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第15話 翳る朝日奈家

夏休みが近づいていた。


そのぶん、期末テストも近づいていた。


放課後の部室には、うだるような熱気がこもっている。

窓は開けているのに風はほとんど入らず、古びた扇風機が虚しく首を振っているだけだった。


「……暑い」


藤野が机に突っ伏したまま呟く。


「暑いな!」


朝日奈が元気よく復唱した。

元気よく言ったところで暑いものは暑い。


凪沙はノートでぱたぱたと顔をあおぎながら、苦笑する。


「ヒナくん、元気だね」

「ヒーローたるもの、この程度の暑さに負けてはいられん!」

「顔はだいぶ死んでるけど」

藤野が言う。


朝日奈の額にはしっかり汗がにじんでいた。

シャツの襟元も少しだけ乱れている。

それでも本人は胸を張る。


「学業も怠らないのが真のヒーローだからな!」

「その前に部室の環境をどうにかした方がいいと思う」

凪沙が天井を見上げる。

「クーラーないのほんと終わってる……」


「正式な部になったのに、そこは変わらないんだな」

藤野も机に頬をつけたまま言う。


「備品申請って通らないの?」

「前に出したが却下された」


凪沙の声に、灰薔薇が窓際から淡々と答える。


「“超常秘密結社××部というふざけた名称の部活に、冷房設備の増設は認めがたい”だそうだ」


「名前のせいじゃないか!」

朝日奈が叫ぶ。

「なんという偏見だ!」


「偏見というか、まあ半分は事実だろ」

藤野が言う。


凪沙がノートを閉じる。


「でもほんとに、ここで勉強するのは無理かも」

「うむ」

朝日奈が神妙に頷く。

「このままでは、熱気と眠気に負けてしまう!」


「お前、さっき暑さに負けないとか言ってなかった?」

「精神論には限界がある!」

「開き直るな」


しばらく沈黙が落ちたあと、凪沙が言った。


「誰かの家でやる?」


その一言で、自然と視線が集まる。


灰薔薇は本から目を上げもしないまま言った。


「俺は参加しない」

「即答だな」

藤野が呆れる。

「貴様らと群れて勉強する意味がない」

「まあ、イバラくんは一人でもできそうだしね」

凪沙が笑う。

「当然だ」


朝日奈はそんな灰薔薇を指差した。


「ならば灰薔薇くん宅は候補から外れるな!」

「最初から入っていない」

「わかっているとも!」

「わかってないだろ」


凪沙は少し考えるように視線を泳がせる。


「うーん……」

「白崎は?」

藤野が何気なく聞く。


凪沙は一瞬だけ黙った。

それから、やわらかく笑う。


「うちはちょっと無理かな。わたしから言い出したのにごめんね」

「事情があるなら仕方ない」

朝日奈がすぐに頷く。


藤野もそれ以上は聞かなかった。


「フジくんちは?」

凪沙が今度は藤野を見る。


藤野は少しだけ身を起こした。


「おばあちゃんいるし、狭いし暑い」

「君の家も冷房は弱いのか」

朝日奈が真顔で聞く。

「古い家なんだよ」

「なるほど……」

「俺の部屋に三人入ったら普通に息苦しいと思う」

「それはだいぶ現実的な問題だね」

凪沙が苦笑する。


そこで、自然と視線が朝日奈に集まった。


「……なんだ?」

朝日奈が目を瞬く。


藤野がじっと見る。


「お前んちは」

「む?」

「広いのか」


朝日奈は数秒きょとんとしたあと、なぜか誇らしげに胸を張った。


「広いぞ!」

「なんで偉そうなんだ」

「オレの家だからだ!」

「お前の功績じゃないだろ」

「細かいことは気にするな!」


凪沙が少し目を丸くする。


「え、ヒナくんちって、そんな広いの?」

「うむ!」

朝日奈が頷く。


「勉強机もある! 椅子もある! たぶん部室よりは涼しい!」

「たぶん、なのが不安だけど」

藤野が言う。


「いや、でも……」

凪沙は少しだけ迷ったように朝日奈を見る。

「お邪魔して平気なの?」

「平気だ!」

朝日奈は勢いよく答えた。


その勢いのまま、

「たぶん!」

と続けて、藤野に即座に突っ込まれる。


「確認してから言え」

「うっ」

「今ので一気に不安になった」

凪沙が笑う。


朝日奈は慌ててスマホを取り出した。


「ま、待て! 今確認する!」

「たのむよ」

「ヒーローにも段取りというものがある!」

「……不安だな」


朝日奈は画面を操作し、しばらく誰かと短いやり取りをしたあと、顔を上げた。


「よし! 大丈夫だ!」

「ほんとか?」

「本当だ! 来客用の部屋を使わせてもらえるらしい!」


「来客用の部屋」

藤野がそこだけ引っかかる。

「なんか、急に規模がでかくなったな」

凪沙も少し笑う。

「ほんとにお金持ちなんだね」


朝日奈はなぜか得意げだった。


「というわけで決まりだな!」

「はあ」

藤野は気のない返事をする。

「じゃあ、お前んちで」

「うむ! テスト勉強会、開催だ!」


「勉強会っていうか」

凪沙がくすっと笑う。

「なんか、ちょっとしたイベントみたい」


それには朝日奈も否定しなかった。


「大事な行事だからな!」

「テストがな」

「そうともいう!」


扇風機がぎい、と首を振る。


気の進まないテスト勉強のはずなのに、

部室には少しだけ遠足の前みたいな空気が流れていた。


「……まあ、涼しいならなんでもいい」

藤野が言う。

「フジくん、そこ大事だもんね」

「大事だろ」


「うむ! では明日、放課後に朝日奈家へ集合だ!」

「急に字面が強いな」

藤野がぼそっと言う。


窓際では、灰薔薇が本を閉じもせずに小さく鼻を鳴らした。


「浮かれているな」

「参加しないやつが言うな」

藤野が言う。

「言われなくても黙る」

「会話してるけど」

「気のせいだ」


朝日奈はそんな灰薔薇も含めて、満足そうに頷いた。


「よし! それでは本日の××部は解散! 明日に備え、各自しっかり英気を養いたまえ!」

「勉強会に向けて英気養うってなんだよ」

「大事だろ?」

「……まあ」

「ヒナくんはなんでもイベントにしたがるよね」

凪沙が笑う。


その笑い声の向こうで、藤野はなんとなく考えた。


朝日奈の家。


ただ広いだけの、普通の金持ちの家ならいい。

でも、あいつのことだ。

きっと、普通じゃ済まない気がする。


まだその時の藤野は、

それが思っていた以上に“普通じゃない場所”だとは知らなかった。


***


翌日。


放課後になると、朝日奈は先に校門の前に立っていた。


しかも、やたら姿勢がいい。

いつも通りの制服姿なのに、妙にきちんと待ち構えている感じがある。


「遅いぞ、藤野くん!」

「今来たとこだろ」

藤野がうんざりした声で返す。


その隣で、凪沙がくすっと笑った。


「ヒナくん、なんか今日そわそわしてるよね」

「そ、そんなことはない!」


朝日奈は即答した。

だが目がやたら泳いでいる。


「オレはいつだって平常心だ!」

「絶対うそ」

「うそじゃない!」


そう言い張る朝日奈の頬は、いつもよりほんの少しだけ硬かった。


「で、どうやって行くんだ」

藤野が訊く。


朝日奈は咳払いをした。


「うむ。迎えが来ている」

「迎え?」

凪沙が首を傾げる。


校門の少し先、路肩に黒塗りの車が停まっていた。

ぴかぴかに磨かれた車体。

窓ガラスは薄く色が入っていて、中はよく見えない。

いかにも高級そうなセダンが、何事もないみたいにそこにある。


「……」

「……」

藤野と凪沙がそろって黙る。


朝日奈だけが、なぜか誇らしげに胸を張った。


「どうだ!」

「……お前が偉いわけじゃないだろ」

藤野が言う。


「でもちょっとびっくりした」

凪沙は目を丸くしていた。

「ほんとにお金持ちなんだね」


「うむ! 朝日奈家を甘く見てもらっては困る!」

「だからなんでそんなに自信満々なんだ」

「朝日奈家の一員だからだ!」

「ふふ」

凪沙が笑う。


運転席のドアが開き、中からスーツ姿の男が降りてきた。


四十代くらいだろうか。きっちりとした身なりで、朝日奈を見ると軽く一礼する。


「零様、お迎えに上がりました」

「うむ、ご苦労!」


朝日奈は妙に堂々と返した。


だが、その言い方が少しだけぎこちないのを、藤野は見逃さなかった。


零様。


その呼ばれ方に、凪沙も少しだけ目を瞬いたらしい。


「お友達の方ですね」


運転手は藤野たちの方へも丁寧に頭を下げた。


「どうぞお乗りください」


「……お、お邪魔します」


凪沙が少し遠慮がちに言う。

藤野も小さく会釈した。


車に乗り込むと、中はひんやりしていた。


「うわ……」

凪沙が小さく声を漏らす。

「天国……」

「それは分かる」

藤野も正直に思った。


朝日奈はそんな二人を見て満足そうに頷く。


「ふふふ、どうだ!」

「お前の功績じゃない」

「わかっているとも! だが誇らしいだろう!」

「そうだね」

凪沙が素直に言って、朝日奈が嬉しそうに顔を輝かせる。


車が静かに動き出す。


流れていく街並みを見ながら、藤野は少しだけ眉をひそめた。

駅前を抜け、住宅街を抜け、さらに道は広くなっていく。

だいぶ中心から離れた高級住宅街に入ったあたりで、もう嫌な予感しかしなかった。


「なあ」

「なんだ?」

「お前んち、どこまで行くんだ」

「もうすぐだ!」

「昨日もそのテンションだったな」

「本当だぞ!」


車はやがて、大きな門の前で速度を落とした。


門扉は重厚な黒鉄で、左右には手入れの行き届いた植栽が並んでいる。

奥に続く私道の先、木々の向こうに見える屋敷は――もはや“家”というより施設だった。


「……は?」

藤野の口から、思わず声が漏れる。


凪沙も言葉を失っている。


洋館のような大きな建物。

整えられた庭。

噴水まである。

玄関へ続く道は長く、車がそのまま乗り入れていくのが前提みたいな造りだった。


「でか……」

凪沙がぽつりと呟く。

「思ってたより、ずっと……」

「うむ!」

朝日奈は満足げに頷く。


「これが朝日奈家だ!」

「……ここまでとは」

藤野が小さく言う。


車が玄関前で止まる。


使用人らしい人がすぐに出てきて、静かにドアを開けた。

そこまでされると、さすがに緊張する。


「ほら、降りるぞ!」


朝日奈が先に飛び出していく。


凪沙が「し、失礼します」とぺこぺこ頭を下げながら続く。

藤野は最後に降り、屋敷を見上げた。


広い家とか、金持ちとか、それだけならまだいい。

問題は、朝日奈がその中でどういう立場にいるのかだ。


昨日の、あの妙な落ち着かなさ。

車に乗る前のぎこちなさ。

あれが、ただの照れではない気がしていた。


「零様」


玄関へ向かいかけた朝日奈を、使用人のひとりが呼び止める。


「お客様は応接室へお通しします」

「応接室?」


朝日奈が一瞬だけ目を瞬く。


「来客用の勉強部屋ではなく?」

「はい。そちらへ」


朝日奈の表情が、ほんの少しだけ曇った。


藤野はそれを見た。


「どうした?」

つい口をつく。


「……いや! なんでもない!」


朝日奈はすぐにいつもの笑顔を作る。


「行こう! きっと広くて快適な部屋だぞ!」

「その言い方、全然安心できないんだけど」

凪沙が苦笑した。


使用人に案内され、三人は屋敷の中へ入る。


玄関ホールは天井が高く、床は磨かれた石材だった。

足音がやけに響く。

壁には絵画や装飾が飾られていて、廊下一つ取ってもホテルみたいだった。


「すご……」

凪沙が思わず見回す。

「ほんとに別世界だね」


「うむ、そうだろう!」

朝日奈は答えたものの、やはりどこか落ち着かない。


やがて、案内された部屋の扉が開く。


中は広い応接室だった。

大きなソファと低いテーブル。

涼しい空気。

窓の外には庭が見える。


ただ――

そこにひとり、先客がいた。


窓際に立っていた長身の男子生徒が、ゆっくりと振り返る。


長い髪がさらりと揺れる。

整った顔立ち。

背筋の伸びた立ち姿。

校内で一度見かけた時と同じ、いや、それ以上に人目を引く雰囲気。


「……生徒会副会長」

藤野が小さく呟く。

「……え」

凪沙も思わず声を漏らす。


生徒会室の前で見かけた時に覚えた違和感が、そこでようやく形になる。


男は、薄く微笑んだ。


「やあ」


穏やかな声だった。


「君たちが零の友人か」


朝日奈の肩が、ほんのわずかに固くなる。


「兄さん……」


その呼び方に、凪沙が目を見開いた。


男はゆっくり歩み寄ってくる。

非の打ち所がない、としか言いようのない佇まいだった。

顔も、声も、所作も、全部が整いすぎている。


「初めまして」


彼は藤野たちへ向かって上品に微笑んだ。


「朝日奈玲緒だ。零の兄をしている」


凪沙が慌てて頭を下げる。

「は、初めまして……!」

藤野も一応会釈した。

「……どうも」


「ふふ、そんなに固くならなくていい」


玲緒はやわらかく言う。


「零に友人ができたと聞いて、少し驚いたけれど」


その言葉に、朝日奈の表情がまた少しだけ止まった。


「兄さん」

朝日奈が笑顔のまま言う。

「今日は勉強会で――」

「そうだろうね」


玲緒はその言葉をやわらかく遮った。


「見れば分かる」


声色は穏やかだ。

けれど、なぜか空気が少し冷えた気がした。


玲緒の視線が、朝日奈へ向く。


「零」


その呼び方だけが、さっきまでよりわずかに硬い。


「客人の前で騒ぐな。見苦しい」

「……」

「少しは落ち着いたらどうだ」


藤野は眉をひそめた。


たしかに言葉としては厳しいだけだ。

それだけのはずなのに、妙に引っかかる。

さっきまで自分たちへ向けていた柔らかさと、朝日奈へのそれが、明らかに違った。


朝日奈は、一瞬だけ何か言い返しかけて――

結局、いつもの調子で笑った。


「はは、気をつけよう!」


その笑い方が、少しだけ空々しく見えた。


凪沙も気づいたらしい。

ちら、と朝日奈の横顔を見て、それから玲緒を見る。


玲緒はもう何事もなかったみたいに、再び穏やかな笑みを浮かべていた。


「まあ、せっかくだ」

玲緒はソファを示した。

「くつろいでいくといい。勉強に必要なものがあれば言ってくれ」


「……ありがとうございます」

凪沙が言う。


藤野は小さく息をついた。


豪邸。

完璧な兄。

でも、その内側の空気は、思っていたよりずっと息苦しかった。


そしてまだ、この家の“おかしさ”は入口に立ったばかりだった。


***


「では、失礼するよ」


玲緒はそれだけ言って部屋を出ていこうとした。

だが、扉の前でふと足を止める。


「零」

「ん?」

朝日奈が顔を上げる。


玲緒は、わずかに視線だけを動かした。


「客人をもてなす最低限の段取りくらいは覚えておけ」

「……」

「毎回、周囲に気を遣わせるな」


やわらかな口調だった。

けれど、その言葉には妙な冷たさがあった。


朝日奈は一瞬だけ黙り込み、

それからすぐに笑う。


「うむ! 次は気をつける!」

「そう」


玲緒はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていった。


扉が閉まる。

その音がやけに硬く聞こえた。


しばらく、誰も何も言わない。


最初に口を開いたのは凪沙だった。


「……お兄さん、すごい人だね」


言い方はやわらかい。

でも、素直に「素敵」とは言わなかった。


朝日奈は、机の上に置かれた筆記具をいじりながら言う。


「そうだろう! 兄さんは昔から何でもできるのだ!」

「何でも?」

藤野が聞き返す。


「勉強も運動もできて、顔もよくて、性格も完璧だ!」

「顔は自分で言うことじゃなくない?」

凪沙がくすっと笑う。


朝日奈は気にせず続ける。


「朝日奈家の誇りだからな!」


その言い方は明るかった。

でも、どこか妙に力が入っていた。


その時、控えめなノックと共に使用人が入ってきた。

冷たいお茶と、人数分の菓子が運ばれてくる。


「わ……」

凪沙が小さく目を丸くする。

「ほんとにちゃんとしてる」

「ちゃんとしてるだろう!」

朝日奈がまた誇らしげに言う。


「お前の手柄じゃないだろ」

藤野が言う。

「だが気分はいい!」

「はいはい」


それから、ようやく勉強会らしいことが始まった。


広いテーブルにノートや教科書を広げる。

凪沙は英語と数学を先に片づけようとしていて、藤野は特に苦手も得意もない感じでまんべんなく手をつける。

朝日奈は最初こそ「よし! まずは国語からだ!」と気合い十分だったが、十分後には難しい顔で教科書を睨みつけていた。


「……“心情を答えよ”とは、なんだ」

「設問だけで詰まるな」

藤野が呆れる。


「だって心情など本人に聞かねば分からんだろう!」

「国語の先生に言ってこい」

「言ったら怒られるかな」

「たぶん普通に怒られる」

凪沙が笑う。


朝日奈はむむ、と眉を寄せた。


「では社会だ! 暗記ならいける!」

「さっきから逃げてない?」

凪沙が言う。

「逃げではない! 戦略的撤退だ!」

「便利な言葉だなあ」


英語はまだ何とかなるらしい。

数学や理科も、意味がわかる分野は強い。

けれど国語と社会になると、とたんに怪しくなる。


「ヒナくんって、意外と偏ってるんだね」

凪沙がノートを覗き込んで言う。


「意外でもないだろ」

藤野が答える。

「雰囲気でわかる」

「どういう意味だ!」

「そのままの意味」

「ひどいな!」


そんなふうに、しばらくはいつもの空気だった。


広い部屋。

よく冷えた空気。

静かな屋敷。

部室とは比べものにならないくらい快適で、勉強自体は思っていたよりずっとはかどる。


だからこそ、途中で扉が開いた時、

部屋の空気が少しだけ変わったのが分かった。


「進んでいるかい?」


玲緒だった。


手には薄い資料の束。

どうやら自分の用事の途中で立ち寄っただけらしい。


「兄さん!」

朝日奈が顔を上げる。


「見てくれ! オレは今、古典と戦っている!」

「戦う相手を間違えているな」

玲緒はさらりと言った。


凪沙が少しだけ苦笑する。


玲緒はテーブルの上を見回し、ふと朝日奈のノートへ視線を落とした。

その瞬間、微笑がほんの少しだけ薄くなる。


「……これは」

「む?」

朝日奈も自分のノートを見る。


そこには、途中まで書いた現代文の解答があった。

だが空欄も多く、しかも設問の意図から少しずれた答えを書いている。


玲緒は一枚だけノートを持ち上げた。


「この設問で、どうしてそうなる?」

「え」

「本文を読めば分かるだろう」


声は静かだ。

静かなのに、部屋の温度が少し下がる。


朝日奈は口を開きかけて、止まる。


「零」


玲緒はノートを机へ戻した。


「少しは考えて書け」

「……」

「その程度の読解力で、よく人を助けるだの何だのと言えるな」


藤野が眉をひそめる。


言い方が、妙だった。

兄が弟に勉強を教えるにしては、少し。


だが朝日奈は、また笑った。


「むう……耳が痛い!」


軽く頭をかいてみせる。


「だが、兄さんの言う通りだ! 精進しよう!」

「そうするといい」


玲緒はそれだけ言って、今度は凪沙のノートへ目を向けた。


「君はきれいにまとまっているね」

「え、あ……ありがとうございます」

凪沙が少し驚いて答える。


「藤野くん、だったかな」

今度は藤野を見る。

「君の答案は無難だが、雑だ」

「……」

「悪くはない。だが伸びもしない」

「兄さん、辛辣だな!」

朝日奈が笑う。


玲緒はそれを無視した。


「必要なら、少し見るが?」

「……結構です」

藤野が言う。

「そうか」


玲緒は微笑む。

その笑顔はやはりどこか冷たかった。


しばらくして、玲緒は今度こそ部屋を出ていった。


扉が閉まる。


朝日奈が「ふーっ」と息を吐いた。


「兄さんは面倒見がいいのだ!」


明るく言う。

その明るさが、さっきより少しだけ無理やりに見えた。


凪沙はノートに視線を落としたまま、小さく言う。


「……そうかな」

「ん?」

「いや」

凪沙はすぐに顔を上げて笑った。

「なんでもない」


この家では、朝日奈だけが妙に息を詰めている。


玲緒は完璧だ。

立ち居振る舞いも、言葉も、全部が整っている。

なのに、その整い方の中にだけ、朝日奈を削るものが混じっている。


それが、ひどく嫌だった。


「……休憩するか」

藤野がぽつりと言う。


朝日奈が顔を上げる。


「おお、賛成だ!」

「ヒナくん、今の流れで即賛成するんだ」

凪沙が笑う。


「集中にも限界がある!」

「今日はそればっかりだな」

「事実だからな!」


朝日奈はそう言って立ち上がる。

けれどその動きに、さっきまでより少しだけ力がない。


凪沙もそれに気づいたらしい。


「ヒナくん」

「うむ?」

「飲み物、取りに行くなら一緒に行く?」

「いや! オレが――」

「じゃあ俺も行く」

藤野が遮るように言った。


朝日奈がきょとんとする。


「え?」

「一人で行かせると、運ぶ途中でこぼしそうだから」

「そんなに危なっかしくないぞ!?」

「どうだか」

「むむ」


凪沙が、そのやり取りの裏を察したみたいに少しだけ笑った。


「じゃあ、二人ともお願い」

「うむ! 任された!」


朝日奈はまた元気よく言った。

けれど部屋を出たあと、廊下に二人きりになると、その足取りはほんの少しだけ重くなった。


豪奢な廊下はしんと静かで、

さっきまでの冗談の続きが似合わない。


藤野は少し先を歩く朝日奈の背中を見ながら、低く言った。


「……お前んち、しんどいな」


朝日奈の足が、一瞬だけ止まる。


「何のことだ?」

「とぼけんな」


藤野は壁にもたれた。


「さっきの」

「兄さんは正しいことを言っているだけだ!」


返事が、少し早すぎた。


藤野はため息をつく。


「そういうとこだよ」

「……」

「お前がそれでいいなら別にいいけど」

藤野は言う。

「見てる方は、あんま気分よくない」


しばらく沈黙が落ちる。


朝日奈は廊下の窓の方を向いたまま、ぽつりと言う。


「兄さんは、昔からすごいのだ」

「……」

「オレなんかより、ずっと」

「比べる必要あんのか」

「ある」


その答えは、思ったより早かった。


朝日奈は笑わなかった。

ただ、窓の外を見たまま続ける。


「この家では、ずっとそうだったからな」

「……」

「兄さんは正しくて、立派で、ちゃんとしていて」


そこで一瞬だけ言葉が切れる。


「……オレは、そうじゃなかった」


藤野は少しだけ視線を落とす。


「白崎も、たぶん気づいてるぞ」

「……うむ」


朝日奈はそこでようやく少しだけ笑った。

でも、その笑いはいつもの眩しいものじゃなく、ひどく弱かった。


「困ったな」

「困ってるなら、ちゃんと困れ」

藤野が言う。

「変に平気な顔すんな」

「……」

「俺たちの前でくらい」


朝日奈は、今度こそ何も言わなかった。


その時。


廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてきた。


朝日奈が顔を上げる。

藤野もつられて視線を向けた。


歩いてきたのは、玲緒だった。


背筋の伸びた立ち姿。

乱れのない制服。

表情ひとつ取っても、隙がない。


ただ、その目が朝日奈を捉えた瞬間だけ、空気の温度が変わった。


「……零」


玲緒が足を止める。


朝日奈の背筋が、目に見えて伸びた。


「兄さん」

「何をしている」

「休憩だ! 飲み物を取りに――」

「聞いていない」


玲緒は淡々と遮った。


「どうして、お前はすぐに気が緩む?」


朝日奈が一瞬だけ口を閉じる。


玲緒の視線が一度だけ藤野へ滑り、すぐに朝日奈へ戻った。


「客人の前で騒ぐなと言ったはずだ」

「……」

「それとも、もう忘れたのか。さっき何を言われたか」


朝日奈は笑おうとした。


「はは、いや、忘れてはいないぞ! ただ少し――」

「黙れ」


その一言は、低く鋭かった。


藤野の眉がぴくりと動く。


玲緒は静かに言った。


「お前は昔からそうだ。

言われたこともまともに守れない。

場を弁えることもできない」


朝日奈の喉が、小さく上下する。


「兄さん」

「朝日奈家の一員であることを、少しは自覚しろ」

玲緒は続けた。

「出来もしないことを大声で並べ立てて、周囲に気を遣わせて、それで満足か?」


「……」

「役に立たないくせに、目立つことだけは一人前だな」


朝日奈の指先が、わずかに握られる。


それでも、笑おうとした。


「うむ……気をつける」

「気をつける、で済むと思っているところが甘い」


玲緒の声音は少しも荒れない。

だからこそ余計に冷たかった。


「出来損ないは、出来損ないなりに静かにしていればいい」


そこで、藤野が一歩前へ出た。


「……あんた」


朝日奈がはっとしたように振り向く。


「藤野くん」


玲緒はようやく、まっすぐ藤野を見た。

藤野はその目を睨み返す。


「それ、兄弟に言うことかよ」


一瞬、空気が張る。


「口を挟まない方がいい」

「なんで」

藤野は引かなかった。

「内輪の話だから、とか言うつもりか」

「その通りだ」

「内輪なら何言ってもいいのかよ」

「君には関係ない」


「関係あるだろ」

藤野は低く言う。

「見てれば分かる。あんた、言いすぎだ」


「藤野くん!」


朝日奈が今度ははっきり止めた。


その声には、珍しく焦りが混じっていた。


藤野は舌打ちしたい気分になる。

けれど横を見ると、朝日奈の顔色は本当に悪かった。


それが分かったから、そこでようやく言葉が止まる。


玲緒は二人を見比べ、やがて小さく息をついた。


「……友人に庇われるとはな」


その言い方にも、やはり棘があった。


「零、お前も随分と立派になったものだ」

「兄さん」

「だが勘違いするな」


玲緒の目が、朝日奈を真っ直ぐ射抜く。


「誰かに庇われたところで、お前の価値が変わるわけじゃない」

「……」

「お前はお前だ。足りないままの、出来損ないだよ」


朝日奈は何も言わなかった。


玲緒はそれを確認するように一拍置いて、それから静かに言った。


「父上の前では余計なことを言うな」

「……うむ」

「それくらいは出来るな?」

「……ああ」


玲緒は小さく頷くと、もうそれで用は済んだとでもいうように歩き出す。


すれ違いざま、視線も向けずに落とした一言だけが、やけに冷たかった。


「せめて、朝日奈家の恥にならないようにしろ」


その背中が、廊下の奥へ消えていく。


しばらく、どちらも動けなかった。


やがて藤野が、小さく息を吐く。


「……最低だな」


朝日奈は答えない。

さっきより、少しだけ小さく見えた。


「さっきの、余計だったか」

藤野が言う。

「……いや」


朝日奈はようやく口を開く。

声は少しだけ掠れていた。


「ありがとう」


それだけ言って、無理やりみたいに笑う。


「だが、兄さんは昔からああなのだ! 気にするな!」

「気にしない方が無理だろ」

「そうか?」

「そうだよ」


朝日奈はまた笑おうとした。

けれど今度は、ほんの少しだけうまく笑えなかった。


その時、廊下の奥からぱたぱたと軽い足音がしてきた。


「フジくん、ヒナくん!」


凪沙だった。

少し心配そうな顔で二人を見る。


「大丈夫? 戻ってこないから、ちょっと気になって」

「おお、すまん!」

朝日奈が慌てていつもの調子を作る。

「少し道に迷っていた!」

「この家の廊下で?」

藤野がぼそっと言う。

「広いからな!」

「まあ、それはそうかも」

凪沙は小さく笑った。


けれど、その目は朝日奈の顔をちゃんと見ていた。


「……ヒナくん」

「うむ?」

「戻ろっか」

「……ああ」


凪沙はそれ以上聞かなかった。

聞かないまま、ただ朝日奈の隣に並ぶ。


***


勉強会は、そのあとも続いた。


けれど、さっきまでみたいなのんびりした空気ではなかった。


凪沙はいつも通りに問題を解きながら、時々さりげなく朝日奈へ話を振った。

藤野は必要以上に何も言わないまま、朝日奈が黙り込まない程度には会話を挟んだ。


朝日奈もまた、いつもの調子を崩さなかった。


「この問題、主語が長すぎるぞ!」

「英語に文句言うな」

「だが長いものは長い!」

「ヒナくん、それさっきも言ってたよ」

「本当か!? では重要なことなのだな!」

「都合よくまとめるな」


朝日奈はいつも通りに笑っていた。

けれど、それが少し無理をしている笑いだと分かるくらいには、自分たちはもう、こいつを見てきた。


日が傾き始めた頃、ようやく教科書とノートを片づけることになった。


「ふう……!」

朝日奈が大きく伸びをする。

「よく戦ったな、オレたち!」

「テスト勉強を戦いって言うのやめろ」

藤野が言う。

「でも、思ったより進んだね」

凪沙が笑う。

「うむ! これで赤点回避も夢ではない!」

「目標が低いな」

「現実的と言ってくれ!」


帰り支度をして、玄関まで送られる。


来た時と同じように整いすぎた屋敷の中を歩きながら、藤野はやっぱり、この家は息が詰まると思った。


外へ出ると、夕方の空気はまだ暑いのに、それでも屋敷の中よりずっと楽だった。


送迎の車を勧められたが、三人は断った。

そのまま駅まで歩くことにする。


門を出て、しばらく。

誰もすぐには喋らなかった。


最初に口を開いたのは、凪沙だった。


「……疲れたね」

「主に気疲れだな」

藤野が言う。

「うむ! 勉強とは心身を削るものだ!」

「違う疲れ方してるだろ」

「そうか?」

「そうだよ」


凪沙が少し笑ってから、歩きながらそっと言った。


「ヒナくん」

「ん?」

「さっきのこと」


朝日奈の足が、ほんの少しだけ緩む。


凪沙はまっすぐ前を見たまま続けた。


「わたし、全部分かるわけじゃないよ。

でも……もし困ってるなら、ちゃんと教えてほしい」

「……」

「無理に元気なふりしなくてもいいから」


朝日奈は何も言わなかった。


藤野も少し遅れて口を開く。


「俺も」

「藤野くんまで」

「茶化すな」

「茶化してはいないぞ!」

「してるだろ」


藤野は少しだけ視線を逸らしてから言う。


「お前、変なとこで平気な顔するからな」

「……」

「困ってんなら、ちゃんと言え」

「……うむ」

「仲間だろ、一応」


その言い方はぶっきらぼうだった。

けれど、朝日奈にはちゃんと伝わったらしい。


朝日奈は少しだけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。


今度の笑いは、さっきまでより少しだけ自然だった。


「……ありがとう」


それだけ言う。


凪沙がやわらかく笑う。


「うん」

「礼だけかよ」

藤野が言う。

「礼は大事だぞ!」

「そういう問題じゃない」

「だが、本当にそう思ったのだ」


夕暮れの光が、三人の影を長く伸ばす。


朝日奈は前を向いたまま、小さく、でも確かに笑っていた。


ああ、たぶんこいつは、まだ全部は言わない。


でもそれでいい。

言えないなら、せめて一人で抱え込まなければいい。


そう思った時、自分の中で何かが少しだけはっきりした。


こいつはただ騒がしいだけのやつじゃない。

放っておけないやつだ。


そして多分、自分たちはもう、とっくにそういう場所まで来ている。


***


翌日。


夕暮れだった。


下校途中の路地。

表通りから一本外れただけで、人通りはずいぶん少ない。


西日に長く伸びた影の中を、

朝日奈玲緒はひとりで歩いていた。


制服は乱れていない。

足取りにも迷いはない。

いつも通り、整っている。


だが、その横顔だけが少し硬かった。


零の顔が浮かぶ。


あの、馬鹿みたいにまっすぐな笑い方。

友人に庇われて、それでもどこか情けなく笑っていた顔。


玲緒は小さく息を吐く。


「……くだらない」


吐き捨てた声は、自分で思っていたより低かった。


その時だった。


「――朝日奈玲緒くん」


路地の奥から、声がした。


玲緒は足を止める。


薄暗い奥に、白いものが立っている。


人の形をしているようでいて、輪郭が曖昧だった。

夕暮れの影の中で、白だけがそこに浮いている。


玲緒は眉ひとつ動かさない。


「……誰だ」


「通りすがり、ということにしておこうか」


低く、穏やかな声だった。

やわらかいのに、妙に耳に残る。


玲緒の目が細まる。


「ふざけるな」


「そうだね」


白い影は静かに答えた。


「君は、そういう曖昧なものが嫌いだろうから」


玲緒は返さない。

代わりに、わずかに声を低くする。


「何の用だ」


「少し、話をしようと思ってね」


「断る」


「だろうね」


声は少しも揺れない。


「だから、話題は選ぶつもりだよ」


短い沈黙。


それから、白い影は静かに言った。


「零くんのことでも」


空気が変わる。

玲緒の視線が鋭くなる。


「……軽々しくその名前を出すな」


「軽くはないよ」


白い影の声は相変わらず穏やかだった。


「君にとっては、ずいぶん重い名前だろう?」


玲緒は答えない。


その沈黙を、相手は急かさなかった。

ただ、見えているような気配だけがある。


顔はよく見えない。

なのに、見透かされている気がした。


玲緒は低く言う。


「何が言いたい」


「別に、難しい話ではないよ」


白い影が、ほんの少しだけ前へ出る。

それでも顔は影の中にある。


「君は、あの子のことになると少し乱れる」


玲緒の目が冷える。


「知ったような口を利くな」


「そうかな」


声は静かだった。


「違うなら、それで構わない」


玲緒の指先が、わずかに強く握られる。


白い影は続ける。


「ただ」

「君はずいぶん長く、上手くやってきたんだろうね」


「……」


「立派な兄として」

「優秀な子として」

「期待を裏切らないように」


玲緒は何も言わない。


だが、その沈黙の奥にあるものを、

相手はもう拾っているようだった。


「その積み重ねは、きっと君のものだ」

「軽くはない」

「でも」

ほんの少しだけ間が落ちる。

「そうして積み上げてきたものを、あの子は簡単に踏み越えていく」


「……」


「それとは別の場所で、人の中心へ入っていく」


玲緒の喉が、小さく鳴った。


「……黙れ」


「黙ってもいいよ」

白い影は言う。

「ただ君は、もう気づいてしまっている」


玲緒は一歩だけ踏み出した。


「貴様、何者だ」


白い影は答えない。

代わりに、白い小箱を差し出した。


玲緒の視線がそれに落ちる。


「……薬か」


「そう」


「何のための」


「今の君では届かない場所へ、手を伸ばすためのものだ」


玲緒はしばらく黙っていた。


路地の外から、遠く車の音が聞こえる。

夕暮れの日常の音が、やけに遠い。


「代償は?」


玲緒が聞く。


白い影は静かに言った。


「いずれ、少し手を貸してもらう」


「曖昧だな」


「そうだね」

「でも、君にとって悪い話ではないはずだ」


「信用できると思うか」


「思わないだろうね」


即答だった。


玲緒の眉がわずかに寄る。


白い影は続ける。


「それでも、君は箱を見ている」


「……」


「つまり、少しは迷っている」


玲緒は苛立ったように息を吐く。


「勝手に決めつけるな」


「決めつけてはいないよ」

「見ているだけだ」


その言い方が、妙に気に障る。

まるで最初から、自分の中を読まれているみたいだった。


玲緒は小箱を見つめる。


今のままでは届かない。


その言葉だけが、胸の奥に嫌な形で残っていた。


弟の顔が浮かぶ。


あの、馬鹿みたいに明るい顔。

騒がしくて、浅はかで、なのに人の輪の中心にいるような顔。


玲緒は低く言う。


「……これで」


白い影は黙って待っている。


「これで、あいつを越えられるのか」


しばらく沈黙があった。


白い影はすぐには答えなかった。

その間が、かえって玲緒の神経を逆撫でする。


やがて、静かな声が落ちる。


「少なくとも」

「今のままよりは近づける」


玲緒は目を伏せる。


その答えは、肯定でも、保証でもなかった。


でも十分だった。


白い影は、嘘をついているようには聞こえない。


誠実だからではなく、そういう曖昧さすら計算の内にあるように思えたからだ。


玲緒は箱を受け取る。


白い影はそれを止めない。


「……いいだろう」


玲緒の声は静かだった。


「協力してやる」


「賢明だね」


白い影の声は少しも弾まない。

それが逆に不気味だった。


玲緒は箱をポケットへしまい込む。


「だが、勘違いするな」


「何を?」


「これは貴様らのためじゃない」


玲緒は冷たく言う。


「俺はただ――」


そこまで言って、言葉を切る。

その先を、自分でもはっきり言葉にしたくなかった。


白い影は何も促さない。


ただ、全部わかっているみたいに静かだった。


「それで構わない」


次の瞬間、気配が薄れる。

玲緒が目を上げた時には、そこにはもう、夕暮れの影しか残っていなかった。


最初から誰もいなかったみたいに。


玲緒はひとり、その場に立ち尽くす。

ポケットの中の小箱が、やけに重かった。


その視線の先で、夕暮れは静かに沈みかけていた。

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