっくり頷きながら聞いていた。
しばらくすると、砂場で遊んでいた子どものひとりが、朝日奈に気づいて駆け寄ってきた。
「おにいちゃん!」
「おお!」
朝日奈はにっと笑う。
「元気だな!」
子どもは嬉しそうに、手に持っていた赤いボールを掲げた。
「みて!」
「おお、立派なボールだ!」
「投げてー!」
「よし、任せろ!」
軽くボールを受け取り、朝日奈は子どもとしばらく遊んだ。
投げて、受け取って、また投げる。
それだけのことなのに、子どもはきゃっきゃと楽しそうに笑っている。
老人は、その様子を静かに見ていた。
しばらくして、ぽん、と跳ねたボールが思ったより遠くへ転がった。
公園の外へ出る。
そのまま車道の方へ向かっていく。
「あっ」
子どもが追いかける。
朝日奈の表情が変わった。
迷いはなかった。
次の瞬間にはもう、身体の内側で電気が駆け巡っていた。
神経が加速する。
視界が研ぎ澄まされる。
世界の動きが鈍くなる。
迫る車。
無防備な子ども。
間に合う距離。
――いける。
地を蹴った。
電撃が地面に、軌道のように走る。
その瞬間、朝日奈の姿は子どもの前にあった。
片腕で子どもを抱え込み、もう一方の手で車体へ触れる。
ばち、とごく小さな火花が散った。
最低限の電流を流し込み、エンジンへ一瞬だけ干渉する。
車体はわずかに鈍る。
だが、勢いまでは完全に殺しきれない。
朝日奈は子どもを抱えたまま、そのまま道路脇へ身体を捻った。
「っ――!」
壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃が背中から全身へ走った。
息が詰まる。
「ぐっ……!」
肺の空気が強制的に吐き出される。
けれど、腕の中の子どもは無傷だった。
何が起きたのか分かっていないのか、きょとんとした顔で朝日奈を見上げている。
騒ぎを聞きつけた母親が駆け寄ってきて、泣きそうな顔で子どもを抱きしめた。
「よかった……! 本当によかった……!」
「ちゃんと前を見て走らないと危ないぞ!」
朝日奈は背中の痛みを隠すように笑った。
「このお兄ちゃんが助けてくれたの!」
「本当に、ありがとうございます……! 何てお礼を言えば……」
母親は何度も頭を下げる。
「いやいや! 大したことではありません!」
明るく手を振る。
そうしてしばらくしてから、母親と子どもは何度も礼を言いながら去っていった。
公園に残ったのは、朝日奈と、あの老人だけだった。
夕暮れが少しずつ濃くなる。
風が吹く。
「いやあ、危なかった」
朝日奈はいつもの調子で笑ってみせる。
「でも、無事でよかった!」
老人は、そんな彼をじっと見つめていた。
「……すごいね、今の力」
「いえいえ!」
朝日奈は照れくさそうに頭をかく。
「大したものではありません! 体質みたいなものです!」
「体質――」
老人の口元が、わずかに歪んだ。
その瞬間、さっきまでの穏やかな空気が、すっと消えた。
ふと、その顔に影が落ちる。
「そんな言葉で、私の最高傑作を片付けるつもりかな……?」
「――!」
朝日奈の心臓が、強く跳ねた。
空気が変わる。
全身の神経が、一瞬で警鐘を鳴らした。
老人は薄く笑う。
「“ゼロワン”」
その呼び名。
その声音。
知っているはずもない、その言葉。
朝日奈の笑みが消える。
「……あなたは」
夕暮れの公園で、老人の目だけが、ぞっとするほど冷たく光っていた。
拳に力が入る。
「……おっと」
老人が、わずかに目を細めた。
「あまり熱くならない方がいい。私はいつでも、近くの一般人を殺せる――それくらいは理解しているだろう?」
「……っ」
朝日奈の肩がぴくりと揺れる。
視線の端には、まだ公園の外を歩く人影があった。
犬を連れた女。
買い物袋を提げた男。
遠くで自転車を押している学生。
ごくありふれた夕方の景色だった。
朝日奈は、拳の力をゆっくりと緩めた。
首筋を汗が伝う。
一瞬、空気が歪んだように見えた。
視界がぶれる。
数秒後、目の前にいた老人の姿はもうなかった。
代わりに立っていたのは、全身を白い衣服で覆った男だった。
年の頃は二十代半ばほどに見える。異様なまでに白い。白衣にも似ているが、どこかそれとも違う。長い袖の奥で腕を前に組んでいるせいで、両腕がひと続きに見えた。
朝日奈の喉がひくりと鳴る。
「……オレを、回収しに来たのか」
口の中が乾いていた。それでも、目だけは逸らさない。
白い男は薄く笑った。
「……いや。今日は少し、話をしに来ただけなんだ」
「……話?」
「うん」
白い男は、朝日奈を観察するように首を傾げた。
「君の、外での様子も一度直接見ておきたくてね」
その言い方に、朝日奈の背筋が粟立つ。
「少し、場所を移動しようか」
白い男がそう言って一歩踏み出す。
「……断る」
朝日奈は即座に言った。
さっきまで公園で笑っていた声とは、まるで別物だった。
「君に拒否権があると思っているのかい?」
「ある」
朝日奈は睨み返す。
「少なくとも今のオレは、お前の檻の中にはいない」
白い男の口元の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「檻、か。……ずいぶんと言うようになったね、ゼロワン」
「その名前で呼ぶな」
ぴしゃりと切り捨てる。
夕暮れの公園は静かだった。
さっきまで子どもの笑い声があった場所が、急に遠く思える。
白い男は、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「安心していい。本当に今日は連れ戻しに来たわけじゃない」
「信用できると思うか?」
「思わないだろうね」
あっさりと認める。それが余計に気味が悪かった。
「……なら、何しに来た」
朝日奈の問いに、白い男は数秒だけ黙った。
それから静かに言う。
「確認だよ」
「……確認?」
「君が、どれほど“外”に馴染んでしまったのか」
秋の風が吹く。
だが朝日奈には、少しも心地よくなかった。
「学校に通い、友人を作り、笑って、困っている他人を助ける……」
白い男の声は淡々としていた。
「実に興味深い。施設にいた頃には考えられなかった」
「……だからなんだ」
「別に。感想だよ」
白い男はゆっくりと目を細めた。
「でも、君のその日常は、とても脆い」
「……」
「私がその気になれば、壊すのは簡単だ」
胸の奥が、すっと冷えていく。
学校。部室。くだらない会話。笑い声。
ついさっきまで当たり前にそこにあったものが、急にひどく頼りないものに思えた。
「……やめろ」
それだけを、ようやく絞り出す。
白い男はわずかに目を細めた。
「だから、熱くなるなと言っている」
その時だった。
「……朝日奈?」
聞き慣れた声がした。
朝日奈の顔から、血の気が引く。
振り向いた先にいたのは、藤野だった。
最悪だ、と朝日奈は思った。
***
病院からの帰り道だった。
父親の見舞いを終え、いつもの道を歩いていたところで、公園の中に見覚えのある姿が見えた。
朝日奈。……と、知らない男。
ただ、妙だった。
遠目に見ただけでも分かる。空気が、明らかにおかしい。
朝日奈が、笑っていない。あの朝日奈が。
藤野は足を止めたあと、そのまま公園の中へ入っていった。
「……知り合い?」
二人の前で立ち止まり、朝日奈と男を交互に見る。
朝日奈の様子が、明らかにおかしかった。
視線が落ち着かない。額にはうっすらと汗がにじみ、指先もわずかに震えている。
こんな顔は、今まで一度も見たことがなかった。
藤野は次に男を見る。
白い服。妙に整った顔立ち。
柔らかく笑っているのに、その目だけが笑っていない。
……いや。
むしろ、楽しんでいるように見えた。
藤野は小さく眉を寄せる。
「……あの。朝日奈くんの友人です。彼に何か用が――」
「来るな!!」
鋭い叫びが、空気を裂いた。
びくり、と藤野の足が止まる。
朝日奈だった。
その声には、はっきりと恐怖が滲んでいた。
「……それ以上、近づくな……」
顔を上げた朝日奈の目に浮かんでいたのは、見たこともない色だった。
怯え。焦り。必死さ。
白い男は、その反応を見てまた楽しそうに目を細めた。
「……?」
藤野は朝日奈を見る。次に、白い男を見る。
意味は分からない。
だが、ひとつだけ分かる。
――この男は、まずい。
白い男はゆっくりと藤野へ向き直り、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。私は朝日奈くんの友人だよ」
声音だけを聞けば、どこまでも優しい。
「ごめんね。彼は少し混乱してるみたいだ」
その言葉に、朝日奈の肩がぴくりと揺れた。
白い男が朝日奈へ視線を向ける。
その目は今度は、ぞっとするほど冷たかった。
「ねえ、朝日奈くん?」
「……っ」
朝日奈は一瞬だけ唇を噛み、それから無理やり口元を歪めた。
「あ、ああ。実は……そうなんだ」
ひどく曖昧な笑顔だった。
「ちょっと込み入った話をしてて……悪かったな。驚かせてしまって」
声音が硬い。明らかに不自然だった。
藤野は黙って朝日奈を見る。
……おかしい。
朝日奈は、さっきから一度も自分の名前を呼ばない。
いつもなら真っ先に「藤野くん!」と言うはずなのに。
距離を取らせている。
この男から、遠ざけようとしているみたいに。
藤野の背筋に、嫌な感覚が走った。
***
朝日奈は、藤野から目を離せなかった。
ここにいさせるわけにはいかない。
これ以上、この場に関わらせるわけにもいかない。
白い男の視線が、ゆっくりと藤野へ向く。
その動きだけで、朝日奈の背筋が冷えた。
「へえ」
白い男は、品定めでもするように藤野を見る。
朝日奈は一歩前へ出た。
「……今日はもう、帰れ」
「え?」
藤野が眉をひそめる。
朝日奈はさらに近づき、その肩に手を置いた。
「いいから」
頑なに、名前は呼ばない。
「……頼む」
押し殺した声だった。
藤野は朝日奈の顔を見る。
そこにあるのは、見たことがないほど切羽詰まった表情だった。
数秒の沈黙のあと、藤野は小さく息を吐いた。
「……分かった」
そして低く続ける。
「……でも、明日ちゃんと説明しろよ」
「……ああ」
朝日奈はかすかに頷く。
藤野は白い男を一瞥してから、ゆっくりと踵を返した。
その背中が遠ざかっていく。
朝日奈は、じっとそれを見送っていた。
完全に姿が見えなくなるまで、一度も目を逸らさなかった。
「いい友人だね」
その声に、朝日奈はゆっくりと振り向いた。
睨み返す。
白い男は、その反応を見て満足そうに小さく笑った。
「……君の意外な顔を見られた。やはり今日は来た甲斐があった」
「っ……」
奥歯を噛みしめる。
白い男は気にした様子もなく続けた。
「今日はそれだけだよ。挨拶みたいなものだ」
そう言って踵を返しかけ、ふと思い出したように振り向く。
「そうそう」
その笑みは、さっきまでの穏やかさとは違っていた。
研究者の目。値踏みする者の目。
「次はもう少し、落ち着いて話せる場所で会おう」
ぞっとするほど自然に、そう言う。
朝日奈の背中を、冷たいものが走った。
「お前……」
白い男はわずかに首を傾ける。
そして、やわらかく笑った。
「またね、“朝日奈くん”」
次の瞬間。
白い男の姿が、夕暮れの空気に溶けるように揺らいで――消えた。
あとに残されたのは、朝日奈ひとりだった。
風の音だけが、やけに大きい。
「……はっ……」
そこでようやく、朝日奈は止めていた息を吐き出した。
膝が、わずかに震えている。さっき子どもを助けた時の痛みよりも、今の方がずっと苦しかった。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
視線を落とした先で、握りしめた手のひらが白くなっていた。
夕焼けの下、そこにもうヒーローの顔はなかった。
***
昨日の朝日奈の様子が、頭から離れなかった。
明らかにおかしかった。
いつもの朝日奈なら、もっと分かりやすく笑って、もっと雑にごまかす。
けれど昨日は違った。ごまかしてはいたが、その下にあるものを隠しきれていなかった。
何かあったのは間違いない。
それも、かなりまずい何かだ。
朝日奈が自分から言うのを、藤野は待っていた。
あいつが話す気になるまで、少し待とうと思った。
けれど、朝日奈は言いたくなさそうだった。
だったら無理に聞き出すのはやめよう。
軽く踏み込めることじゃないのは、もう十分伝わっていた。
しばらくは、いつも通りに接することにした。
放課後、部室。
いつも通り、どうでもいい話をしていた。
購買のパンの話だとか、朝日奈の謎の理論だとか、本当にくだらないことばかりだった。
藤野は椅子に座ったまま、何となく窓の外を眺めていた。
グラウンドからは運動部の声が聞こえてくる。夕方の光が校舎の壁を斜めに照らしていた。
そのままほんの一瞬だけ、視線を朝日奈に向ける。
朝日奈は申し訳なさそうで、けれどそれ以上に、少し苦しそうな目をしていた。
「……藤野くん」
名前を呼ばれる。
顔を向ける。
「ん?」
「……」
何か言いたそうにして、朝日奈は口をつぐんだ。
「……いや」
首を振る。
「なんでもない」
藤野は数秒だけ朝日奈を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
「そか」
朝日奈は視線を落とす。
……まあ、無理に聞くのはやめておこう。
藤野はそう思った。
灰黒重工。七年間の空白。栞の話。玲緒の反応。灰薔薇の口ぶり。
全部が、どこかで繋がっているのかもしれない。
昨日、公園で見たあの白い男も。
薄々、気づいてはいた。
こいつの中にある、“陰”みたいなものに。
時折だけ見せる表情。
ふとした瞬間に浮かぶ、どこか遠くを見るような目。
日常を、本当に愛おしそうに見つめる視線。
まるで、今この瞬間が二度と戻らない奇跡みたいに、ひとつひとつを噛みしめているような顔をする時がある。
傍から見れば、ただの明るい馬鹿だ。
声はでかいし、騒がしいし、距離の詰め方もおかしい。
でも、それだけじゃないことは、近くで見ていれば嫌でも分かる。
――こいつは、何かを知っている側だ。
普通の人間が、知らなくていいはずのものを。
凪沙も、たぶん気づいている。
あいつ自身もまた、過去に何かを抱えた人間だ。
だからかもしれない、と藤野は思う。
こういう連中が、自然と集まってくるのは。
××部みたいな場所に。
前に一度、凪沙と話したことがあった。
「……ヒナくんってさ、悩みとかあるのかな」
「……悩み?」
「自分のことについて、全然話してくれないけど」
少し考えてから、藤野は答えた。
「……そうだな。たとえあったとしても、人に相談するタイプじゃなさそうだ」
「そうだね……」
凪沙は少しだけ視線を落として、
「……何か辛いこと、一人で抱えてなきゃいいけど」
と、小さく言った。
――そして昨日。
公園で見た、あの光景。あの男。あの時の朝日奈の顔。
正直、気にならないわけがない。
むしろ、気になることだらけだった。
あいつがあんな顔をする理由も。
あの男が何者なのかも。
全部。
でも。
朝日奈が言わないと決めたのなら、今はそれでいい。
少なくとも、今この瞬間に無理やりこじ開ける話じゃない。
部室の中では、朝日奈がいつもの調子でくだらない話をしていた。
大げさに笑って、身振り手振りまでつけて。
藤野は視線を外して、窓の外を見る。
グラウンドでは、部活の声が響いている。
いつもの日常。変わらない風景。
「なあ、朝日奈」
「ん?」
「今日、帰りなんか食ってく?」
「!! 行く!!」
即答だった。
さっきまでの空気が嘘みたいに、ぱっと明るくなる。
「甘味か!? 甘味なのか!?!?」
「いや、ラーメンがいい」
「なにぃ!? だがそれもまた良し!!」
大げさに騒ぐ朝日奈。
その姿を見て、藤野は小さく息を吐いた。
……まあいい。
今はまだ、これでいい。
全部を知る必要はない。こいつが笑っているなら、とりあえずそれでいい。
そう思いながら、ほんの少しだけ目を細めた。
***
夜。
ラーメンを食べた帰り道、藤野はひとりで歩いていた。
朝日奈とは駅前で別れた。
あいつは最後までいつも通りを装っていたが、やっぱりどこか無理をしていた気がする。
ポケットに手を突っ込み、ため息をひとつ吐く。
公園で見た、白い服の男。
朝日奈があそこまで怯える相手。
「……なんなんだよ」
小さく呟いた、その時だった。
「知りたいかい?」
「――!」
足が止まる。
いつの間にか、すぐ隣に男が立っていた。
白い服。
薄い笑み。
街灯の下で見るその顔を、藤野はすぐに思い出した。
「……あんた」
男は穏やかに会釈する。
「こんばんは」
ぞっとするほど自然な口調だった。
「昨日ぶりだね」
「……なんでここにいる」
「たまたまだよ」
「嘘をつけ」
藤野は即答した。
男は少しだけ笑う。
「警戒心はある方みたいだ」
「……当たり前だろ」
逃げるべきか、と一瞬思う。
だが、ただ逃げるのもまずい気がした。
何より、こいつは朝日奈のことを知っている。
藤野は男から目を逸らさない。
「……朝日奈に何の用だ」
「何の用、か」
男はその問いを繰り返し、少し考えるように首を傾げた。
「旧友の様子を見に来ただけだよ」
「旧友?」
「そんなに変かな」
「どう見てもそんな関係には見えなかったけどな」
男は否定も肯定もしなかった。
ただ、ふっと笑っただけだった。
「君、彼のことが気になるんだね」
「……」
「当然か。あんな顔を見てしまった後じゃ」
藤野の眉がぴくりと動く。
男はそれを見逃さない。
「彼、学校ではどう?」
「は?」
「楽しそうにしてる?」
その問いは妙に静かだった。
「友達はできた? ちゃんと笑ってる?」
まるで確認するみたいに。
藤野の背筋に寒気が走る。
「……なんだよあんた」
「いや、興味があってね」
「朝日奈の何なんだ」
男は少し黙った。
それから、街灯の光を見上げるようにして言った。
「彼を、よく知っている人間の一人ではあるかな」
「……」
「君たちは知らないだろうけど、あの子は昔から特別だった」
あの子、という呼び方に強い不快感を覚える。
「特別、ね」
「そう。とても価値のある子だった」
価値。
その言葉が、ひどく引っかかった。
人間に向ける言葉じゃない。
藤野の声が低くなる。
「……お前、朝日奈に何した?」
初めて、はっきりと踏み込んだ。
男はそこで初めて、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「いい質問だ」
「答えろ」
男は小さく笑う。
「でも、彼は君に話していないんだろう?」
「……」
「なら、私が先に教えるのはフェアじゃない」
わざと苛立たせているのだと分かる。
その態度ごと気に入らなかった。
男はさらに続けた。
「ただ、ひとつだけ忠告するなら」
「……なんだよ」
「彼は優しい。びっくりするほどにね」
穏やかな声だった。
なのに、嫌な予感しかしない。
「だから、自分より他人を守ろうとする」
「……」
「君も昨日、それを見ただろう?」
公園での朝日奈の顔が脳裏をよぎる。
震えた手。必死な目。自分を遠ざける声。
「彼は自分が壊れることには頓着しない。でも――」
男はそこで少し笑った。
「周りが壊れるのは、ひどく嫌う」
藤野は黙ったまま睨み返す。
男は肩をすくめた。
「だからあまり、彼を困らせないであげて」
「……ふざけんな」
低く吐き捨てる。
「困らせてるのはどう見てもあんただろ」
一瞬だけ、男の笑みが薄れた。
けれどすぐに戻る。
「そうかもしれないね」
あっさり認める。それが逆に気味が悪かった。
「じゃあ、もうひとつだけ」
男は藤野を見た。まっすぐに。観察する目で。
「君は、彼のことをどこまで知りたい?」
「……」
「全部知れば、今までみたいには見られなくなるかもしれないよ」
風が吹く。街灯の光が揺れる。
藤野は少しも視線を逸らさなかった。
「それでも、あいつが話すなら聞く」
男は数秒、黙っていた。それから小さく笑う。
「なるほど」
「あんたからはもう聞かねえよ」
「賢明だ」
男は一歩下がった。
「今日はそれだけだ。君の顔も見ておきたかった」
「……二度と来るな」
男は肩をすくめる。
「難しい相談だね」
そして、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。白瀬だ」
その名を、藤野は頭の中で反芻する。
白瀬。
「また会おう、藤野くん」
「!」
既に名前を知られている。
その事実に肌が粟立った。
次の瞬間には、白瀬の輪郭がわずかに揺らいでいた。
そして、気づけばもうそこに姿はない。
藤野はその場に立ち尽くす。
さっきまで人がいた空間だけが、妙に冷えている気がした。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
分からないことだらけだ。
でも、ひとつだけ確かなのは――
朝日奈が、想像していたよりずっと深いところで、何かに怯えているということだった。




