第16話 知らない横顔
朝日奈家を訪れてから、二週間ほどが経っていた。
そのあいだに期末テストはあっという間に終わり、そして今、教室には答案返却という別の意味での緊張感が漂っている。
「……」
藤野は机に頬杖をついたまま、返ってきた答案を一枚ずつ見返していた。
国語、英語、数学、理科、社会。
どれも飛び抜けて良いわけではないが、悪くもない。
良く言えば安定、悪く言えば地味。いかにも自分らしい結果だと思う。
「……まあ、こんなもんか」
小さく呟く。
前の席では、凪沙が答案を重ねながら、ほっとしたように息をついていた。
「よかった……思ったより取れてた」
「白崎は普通に強そうだもんな」
藤野がそう言うと、凪沙は振り向いて少し照れたように笑った。
「えへへ。でも数学ちょっと不安だったんだよね」
「その点数でそれ言うの、嫌味だろ」
「嫌味じゃないよ」
「じゃあ天然で言ってるのか」
「ひどい」
そんなやり取りをしていると、少し離れた窓際で、灰薔薇が返却された答案を無造作に机へ置いた。ちらりと見えた点数は、どれも高い。
「……」
藤野は目を細める。
「お前、やっぱ勉強できるんだな」
「“やっぱ”とはなんだ」
灰薔薇が顔も上げずに返す。
「いや、なんか無駄にできそうだなって」
「無駄とは失礼だな」
「否定はしないんだ」
「ふふ」
凪沙が小さく笑う。
その後ろでは、朝日奈が自分の答案と深刻そうに向き合っていた。
「む……」
睨み合っている、というより、睨まれているのは答案の方かもしれない。
「どうだった」
藤野が声をかけると、朝日奈はしばらく黙ったまま答案を伏せた。
そして妙に真剣な顔で口を開く。
「……ヒーローにも、向き不向きはある」
「悪かったんだな」
「うむ!」
朝日奈は勢いよく認めた。
「国語と社会が壊滅的だ!」
「そんな堂々と言うなよ」
「現代文というものは、なぜああも人の気持ちを聞いてくるのだ! 本人に直接確認すればよいだろう!」
「まだ言ってる……」
藤野が呆れる。
凪沙は答案を覗き込んで、思わず吹き出した。
「でもほんとに、国語と社会だけ見事に低いね」
「理科は悪くないのだぞ!」
「それはわかる」
藤野が答案を見ながら言う。
「理科と数学はまあまあ、英語は普通、国語と社会だけ終わってる」
「言い方!!」
「事実だろ」
「うう……!」
朝日奈はそのまま机に突っ伏した。
背中がやけにしょんぼりしていて、少しだけ面白い。
やがてチャイムが鳴り、放課後になる。
先生が教室を出ていくと、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。答案の話で盛り上がる声、廊下へ出ていく足音、部活へ向かう支度の音が、教室のあちこちで重なっていく。
そんな中、凪沙がふいに口を開いた。
「ねえ」
藤野と朝日奈が顔を上げる。
「テストも終わったし、夏祭り行かない?」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
真っ先に反応したのは朝日奈だった。
「夏祭り!?」
さっきまで答案に打ちのめされていたとは思えないほど、目がきらきらしている。
「行く!」
「早いな」
「当然だ!」
朝日奈は胸を張った。
「祭りといえば、屋台! 金魚すくい! 射的! そして人々の笑顔! ヒーローたるもの、見逃す理由がない!」
「いや、ただ遊びたいだけだろ」
「それもある!」
「正直でいいな」
凪沙が笑う。
藤野は窓の外をちらりと見た。
蝉の声がうるさいくらいに鳴いている。テストが終わったばかりの気だるい空気の中で、“夏祭り”という言葉だけが妙に軽やかだった。
「……まあ、別にいいけど」
「おお!」
朝日奈が嬉しそうに身を乗り出す。
「藤野くんも賛成か!」
「お前がうるさいからだよ」
「理由はともあれ賛成は賛成だ!」
「はいはい」
そこへ、教室を出ていた灰薔薇が戻ってくる。
凪沙はその姿を見るなり、ぱっと顔を明るくした。
「イバラくんも祭り行こ」
「行かない」
即答だった。
「早」
藤野がぼそっと呟く。
だが凪沙はまったくめげない。
「えー、いいじゃん」
「貴様らの祭り騒ぎに付き合う義理がない」
「でも、射的とか強そう」
「輪投げも上手そう」
「金魚すくいも意外と上手そう」
朝日奈まで乗っかる。
灰薔薇は露骨に顔をしかめた。
「なぜそうなる」
「なんとなく」
凪沙が笑う。
「似合う」
「似合わなくていい」
そのやり取りを見ながら、藤野は思う。
本当に来る気がないわけではないのだろう。心底嫌なら、とっくに教室を出ているはずだ。
「別に来たくないならいいけど」
凪沙がさらっと言う。
「あとで“祭りの屋台メシくらい食べればよかった”って思っても知らないからね」
「……」
「焼きそばとか、りんご飴とか」
「……」
「型抜きとか」
「最後だけ微妙だな」
「そこ?」
藤野が言うと、灰薔薇は小さく鼻を鳴らした。
「……時間が合えば行く」
「来るじゃん!」
朝日奈が即座に言う。
「うるさい」
「ふふ」
凪沙は満足そうに笑った。
すると朝日奈が、何かを思いついたように顔を上げる。
「ならば、恋羽くんと神埜くんも誘おうではないか!」
「ルナちゃんとツキちゃん?」
凪沙が目を丸くする。
「確かに、せっかくだし」
「いや、来るか?」
藤野は少し眉をひそめた。
「神埜はともかく、恋羽は来そうだけど」
「来るまで誘えばよい!」
「そういう問題じゃないだろ」
「でも楽しそう」
凪沙が笑う。
「五人……いや、イバラくんが来たら六人だね」
「勝手に人数に入れるな」
灰薔薇が言う。
「来るんでしょ?」
「まだ決めていない」
「ほら」
「入ってるじゃん」
藤野が言うと、凪沙がまた楽しそうに笑った。
朝日奈はもう完全にその気だった。
「よし! では早速、明日だ!」
「明日?」
藤野が聞き返す。
「夏祭り、明日なのか?」
「うむ! 駅前の神社のやつだ!」
「急だな」
「祭りというものは、たいてい急に来るものだ!」
「いや、日程は前から出てるだろ」
「細かいことは気にするな!」
結局、その日のうちにルナへ連絡してみることになった。
ツキにはルナ経由で伝えるらしい。
「来てくれるかな」
凪沙が少し楽しそうに言う。
「恋羽は来るんじゃないか」
藤野が言う。
「神埜は知らん」
「ツキちゃんも、なんだかんだ来そうだけどなあ」
「根拠は?」
「勘」
「雑だな」
「でも、そういうの当たるかも」
朝日奈が真顔で頷く。
「神埜くんは意外とノリが悪くない」
「どこを見てそう思ったんだよ」
「雰囲気だ!」
「適当すぎる」
凪沙が吹き出した。
しばらくそんなふうに話していたが、やがてそれぞれ帰る流れになる。
教室を出て、廊下を歩きながら、藤野は少しだけ足を緩めた。
明日が夏祭り。
それだけ聞けば、いかにも普通の高校生らしい予定だ。
けれど、自分たちの場合――それだけで終わる気がしない。
「藤野先輩」
不意に、前から声が飛んできた。
顔を上げると、少し先の廊下に神埜ツキが立っていた。
相変わらず無表情で、こちらをまっすぐ見ている。
「……珍しいな。そっちから話しかけてくるの」
「少し、いいですか」
「何」
「校舎裏へ」
あまりにも簡潔で、逆に嫌な予感しかしない。
藤野は眉をひそめた。
「なんで」
「ルナの件で」
「……」
その一言で、断る理由が少しだけ薄れる。
いや、本当はそれだけじゃない。
ツキに逆らえばどうなるか、もう藤野は知っている。
あの日、アガスティアの一員であることを知られたツキは、口封じのために凪沙の名前を使った。
――白崎先輩の命が危ない。
あの静かな脅しを、忘れられるはずがない。
「……わかった」
短く答えると、ツキは何も言わずに踵を返した。
***
人気のない校舎裏は、夕方の熱気がまだ少し残っていた。
遠くで運動部の声がしているのに、ここだけ妙に静かだ。
ツキは壁際で足を止めると、振り返って言った。
「単刀直入に言います」
「いつも回りくどくないだろ、お前」
「今度、ルナがひとりで出かける予定があります」
「……どこに」
「駅前の雑貨店です。そのあと、少し別の場所にも寄ると思います」
「思います?」
「確定ではないので」
藤野は腕を組んだ。
「で?」
「ついて行ってください」
「は?」
思わず聞き返す。
ツキは表情ひとつ変えない。
「できるだけ自然に。怪しまれない形で」
「いやいやいや、なんで俺がそんなこと」
「取引、忘れたんですか」
藤野は言い返せず、少しだけ顔をしかめた。
「ルナに何があるんだ」
「それを調べてほしいと言ってるんです」
「お前、相棒だろ」
「相棒だからです」
間を置かずに返ってきた言葉に、藤野は黙る。
ツキは視線を逸らさず、静かに続けた。
「最近、ルナの行動に、前より少し不自然なところがある。本人に直接聞いても、多分ごまかす」
「だから俺に見ろって?」
「はい」
「なんで自分で行かない」
「私がつくと、ルナが気を遣うので」
「……」
それは少しだけ、本音に聞こえた。
けれど藤野は、すぐには頷かなかった。
「断ったら?」
「別に」
ツキの声は平坦だった。
「ただ、困るのは先輩のほうかもしれませんね」
「……脅してんのか」
「確認です」
そう言っている時点で脅しと大差ない。
しかも、こういう時のツキは絶対に冗談を言わない。
藤野は小さく舌打ちした。
「……わかったよ。で、見返りは?」
「見返り?」
「ただ働きする義理ないだろ」
藤野はツキをまっすぐ見る。
「こっちはお前に付き合ってやるんだ。だったら、お前も何か出せ」
「何を知りたいんですか」
「アガスティアのこと」
その言葉に、ツキの目がほんのわずかに細くなった。
「今ここで、教えろ」
「図々しいな」
「そっちが頼み事してんだろ」
一瞬、沈黙が落ちる。
校舎の向こうから、吹奏楽部の音がかすかに流れてきた。
夕方の空気が、じっとりと肌にまとわりつく。
やがてツキは、小さく息を吐いた。
「……少しだけなら」
「十分だ」
「アガスティアは、能力者を集めている集団です」
「……それは知ってる」
「集めるだけじゃない。選別もする」
「選別?」
「力のある者を上に置いて、ない者を下に置く。……そういう考え方です」
「前に聞いた思想そのままだな」
「ええ。理屈として掲げてるだけじゃなくて、実際にそう動いてる」
ツキは感情の薄い声のまま言った。
「救済とか理想とか、言葉はいくらでも並べますけど。要するに、力で人の価値を決めてるだけです」
「宗教団体みたいなもんじゃないのか」
「そう見えるなら、だいたい合ってます。ただ、崇めてるのは神じゃなくて力です」
「……随分詳しいな」
「嫌でも覚えますよ。ああいう場所にいると」
そこまで言って、ツキは口を閉じた。
藤野は眉を動かす。
「お前さ」
「なんですか」
「やっぱ変だな」
「何がです」
「今の言い方」
藤野はツキをまっすぐ見た。
「“ああいう場所”って言い方。中にいる人間の口ぶりじゃない」
「……」
「詳しいくせに、どこかずっと外側なんだよ」
「外側?」
「アガスティアの一員ではあるんだろうけど、心までそっち向いてるわけじゃないだろ」
しばらく沈黙が続いた。
風が吹いて、ツキの短い髪がわずかに揺れる。
やがてツキは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「先輩」
「何だよ」
「本当に、変なところで鋭いですね」
声音は変わらない。
だが、それは否定ではなかった。
藤野はそこで確信する。
こいつは確かにアガスティア側だ。だが、完全に染まっているわけじゃない。
そして同時に、ツキの側でも何かが変わっていた。
朝日奈零と近い位置にいて、目立たない。
余計なことは言わないくせに、妙な違和感だけは見逃さない。
脅せば動くが、ただ怯えているだけでもない。
――思ったより、使える。
そんな計算が、ツキの沈んだ瞳の奥を一瞬だけよぎる。
「……まあいい」
ツキはまた、いつもの無表情に戻った。
「ルナの件、お願いします」
「まだちゃんと引き受けるとは言ってない」
「でも断れないでしょう」
「抜け目ねえな、お前」
「知ってます」
あっさり言い切られて、藤野は思わず息を吐く。
「……明日、祭りがある」
「はい?」
「お前と恋羽も誘うって、朝日奈たちが決めてた」
「……そう」
「来るのか?」
「ルナが行くなら」
「ほんと徹底してるな」
「当然です」
ツキはそれだけ言って、踵を返した。
数歩進んでから、ふと思い出したように足を止める。
「先輩」
「今度は何だよ」
「ルナのこと、あまり露骨には探らないでください」
「は?」
「傷つけたら、許しません」
静かな声音だった。
けれど、その一言だけははっきりと冷たかった。
藤野は小さく眉をひそめる。
「……お前、ほんとルナ優先なんだな」
「当たり前です」
それだけ残して、ツキは今度こそ去っていく。
夕方の薄い光の中、短い髪だけが静かに揺れた。
その背中を見送りながら、藤野は小さく息を吐く。
アガスティア。
ルナ。
そして神埜ツキ。
繋がっているのはわかるのに、その中身はまだ見えない。
ただひとつ確かなのは、明日の夏祭りがただの夏祭りで終わる気はしない、ということだった。
***
翌日、夕暮れ時。
駅前の神社では、すでに屋台の明かりが並び始めていて、遠くからでも賑わいがわかる。
今夜は最後に花火大会もあるらしい。駅前広場には、浴衣姿の人々や家族連れ、友達同士の笑い声が溢れていて、いつもの見慣れた駅前が少しだけ別の場所みたいだった。
待ち合わせ場所には、先に男子三人が揃っていた。
朝日奈はいつも通りの私服だが、祭りというだけでテンションが上がっているのが見て取れる。
目を輝かせながら、すでに屋台の方をちらちら見ていた。
「すごいぞ藤野くん! 見ろ、人がいっぱいだ! 祭りの熱気というやつだな!」
「見りゃわかる」
「屋台もたくさんある! 射的、金魚すくい、焼きそば、かき氷……!」
「まだ何も始まってねえだろ」
「始まる前が一番わくわくするのだ!」
うるさい。いつにも増してうるさい。
藤野も私服だった。
そして、その隣。
灰薔薇が、浴衣だった。
「…………」
藤野は思わず視線を逸らした。
黒に近い落ち着いた色味の浴衣は、意外というか、予想外というか、とにかく似合っている。
似合ってはいるのだが――
「……っ」
なぜか笑いそうになる。
似合っているのに、似合いすぎていて面白い。
いや、灰薔薇が浴衣で立っているという事実そのものが、なんだかずるい。
「何だ」
灰薔薇がじろりと睨んでくる。
「いや、別に」
「今笑っただろう」
「笑ってねえよ」
「隠せていないぞ」
「気のせいだ」
朝日奈はそんな二人を見比べながら、まったく別の方向ではしゃいでいた。
「しかし、灰薔薇くん! 浴衣なのだな! 祭りらしくてとてもよい!」
「黙れ」
「なかなか意外だ! 君はそういうものを嫌がるかと思っていた!」
「嫌がった」
「ではなぜ着ている!」
「……事情があった」
ひどく不機嫌そうに言いながら、灰薔薇は顔をしかめる。
その様子がおかしくて、藤野はまた少しだけ笑いそうになった。
くだらないやり取りをしているうちに、不意に朝日奈が広場の向こうを指さした。
「おお! 来たぞ!」
人混みの向こうから、三人の女子が歩いてくる。
最初に目に入ったのは、恋羽ルナだった。
ふわふわした雰囲気はそのままに、今日はやわらかなピンクの浴衣を着ている。明るい色がよく似合っていて、歩くたびに帯飾りが揺れるのがどこか愛らしい。
その隣には、神埜ツキ。
薄い水色の浴衣は涼しげで、無駄のない立ち姿と相まって、妙に目を引いた。かわいらしいというより、澄んでいて、静かで、少し近寄りがたい。中性的な顔立ちに、その色味がよく似合っている。
そして――
「……白崎」
思わず、名前がこぼれた。
凪沙は紺色の浴衣を着ていた。
深い夜を思わせるような、落ち着いた紺。
けれど暗すぎず、屋台の明かりの下では静かな水面みたいに見えた。
髪はいつもと違って、ひとつに結ばれている。
高すぎない位置でまとめられたポニーテールが、歩くたびにふわりと揺れる。その髪を留めるように、小さな白と金の花の髪飾りが添えられていた。
派手じゃない。
けれど、目を離せない。
柔らかくて、静かで、綺麗だった。
一瞬、周りの音が遠くなった気がした。
さっきまでうるさかった朝日奈の声も、ざわめく人の波も、屋台から漂う匂いも、全部少しだけ遠のいて、ただ凪沙の姿だけが妙にはっきり見えた。
いつもは髪を下ろしているから、うなじが見えるのも新鮮だった。
浴衣の襟元からのぞく白い肌も、横顔にかかる細い後れ毛も、何もかもが見慣れないのに、妙に似合っている。
見ちゃいけないものを見たような気がして、藤野は思わず視線を逸らしかけた。
「む! 似合っているな、凪沙くん!」
朝日奈が、いつも通り大きな声で言う。
凪沙は少しだけ目を丸くしてから、ふわりと笑った。
「ふふ、ありがとう」
その笑顔に、また心臓が変な音を立てる。
「……」
藤野は何も言えなかった。
いや、言おうと思えば言えたのかもしれない。
似合ってる、とか。かわいい、とか。たぶん普通なら、そのくらい。
でも、いざ口にしようとすると、どれも軽すぎる気がした。
軽く言っていい感じじゃない。かといって、丁寧に言おうとすると余計におかしくなる。
そうして黙ったままでいると、
「……フジくん?」
不意に、下から覗き込むように顔が近づいた。
凪沙だった。
浴衣の袖を揺らしながら、少しかがんでこちらの顔を覗き込んでいる。
近い。近いし、かわいい。
「どうしたの?」
首をかしげる仕草まで、反則みたいだった。
藤野は一瞬だけ言葉に詰まり、それからようやく視線を逸らした。
「……いや、別に」
「ほんと?」
「ほんと」
「なんか変だよ?」
凪沙がくすっと笑う。
その笑い方までやわらかくて、藤野はますますいたたまれなくなった。
「……お前こそ」
「え?」
「その、似合ってる」
やっとそれだけ絞り出すと、凪沙は少しだけ目を見開いた。
それから、照れたように小さく笑う。
「……ありがと」
たったそれだけなのに、言わなきゃよかった気もするし、言えてよかった気もする。
「おお!」
朝日奈がなぜか嬉しそうに声を上げた。
「よかったな、凪沙くん! 藤野くんがちゃんと言ったぞ!」
「うるせえ」
「えへへ」
「なんでお前まで笑うんだよ」
「だって、ちょっと嬉しいし」
「……」
もうだめだ、と藤野は思った。
祭りが始まる前から、すでに調子が狂っている。
「よし!」
そんな空気などお構いなしに、朝日奈が拳を握る。
「では行くぞ諸君! 夏祭り探索の開始だ!」
「大げさだなあ」
凪沙が笑う。
「探索ではない。普通に回るだけだ」
灰薔薇が冷たく言う。
「似たようなものだ!」
「全く違う」
結局、そんなやり取りのまま、六人は神社の参道へと歩き出した。
屋台の明かりが両側にずらりと並び、夜になりきる前の薄青い空の下、あたりはもう十分に祭りの色に染まっている。
焼きそばの香ばしい匂い。甘い綿あめの匂い。かき氷のシロップの鮮やかな色。
人の声と笑い声が絶え間なく重なり、足元まで浮き立つような賑やかさが満ちていた。
「すごいねえ……」
ルナが目を輝かせながら、きょろきょろとあたりを見回す。
「屋台いっぱい……!」
「恋羽くん、気になるものがあるのか?」
「うーん、いっぱいあって迷っちゃう……」
「全部回れば解決だな!」
「解決ってそういうこと?」
藤野が呆れたように言う。
「でも、ちょっとわかるかも」
凪沙がくすっと笑った。
「見てるだけでも楽しいよね」
「だろう!」
朝日奈はなぜか誇らしげだった。
ツキはその少し後ろで、ルナが人にぶつからないよう、さりげなく歩幅を合わせている。
灰薔薇は相変わらず面倒そうな顔をしていたが、帰る気配はない。
しばらくは六人で並んで歩きながら、屋台を冷やかして回った。
「見ろ、あれは何だ?」
「チョコバナナ」
「なるほど! バナナにチョコをかけたものか!」
「見たまんまだな」
「フランクフルトもあるぞ!」
「朝日奈くん、食いつき方が全部まっすぐすぎる」
「祭りに来たからには、全てに誠実でありたいのだ!」
「意味がわからない」
凪沙が、ふと先を指さした。
「射的もあるね。金魚すくいも」
「おお!」
朝日奈がぴたりと足を止めた。
その視線の先にあったのは、射的の屋台だった。
棚の上には景品が並び、その少し先には輪投げの屋台も見える。
朝日奈の目が、わかりやすく輝いた。
「……なるほど」
「何がだよ」
「勝負だ、灰薔薇くん」
「は?」
「射的と輪投げ。どちらがより多く戦果を上げられるか、決着をつけようではないか!」
「何の決着だ」
「祭りにおける実力の証明だ!」
「いらん」
「逃げるのか!?」
「誰が」
灰薔薇の眉がぴくりと動く。
――あ、乗ったな。
藤野は内心でそう思った。
「君とオレは、こういう場では相性が良さそうだからな!」
「勝手に決めるな」
「よし、ではまずは射的から――」
「うるさい。やるならさっさとやれ」
吐き捨てるように言いながら、灰薔薇はすでに屋台の方へ足を向けていた。
「やる気満々じゃん」
「ふふ」
凪沙が笑う。
「なんだかんだ、イバラくんも楽しんでるのかもね」
「違う」
灰薔薇が即座に振り返る。
「誰もそこまで言ってない」
「では行くぞ!」
「人の話を聞け」
朝日奈と灰薔薇は、そのまま射的の屋台へ突撃していった。
ぱん、と乾いた音が鳴る。
どう考えても祭りの遊びに向ける熱量ではない。
「朝日奈くん、なんかすごい真剣……」
凪沙が少し引き気味に言う。
「灰薔薇も負けず嫌いだしな」
「君にだけは負けん!」
「うるさい」
「もう勝負始まってるね……」
ルナが小さく笑った。
そのルナの袖を、ツキがそっと引く。
「ルナ」
「ん?」
「先にあっち、見に行かない?」
「え、でもみんなは?」
「どうせあの二人、しばらく動かない」
「たしかに……」
ルナはくすっと笑って、それから凪沙たちの方を振り向いた。
「ちょっと向こう見てきますね」
「あ、うん」
凪沙が頷く。
「またあとで合流しよう」
「はーい」
ルナは手をひらひら振り、ツキと並んで人混みの方へ歩いていく。
ツキはちらりと一度だけ藤野の方を見たが、何も言わず、そのまま視線を外した。
――ルナの件、お願いします。
昨日、校舎裏で交わした会話が、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
「……」
気づけば、残ったのは藤野と凪沙の二人だった。
いや、正確には少し離れたところで朝日奈と灰薔薇がまだ勝負中なのだが、あれはもう別枠でいい気がする。
射的の音と朝日奈の無駄に大きな声を背に、妙な静けさが落ちる。
「……どうしよっか」
先に口を開いたのは凪沙だった。
「二人ともああなっちゃったし」
「……だな」
「ルナちゃんたちも行っちゃったし」
「まあ、そのうち戻るだろ」
そう答えながらも、藤野は少しだけ落ち着かない。
二人きり。
そう意識した瞬間、さっきの「似合ってる」を言った時の気まずさまで蘇ってくる。
けれど凪沙は、そんなことなど気にしていないように、やわらかく笑った。
「じゃあ、二人で回ろっか」
「……おう」
あまりにも自然に言われて、逆に変な間ができる。
凪沙はそんな藤野の顔を見て、少し楽しそうに目を細めた。
「フジくん、まだちょっと変」
「うるさい」
「ふふ。じゃあ、わたしが行きたいとこ、ついてきてね」
「……なんで」
「だって、フジくん今、ちゃんと考えられてなさそうだし」
「……否定しにくいな」
それで決まり、とでも言うみたいに、凪沙は袖を揺らして歩き出した。
最初に立ち止まったのは、りんご飴の屋台だった。
赤くつやつやした飴が、灯りを受けてきらきら光っている。
「わ、見て。かわいい」
「食べ物に『かわいい』ってあるか?」
「あるよ」
凪沙は真顔で言った。
「りんご飴はかわいいの」
「そういうもんか」
「そういうもんなの」
じゃあこれ、と一本指さす。
店のおじさんから受け取ったりんご飴を、凪沙はちょっと嬉しそうに見つめた。
「フジくんも何か買う?」
「いや、いい」
「ひと口いる?」
「いらない」
「えー」
「なんで残念そうなんだ」
「ちょっと面白い反応するかなって」
「しない」
凪沙は笑いながら、りんご飴を小さくかじった。
ぱり、と薄い飴が割れる音がする。そのあと少し食べにくそうにしているのが、妙に目についた。
「……食いにくそうだな」
「うん、ちょっと」
「じゃあなんで買った」
「お祭りだし」
「答えになってないな」
「でも、おいしいよ」
「ならいいけど」
そのまま少し歩くと、今度は焼きそばの匂いが漂ってきた。
凪沙がぴたりと足を止める。
「……」
「なんだよ」
「焼きそば」
「見ればわかる」
「食べたい」
「さっきりんご飴買っただろ」
「でも、しょっぱいのもほしくなるよ」
「……まあ、わからなくはないけど」
「ほんと?」
「ちょっとだけな」
結局、焼きそばも買うことになった。
パックを受け取った凪沙は、割り箸を持ちながら少し困ったように笑う。
「りんご飴と両立むずかしいかも」
「そりゃそうだろ」
「フジくん、ちょっと持ってて」
「えー」
「お願い」
「……」
その一言に弱いのが嫌になる。
藤野は黙って、凪沙からりんご飴を受け取った。
自分のものでもないりんご飴を持って立っている状況が、なんとも締まらない。
「……なんで俺がこれ持ってんだ」
「似合うよ」
「どこがだよ」
「ちょっとおもしろい」
「お前さあ」
凪沙はくすくす笑いながら、今度は焼きそばを食べ始める。
浴衣姿でりんご飴を藤野に預けて、焼きそばを頬張っている。行儀がいいのか悪いのかわからないのに、妙に目が離せなかった。
「……うまい?」
藤野が聞くと、
「うん、おいしい」
と凪沙は素直に頷いた。
「フジくんも食べる?」
「いい」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃない」
そうして二人で、屋台の間をゆっくり歩く。
賑やかなはずなのに、不思議とさっきより周りの音が遠い。
凪沙が何を見ても少し楽しそうにするから、藤野も文句を言いながら隣に立った。
それが、思っていたよりずっと心地よかった。
***
そのまま歩いていると、少し先に金魚すくいの屋台が見えた。
水槽の中を、赤や白の小さな金魚がひらひら泳いでいる。
屋台の灯りが水面に映って、きらきら揺れていた。
「あ、金魚すくい」
凪沙が足を止める。
「やるのか?」
「うーん……ちょっと気になる」
「見るだけじゃなくて?」
「たぶん、やりたくなる」
「もう答え出てるじゃん」
凪沙はくすっと笑って、水槽をのぞき込んだ。
「でも難しいんだよね、これ」
「白崎、得意そうに見えないな」
「ひどい」
「いや、なんとなく」
「フジくんは?」
「昔ちょっとやったことあるくらいだ」
「じゃあわたしより上手いかも」
「どうだかな」
結局、二人でひとつずつポイを受け取ることになった。
しゃがみこんで水槽をのぞくと、夏の夜のぬるい空気に、水の匂いがほんの少し混じる。
金魚は思ったよりすばしこくて、狙いを定めるたびにするりと逃げた。
「わ、待って待って」
凪沙が小さく声を上げる。
「むずかしい……」
「だから言っただろ」
「フジくん、もうすくえそう?」
「まだ」
藤野も水面を見つめたまま答える。
その時、隣で凪沙が少し身を乗り出した拍子に、ぽちゃん、と水が跳ねた。
「あ」
細かいしぶきが、藤野の頬と眼鏡にかかる。
「……っ」
視界に水滴が散って、レンズがわずかに曇る。
「ご、ごめん!」
凪沙が慌てて顔を上げた。
「大丈夫?」
「……平気」
藤野は片手で眼鏡を外した。
濡れたレンズを指先で拭おうとして、あまり意味がないとわかって小さく息をつく。
仕方なく、シャツの裾で軽く水気をぬぐった。
その間、ふいに隣が静かだった。
「……?」
何気なく顔を上げる。
凪沙が、こちらを見ていた。
さっきまで金魚を追っていた目が、今はまっすぐ藤野に向いている。
少し驚いたように目を見開いたまま、固まっていた。
「……何だよ」
思わずそう聞くと、凪沙ははっとしたように瞬きをした。
「え、あ……」
視線が少し泳ぐ。
「その……」
珍しく言葉が詰まっている。
藤野は眼鏡を持ったまま、眉をひそめた。
「何」
「いや……なんでもない」
「なんでもなくないだろ」
「……」
凪沙は少しだけ目を逸らした。
浴衣の袖を指先でつまむみたいにしながら、ほんのり耳まで赤くなっている。
――え、何。
藤野の方が逆に困る。
その反応はずるいだろ、と思った。
凪沙はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついて、観念したみたいに口を開いた。
「……びっくりしただけ」
「何に」
「眼鏡ないと、なんか……」
「なんか?」
「……ちょっと、ずるい」
最後の方は、ほとんど独り言みたいだった。
藤野は一瞬、意味がわからなかった。
いや、わかりたくないのかもしれない。
「は?」
「だから、その……」
凪沙はさらに目を逸らす。
「いつもと雰囲気違うなって」
「それだけかよ」
「それだけじゃないけど」
「おい」
「もう、聞かないで」
そう言いながらも、凪沙はまたこっちを見てしまって、すぐに目をそらした。
そのわかりやすさに、藤野の心臓が妙な打ち方をする。
「……別に、ただ外しただけだろ」
「うん」
「そんな見るなよ」
「見てない」
「見てた」
「……ちょっとだけ」
「見てんじゃねえか」
凪沙は小さく笑った。
でもその笑い方も、いつもより少しだけ照れている。
藤野はなんとなく居心地が悪くなって、眼鏡をかけ直そうとする。
だが、その手を凪沙の声が止めた。
「……あ」
藤野が顔を上げる。
凪沙は少しためらってから、でもちゃんと言った。
「今日はもう少しだけ、そのままでいて」
「……は?」
今度こそ、本気で間の抜けた声が出た。
凪沙は自分でも言ってしまってから恥ずかしくなったらしく、視線を泳がせる。
「その……せっかくだし」
「何がせっかくなんだよ」
「えっと……祭りだし」
「便利だな、その言葉」
「便利だよ」
でも、と凪沙は小さく笑う。
「ほんとに、似合ってるから」
藤野はしばらく黙った。
かけ直しかけていた眼鏡を持ったまま、言葉が出てこない。
水面の揺れる音。
遠くの笑い声。
屋台の呼び込み。
全部聞こえているはずなのに、そこだけ妙に静かだった。
「……お前さ」
やっとそれだけ言う。
「そういうこと、さらっと言うなよ」
「だって本当だし」
「そういう問題じゃねえ」
「ふふ」
凪沙は、今度こそ少し楽しそうに笑った。
「じゃあ、もうちょっとそのままね」
「……なんだよ、その言い方」
「お願い」
「……」
またそれか、と藤野は思う。
その言い方に弱いのも、もうわかってしまっていた。
結局、藤野は眼鏡をかけ直さないまま、水槽の中へ視線を戻した。
「……ほら、金魚逃げるぞ」
「あ、ほんとだ」
「お前、さっきから全然集中してないだろ」
「だって今それどころじゃなかったし」
「何でだよ」
「……内緒」
凪沙はそう言って、また少しだけ顔を赤くした。
その横顔を見て、藤野はそれ以上追及できなくなる。
祭りの夜は、まだ始まったばかりだった。




