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第19話 きみの知らない零

夏休みが終わり、学校が始まった。


秩序機関での一件のあと、藤野はルナと灰薔薇にそれぞれ短く連絡を入れていた。

今度、三人で話す時間を作ること。

ツキにも、改めて話したいとだけ送ってある。


それで十分とは思えなかったが、今すぐどうにかできることでもない。

あの日の路地で起きたことは、まだ誰の中でも整理しきれていなかった。


だったら、今日はひとまず学校へ行くしかない。


そう割り切った朝だった。


***


朝日奈零は、校門の前で立ち止まり、大きく背伸びをした。


「今日もすばらしい朝だな!」


高らかに宣言する。


すると、校門を抜けたところで、不意に背後から呼び止められた。


「……れ、零くん!」


足が止まる。


振り向くと、少し離れた場所に女子生徒が立っていた。

見覚えはない。


けれど、その目だけは違った。


懐かしいものを見る目だった。

何年も前の時間ごと、急に目の前へ差し出されたみたいな顔をしている。


「……ひ、ひさしぶり……」


少女はぎこちなく笑った。緊張しているのが、見ているだけでわかる。


「い、今までどこに行ってたの?」


朝日奈は一瞬だけ目を細めた。


何も思い当たらない。

だが、相手は明らかにこちらを知っている。


胸の奥に小さな違和感が沈む。

それでも、それを掘り返して立ち止まっている時間はなかった。


「すまないが、これから部活動があってな!」


朝日奈はすぐに、いつもの調子で笑った。


「緊急出動なんだ! また改めて話そう!」

「え……?」

「では!」


元気よく手を振って、そのまま行ってしまう。


少女はその背中を見送りながら、唇を噛んだ。


小さい頃、よく一緒に遊んだ。


零くんは、今みたいな人じゃなかった。


もっと静かで、もっとおとなしくて、少し弱虫で、すぐ泣いて。

いつも自信がなさそうで、でもやさしい子だった。


ある日突然、彼はいなくなった。


先生に聞いても、遠くへ転校したとしか教えてもらえなかった。

何も言わずに、いなくなってしまった。


ずっと胸のどこかに引っかかっていた名前。

その零くんに、高校でようやく再会できた。


なのに。


久しぶりに見た彼は、あまりにも別人だった。


明るくて、声が大きくて、堂々としていて、まるで太陽みたいに周囲を引っ張っていくような人だった。

昔知っていた零くんとは、何もかも違っていた。


「……ほんとに、零くんなの……?」


その問いに答える人は、誰もいない。


***


昼休み。


廊下の向こうで、朝日奈がいつものように騒いでいた。


「待ちたまえ恋羽くん! 今のは明らかにオレをからかっただろう!?」

「あはは、バレちゃいました?」

「ちょっと朝日奈先輩、声大きいって……」


ルナとツキに挟まれて、朝日奈が無駄に大きな声を張り上げている。

ルナもツキも普通に応じてはいるが、二人のあいだにはまだどこかぎこちなさが残っていた。


少し離れた場所で、その様子を藤野と凪沙が見ている。


「……今日も騒がしいね、ヒナくん」

「通常運転だな」


凪沙がくすっと笑い、藤野は呆れたように肩をすくめた。


その時だった。


「あの……」


控えめな声に、二人が振り向く。


そこに立っていたのは、見慣れない女子生徒だった。

制服の袖をぎゅっと握っている。


「……えっと、朝日奈くんのこと、少し聞きたいんですけど……」


藤野と凪沙は顔を見合わせた。


「ヒナくんのこと?」

凪沙が首を傾げる。


少女はこくりと頷く。


「二人が、一番仲良さそうだったから……」


藤野はちらりと朝日奈の方を見る。

向こうはこちらに気づいていない。相変わらず騒がしいままだった。


「……場所、変えるか」

藤野が言う。


「うん、そうだね」


三人はそのまま、人の少ない渡り廊下の端へ移動した。


窓の外では風が木々を揺らしている。

少女は少しためらってから、口を開いた。


「……わたし、一ノ瀬栞っていいます」


そこで一度、小さく息を吸う。


「朝日奈零くんの、幼なじみなんです」


「……幼なじみ?」

凪沙が目を丸くする。


藤野もわずかに眉を上げた。


「小さい頃、よく一緒に遊んでて……でも、ある日突然いなくなっちゃって」


栞は視線を落とす。


「先生に聞いても、“遠くに転校した”って言われただけで……」


「……」


「それで、同じ高校に来てるって知って、今日ようやくちゃんと話しかけられたんですけど……」


そこで言葉が止まる。


「でも?」

凪沙がやさしく促す。


栞は困ったように笑った。


「……全然、違ってて」


藤野は黙って聞いている。


「昔の零くんは、もっと内気で、弱虫で……」

「弱虫?」

凪沙が少し意外そうに聞き返す。


「うん。いつも少し自信なさそうで、下を向いてるような子で……でも、やさしかったんです」


凪沙と藤野は、ほとんど同時に今の朝日奈を思い浮かべた。


声が大きくて、妙に堂々としていて、騒がしくて、ひたすらまっすぐな朝日奈。

たしかに、“内気で弱虫”という言葉は今の彼にはしっくりこない。


栞は廊下の向こう、まだ騒いでいる朝日奈を見た。


「でも、今の朝日奈くんは……まるで別人みたいで」


その言葉に、藤野の視線がわずかに鋭くなる。


「別人、ね」


「もちろん、人って変わると思うんです」


栞は慌てて言葉を足した。


「成長とか、環境とかで変わるのはわかるんです。でも……」

「でも?」

今度は藤野が聞く。


栞は少し迷ってから、正直に言った。


「そういう変わり方じゃない気がして」


風が吹く。


その言葉だけが、妙に重く残った。


凪沙は栞の顔を見る。

懐かしい人に会えた喜びと、それ以上の戸惑いが浮かんでいた。


「話しかけたの?」

「まだ……ちゃんとは」


栞は気まずそうに頷く。


「朝、少し声をかけたんですけど、なんか……うまくいかなくて」


藤野は壁にもたれながら言った。


「それで、俺たちに?」

「はい……」


栞は少し恥ずかしそうに俯く。


「朝日奈くんのこと、二人が一番よく知ってそうだったから」


凪沙は小さく笑った。


「たしかによく一緒にはいるけど……でも、ヒナくんって自分のこと、あんまり話さないんだよね」

「そうなんですか?」

「うん」


凪沙は頷いた。


「いつも明るいし、頼れる時もあるんだけど、そのわりに、自分のことは全然話してくれなくて」

「聞いても、適当に流すしな」

藤野がぼそっと言う。


栞はぎゅっと手を握る。


藤野は腕を組み、少し考え込んだ。

凪沙がその横顔を見る。


「……どうする?」

「調べてみるか」


藤野は短く言った。


「朝日奈には悪いけどな」


栞が顔を上げる。


「調べるって……?」

「本人が話してないことを勝手に探るのは、あんまり気分よくないけど」

凪沙が言う。

「でも、栞ちゃんがこんな顔してるのに、“気のせいだよ”で終わらせるのも違う気がする」


藤野も頷く。


「いきなり本人に聞いても、たぶんはぐらかされる。なら、先に周りから当たるしかない」


真っ先に思い浮かんだ名前を口にする。


「……朝日奈玲緒」

「れお……?」

栞がきょとんとする。


「副会長」

凪沙が答えた。

「朝日奈くんのお兄さん」

「えっ!?」


それも無理はない。

兄弟であることは、学校ではほとんど知られていない。


朝日奈玲緒。

生徒会副会長。整った容姿と完璧な成績で、“王子先輩”と呼ばれている男だ。


藤野は小さく息をつく。


「頼りたくはないけどな」


***


放課後。


三人は生徒会室近くの廊下で、朝日奈玲緒を待っていた。


しばらくして、書類を抱えた玲緒が現れる。


「……君たちは確か、零の友人の」

玲緒は足を止めた。

「何の用かな」


表情は穏やかだったが、どこか距離がある。


凪沙が少したじろぐ。


「あ、えっと……零くんのことで、少し聞きたいことがあって」

「弟のことなら答える気はない」


即答だった。


その声に、栞がびくりと肩を揺らす。


拒絶というより、もっとはっきりした嫌悪に近いものがあった。


「……この子、朝日奈の幼なじみなんだ」


藤野が静かに言う。


玲緒の視線が、初めて栞へ向く。


「小さい頃、突然いなくなって……何があったのか知りたいらしい」


玲緒はしばらく無言だった。

冷たい目のまま栞を見る。


栞は少し怯みながらも、頭を下げた。


「……お願いします」


沈黙。


やがて玲緒は小さく息を吐いた。


「俺も詳しくは知らない」


素っ気ない言い方だったが、さっきよりは少しだけましだった。


「だが、父上に言われたことがある」


三人の空気が変わる。


「零は八歳の頃に灰黒重工へ預けられた」


「……っ」


栞が息を呑む。

凪沙も目を見開いた。


「家に戻ってきたのは、その七年後だ」


藤野の眉がわずかに動く。


七年。


小学生の子どもが、企業に預けられる。

どう考えても普通の話ではなかった。


「灰黒重工って……」

凪沙が小さく呟く。


玲緒はそれ以上話す気がないらしく、三人を見下ろした。


「もういいだろう」

「待て」

藤野が言う。


玲緒が足を止める。


「その七年間、朝日奈に何があったか知らないのか」


玲緒の目がわずかに冷えた。


「知らん」


短い返答だった。

だが、完全な無関心には聞こえなかった。


知りたくもないものを切り離すような、そんな響きがあった。


「……あれのことは、あれに聞け」


そう言い残して、玲緒は去っていく。


三人はしばらく、その背中を見送っていた。


「……灰黒重工」

栞が不安そうに呟く。


藤野は腕を組んだまま考える。


八歳から七年間。

灰黒重工。

そして戻ってきた朝日奈零。


さっきまでの“変わってしまった幼なじみ”という話が、別の重さを帯び始めていた。


「……もう一人、心当たりがある」

藤野が言う。


凪沙がすぐに察する。


「灰薔薇くん?」

「ああ」


灰薔薇燐。

××部の部員。

そして父親は灰黒重工の重役。


何か知っていてもおかしくはない。


***


図書室の隅で、灰薔薇は本を読んでいた。


三人が近づいた時点で、露骨に嫌そうな顔をする。


「……なんだ」

「少し聞きたいことがある」

藤野が言う。

「断る」

「まだ何も言ってないけど」

「お前たちの“少し”は、大抵ろくでもない」


凪沙が苦笑した。


「イバラくん、お願い」


灰薔薇の視線が、凪沙、藤野、そして栞へと移る。

栞は緊張しながら頭を下げた。


「朝日奈くんのことで……」


その名前を聞いた瞬間、灰薔薇の眉がわずかに動く。


追い払わない。


藤野はその隙に切り込んだ。


「……灰黒重工には、子どもを預ける施設があるのか」


灰薔薇は本を閉じる。


「……ある」


意外なほど、あっさりした肯定だった。

三人が息を呑む。


「超能力の研究施設か」

藤野が続ける。


朝日奈は電気の能力を持っている。

灰黒重工の地下では、能力の研究をしているという噂もある。そこから考えるのは自然だった。


「……ああ」


灰薔薇は今度も頷いた。


「朝日奈はそこにいたのか?」


少しだけ目を伏せてから、灰薔薇は低く言った。


「……それは、奴の口から直接聞いた方がいい」

「でも」


栞が思わず口を挟む。


灰薔薇はその声を遮るように続けた。


「少なくとも、軽々しく話せることではない」


その一言は重かった。


藤野が灰薔薇を見る。


冷たく突き放しているわけではない。

ふざけてもいない。

本気で、自分が話すべきではないと思っている顔だった。


「……それくらい重いことなのか」

藤野が言う。


灰薔薇は答えない。

ただ本を持ち直し、視線を落とした。


「もういいだろう。これ以上は知らん」


それで会話は終わった。


三人は図書室を出る。


廊下に出ても、しばらく誰も口を開かなかった。


最初に話したのは凪沙だった。


「……やっぱり、ヒナくんに直接聞くしかないね」


栞が不安そうに両手を握る。


「でも……」

「うん」


凪沙が静かに頷く。


「聞くの、こわいよね」


藤野は窓の外を見る。

空は少しずつ夕方の色に変わっていた。


灰黒重工。

研究施設。

八歳から七年間。

軽々しく話せないこと。


言葉だけは増えた。

けれど、真実にはまだ触れられていない。


「……本人に聞く」

藤野が言う。


「ちゃんと」


栞と凪沙が藤野を見る。


「逃げられても、はぐらかされても、今度は流さない」


その声音は低いが、迷いはなかった。


栞は緊張した顔のまま頷く。

凪沙も、小さく息を吐いてから言った。


「うん。聞こう」


三人の視線が、同じ方向へ向く。


部室。

その先にいるのは、きっといつも通り明るく笑う朝日奈零だった。


でも、その笑顔の奥に、誰も知らない七年がある。


今度こそ、その前まで行くしかなかった。


***


部室の扉の前で、三人は足を止めた。


中から朝日奈の声が聞こえる。


「うむ! 本日の部活動は――」


どうやら、一人で何かを宣言しているらしい。


凪沙が少し困ったように笑う。


「……ほんと、こういう時まで通常運転だね」

「……あいつなりに落ち着こうとしてるのかもな」

藤野が低く言う。


栞は小さく息を吸った。


ここで踏み込めば、もう前みたいには戻れない気がした。

けれど、知りたいと思ったのは自分だ。


昔の零くんがどこへ消えたのか。

今ここにいる彼が、なぜこんなにも違うのか。


その答えを。


「……入るぞ」


藤野が扉を開ける。


「おはよう!!」


朝日奈が勢いよく振り向いた。


「いや、もう放課後だろ」

藤野が即座に返す。

「む、そうだったな!」


いつも通りのやり取りだった。

けれど今日は、誰も笑わない。


栞も黙ったまま朝日奈を見ていた。


その空気で、朝日奈の表情がわずかに変わる。


「……なんだ?」


軽く言ったつもりなのだろう。

だが、その声にはかすかな警戒が混じっていた。


藤野は部室に入り、扉を閉める。


「話がある」


朝日奈は数秒だけ黙った。

それから、わざとらしいほど明るい声を出す。


「なんだ、改まって! もしや新たな依頼か!?」

「違うよ、ヒナくん」

凪沙が静かに言う。

「ヒナくんのこと」


その一言で、朝日奈の肩がぴくりと動いた。


栞は唇をぎゅっと結ぶ。

藤野はまっすぐ朝日奈を見る。


「……少し、調べた」

「……何を」

「お前の昔のこと」


部室の空気が、すっと冷えた気がした。


朝日奈は笑わない。

もうごまかせないと悟ったような顔で、三人を見る。


「……どこまで聞いた」

「朝日奈玲緒」

藤野が言う。

「お前の兄貴から」


朝日奈の目がわずかに細くなる。


「八歳の頃に灰黒重工へ預けられたって聞いた」

「その七年後に家へ戻ったとも」


栞が思わず朝日奈を見る。


「零くん……」


藤野は続けた。


「灰薔薇にも聞いた。灰黒重工に、超能力を研究する施設があるってことは認めた」

「……」

「でも、そこから先はお前の口から聞けって」


朝日奈は小さく息を吐いた。


観念したようでもあり、どこか最初からこうなることをわかっていたようでもあった。


「……そうか」


凪沙が一歩だけ前に出る。


「ヒナくん」


その呼びかけは、問い詰めるものではなかった。

ただ、ちゃんとこっちを見て、という声だった。


朝日奈はゆっくり椅子に腰を下ろす。

そして、いつもの大きな声ではなく、静かな声で言った。


「小学生のとき、たしかにオレは灰黒重工の研究施設にいた」

「……」

「そこで、この力を得た」


朝日奈はそう言って、指先に小さく電気を走らせた。

ぱち、と青白い火花が散る。


栞は息を止めたまま、それを見つめている。


――つまり、朝日奈が灰黒重工へ招かれたのは、能力の保持者だったからではない。

能力を覚醒させるための被検体として、そこに置かれたのだ。


そして、七年に及ぶ何かの果てに、それは成功した。


「だが、その頃のことは、ほとんど覚えていない」

朝日奈は言った。

「記憶が曖昧なんだ。途切れているところも多い」


部室が静まり返る。


朝日奈の視線は、まっすぐ栞へ向いていた。


「だから、君の知っている朝日奈零とは、もう違うのかもしれない」

「……」

「すまないな」


その一言は、静かに落ちた。


記憶が曖昧になっている。

だから昔とは違う。


理屈としては通る。

けれど、それだけで全部説明がつくようにも思えなかった。


凪沙がやさしく口を開く。


「記憶がなくても、ヒナくんはヒナくんでしょ」


その言葉はまっすぐだった。


朝日奈が一瞬だけ凪沙を見る。

栞も顔を上げた。


「栞ちゃんが知ってるヒナくんがいたことも、本当だし」

凪沙は続ける。

「今ここにいるヒナくんがいることも、本当だよ」


栞は困ったように笑った。


「……うん」


小さく頷く。


「最初は少し、寂しかったけど……」


栞は朝日奈を見る。


「今の朝日奈くんも、かっこいいかも」

そう言って小さく笑う。


「すぐには整理できないけど……でも、もう少し、今の朝日奈くんのことも知りたい」


朝日奈は目を瞬かせ、それからいつもの彼に近い笑みを浮かべた。


「うむ! それなら歓迎だ!」

「急に元気になるね……」

凪沙が苦笑する。

「当然だ! 新たな理解者の獲得はヒーローにとって重要事項だからな!」

「そういうところ、昔の零くんにはなかったです……」

栞が思わず本音を漏らす。

「なにっ!?」


一瞬だけ、部室に小さな笑いが戻る。


でも、藤野だけはまだ朝日奈を見ていた。


笑っている。

いつも通りみたいに。


けれどその笑顔の奥に、はっきり線がある。


ここから先には入るな、と。


藤野は、その境界を見た気がした。


そして栞の横顔を見る。

真相を聞いたあとも、完全に晴れた顔にはなっていなかった。


その目に残る陰りを、藤野は見逃さなかった。


***


部室を出て、藤野と凪沙は栞を途中まで見送ることにした。


廊下を少し歩いたところで、藤野が言う。


「……まだ引っかかってるな」


栞がびくりとする。


「え?」

「顔」

藤野は短く言った。

「納得してない」


栞は口を開きかけ、迷って、それから小さく言った。


「あ、いや……」


言いにくそうに俯く。


「お二人に手伝ってもらって、調べてもらって、ちゃんと話も聞けたのに……こんなこと言うの、よくないかもしれないけど……」


凪沙も藤野も黙って待った。


「なんか……記憶がなくなったとか、性格が変わったとか、そういうことじゃなくて、もっと……」


言葉が続かない。


自分でも、どこに違和感があるのかうまく言えないのだろう。

栞は困ったように笑った。


「ごめん、変だよね。わたし、みんなのこと疑ってるわけじゃなくて……」

「いや」


藤野が静かに言う。


「それ、案外大事かもしれない」


栞が目を瞬かせる。


藤野の中で、何かが少しずつ形を持ち始めていた。


朝日奈は何かを隠している。


ただ話したがらない、という感じではない。

隠しているというより、話せない。

そこへ触れさせないようにしている。


何か、決定的なものを。


きっと、いつか、その先を知る時が来る。

朝日奈零の過去の、もっと奥に触れる時が。


その時、自分たちは何を見ることになるのか。


窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えていた。


日常はまだここにある。

けれどその奥で、何かが確かに動き始めていた。

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