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第18話 秩序機関

夏休みに入って、数日が過ぎていた。


朝から蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、窓の外はもう昼のように白い。

それでも藤野の部屋の中は薄暗く、閉め切ったカーテンの隙間から差し込む光だけが、床に細い線を落としていた。


机の上には、スマホと財布、それから鍵。

必要なものだけを確かめ、藤野は小さく息をつく。


今日だった。


以前、ツキから聞かされた日時。

ルナがひとりで出かける予定がある、と言われた日。


あのときは、半ば押し切られるような形で頷いただけだった。

けれど祭りの夜を挟んでから、その話はただの頼まれごとでは済まなくなっていた。


ルナとツキの、どこか噛み合わない空気。

ルナが何かを隠しているような気配。

そして、ツキ自身もまた、何かを抱えたまま動いていること。


どこまで信じていいのかはわからない。

それでも、見過ごすには引っかかりが大きすぎた。


昨夜、そのことを考えていた。


朝日奈を連れていけば、尾行どころではなくなるのは目に見えていた。

信用できない相手ではない。むしろ、その逆だ。

ただ、静かに動くことに関してだけは、どうしようもなく不向きだった。


ひとりで行くことも考えた。

だが、それも現実的ではなかった。ルナの行き先はわからない。何が起こるかもわからない。

ただ様子を見るつもりでも、ひとりでは拾えないものがあるかもしれなかった。


誰かに協力を頼むなら。


そこまで考えて、ひとつの顔が浮かんだ。


白崎凪沙。


藤野は一瞬、動きを止めた。


祭りの夜。

金魚すくいの屋台。

水滴のついた眼鏡。

それから――“今日はもう少しだけ、そのままでいて”。


あのときの声まで、妙に鮮明に蘇る。


「……いや」


藤野は短く吐き捨てるように言って、考えを断った。


だめだ、と自分でわかる。

今、白崎を誘えば、余計なことばかり考える。二人きりで張り込みや尾行をして、平静でいられる気がしなかった。


そうなると、残る相手はひとりしかいない。


灰薔薇。


気軽に頼める相手ではない。

むしろ、その逆だ。

だが、静かに動ける。無駄に喋らない。いざとなれば力もある。

細かい事情を伏せたままでも、必要最低限の説明でついてくる可能性があるとしたら、あいつしかいなかった。


藤野はスマホを手に取り、短く打ち込む。


『恋羽のことで、少し気になることがある。

明日、付き合ってほしい。』


返事はすぐに来た。


『時間と場所を送れ』


了承なのか、ただ確認しているだけなのか、一瞬判断がつきにくい文面だった。

それでも藤野は、そこでようやく息をついた。


そして今朝。


スマホが震える。

画面を見ると、朝日奈からの通知が立て続けに並んでいた。


『藤野くん! 今日は気温が高い! よってプール日和だ!』

『夏休みとは水辺へ行くためにあるのではないか!?』

『返事がないな。寝ているのか?』

『かき氷もあるぞ!』


「……元気だな」


思わず呟いたところで、さらに通知が増える。


『灰薔薇くんも誘うべきだろうか!』


藤野はしばらく無言で画面を見つめ、それからスマホを伏せた。


今日はそういう日ではない。


ポケットの中には、昨夜のやり取りが残っている。

腹はもう決まっていた。


***


待ち合わせ場所は、駅から少し離れた古い商店街の入口にした。


昼前で、人通りはまだまばらだった。

開ききっていない店のシャッター、日陰に寄せられた自転車、遠くで鳴き続ける蝉の声。

暑さのせいか、街全体がどこか動きの鈍い空気に包まれている。


その一角に、灰薔薇はすでに立っていた。


黒に近い色の服を着て、壁に寄りかかるでもなく、ただそこにいる。

目立たないわけではないのに、背景に紛れることが妙にうまい。そんな印象を受ける。


「……早いな」


藤野が近づきながら言うと、灰薔薇はちらりと目だけを向けた。


「貴様が遅い」

「まだ時間前だろ」

「なら問題ない」


相変わらずだった。

愛想のない返答に、藤野は半ば呆れながらも、来ている時点で十分だと思う。


「本当に来たんだな」

「お前が呼んだからだ」

「断るかと思った」

「断る理由もない」


少し間が空く。


灰薔薇は藤野を見たまま、淡々と口を開いた。


「それで」

「……何がだ」

「恋羽のことで気になることがある。そう言ったな」

「言った」

「それだけか」

「それだけだ」


灰薔薇の目がわずかに細くなる。


「曖昧だな」

「お前なら深く聞かないと思ってた」

「聞く気はない。ただ、曖昧だと言っただけだ」

「面倒くさいな」

「お互い様だろう」


そこで会話は切れた。


灰薔薇は、藤野が何かを隠していることに気づいている。

たぶん、最初から。

それでも追及しないのは、今はそこを掘る必要がないと判断しているからだ。


「で、どうする」

灰薔薇が言う。


藤野は通りの先へ目を向けた。


「もうすぐ来るはずだ」

「行き先は」

「知らない」

「それで尾行する気か」

「ひとりじゃ厳しいと思ったから、お前を呼んだ」

「光栄だな」

「まるでそう聞こえねえ」


灰薔薇は何も返さなかった。


そのとき、通りの向こうから見覚えのある姿が現れた。


恋羽ルナだった。


白を基調にした軽い夏服に、淡い色のカーディガン。

祭りの日の浴衣姿とは違う、普段通りの柔らかな雰囲気のまま、人通りの中を歩いてくる。


けれど、その足取りには迷いがなかった。


買い物に来た人間の歩き方ではない。

誰かを探しているわけでもない。

目的地を知っている人間の歩き方だった。


「……来たな」

藤野が小さく言う。


灰薔薇も視線だけを向ける。


「見失うな」

「お前こそ」


ルナは二人に気づく様子もなく、商店街の中へ入っていく。

藤野と灰薔薇は少し距離を空けて、そのあとを追った。


***


最初のうちは、ただの外出にしか見えなかった。


雑貨屋の前を通り、八百屋の店先を横切り、小さな交差点を渡る。

けれどルナは、どこにも立ち寄らない。迷いも、寄り道もない。一定の速さで歩き続ける。


「慣れてるな」

藤野が小さく言う。


「初めてじゃない」

灰薔薇が短く返す。


商店街を抜けると、道幅が少し広くなった。

そのぶん、人は減る。店もまばらになり、住宅街と雑居ビル街の境目のような、曖昧な区画へ変わっていく。


ルナはそこで一度だけ周囲を見た。


藤野の心臓が跳ねる。

だが、ルナはただ信号を確かめただけのように、そのまま横断歩道を渡った。


「びびらせるなよ……」

「その程度で動揺するな」

「うるせえ」


やがてルナは、少し奥まった場所にある門の前で足を止めた。


高い塀に囲まれた施設だった。

中の構造はほとんど見えない。かろうじて見える建物も窓が少なく、外壁は無機質で、看板らしいものも目立たない。


そして何より目を引いたのは、門の前にいる人間たちだった。


黒い制服。


夏の光を吸い込むような色の制服を、きっちりと着込んだ男女が数人、入口の周囲に散って立っている。

威圧を前面に出しているわけではない。だが、ただの警備ではないと一目でわかる空気があった。


ルナはそのうちのひとりに歩み寄り、短く何かを告げる。

相手は頷き、慣れた調子で応じた。


初めて訪れた人間のやり取りではなかった。


「……なんだ、あれ」

藤野が低く呟く。


隣で、灰薔薇の目がわずかに細くなる。


「……“秩序機関”か」

「は?」

「国の組織だ」


灰薔薇の視線は前を向いたままだった。


「超能力者を管理し、統制し、必要とあれば保護する」

「保護……?」


言葉だけ聞けば穏やかだ。

だが、灰薔薇の声音には、その語の持つ柔らかさがひとかけらもなかった。


それ以上問い返す間もなかった。

ルナは隊員たちと何かを話している。真剣な顔で頷くその横顔は、学校で見るものとも、祭りで見たものとも違っていた。


柔らかいだけの顔ではない。

藤野の知らない緊張が、そこにはあった。


「恋羽が、なんであそこにいる」

藤野が言う。


「それを見に来たんだろう」

灰薔薇はそれだけ返した。


そのときだった。


通りの向こうから、何かが砕けるような大きな音が響いた。

続いて悲鳴が上がる。


黒い制服の隊員たちが一斉に振り向き、ルナもはっとしたように顔を上げる。


通りの奥。

駐車場のフェンスが嫌な音を立てて歪み、金属片が宙に浮き上がっていた。


中心にいたのは、まだ若い男だった。


顔を押さえてうずくまり、何かに耐えるように肩を震わせている。

その周囲だけ、空気そのものが軋んでいるように見えた。


「能力暴走か」

灰薔薇が低く言う。


次の瞬間、浮き上がった金属片が通りの方へ一斉に弾けた。


「伏せろ!」


隊員のひとりが叫ぶ。

通行人が悲鳴を上げてしゃがみ込み、ルナが駆け出す。黒い制服の隊員たちも一斉に動き始めた。


藤野は反射的に踏み出しかける。

だが、隣で灰薔薇が低く言った。


「表に出るな」

「は?」

「今はあいつらに任せろ」


迷いのない声だった。


たしかに、表通りではすでに秩序機関の隊員たちが動いている。

二人が出ても、かえって邪魔になるかもしれない。


そう思った、その時だった。


背後で、石が裂けるような鈍い音がした。


「――っ」


振り向くより早く、灰薔薇が藤野の肩を掴んで引き寄せる。


次の瞬間、さっきまで藤野が立っていた足元を突き破って、白く濁った巨大な結晶が突き上がった。


アスファルトが砕け、鋭い破片が跳ねる。


「な……っ」


路地の壁際から、さらにもう一本。

今度は斜めにせり上がり、退路を塞ぐように道を横切った。


ただの水晶ではない。

光を受けても透き通らず、鈍く濁った表面の奥に、血管のような筋が閉じ込められている。

ぞっとするような、不気味な塊だった。


「もう一体いる」


灰薔薇が舌打ちする。


その視線の先、路地の奥。


ゴミ置き場の影に、若い男が崩れるようにしゃがみ込んでいた。

腕で頭を庇い、肩を激しく上下させている。服は汚れ、ところどころ裂けていた。

手首には、長く拘束されていたような赤黒い痕が残っている。


「来る、な……」


男が掠れた声で呟く。


その瞬間、男の足元からまた結晶が噴き上がった。

壁を這い、地面を割り、蜘蛛の巣のようにひびを広げていく。


藤野は息を呑んだ。


表の男と同じだ。

ただの暴走じゃない。どこか壊れている。


「……あれも、逃げてきた口か」

灰薔薇が低く言う。


「何からだよ」

「見ればわかる」


答えにはなっていない。

だが、男の有様を見れば、そう言いたくなるのもわかった。


路地の外では、金属がぶつかり合う激しい音と、隊員たちの怒声が響いている。

表の暴走に秩序機関は一斉に向かった。こちらにはまだ誰も気づいていない。


その一瞬の隙を縫うように、結晶の槍が足元から突き出した。


「下がれ!」


灰薔薇が前へ出る。

鋭く踏み込み、斜めに伸びてきた結晶をかわすと、そのまま片手を払った。


鈍色の灰が、一直線に男の方へ走る。


だが、届く寸前で男の前に結晶が噴き上がった。

灰は白く濁った壁にぶつかり、散る。


「……ちっ」


灰薔薇の舌打ちが落ちる。


「これ、どうすんだよ!」

藤野が叫ぶ。


「触れろ」

「は?」

「お前の力で崩せ。道を作れ」

「……!」


藤野は咄嗟に両方の手袋を取る。


次の結晶が、今度は頭上から垂れ下がるように伸びてくる。

反射的に身を沈め、そのまま横から突き出た結晶の表面へ手を押しつけた。


一瞬。


白く濁った硬質の塊が、触れたところからほどけるように崩れ、水へ変わって落ちる。


ばしゃ、と足元が濡れた。


「……っ」


やはりいける。


その隙に、灰薔薇が低く言う。


「右だ」

「命令すんな!」

「黙って動け」


右側の壁を割って伸びてきた結晶の根元へ、藤野は舌打ちしながら飛び込んだ。

指先が触れた瞬間、そこから一気に水へ変わる。支えを失った結晶が傾ぎ、その向こうへ道が開く。


灰薔薇がその隙を逃さず踏み込む。


男との距離を一気に詰める――が、


「来るなぁっ!」


男が叫び、地面一帯から無数の結晶が噴き上がった。


壁、地面、ゴミ箱、排水管。

触れたものすべてを呑み込むように結晶が広がり、路地そのものを埋め尽くそうとする。


灰薔薇はとっさに身を翻し、最小限の動きでそれをかわした。

だが避けきれなかった結晶の先端が袖をかすめ、布が裂ける。


「おい、大丈夫か」

「その程度で騒ぐな」


言い返しながらも、灰薔薇の眉間にははっきりと苛立ちが浮かんでいた。


表の音がさらに激しくなる。

金属の軋み。人の叫び。命令の声。


表も裏も、同時に崩れている。


「……まずいな」

灰薔薇が呟く。


「何がだ」

「このままだと、表の連中もそのうちこっちに気づく」

「……っ」

「気づかれる前に片づけるぞ」


灰薔薇の声は冷静だった。

だが、その一言の重さに、藤野は喉をつまらせる。


片づける。

それが、この男をどうするという意味なのか。


路地の奥で、結晶能力者の男が荒く息をつく。

焦点の定まらない目が一瞬だけこちらを向いた。


「やだ……戻るのは、やだ……」


その言葉に、藤野の背筋が冷えた。


教団、あるいは拘束されていた場所から逃げてきた。

そう灰薔薇が言わなくても、もうわかる。


表の金属能力者も、こいつも。

何かから逃げてきて、壊れたまま暴れている。


「……殺すなよ」

藤野が低く言う。


灰薔薇はちらりとだけ藤野を見る。


「状況を見ろ」

「見てる」

「なら、甘いことを言うな」


言い終わるより先に、足元がまた裂けた。


今度は藤野の真下だった。


「うおっ!」


突き上がった結晶を、藤野はとっさに後ろへ飛んでかわす。

だが着地した先にも、すでに細い棘が何本も這ってきている。


逃げ場がない。


「藤野!」


灰薔薇が叫ぶ。


その声に押されるように、藤野は両手を結晶の束へ叩きつけた。


ごぼ、と鈍い音がして、路地いっぱいに伸びていた結晶の一角がまとめて水へ変わる。

勢いを失った棘が崩れ、足元へ一気に流れ落ちた。


その隙に、灰薔薇が再び片手を払う。


灰が細く鋭く伸び、今度こそ男の喉元へ走る。

だが、またしても結晶がその前に立ち上がった。


灰は本体へ届く直前で弾かれ、白い壁に散る。


その時、背後で誰かが息を呑む気配がした。


藤野が顔を上げる。


路地の入口に、ルナが立っていた。


表の処理から離れてきたのだろう。

少し息を切らしながら、こちらを見ている。


その目は、結晶能力者ではなく、藤野の手元に向けられていた。


水になった結晶。

濡れた地面。

そして、今まさに能力を使った藤野。


「……藤野、先輩」


声がかすかに震えていた。


灰薔薇の表情が変わる。


「まずい」


低く落ちたその声に、藤野の心臓が嫌な音を立てた。


ルナは一歩だけ前へ出る。

けれど、その視線はまだ藤野から外れない。


驚きだけじゃない。

理解した顔だった。


何を見たのかを。

何が危険なのかを。

そして、それを見逃してはいけないことまで。


「その力……」


ルナが、小さく呟く。


その瞬間、結晶能力者の男が再び叫び、路地の奥から大きく結晶を噴き上げた。


灰薔薇が舌打ちし、前へ出る。


「話は後だ。まずこいつを止める」


そう言い捨てて、灰薔薇は結晶の壁へ踏み込んだ。


***


砕けた先端を踏み越え、横合いから迫る棘を身を捻ってかわす。

だが、男の足元からは次々と新しい結晶が噴き上がり、進路を塞ぐように広がっていく。


「来るな……来るな、来るな……!」


男は頭を抱えたまま叫んだ。

声は掠れ、怯えと苛立ちがごちゃ混ぜになっている。

理性は残っている。だが、明らかに壊れかけていた。


路地の壁を這うように伸びてきた結晶が、ルナの足元へ迫る。

ルナははっとして身を引き、そのまま白い羽を一枚広げた。


ふわり、と見えた羽は次の瞬間には鋭く変わり、斜めに振り抜かれる。

薄く伸びてきた結晶の先端が断ち切られ、砕けて散った。


「っ……」


藤野はわずかに目を見張る。


祭りの時の柔らかい雰囲気とは違う。

迷いのない動きだった。


ルナはそのまま男の方へ駆けようとする。

だが、路面を突き破って現れた結晶の塊が、それを阻むようにせり上がる。


「邪魔……!」


ルナが羽で斬り込む。

けれど相手は硬い。浅く裂けるだけで、すぐに別の場所からまた伸びてくる。


灰薔薇が低く言った。


「藤野」

「わかってる!」


藤野は前へ飛び込む。

灰薔薇の足元を塞ごうとした結晶の根元に手をつけた。


硬質だった白い塊が、一瞬で形を失い、水へと崩れる。


その隙を縫うように、灰薔薇が男の目前まで踏み込んだ。


片手を払う。

灰がまっすぐ本体へ走る。


「落ち着け」


低く告げる。

だが男は焦点の合わない目で灰薔薇を見上げ、さらに激しく肩を震わせた。


「いやだ……っ、戻るのは、いやだ……!」


その叫びと同時に、今度は男の目前から結晶が噴き上がる。

灰は本体へ届く寸前で遮られ、白く濁った壁に散った。


「上!」


ルナの声。


灰薔薇が即座に飛び退き、藤野は反射的に両手を伸ばした。

指先が触れた結晶がまとめて水に変わり、頭上からどっと降り注ぐ。


冷たい水が肩と頬を打つ。


その隙に、ルナが男のすぐそばへ回り込んだ。

羽が再び形を変える。今度は刃ではなく、やわらかな白が男の腕と肩へ巻きついた。


「大丈夫です……! もう誰も来ませんから、落ち着いて――」


ルナの羽が、男の肩を包むように触れる。


白い光がほんのりと滲んだ。


次の瞬間まで張りつめていた男の体が、びくりと小さく震える。


「……ぁ」


荒れきっていた呼吸が、わずかに乱れを失う。

焦点の定まらなかった目が、一瞬だけルナを映した。


結晶の伸びが止まる。


ほんの数秒。

けれど、さっきまで途切れなく噴き出していた棘が、ぴたりと動きを止めた。


「……大丈夫」

ルナが静かに言う。

「もう、誰もあなたを縛りません」


男の唇がかすかに動く。


「……いや……」

「うん」

「戻りたく……ない……」


掠れた声だった。


ルナは目を伏せるでもなく、ただまっすぐ頷いた。


「戻させません」


その言葉に、男の肩から少しだけ力が抜ける。


完全に安心したわけじゃない。

それでも、暴走に呑まれきっていたさっきよりは、明らかに目の色が違っていた。


「今のうちだ」

灰薔薇が低く言う。


ルナが頷く。


羽がさらにやわらかく男の腕へ巻きつき、そのまま身体を支えるように包み込む。

傷ついた獣を落ち着かせるみたいな、静かな動きだった。


男は抵抗しない。

いや、抵抗する力がもう残っていないのかもしれない。


膝が崩れ、体が傾ぐ。


ルナが受け止める。

その瞬間、男の足元に残っていた細い結晶の筋も、力を失ったように音を立てて砕けた。


路地に、ようやく静けさが戻る。


さっきまで絶え間なく地面を割っていた結晶は、今はどれも動きを止めていた。

白く濁った棘だけが、ひび割れたアスファルトの上に無数に突き出たまま、鈍い光を返している。


藤野は荒くなった息を整えながら、ルナの方を見た。


男を支えるように巻きついていた白い羽は、さっきまでの鋭さを失っている。

柔らかく、あたたかい光を帯びて、男の肩や腕を包み込んでいた。


「……それ」


思わず、藤野は口を開く。


「落ち着かせてんのか」


ルナは男を支えたまま、小さく頷いた。


「少し落ち着かせるだけです。傷も治せます」


静かな声だった。


藤野はわずかに目を見張る。


「傷も……?」

「はい。万能ってほどじゃないですけど」

ルナは淡く笑う。

「少なくとも、今みたいに暴れてる人を落ち着かせるには向いてます」


その言い方はいつも通り柔らかい。

けれど、任務の最中にある緊張はまだ声の奥に残っていた。


男はもうほとんど意識を保っていないようだった。

呼吸は荒いが、さっきまでみたいに喉の奥で怯えを鳴らすことはなくなっている。


灰薔薇が周囲を一瞥する。


「表は?」

「もう収束してるはずです」

ルナが答える。

「何人かこっちに気づき始めてるかもしれません」


その言葉とほとんど同時に、表通りの方から足音と短い指示の声が聞こえてきた。


ルナの表情がわずかに引き締まる。


「……藤野先輩」


その呼びかけに、藤野の背筋がひやりとする。


ルナは男を支えたまま、まっすぐ藤野を見た。


さっきまでの戦闘の緊張とは違う、別の硬さがそこにはあった。


「今の力、なんですか」


藤野は答えなかった。


灰薔薇が半歩、前へ出る。


「見間違いだ」

「違います」

ルナの返答は早かった。

「ちゃんと見ました」


声は小さい。けれど、はっきりしていた。


「結晶が……一瞬で水に変わった」

「……」

「そんな能力、私は聞いてません」


最後の一言で、空気が変わる。


藤野の喉が乾いた。


聞いていない。

つまり、少なくとも秩序機関側には把握されていないということだ。


その事実が、逆にまずかった。


未登録。未確認。危険性不明。

そんな能力を、あの組織が見逃すはずがない。


灰薔薇が低く言う。


「報告するつもりか」

「……」

ルナは一瞬だけ沈黙した。

「しないわけにはいきません」


その言葉に、藤野の胸が重く沈む。


ルナは目を逸らさなかった。

迷いはある。だが、それでも言わなければならないと決めている顔だった。


「未登録の能力者を見逃したら、もっと大きな事故になるかもしれない」

「事故?」

灰薔薇が冷たく言う。

「報告すれば、こいつはそこで終わりだ」

「灰薔薇先輩……」

「監視では済まない。あの力は危険すぎる」


ルナの指先が、男を支える羽の上でわずかに強ばる。


灰薔薇は続けた。


「触れたものを一瞬で変質させる能力だ。人間に適応される可能性がある時点で、秩序機関は隔離を選ぶ」

「……」

「保護と呼ぶか、拘束と呼ぶかは好きにしろ。結果は同じだ」


ルナは何も言わなかった。


その沈黙が、かえって事実を肯定しているように思えた。


隔離。


その言葉が、生々しく胸に落ちる。


檻。監視。制限。

いったんそこへ入れられれば、もう普通の場所には戻れない。


灰薔薇の目が冷たく細まる。


「……口を塞ぐしかないな」


藤野は息を呑んだ。

ルナの顔が強ばる。


「待って」

「黙れ」


灰薔薇が一歩前へ出る。


脅しではない。

本気だと藤野にはわかった。

灰薔薇は藤野を守るためなら、本当にここでルナを黙らせるつもりでいる。


「やめろ!」


反射的に、藤野は灰薔薇の袖を掴んだ。


灰薔薇が鋭く振り返る。


「離せ」

「だめだ」

「こいつが口を開けば終わる」

「わかってる!」


わかっている。

だからこそ、やらせるわけにはいかなかった。


ルナは唇を噛んだまま、二人を見ている。

怯えている。けれど逃げない。


藤野はその目を見返した。


「……ツキを救いたいんだろ」


ルナの目がはっきり揺れた。


「なんで……」

声が掠れる。

「なんで、ここでツキの名前が出るんですか」


「こっちも知ってることがある」


藤野は灰薔薇の腕を掴んだまま言う。


「お前だって、ツキのことを怪しいと思ってるんだろ」

「……」

「でも、自分も隠し事してるから踏み込めない。違うか」


ルナは答えなかった。

だが、その沈黙が答えだった。


「俺も同じだ」

藤野は続ける。

「隠してることがある。だから、自分だけ何も隠してないみたいな顔で人を責める気はない」

「先輩……」

「でも、ツキを放っておく気もない」


灰薔薇が低く言う。


「藤野」

「少し黙ってろ」


珍しく強い声が出た。


灰薔薇は不快そうに目を細めたが、それ以上は口を挟まなかった。

ただ、警戒だけは解かない。


藤野はルナから目を逸らさずに言う。


「報告する前に、話を聞け」

「……」

「俺も協力する」


ルナの喉が小さく動く。


迷っているのがわかった。

秩序機関の隊員としての理屈と、ツキを放っておけない感情のあいだで。


やがて彼女は、ゆっくり息を吐いた。


「……その力、本当に人に使えるんですか」


藤野の心臓が嫌な音を立てる。

灰薔薇の視線も、わずかにこちらへ向いた。


ここで本当のことを言えば終わる。

川の事故以来、人に対してこの力を試したことはない。だが、想像くらいはしている。

人に触れたらどうなるのか。考えたくなくても、考えてしまう。


「……いや」


藤野は咄嗟に言った。


喉が乾いていた。

それでも声だけは平静を装う。


「生き物には適応されない」


嘘だった。


本当はわからない。

だが、今ここで言えることは、それしかなかった。


ルナはじっと藤野を見る。


優しいだけではない目だった。

危険性を見極めようとする、秩序機関の人間の目だった。


長い沈黙が落ちる。


やがてルナは、ほんの少し目を伏せた。


「……そうですか」


信じたのか、信じていないのかはわからない。

ただ、次に顔を上げたとき、その目の鋭さは少しだけ和らいでいた。


「今回だけです」


静かな声だった。


「……今回だけは、見なかったことにします」


灰薔薇が低く呼ぶ。


「恋羽」

「でも」


ルナは藤野を見たまま続けた。


「見逃したわけじゃありません」

「……」

「先輩のことも、ツキのことも。どっちも」

「……ああ」

「次は、庇えないかもしれません」


藤野は小さく息を吐いた。


「わかってる」


ルナは短く頷いた。


表通りの方から、誰かを呼ぶ声が近づいてくる。

黒い制服の隊員たちが、こちらに気づき始めたのだろう。


ルナは足元に倒れた結晶能力者の男を見下ろし、それから静かに言った。


「この人は、私が引き受けます」

「表の方も、もう片づきますから」


藤野は頷いた。


「……そうか」


「先輩たちは、もう行ってください」


それ以上、ルナは何も言わなかった。


ここに長くいれば、余計なものまで見つかる。

それは誰にとってもいいことではない。


灰薔薇が短く告げる。


「行くぞ」

「ああ」


二人は路地を離れかける。


その背中に、ルナの声が届く。


「藤野先輩」


足が止まる。


振り向くと、ルナは少しだけ迷うような顔をしていた。


「……本当に、協力してくれるんですか」


その声には、隊員としての硬さと、恋羽ルナ自身の迷いが、どちらも残っていた。


藤野は一瞬だけ黙り、それから言う。


「言っただろ」

「……」

「俺も、ツキのことは放っておけない」


ルナはしばらく何も言わなかった。

やがて、ほんの少しだけ、いつもの彼女に近い笑い方をした。


「……じゃあ、今度ちゃんと話します」


それだけ言って、今度こそ表通りの方へ向き直る。


黒い制服の足音が近づいてくる。

もう、ここで交わせる言葉は終わりだった。


藤野と灰薔薇は、その場を離れた。


***


路地を抜け、夏の熱気の残る通りへ戻る。

蝉の声が、やけにうるさい。


藤野は自分の手を見下ろした。

まだ少し、水に濡れている。


「……嘘をついたな」


不意に、灰薔薇が言った。


藤野は手袋をはめ直しながら顔をしかめる。


「うるせえよ」

「人には適応されない、か」

「聞こえてたのか」

「あの距離で聞こえないと思うな」


藤野は返事をしなかった。


嘘だった。

自分でもわかっている。


けれど、ああ言うしかなかった。

そうしなければ、すべてが終わる気がした。


灰薔薇はしばらく黙って歩いていたが、やがて低く言った。


「今回は運がよかっただけだ」

「……ああ」

「次も同じとは限らん」

「わかってる」


短く返す。


夏の陽射しは、何も知らない顔で明るかった。

けれど藤野の胸の内には、さっき路地で交わした言葉だけが重く沈んでいた。


秩序機関。

恋羽ルナ。

神埜ツキ。


見えていなかったものが、少しずつ輪郭を持ちはじめている。


それが何を意味するのかまでは、まだわからない。


ただひとつ確かなのは、藤野がもう、あの夏祭りの夜よりもずっと深い場所へ足を踏み入れてしまったということだった。


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