第14話 藍色の共犯者
机の上には、例の白い箱が置かれている。
駅裏の倉庫で回収した、薬のひとつ。
中身が何なのかも、どう扱うべきなのかも、自分たちには分からない。
朝日奈は腕の包帯を気にする様子もなく、机を見つめて腕を組んでいた。
「……問題は、これをどうするかだな」
「どうするも何も」
藤野が椅子に背を預ける。
「調べようがないだろ。俺たちに成分なんて分かるわけない」
「警察に渡せば済む話でもなさそうだしね」
凪沙が白い箱を見つめながら言う。
「超能力絡みって、どう考えても普通の事件じゃないし」
「ふん」
灰薔薇が短く鼻を鳴らす。
「だからといって、お前たちだけで抱え込める話でもない」
その通りだった。
アガスティアの薬。
暴走した一般人。
抑制剤まで用意されていたこと。
自分たちが知っていることは増えてきた。
けれど、それをどう繋げればいいのかはまだ見えていない。
しばらく沈黙が落ちたあと、凪沙がふと口を開いた。
「これ、ルナちゃんとツキちゃんに相談してみない?」
藤野が顔を上げる。
「あの二人?」
「うん」
凪沙は頷く。
「わたしたちより前からアガスティアのこと調べてたみたいだし、何かわかるかもしれないでしょ」
「たしかに」
朝日奈がすぐに反応する。
「彼女たちは薬の件についても知っている様子だった!」
「でも」
藤野は眉をひそめた。
「信用していいのか?」
「完全には無理でも、今の俺たちより情報を持ってる可能性は高い」
灰薔薇が言った。
「薬を抱えて無為に時間を潰すよりはましだろう」
「……まあ、そうか」
藤野が小さく息をつく。
「どのみち、このままじゃ何も進まないしな」
朝日奈がびしっと指を立てた。
「よし! そうと決まれば善は急げだ!」
「なんでそういう時だけ元気なんだよ」
「善だからだ!」
「意味わかんねえ」
凪沙がくすっと笑う。
「じゃあ、明日かな」
「うむ!」
朝日奈が力強く頷く。
「××部、薬の解析に向けて動き出すのだ!」
その声が、少しだけ部室の空気を軽くした。
***
次の日の昼休み。
四人は屋上へ続く階段を上がっていた。
「また屋上か」
藤野が言う。
「秘密の相談にはぴったりではないか!」
朝日奈が答える。
「目立つんだよ、お前がいると」
「心外だな!」
「うるさいからだ」
「それもそうだ!」
「そこは否定しないのか」
最後の扉を押し開ける。
屋上にはいつもの風が吹いていた。
給水塔の影。
その下に、今日も二人の少女はいた。
恋羽ルナが最初にこちらへ気づき、ぱっと手を振る。
「あ、先輩たち」
「また来たぞ!」
朝日奈が元気よく言う。
「見ればわかります」
神埜ツキがそっけなく返した。
そのまま、四人の視線は自然にルナとツキへ向く。
今日は最初から、少し空気が違った。
凪沙が一歩前へ出る。
「ちょっと相談があるんだ」
「相談?」
ルナが首を傾げる。
藤野は鞄の中から白い箱を取り出した。
掌に収まる、小さな箱。
それを見た瞬間、ルナの表情がわずかに止まる。
その隣で、ツキの目も細くなった。
「これ」
藤野が低く言う。
「駅裏の倉庫で手に入れた」
「……」
「アガスティア絡みの現場でな」
朝日奈が続ける。
「一般人に能力を与えて暴走させる薬らしい」
屋上の風が、五人のあいだを吹き抜ける。
ルナは笑みを消し、ツキは無言のまま箱を見つめていた。
「事情を話す」
藤野が言う。
「全部だ」
それから四人は、昨夜のことを順に説明した。
駅裏の倉庫。
並んでいた一般人たち。
礼儀正しい子どもの売人。
朝日奈が薬を打たれ、暴走しかけたこと。
そして、その場で白い箱を回収したこと。
話し終えたあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に反応したのはツキだった。
「私が――」
「それ、わたしに貸してください」
ルナが、ツキの言葉をやわらかく遮った。
「……ルナ?」
ツキが珍しく、少しだけ眉を寄せる。
ルナは白い箱を見つめたまま言った。
「ツテがあるんです。きっと成分も調べてくれます」
「ツテ?」
藤野が反応する。
ルナはにこっと笑った。
「はい。研究所で働いてる親戚がいるんです」
「研究所?」
朝日奈が聞き返す。
「超能力のことも知ってる人で。そういうのの扱いにも詳しいと思います」
灰薔薇が目を細めた。
「信用できるのか?」
その問いはかなり直接的だった。
けれどルナは表情を崩さない。
「はい」
静かに頷く。
「少なくとも、わたしは信用してます」
その横で、ツキが無言になる。
風に短い髪が揺れる。
けれどその目だけが、ほんの一瞬だけルナへ向いていた。
初めてだった。
ツキが、ルナに対して少しだけ距離を測るような目をしたのは。
「……」
藤野はその違和感に気づいたが、言葉にはしなかった。
結局、少しの相談の末、白い箱はルナに預けることになった。
「頼む」
藤野が言う。
「はい」
ルナが箱を受け取る。
「分かったことがあったら、すぐ伝えます」
朝日奈が腕を組んだ。
「今は待つしかない、か」
「でも、薬の成分がわかったところでどうするの?」
凪沙が言う。
「情報は成分だけじゃない」
灰薔薇が答える。
「作り方、必要な設備、入手できる材料、流せる人間。何かひとつでも掴めれば、次に繋がる」
「たしかに」
藤野が頷く。
ルナは白い箱を大事そうに鞄へしまった。
「じゃあ、わたしたちも動いてみます」
「うむ! 頼んだぞ!」
朝日奈が頷く。
ツキは最後まで無言だった。
ただ、××部が屋上を後にする時、藤野は一度だけ振り返った。
ツキはまだルナを見ていた。
その視線には、警戒にも似た小さな違和感が宿っていた。
***
その日の帰り道。
藤野はひとりで駅前の方へ向かっていた。
朝日奈は生徒会に呼ばれたとかで途中で別れ、凪沙も買い物があると言って反対側へ行った。
灰薔薇は最初から「同じ方向ではない」とだけ言って姿を消している。
夕方の街は、昼間より少しだけ影が長い。
人通りは多いのに、どこか気の抜けた時間だった。
その中で、不意に見覚えのある姿が目に入った。
神埜ツキ。
駅前の雑踏の向こうを、ひとりで歩いている。
いつもと違う、と思ったのは、歩く速さだった。
迷いがない。
誰かと待ち合わせているようでもなく、まっすぐにどこかを目指している。
「……」
藤野は足を止めた。
屋上で見た、あの一瞬の違和感が頭をよぎる。
ルナが“研究所の親戚”と口にした時の、あの目。
気にならないといえば嘘になる。
「……ちょっと見るだけだ」
誰に言うでもなく呟いて、藤野は距離を取ったままツキの後を追った。
ツキが向かったのは、駅前から少し離れた高架下だった。
薄暗い。
人気は少ない。
昼間なら学生やサラリーマンが通る場所だが、この時間になると急に人の気配が薄くなる。
ツキはそのまま、さらに奥へ進んでいく。
藤野は柱の陰に身を寄せる。
その先にいたのは、ひとりの男だった。
ジャケット姿の若い男。
けれど様子がおかしい。
呼吸が荒い。
目が泳いでいる。
男の身体は異様に膨れ上がり、ジャケットの縫い目が今にも裂けそうになっていた。
腕や首筋には不自然に筋が浮き、皮膚の下で何かが脈打っているみたいだった。
「や、やめろ……来るな……!」
男が喚く。
だがツキは足を止めない。
「能力暴走」
低い声で言う。
「中程度」
まるで観察でもするみたいな口調だった。
「来るなって言ってるだろ!!」
男が地面を蹴る。
次の瞬間、コンクリートが砕けた。
爆発みたいな勢いで男の巨体が突っ込んでくる。
強化された脚力と腕力。
ただそれだけのはずなのに、勢いが異常すぎて、もはや凶器だった。
鉄柱に肩がぶつかり、ひしゃげた音が響く。
高架下の壁が揺れ、粉塵がぱらぱらと落ちた。
藤野が目を見開く。
「……っ」
ツキは避けた。
最小限の動きで。
無駄がない。
「人の多いところまで行かれると面倒なんで」
淡々とした声。
「ここで終わってください」
男はなおも吠えながら、拳を振り回す。
その一撃一撃が重い。
まともに食らえば骨ごと持っていかれそうだった。
制御できていないせいで、力の向く先も滅茶苦茶だ。
壁を砕き、地面を削り、近くの金網を歪ませていく。
「ぐ、あああっ!!」
男はもう、自分が何を殴っているのかも分かっていないようだった。
ツキは一気に距離を詰めた。
「っ、くるな!!」
「遅い」
振り抜かれた拳が、男の腹へ叩き込まれる。
ドンッ、と重い音。
目に見えない衝撃が正面からぶつかり、暴走していた男の身体が後方へ吹き飛んだ。
巨体がコンクリートの壁へ叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。
「が……っ」
なおも立ち上がろうとする男の前に、ツキが立つ。
その瞳にはためらいがない。
「……見苦しい」
低い声だった。
その時、高架下の奥の暗がりから、黒い服を着た人影が二人現れた。
「回収対象、確保」
「引き取ります」
まるで業務連絡みたいな、感情の薄い声。
ツキは一歩だけ退いた。
男はまだ意識があるのか、苦しげに何か呟いている。
だが黒服の二人は、その腕を機械的に拘束していく。
回収班。
そう呼ぶのがいちばんしっくりくる動きだった。
そのまま二人は男を連れて、行ってしまった。
藤野の背筋が冷たくなる。
「……なんだよ、それ」
思わず、小さく声が漏れた。
その瞬間。
ツキの動きが止まった。
振り向く。
視線が、まっすぐ柱の陰にいる藤野を射抜いた。
しまった、と思った時にはもう遅い。
「誰」
冷たい声だった。
藤野は舌打ちしそうになるのを堪えた。
隠れ切れないと分かった以上、出るしかない。
柱の陰から、ゆっくり姿を現す。
ツキの目が、藤野を捉える。
「……藤野先輩」
その声には驚きがほとんどなかった。
ただ、確認しただけの響きだった。
藤野はすぐに言葉を探したが、うまく出てこない。
「……」
「追ってきたんですか?」
ツキが一歩だけ近づく。
「それとも、誰かに仕向けられた?」
「……たまたまだ」
苦し紛れにそう返す。
ツキはじっと藤野を見る。
その視線が、嘘かどうかを測るみたいに冷たい。
「たまたま、ですか」
小さく繰り返す。
「ルナのことを怪しんで?」
「……」
「それとも、最初から私を?」
藤野は答えられなかった。
沈黙が、そのまま答えみたいになる。
ツキは目を伏せ、短く息を吐いた。
「……まあ、どちらでもいい」
そう言って、もう一度顔を上げる。
その瞳には、さっきまで屋上で見せていた温度が一切なかった。
「見られた以上」
一歩、また一歩。
逃がさない距離まで詰めながら、淡々と言う。
「口封じに、お前を殺す」
「は?」
藤野の背筋が凍る。
ツキの目は本気だった。
脅しではない。
必要ならやる目だ。
「……ま、待て!!」
藤野が思わず一歩下がる。
「誰にも言わない!」
「信用できない」
ツキは即答した。
「見られたからには、それだけじゃ足りない」
拳が、わずかに持ち上がる。
衝撃波の気配が、空気を張らせる。
「っ……!」
藤野は息を呑んだ。
逃げられない。
勝てる気もしない。
頭が真っ白になりかけた、その時。
「……だったら、誓約を結ぶ」
ツキが言った。
「せい、やく?」
「約束を破ったら、代償を払う」
冷たい声。
「そうすれば少しは信用できる」
藤野は唾を飲み込む。
「な、何を……」
「誰かに話したら」
ツキの目が細くなる。
「白崎先輩の命が危ない」
「……っ」
藤野の身体が強張った。
「な、なんで白崎を……」
思わず口をついて出る。
その瞬間、ツキの口元がわずかに歪んだ。
「ふん」
「……わかりやすいな」
藤野は息を詰めた。
しまった、と思ってももう遅い。
ツキは一歩近づく。
その瞳は、さっきまでよりさらに冷たかった。
「誰かに話したら、ただじゃ済まない」
淡々と告げる。
「お前ひとりならまだいい。でも、口をつぐませるには他人の方が効く」
藤野は拳を握った。
怖い。
悔しい。
でも、ここで逆らえる状況じゃない。
「……わかった」
ようやく絞り出す。
「言わない」
「守れますか?」
「……守る」
ツキはしばらく藤野の目を見ていた。
それから、短く言う。
「ならいい」
その言い方が余計に怖かった。
まるで、本当にどうでもいいことを確認しただけみたいに。
次の瞬間には、ツキはもう背を向けていた。
「帰って」
「……」
「今見たことは忘れて」
「忘れられるかよ」
小さく吐き捨てると、ツキの足が一瞬だけ止まる。
だが振り向きはしなかった。
「忘れなくていい」
冷たい声だけが返る。
「黙っていれば」
それだけ言って、ツキは高架下の闇へ消えていった。
あとに残された藤野は、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
アガスティアを追う側だと思っていた。
味方かもしれないと思っていた。
少なくとも、敵そのものではないと思っていた。
なのに今見たのは、まるで別の顔だった。
しかも。
凪沙の命を盾に取られた。
「……っ、くそ」
拳を握る。
けれど、どこにもぶつけられない。
夕暮れは、もうほとんど夜に変わっていた。
***
翌日。
朝の廊下は、いつも通りざわざわしていた。
一限前の慌ただしさ。
友達同士の笑い声。
教室へ急ぐ足音。
その中を歩きながら、藤野はひどく落ち着かなかった。
昨夜の高架下。
ツキの冷たい目。
「白崎先輩の命が危ない」という声。
頭では忘れろと言われても、忘れられるはずがない。
「フジくん?」
不意に声をかけられ、藤野はびくっと肩を揺らした。
凪沙だった。
その隣には朝日奈、少し後ろに灰薔薇もいる。
「……なんだよ」
「顔色、悪くない?」
凪沙が心配そうに覗き込む。
「昨日ちゃんと寝た?」
「寝た」
「嘘っぽい」
「うるさい」
朝日奈も藤野の顔を見て眉を寄せた。
「本当に大丈夫か?」
「お前に言われたくない」
藤野は包帯の残る朝日奈の腕を見た。
「そっちこそだろ」
「オレは大丈夫だ!」
「…ほんとかよ」
その時だった。
廊下の向こうから、ふわりと聞き慣れた声がした。
「おはようございます、先輩方」
恋羽ルナだった。
白に近い淡い髪を揺らしながら、いつものように人懐っこい笑顔で近づいてくる。
その隣には神埜ツキ。
ツキは一瞬だけこちらを見た。
そして、すぐに目を逸らした。
何事もなかったみたいに。
それが逆に、藤野の背筋を冷やした。
「おはようございます♪」
ルナが笑う。
「昨日ぶりですね」
「うむ!」
朝日奈がいつも通り返す。
「おはよう、恋羽くん! 神埜くん!」
「その呼び方やめてください」
ツキが小さく言う。
凪沙がくすっと笑う。
「相変わらずだね」
「お二人は元気そうでよかったです」
ルナが言った。
その一言に、藤野の肩が無意識に強張る。
元気そう。
普通の挨拶のはずなのに、今の藤野には妙に引っかかった。
ルナはそんなことに気づいた様子もなく、にこっと笑う。
「じゃあ、また」
「うむ!」
朝日奈が手を振る。
ツキは最後まで藤野の方をちゃんとは見なかった。
ただ、すれ違う瞬間だけ、ほんのわずかに気配が冷えた気がした。
藤野はどうしても、その背中を警戒の目で見てしまう。
「フジくん?」
凪沙が首を傾げる。
「……なんでもない」
そう答えた自分の声が、少し硬かった。
凪沙と朝日奈が顔を見合わせる。
灰薔薇だけが、何も言わずに藤野を一瞥した。
***
それから、一週間ほどが経った。
その間も、薬の件については何の進展もなかった。
ルナからもツキからも連絡はない。
表向きはいつも通りの日常だったが、藤野にとってはそうではなかった。
ツキと廊下ですれ違うたびに、喉の奥がわずかに強張る。
ルナが笑って話しかけてくるたびに、ツキの「白崎先輩の命が危ない」という声が蘇る。
顔に出しすぎだ、と自分でも思う。
でも、うまく取り繕えるほど器用でもなかった。
そんなある日の昼休み。
一年生の女子が、二年の教室の入り口から顔を出した。
「すみません、藤野先輩たちいますか?」
「?」
凪沙が振り向く。
「どうしたの?」
「あの、神埜さんと恋羽さんが……屋上に来てほしいって」
朝日奈が勢いよく立ち上がる。
「おお!」
「分かりやすいな」
藤野が呟く。
灰薔薇は窓際で本を閉じた。
「ようやくか」
「待ってたみたいな言い方だな」
「待っていたんだろう」
灰薔薇はそっけなく言う。
「お前たちが毎日落ち着かない顔をしていたからな」
「……」
図星で、藤野は何も言い返せなかった。
屋上には、いつもより少し硬い空気が流れていた。
給水塔の影で、ルナが先に気づいて手を上げる。
けれど今日は、いつものような柔らかい笑顔に少しだけ緊張が混じっていた。
「来てくれてありがとうございます」
「何かわかったのか!?」
朝日奈が前のめりになる。
「はい」
ルナが頷く。
「まだ完全じゃないですけど、少しだけ」
その隣で、ツキは腕を組んだまま無言だった。
「まず結論から言うと」
ルナは小さく息をつく。
「あの薬、ただ能力を“与える”ものじゃないみたいです」
「どういう意味?」
凪沙が聞き返す。
ルナは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「……超能力って、自然に発現する場合もありますけど」
「うむ」
朝日奈が頷く。
「多くは、極限状態をきっかけに目覚めるそうです」
「極限状態?」
藤野が眉をひそめる。
ルナは静かに続ける。
「事故とか、強い精神的ショックとか……特に、“死に近い体験”を経た時に覚醒する例が多いんです」
屋上の風が吹く。
その言葉に、藤野の心臓がどくりと鳴った。
川の中。
消えた母の手の感触。
しずくの涙。
猫目の交通事故。
これまで点でしかなかったものが、一瞬だけ線で繋がる。
「……」
藤野は何も言わなかった。
けれど顔色が少し変わったのを、灰薔薇だけは見逃さなかった。
ルナは続ける。
「この薬は、その“死に近い状態”を人工的に引き起こすためのものらしいです」
「な……」
凪沙が息を呑む。
「そんなの」
「かなり危険です」
ルナの声も少し硬かった。
「身体を限界まで追い込んで、覚醒を強制する。成功するかどうかも不安定だし、失敗すればそのまま壊れてもおかしくない」
朝日奈の表情が険しくなる。
「だから、あの一般人たちは……」
「無理やり覚醒させられていた可能性が高いです」
ルナが頷く。
灰薔薇が目を細めた。
「製造元は分かったのか?」
「そこまではまだ」
ルナは首を振る。
「でも、かなり専門的な設備と知識が必要です。個人や小さなグループで作れるようなものじゃない」
「……研究施設レベル、か」
藤野が低く言う。
ツキがその横で、初めて口を開いた。
「流通経路もまだ断定はできません」
淡々とした声だった。
「でも、あれを扱っているのが一箇所だけじゃないのは確かです」
「つまり」
朝日奈が言う。
「アガスティアは、もっと広い範囲でこの薬をばら撒いている可能性がある」
「そういうことです」
ツキが短く答える。
凪沙が白い箱のことを思い出すように言った。
「……それ、かなりまずくない?」
「まずい」
灰薔薇が即答した。
「普通の人間まで巻き込まれる」
「許しがたいな……!」
朝日奈が拳を握る。
ルナは、そんな朝日奈を少しだけ見てから言った。
「だから、焦らず動いてください」
「む?」
「相手はたぶん、想像以上に大きいです」
やわらかい口調だった。
けれど、その奥に本物の警告があった。
その時だった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
屋上の空気が、少しだけ現実へ引き戻される。
朝日奈が「むっ」と名残惜しそうに空を見上げ、凪沙が苦笑した。
「戻らないとね」
「うむ……!」
朝日奈は不本意そうに頷く。
「では、一旦解散だ!」
四人はそのまま屋上の扉へ向かう。
ルナも「じゃあ、また連絡しますね」と言って歩き出した。
その少し後ろで、ツキが一瞬だけ足を止めた。
藤野も、つられるようにわずかに歩を緩める。
前を行く朝日奈と凪沙、灰薔薇とのあいだに、ほんの少しだけ距離ができた。
その時。
ツキが前を向いたまま、ごく小さな声で言った。
「……放課後。校舎裏に来て」
藤野の足が、ほんのわずかに止まる。
振り向きかけたが、ツキはもう何事もなかったみたいに歩き出していた。
ルナも、気づいていないように見える。
「フジくん?」
前を歩いていた凪沙が振り返る。
「あ、いや」
藤野はすぐに視線を外した。
「なんでもない」
朝日奈が少し不思議そうな顔をしたが、
「急がんと次の授業に遅れるぞ!」
と、自分で言って先に階段を下りていく。
凪沙がその後を追う。
灰薔薇だけが最後に一度だけ藤野を見た。
けれど何も言わず、そのまま二人のあとを追った。
***
放課後。
校舎裏は、人の気配がほとんどなかった。
放課後が始まってまだそう経っていないはずなのに、ここだけ妙に静かだ。
外壁に反射した西日だけが、白く地面を照らしている。
先に来ていたツキは、壁にもたれたまま腕を組んでいた。
藤野の足音が止まると、すぐに口を開く。
「顔に出しすぎだ」
「……」
「見てるこっちが面倒になる」
藤野は眉をひそめた。
「……仕方ないだろ」
「仕方なくない」
ツキの声は冷たい。
「少しは隠せ」
「お前に言われたくねえよ」
「そう」
ツキはそこで短く言葉を切った。
しばらく、互いに黙る。
風が吹く。
校舎の裏手にある金網が、かすかに鳴った。
「で」
藤野が先に言った。
「わざわざ呼び出して、何だよ」
ツキはまっすぐ藤野を見た。
いつもの無表情。
けれど、今はその奥に別の硬さがあった。
「取引をしましょう」
「……は?」
「ルナを調べてほしい」
藤野は思わず眉を上げた。
「なんで俺が」
「お前の方が、あの子と自然に話せる」
「……」
「それに」
ツキは少しだけ目を細める。
「警戒されにくい」
藤野はしばらく言葉が出なかった。
「……ルナは何か隠してる」
ツキが低く言う。
「この間の話、聞いてない」
「この間?」
「研究所で働いてる親戚」
ツキは吐き捨てるように言った。
「そんな話、私は知らない」
藤野が目を細める。
「お前が言うか、それ」
ツキは答えなかった。
ただ、じっと睨む。
その沈黙が、逆に図星みたいだった。
「……」
藤野は小さく息をついた。
「なんで俺なんだよ」
「言ったでしょう」
ツキはそっけない。
「一番怪しまれない」
「だったら自分で探れよ」
「無理」
即答だった。
藤野は少し驚く。
「……無理?」
「近すぎる」
ツキが短く言う。
「近いと、見えなくなることがあります」
その一言だけは、少しだけ本音っぽかった。
藤野は黙った。
ルナの笑顔を思い出す。
明るくて、やわらかくて、何も隠していないように見える顔。
でも、ツキがあそこまで引っかかるなら、本当に何かあるのかもしれない。
「別に、今すぐ答えろとは言わない」
ツキが言う。
「でも、覚えておいたほうがいい」
「……」
「私もお前も、たぶん同じだ」
「何が」
「隣にいる相手のことを、全部わかってるつもりでいる」
その言葉に、藤野は返せなかった。
凪沙の顔が浮かぶ。
朝日奈の横顔が浮かぶ。
そして、目の前のツキ自身もそうだった。
わからないことだらけだ。
わからないまま、並んでいる。
しばらくして、藤野が低く言う。
「……お前は、アガスティア教団の一員なのか?」
ツキの目が、ほんのわずかに細くなった。
「……知ってどうする」
「取引するなら、知っておきたい」
「………」
風がまたひとつ吹き抜ける。
やがてツキは、視線を逸らさないまま答えた。
「……そうですよ」
藤野の喉が、かすかに鳴る。
「……なら、なんでアガスティアを調べてる」
「それはお前には関係ない」
即答だった。
それ以上踏み込ませる気はない。
その冷たさが、はっきり伝わる。
「……」
藤野は黙るしかなかった。
ツキが先に口を開く。
「取引成立でいいんですね?」
「…その取引、俺にメリットは?」
藤野が睨むように言う。
ツキは少しだけ黙った。
それから、感情の薄い声で答える。
「……アガスティア教団のことを教える」
「……」
「言える範囲なら」
藤野は眉をひそめる。
「ずいぶん曖昧だな」
「全部を先に渡す気はない」
ツキはそっけなく言った。
「お前がルナを調べてくれたら、その分だけ話す」
「……後払いかよ」
「嫌なら断ればいい」
冷たい言い方だった。
けれど、完全に拒絶しているわけでもない。
本当に取引として差し出しているのだと分かる。
藤野は拳を握る。
けれど、今は何も言えない。
校舎裏の風が、二人のあいだを通り抜けていった。




