第20話 ふたつの密会
ルナとの接触場所に選ばれたのは、駅ビルの中にある秘密倉庫だった。
表向きは使われていない空き区画。
だが実際には、秩序機関が独自に押さえている場所らしい。
入口も妙だった。
駅裏の路地、古びた壁面の一部が音もなく開き、その奥に細い通路が続いていた。
知らなければ、ただのコンクリートの壁にしか見えない。
灰薔薇は露骨に警戒していたが、ルナは「ここなら人に見られません」とだけ言った。
罠の可能性はある。
ただ、ここまでして場を用意した以上、少なくとも今すぐ力ずくでどうこうするつもりではないのだろうと藤野は見ていた。
倉庫の中はひんやりとしていた。
照明は必要最低限で、薄暗い。
積まれた木箱と棚の隙間に、かすかに埃の匂いがこもっている。
藤野は壁際に立っていた。
少し離れたところに灰薔薇。
恋羽ルナは一度だけ外を確認してから、ようやく小さく息をつく。
そして、まっすぐ藤野を見た。
「で、先輩」
その声には、最初から逃がす気のなさがあった。
「ツキのことで知ってることって、なんですか?」
藤野はすぐには答えなかった。
分かっていた問いだった。
いずれ聞かれることも。
ここで何か返さなければならないことも。
けれど、喉の奥で言葉が止まる。
ルナがもう一歩だけ踏み込む。
「先輩、ツキと接触したんですよね」
「……」
「何もないなら、あんな言い方しません」
焦りが滲んでいた。
ツキを助けたいという気持ち。
そして、もしツキが何かに関わっているなら、秩序機関として見過ごせないという判断。
どちらも本物なのだと分かる声だった。
だが、それでも藤野は口を開かなかった。
ルナの目つきが変わる。
「……言わないんですか?」
「……」
「ふざけないでください」
静かな声だった。
静かなまま、はっきりと怒っていた。
「前に、言いましたよね」
「……」
「本当なら、あの場で見逃せなかったんです」
「……ああ」
「でも、ツキを救うために協力するって、先輩が言ったから」
藤野は壁に背を預けたまま、視線を逸らす。
ルナはさらに踏み込んだ。
「……何を引き換えにして、何を聞いたんですか」
「……」
「先輩」
返ってくるのは、沈黙だけだった。
ルナの表情が、少しずつ険しくなる。
「わたし、信じたんです」
「……」
「秩序機関に報告しないって決めたのも、先輩が本気で協力するつもりだと思ったからです」
そこでようやく、藤野が低く言った。
「……協力する気はある」
「だったら」
「でも、言えない」
その言い方が、ルナの足を止めた。
怒っていた目が、ほんのわずかに細くなる。
「……あ」
小さな声だった。
藤野が顔を上げる。
ルナはもう急かしていなかった。
代わりに、何かを組み立てるように、静かに藤野を見ていた。
「先輩……」
今度の声は、さっきより低かった。
「わたしは今、先輩の自由を握っている」
藤野は何も言わない。
「それでも先輩は、黙ってる」
ルナはそこで一度、目を伏せた。
「先輩、自分のことならたぶん黙って耐えますよね」
「……」
「でも、自分以外のことになると違う」
灰薔薇が横から淡々と差し込んだ。
「……より重要なものを人質に取られてる、か」
その一言で、ルナの考えは形になったらしい。
「白崎先輩、ですか」
沈黙が落ちる。
藤野は答えなかった。
答えなかったが、それで十分だった。
ルナの睫毛がわずかに震える。
「……複雑ですね」
その一言には、いくつもの感情が滲んでいた。
藤野が凪沙をそれだけ大事にしていること。
ツキがそこを突いていること。
そして、自分が助けたい相手が、そういうやり方をしていること。
灰薔薇が、横から淡々と言う。
「貴様は多方面から脅されてるな」
「うるさい」
即座に返したが、否定にはならなかった。
ルナは視線を落とし、それから静かに言った。
「……詳しく聞きません」
「……」
「でも、先輩が何も知らないわけじゃないことは分かりました」
藤野は壁に背を預けたまま、短く息を吐く。
ルナは顔を上げる。
「……そして今ので確信しました」
その声は、もう責めるものではなかった。
「ツキは、アガスティアの一員なんですね」
灰薔薇は静かに見ていた。
藤野は何も答えない。
「……とりあえず、いまはそれでいいです」
そう言って、ルナは小さく息を整えた。
感情を切り替えるように。
「わたしからも、お伝えしたいことがあります」
そこでようやく、本題を引き取る。
「例の薬ですけど、成分の解析が少し進みました。完全には分かってないですけど、使われてる薬剤の一部に、流通経路を追えるものがありました」
「追えるのか」
「はい。かなり限定されたルートです。まだ断定はできませんけど……本拠地の候補も、だいぶ絞れそうです」
そこでルナは一度言葉を切った。
「だから、こっちも動けます。前よりは、ちゃんと」
藤野は小さく頷く。
「……そうか」
「これは朝日奈先輩たちにも共有していただいて大丈夫です」
「わかった」
ルナは少しだけ視線を伏せて、それからまた藤野を見た。
「先輩。わたし、ツキを助けたいです」
「知ってる」
「でも同時に、秩序機関の人間でもあります。だから、本当は見逃せないことも多い」
藤野は黙って聞いていた。
「それでも今は、先輩を問い詰めるより、先に進める方を選びます」
少しだけ間を置いて、
「その代わり、完全に一人で抱え込まないでください」
灰薔薇が低く続ける。
「抱え込んだところで、どうせろくなことにならん」
「偉そうだな」
「事実だ」
藤野は視線を逸らした。
ルナはまた小さく息を吐く。
「薬の流通経路、次までにもう少し絞ります」
「ツキの方は」
「……引き続き、先輩にお願いします」
その言い方には、信頼と不安が半分ずつ混ざっていた。
藤野は少し黙ってから、低く返す。
「分かった」
倉庫の中に、ひやりとした沈黙が落ちた。
ルナは、藤野の側についたわけではない。
けれど、ただ秩序機関の論理だけで動ける状況でも、もうなかった。
***
放課後。
人通りのなくなった校舎裏は、夕方になると急に音が遠くなる。
グラウンドから聞こえる掛け声も、ここまで来ると壁を何枚も隔てた向こうのものみたいだった。
ひびの入ったコンクリートの足元に、細い影が落ちている。
風は弱い。
けれど空気は少しだけ冷えていた。
藤野が着いた時、ツキはすでにいた。
いつものように壁際に寄りかかり、感情の薄い顔でこちらを見ている。
けれど、その目だけは最初から藤野の様子を測っていた。
「……遅いですね」
「五分も経ってないだろ」
藤野は足を止める。
ツキは何も言わなかった。
ただ、その沈黙ごと続きを促しているのが分かった。
前回、ルナがひとりで動く日に尾行を頼まれた。
今日はその報告を返す場だ。
けれど、藤野はすぐには口を開かなかった。
ツキがわずかに眉を寄せる。
「それで」
「……」
「ルナは、どこに行ったんですか」
藤野はツキを見た。
この場をどう転がすかで、たぶん今後が変わる。
言葉を濁してやり過ごすこともできるだろう。
けれど、それではもう足りない気がした。
「……恋羽は」
一度、そこで言葉が止まる。
ツキの視線が鋭くなる。
「はっきり言ってください」
藤野は短く息を吐いた。
「……恋羽は、お前の味方だ」
沈黙が落ちた。
風が、校舎の角をかすめる。
ツキの表情はすぐには動かなかった。
だが、まばたきの間がほんの少しだけ乱れた。
「……何の話ですか」
声は平坦だった。
けれど、無関心を装いきれてはいない。
藤野は一歩だけ距離を詰める。
「言わせる気かよ」
「言ってください」
「言えば、今まで通りにはいかなくなるかもしれない。それでもいいのか?」
その言葉に、ツキの目が初めてはっきり揺れた。
今度は藤野が黙る番だった。
ツキはすぐには返さなかった。
言い返せるはずの場面なのに、返せない。
その沈黙だけで十分だった。
ツキは低く言う。
「……秩序機関か」
「知ってたのか」
「……薄々は」
ルナの不自然な立ち位置。
ツキとの距離の取り方。
時折見せる曖昧な言動。
全部が、今ようやく一つの線で繋がった。
ツキは視線を逸らした。
「……最悪」
小さく、吐き捨てるように言う。
「お前に知られたのが?」
「違う」
即答だった。
藤野はそのまま続けた。
「恋羽に知られるのが、だろ」
「……」
ツキは答えなかった。
代わりに、壁から身体を起こしてまっすぐ藤野を見る。
その目には、いつもの無感情とは別のものがあった。
怒りとも、焦りとも、諦めともつかない色だった。
「……どこまで見たんですか」
「全部じゃない」
「なら」
「でも、分かるには十分だった」
ツキは口をつぐむ。
藤野は続ける。
「恋羽はお前を探ってる」
「知ってる」
「それでも助けたいとも思ってる」
「……」
「お前も知ってるんだろ」
その一言に、ツキの睫毛がわずかに震えた。
「……知ってるよ」
かすかな声だった。
「だから最悪なんです」
藤野は何も言わなかった。
ツキは少しだけ俯く。
「知らなければ、ただの敵でいられた」
「……」
「向こうが何を考えてるかも、何者かも、どうでもよかった」
「でも薄々気づいてた」
「……ああ」
認めたあと、ツキは短く息を吐いた。
「気づいてた。たぶん、だいぶ前から」
校舎裏に沈黙が落ちる。
遠くでボールの跳ねる音がした。
それがやけに場違いに聞こえた。
「それでも、確かめなかった」
藤野が言う。
ツキは笑わなかった。
「確かめたら、終わるから」
その言葉は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
ごまかしも、ひねくれもない。
ただ、それだけが本音なのだと分かる声だった。
藤野は目を細める。
「……で、今は終わったのか」
「どうでしょうね」
「はぐらかすな」
「はぐらかしてるつもりはないです」
ツキは壁に背を預け直した。
けれど、さっきまでみたいな余裕はなかった。
「終わった、って割り切れたら楽だったかもしれない」
「……」
「でも、そうじゃないから面倒なんです」
藤野はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……お前、少しは信用した方がいいぞ」
「誰を」
「恋羽を」
「……っ」
ツキは口を噛んだ。
藤野はため息をつく。
「……こっちはちゃんと答えた」
「……」
「次はそっちの番だろ」
ツキはすぐには口を開かなかった。
さっきまでのやり取りで、言わずにいたことの輪郭が、少しだけはっきりしてしまった。
今さら前みたいに、ただの取引相手のふりはできない。
でも、完全に壊れたわけでもない。
藤野は目を細める。
「前より話せること、増えたんじゃないのか」
ツキの目が細くなる。
「なんでそう思うんですか」
「今ので少なくとも、こっちをただの駒扱いする気は薄れた」
「自信ありそうですね」
「ない。でも前よりはましだろ」
ツキは数秒、藤野を見ていた。
それから、ごく小さく息を吐く。
「……少しだけなら」
藤野は黙って続きを待つ。
「例の薬、末端の連中が思ってるより管理されてる」
「管理?」
「勝手に増産したり、横流ししたりできるものじゃないってことです。供給元がかなり限られてる」
「本部主導ってことか」
「たぶん」
ツキは続ける。
「それと、最近は運ぶルートも減ってる」
「足がつきそうだからか」
「……そうとは限らない」
「どういう意味だ」
「隠れるためじゃなくて、何かのために集めてるなら話は別でしょ」
藤野はしばらく黙った。
「……恋羽たちも、似たようなところまで来てる」
「え?」
「薬の流通経路を追ってる」
「……あいつら」
「かなり近い」
ツキの顔が、ほんの少しだけ険しくなる。
「先輩が思ってるより、時間はないよ」
「お前が言わなかったからだろ」
「全部言える立場なら苦労しない」
その返しに、藤野は小さく息をついた。
正しい。
正しいからこそ、何も言い返せない。
ツキは目を閉じて、ほんの一瞬だけ黙った。
「……ルナに、どこまで言ったんですか」
「神埜が俺を仕向けたとは言ってない」
「そこじゃない」
「アガスティア側だってことは、たぶんもう分かってる」
「……そっか」
その一言は軽かった。
軽かったが、軽くはなかった。
藤野は言う。
「今さら全部隠し通せるとは思うなよ」
「分かってる」
「じゃあどうする」
「……」
ツキはすぐには答えなかった。
答えられないのだろう、と藤野は思った。
アガスティアにも属していて、ルナとの関係もあって、そこに自分自身の事情まで絡んでいる。
そう簡単に選べる立場じゃない。
「お前も大概だな」
藤野が言う。
ツキが顔を上げる。
「何が」
「いろんなもん抱えすぎだろ」
「それ、先輩に言われたくないです」
その返しに、少しだけ空気が緩んだ。
ほんの一瞬だけだが、確かに前の調子に近いものが戻る。
だから余計に、それが長くは続かないことも分かった。
ツキは静かに言った。
「……ルナに全部話す気はない」
「だろうな」
「でも、前みたいにも戻れない」
ツキは壁から背を離す。
「……今日はここまで」
「おい」
「これ以上話しても、たぶん余計なことまで言うので」
藤野は少し迷ったあと、最後に聞く。
「ひとつだけ」
「なに」
「お前、恋羽を裏切る気か」
「……」
ツキは、今度こそ長く黙った。
それから、視線を逸らしたまま言う。
「その質問が一番、答えづらい」
それは、答えそのものよりずっと本音に近かった。
藤野は何も言わない。
ツキはそのまま歩き出す。
すれ違いざまに、低く落とすように言った。
「……次は、もう少しマシな報告持ってきてください」
「そっちもな」
「善処します」
その返事だけ残して、ツキは校舎の影へ消えていった。
あとに残ったのは、夕方の薄い冷気と、妙に重くなった沈黙だけだった。
藤野はしばらくその場に立っていた。
ルナとの均衡は、もう前と同じではない。
ツキとの取引も、ただの取引では済まなくなった。
それでも、進むしかなかった。




