第17話 夏夜に散る光
結局、二人とも金魚は一匹もすくえなかった。
凪沙は最後まで「今度こそ」と言いながらポイを破り、藤野も途中から妙に落ち着かなくなって、それどころではなくなっていた。
「……全滅だな」
「うん……」
屋台を離れながら、凪沙が少しだけ肩を落とす。
「一匹くらい、いける気がしたんだけどなあ」
「最初からそんな気しなかった」
「ひどい」
「事実だろ」
「フジくんだって取れなかったくせに」
「……それはそうだけど」
言い返しながらも、どこか噛み合わない。
さっきから、会話のあいだに妙な間ができる。
嫌というより、落ち着かない。どうにも意識してしまっているのが、自分でもわかった。
「……次、どこ行く?」
凪沙が聞く。
「白崎が決めるんじゃなかったのか」
「そうだけど、今ちょっと頭回ってないかも」
「お前もかよ」
「……うん」
凪沙が小さく笑う。
その時だった。
「おや」
落ち着いた声が前から聞こえた。
二人が顔を上げると、参道の少し先に御堂直文と薄氷華澄が立っていた。
御堂は制服姿のまま背筋を伸ばし、人混みの中でも妙に目立つ。
その隣の華澄も、涼しげな雰囲気のまま静かにこちらを見ていた。
「御堂先輩、華澄先輩」
凪沙が少し驚いたように言う。
「えっ、お二人って付き合ってるんですか?」
「いや……」
御堂が言いかける。
「ふふ、白崎さん。御堂先輩と私はそういうのじゃありません」
華澄は静かに笑った。
「……まあ、生徒会の仕事の一環みたいなものです」
「祭りの見回りですか?」
「そんなところだ」
御堂が頷く。
藤野はそこで、ふと引っかかった。
――そういえば。
薄氷華澄は、御堂と同じ三年のはずだ。
なのに今、「御堂先輩」と呼んだ。
一瞬だけ違和感が残る。
だが、そこを掘り下げるより先に、御堂がこちらを見て、わずかに口元を緩めた。
「そちらこそ、ずいぶん仲がよさそうだな」
「――っ」
「えっ」
二人とも、露骨に固まった。
藤野は一瞬で顔が熱くなるのを感じたし、凪沙も目を見開いたまま言葉を失っている。
その様子を見て、華澄がふふっと笑う。
「図星みたいですね」
「ちが……っ」
凪沙が慌てて言いかける。
「そういうんじゃ……」
「いや、別に俺たちは――」
藤野も口を開くが、余計に言葉がまとまらない。
御堂はそんな二人を見て、少しだけ面白そうに目を細めた。
「そう身構えなくてもいい。からかっただけだ」
「絶対わざとだろ……」
藤野が小さく呟く。
「御堂先輩、そういうところありますからね」
華澄が楽しそうに言う。
その時だった。
「もう知らない」
少し離れた人混みの向こうから、はっきりした声が飛んできた。
全員がそちらを見る。
ルナだった。
その隣にはツキがいる。
だが、いつもの二人の空気とは明らかに違っていた。
ルナは眉を下げながらも、どこか怒ったような顔をしている。
ツキもまた、表情こそ薄いが、空気が硬い。
「ルナちゃん?」
凪沙が戸惑ったように声を漏らす。
ルナはそのままこちらへ歩いてくる。
けれどツキの方は少し遅れて、一定の距離を保ったままだった。
ただ、その視線だけが一瞬ルナを追って、すぐに逸れる。
いつもなら、ルナのそばを離れないはずなのに。
その不自然さに、藤野は校舎裏で交わした会話を思い出す。
――最近、ルナの行動に、前より少し不自然なところがある。
祭りの賑やかさはそのままなのに、そこだけ温度が違って見えた。
***
少し前。
ルナとツキは、参道から少し外れた屋台の並びを二人で歩いていた。
金魚の柄の飾り、小さな風鈴、色とりどりの飴細工。
どれも祭りらしく華やかなのに、二人のあいだには妙に静かな空気が流れている。
ルナが、ふいに口を開いた。
「……ツキ、なにか隠してる?」
ツキが足を止める。
「え?」
「いつもより口数少ない」
ルナはまっすぐツキを見る。
「なんか変。さっきからずっと」
「……別に」
「別に、じゃないよ」
ツキは少しだけ視線を逸らした。
それを見て、ルナの目がわずかに揺れる。
「ルナの方こそ、隠してることあるんじゃないの?」
今度は、ルナが目を瞬かせた。
「え?」
「研究者の親戚の話。私、知らなかった」
「それは……」
「最近も、いつもひとりでどこか行く」
「……」
ルナは言葉に詰まる。
ツキの声は平坦だった。
けれど、その平坦さが逆に冷たく響いた。
「ルナだって、人のこと言えないよ」
「でも……」
ルナは帯の端をぎゅっと握る。
しばらく沈黙が落ちたあと、ルナは小さく、でもはっきりと言った。
「……でもわたし、ツキのお父さんのこと助けたいの、ほんとだよ」
「……っ」
その瞬間だけ、ツキの目が揺れた。
そこは、いちばん触れられたくない場所だった。
父のこと。
信じたいものと、信じたくないものが、いちばん濃く絡まっている場所。
ルナはその変化に気づかないまま、言葉を続ける。
「だから、わたし……」
「やめて」
ツキの声が、初めて少しだけ強くなる。
ルナが息を止めた。
「それ以上、そこに触れないで」
「ツキ……」
「勝手にわかったようなこと言わないで」
静かな声だった。
けれど、それはルナが知っているツキの静けさとは少し違っていた。
冷たく張りつめていて、触れれば切れそうな響きがあった。
ルナの顔が、傷ついたように曇る。
「……わたし、そんなつもりじゃ」
「なら、言わないで」
ツキはそう言って、目を逸らした。
ほんのわずかな沈黙。
それだけで、二人のあいだに見えない溝ができてしまったのがわかった。
ルナは唇をきゅっと結んだ。
「……もう知らない」
少し強い口調でそう言って、背を向ける。
そのまま早足で、人混みの方へ歩き出した。
ツキは追わなかった。
追えなかった、の方が近いのかもしれない。
祭りの明かりが揺れるなか、二人の距離だけが妙にはっきりとそこにあった。
***
ルナはそのままこちらへ歩いてくる。
けれど、あと少しというところで、ふいに足を止めた。
視線が向いた先にいたのは、御堂と華澄だった。
ほんの一瞬だけ、ルナの表情が揺れる。
迷うような、何かを確かめるような、そんな短い間。
藤野はそれを見て、少しだけ眉をひそめた。
だが次の瞬間、ルナは小さく息を整えるようにして、二人へ向き直った。
「……お疲れさまです、御堂先輩、薄氷先輩」
「ああ」
御堂が短く返す。
「こんばんは」
華澄がやわらかく微笑む。
そのやり取りのあと、ルナはふっといつもの笑顔に戻った。
何事もなかったみたいに、今度は凪沙たちの方を見る。
「先輩たち、ここにいたんですね」
「ルナちゃん……」
凪沙が少し心配そうに声をかける。
「大丈夫……?」
その言葉に、ルナは一瞬だけ目を伏せた。
けれどすぐに、小さく笑ってみせた。
「……平気です。少し、口喧嘩しちゃっただけで」
言い方はいつも通りやわらかい。
でも、その笑顔はほんの少しだけ無理をしているようにも見えた。
藤野が何か言おうとした、その時。
「すみません。見苦しいところを」
少し遅れて、ツキがこちらへ来た。
薄い水色の浴衣の裾を揺らしながら、静かな顔で立ち止まる。
いつも通り無表情に近い。だが、空気の張りつめ方だけが微かに違っていた。
「ツキちゃん……」
凪沙が戸惑ったように二人を見比べる。
ルナはツキの方を見ない。
ツキもまた、ルナを正面から見ようとしない。
ほんの少し前まで二人でどこかへ行っていたはずなのに、戻ってきた今の方がよほど距離がある。
「口喧嘩、って……」
凪沙が言いかける。
「大したことじゃないです」
ツキが先に言った。
「私が少し言いすぎただけなので」
その声は淡々としていた。
だが、だからこそ余計に冷たく聞こえる。
ルナの指先が、浴衣の袖をきゅっと握る。
その小さな仕草を、藤野は見逃さなかった。
御堂はそんな二人を静かに見ていたが、やがて落ち着いた声で言った。
「祭りの最中だ。あまり空気を重くするな」
「……すみません」
ルナが小さく答える。
華澄は、にこやかな顔のまま二人を見た。
「まあまあ。せっかくのお祭りなんですし、あとで仲直りすればいいじゃないですか」
「薄氷」
御堂がわずかにたしなめるように言う。
「ふふ。失礼しました」
華澄はそう言いながらも、どこか面白がっているようにも見えた。
さっき、ルナは御堂と華澄を見た瞬間、ほんのわずかに迷った。
まるで、まず先にそちらへ意識が向いたみたいに。
それが少し引っかかった。
ただの先輩後輩、というには、何かが妙だった。
その違和感を言葉にする前に、凪沙がそっと口を開く。
「……みんなで、また一緒に回ろっか」
やわらかい声だった。
誰かを責めるでもなく、無理に明るくするでもなく、ただ少しだけ空気を戻そうとする声。
ルナが、その声に救われたみたいに小さく笑う。
「……はい」
「別に私は、どちらでも」
ツキが言う。
「素直じゃないですね」
華澄がくすっと笑う。
「では、我々はこのあたりで失礼しよう」
御堂がそう言って、一歩引いた。
「見回りも残っているのでね」
「はい。お疲れさまです」
凪沙が頭を下げる。
ルナも、ツキも、それぞれ短く会釈した。
御堂と華澄が人混みの向こうへ消えていく。
その背中を見送りながら、藤野はさっきの小さな違和感を、まだ心のどこかで引きずっていた。
けれど今は、それ以上に。
ルナとツキのあいだにできた見えない溝のほうが、ずっとはっきりそこにあった。
祭りの喧騒は変わらず賑やかで、屋台の灯りも明るいままなのに。
そこだけ、少し温度が違って見えた。
その時だった。
「はっはっは! 見たまえ諸君!」
場の空気をぶち壊すような大声が、参道の向こうから響いた。
全員がそちらを振り向く。
朝日奈だった。
両腕いっぱいに射的の景品を抱え、妙に誇らしげな顔で戻ってくる。
ぬいぐるみやら駄菓子やら、どうやってそんなに取ったのかわからないくらい抱えている。
その後ろを歩く灰薔薇は、明らかに機嫌が悪かった。
「ヒナくん、すご……」
凪沙が思わず目を丸くする。
「当然だ! オレの正義の照準に、外れはない!」
「いや、祭りの射的に何言ってんだよ」
藤野が呆れる。
灰薔薇は無言のまま、景品を抱えた朝日奈を一瞥した。
その目が、ひどく悔しそうだった。
どうやら僅差で負けたらしい。
「……灰薔薇、負けたのか」
藤野がぼそっと言うと、
「黙れ」
と即座に返ってきた。
「輪投げで一点差だ! 本当に惜しかったのだぞ!」
朝日奈が悪気なく言う。
「言わなくていい」
「だがよい勝負だった! 君の実力、認めよう!」
「うるさい」
凪沙が小さく笑う。
朝日奈はそんな空気など気にした様子もなく、景品を抱えたまま周囲を見回す。
だが灰薔薇だけは、戻ってきた瞬間に、この場の空気が少し変わっていることに気づいたようだった。
視線だけが、ルナとツキのあいだを一度通る。
それから藤野と凪沙にも向く。
「……何だ、この空気は」
灰薔薇が低く言う。
「何でもないよ」
凪沙がすぐに笑う。
「そうか」
灰薔薇はそれ以上は聞かなかった。
その時、朝日奈がふいにぱっと藤野の方を振り返った。
「そういえば藤野くん!」
「なんだよ」
「眼鏡がないな!」
「……濡れたから外しただけだ」
「そうか! ……む!」
朝日奈は景品を抱えたまま、まじまじと藤野の顔を見た。
「藤野くん!? けっこう整っているな!!」
「うるせえ」
「なぜ隠していたのだ!?」
「隠してねえよ」
「いや、眼鏡ありとなしで印象が違うぞ!」
「どうでもいいだろ」
「どうでもよくない! こういうのは変身イベントと言うのではないか!?」
「言わねえよ」
そのやり取りに、凪沙の肩がぴくっと揺れた。
藤野がちらりと見ると、案の定、顔が少し赤い。
凪沙は何も言わない。
けれど目だけは、ほんの一瞬だけ藤野の横顔に向いて、それからすぐに逸らされた。
その時だった。
どん、と腹の底に響くような音がして、夜空に光が咲いた。
「あ……」
誰かが小さく息を呑む。
色とりどりの閃光が、暗くなった空を一瞬で明るく染め上げる。
赤、青、金、白。
花びらみたいに広がって、散って、また次の光が夜を塗り替えていく。
「わあ……きれい」
凪沙が、ぽつりと呟いた。
その横顔を、藤野は見つめた。
浴衣姿のまま夜空を見上げる凪沙の横顔は、花火の光を受けてやわらかく明滅していた。
目の中に色が映っている。
揺れる睫毛も、ほんの少し開いた唇も、目が離せない。
素直に、きれいだと思った。
でも、言えるわけがない。
「……そうだな」
藤野はそう答えて、自分も空を見上げた。
今度は凪沙が、その横顔をそっと横目で見る。
眼鏡のない藤野の顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
普段は隠れている目元が、花火の光の中ではっきり見える。
――やっぱり、こっちの方がかっこいい。
そう思ってしまって、凪沙はまた少しだけ頬を熱くする。
でも、そのことを知られたくない自分もいた。
朝日奈は大きな声ではしゃいでいる。
「すごいぞ! 見ろ、空が爆発している!」
「言い方」
藤野が呆れる。
灰薔薇は静かに夜空を見ていた。
負けた悔しさはまだ残っているはずなのに、それでも花火の光を追う目はどこか穏やかだ。
ルナとツキは、少しだけ距離を置いたまま並んでいた。
ぎこちなさは消えていない。
けれど同じ夜空を見上げている、その事実だけが今はわずかに二人を繋いでいた。
そうして六人は、夜空の下にいた。
この日常が、ずっと続くと信じながら。
***
その頃――
アガスティア教団の本拠地。
教会を思わせる、厳格で静謐な石造りの建物。
高い天井と長い回廊。
灯りを落とした内部には、夜の冷たさと祈りにも似た沈黙が満ちていた。
その一室。
巨大なベランダの向こうに、夜空が大きく開けている。
遠くの街で上がる花火が、ここからでもはっきりと見えた。
赤い閃光が散り、
白い光が広がり、
またひとつ夜を染める。
その光を前に、ひとりの男が椅子に深く腰掛けていた。
天羅木 幻一。
アガスティア教団の教祖。
その後ろに、白い影が音もなく立っている。
花火がひとつ、大きく咲いた。
幻一はそれを見上げたまま、静かに言った。
「花火とは美しいな」
白い影は答えない。
幻一はわずかに目を細める。
「一瞬で人の目を奪い、夜を染める。……だが、すぐに消える」
またひとつ、光が弾ける。
「儚いからこそ美しい、と人は言う」
「だが私は、そうは思わん」
白い影が、ほんのわずかに目を伏せた。
幻一は続ける。
「消えると決まっているものに、価値はない」
「本当に価値ある光は、最後まで空を支配するものだ」
遠くで、花火がまた咲く。
その残光を見つめたまま、白い影が静かに口を開いた。
「……頃合いかと」
声は低く、穏やかだった。
「各地の準備も、予定通り進んでいます」
しばしの沈黙。
夜空に開いた光が、幻一の瞳に一瞬だけ映る。
「そうか」
天羅木幻一は足を組み直した。
その声に迷いはない。
「ならば――」
彼は夜空を見上げたまま告げる。
「“楽園宣言”の時は近い」
またひとつ、花火が咲いた。
まるで祝砲のように。
だが、その光はすぐに崩れ、夜の中へ散っていく。
幻一はそれを静かに見届けて、口元だけで笑った。
「散る光では、足りん」




