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第13話 救済の糸

放課後。


帰りのホームルームが終わり、教室のあちこちで椅子を引く音が重なり始める。

鞄を肩にかける者、友達と次の予定を話す者、部活へ急ぐ者。

いつもの放課後のざわめきの中で、藤野は机の中を適当に片づけながら、小さく息をついた。


その横で、朝日奈がやけにそわそわしている。


「……」

「お前、分かりやすいな」

藤野が言う。


朝日奈は一瞬だけ動きを止めたあと、咳払いをした。


「な、何のことだ!」

「今日の夜のことだろ」

「!!!」

朝日奈は慌てて身を乗り出し、藤野の口を塞ごうとする。

「静かにしたまえ! 秘密任務なのだぞ!」

「お前の方がうるせえって」


二人がそんなことをやっていると、凪沙がくすっと笑いながら近づいてきた。


「なに、二人とも」

「いや、その」

「今日はちょっと用事があってな!」

朝日奈がやたら元気よく言う。


凪沙が目を細める。


「ふーん」

その一言だけだった。


けれど、どこか面白がっているような響きがあった。


「な、なんだその反応は!」

朝日奈が言う。

「別に?」

凪沙は肩をすくめる。

「昨日のイベントで、仲良くなっちゃったのかなって思っただけ」

「……は?」

藤野が顔をしかめる。

「違う」

「違うぞ!!」

朝日奈も妙に必死だった。

「ヒーロー活動の延長線上にある、極めて真面目な――」

「はいはい」

凪沙が笑う。

「べつにいいよ。楽しんできてね」

「だから違うって言ってるだろ」

「わかってる、わかってる」


そのやり取りを、少し離れた窓際から灰薔薇が見ていた。


いつものように気だるげな顔。

けれどその視線だけが、ほんの少し鋭い。


「……」

「なんだよ」

藤野が気づいて言う。


灰薔薇は本を閉じ、短く鼻を鳴らした。


「別に」

「言いたいことあるなら言え」

「楽しんでこい」

その言い方が、まったく楽しんでこいという響きではない。


凪沙はそれを聞いて、また小さく笑った。


「ほんとにふたりとも分かりやすいね」

「どこがだ」

「隠し事してる時、ヒナくんはうるさいし、フジくんはちょっと機嫌悪くなる」

「うるさい」

「否定しないんだ」

「白崎」

「ふふ」


朝日奈はなぜかびしっと姿勢を正した。


「では! 我々はこれにて失礼する!」

「まだ教室だぞ」

「気持ちの問題だ!」


藤野はもう何を言っても無駄だと思ったのか、鞄を肩にかけてそのまま教室を出た。

朝日奈も慌ててその後を追う。


凪沙は二人の背中を見送り、ひらひらと手を振った。


「いってらっしゃい」

「だから違うって」

藤野の声が廊下の向こうから返る。


その声が遠ざかってから、教室に少しだけ静けさが落ちた。


凪沙は何でもないように鞄を持ち上げたが、その隣で灰薔薇がぽつりと言う。


「……妙だな」

「ん?」

「隠すなら、もう少し上手くやればいいものを」

凪沙は首を傾げた。


「気になるの?」

「別に」

「ふーん」

今度は凪沙が、それだけで終わらせた。

そして本当にそれ以上追及することもなく、「じゃあね」と笑って教室を出ていく。


灰薔薇だけが、しばらく窓の外を見ていた。


「……」


やがて、何を思ったのか。

彼もまた、静かに席を立った。


***


夜。


駅前の喧騒から少し外れた裏通りは、昼間とは別の場所みたいに暗かった。


飲食店の裏口。

積み上がったコンテナ。

古びた室外機の唸り。

濡れたアスファルトに、看板のネオンがぼんやり反射している。


藤野と朝日奈は、人気の少ない路地を抜けながら足早に進んでいた。


「……ほんとにここで合ってるんだろうな」

藤野が低く言う。

「駅裏の古い倉庫、という証言だったな」

朝日奈も声を潜める。

「人通りの少なさからして、それらしい」

「ふわっとしすぎだろ」

「夜の潜入任務には、このくらいの曖昧さも必要だ!」

「必要ない」


朝日奈は一応、昼間よりは声量を抑えていた。

だが、その抑えた声ですら少し目立つ。


「とにかく」

藤野が言う。

「灰薔薇にも白崎にも言わなくて正解だったと思う。あいつはまだ信用しきれねえし、白崎は能力ないんだから危険すぎる」

「うむ」

朝日奈が頷く。

「オレもそう思う」

「……珍しく意見合うな」

「オレはいつだって合理的だぞ?」

「どの口が言うんだよ」


やがて二人の前に、問題の倉庫が現れた。


駅裏のさらに奥。

使われなくなって久しいらしい、ひしゃげたトタン屋根の古い建物。

壁はところどころ剥がれ、横のシャッターには錆が浮いている。

街の光も届きにくく、その一角だけ妙に夜が濃かった。


「……あれか」

藤野が立ち止まる。


倉庫の扉は、わずかに開いていた。

中から灯りが漏れている。


完全な闇ではない。

けれど、その灯りも温かさとは無縁だった。

蛍光灯の白い光が、冷たく床を照らしているだけ。


朝日奈が低く言った。


「行くぞ」

「言われなくても」


二人は物陰に身を寄せながら、静かに近づく。


扉の隙間から中を覗いた、その瞬間。


「……は?」

藤野が、思わず声を失う。


倉庫の中には、想像していたような“悪人の取引現場”はなかった。


拳銃を持った男たちも、

怪しげなスーツの幹部も、

いかにもな裏社会の連中もいない。


代わりにいたのは――

ごく普通の人間たちだった。


くたびれたスーツのサラリーマン。

パーカー姿の大学生くらいの男。

化粧の薄い若い女。

作業着のままの中年男。

みんな疲れた顔をして、倉庫の中に並べられたパイプ椅子に座っている。


誰も大声では喋らない。

ただ、落ち着かない様子で視線を伏せたり、スマホを握りしめたりしている。


まるで病院の待合室みたいだった。


「……なんだ、これ」

朝日奈も眉をひそめる。

いつもの勢いが、一瞬だけ止まる。


だが、本当に異様なのはそこではなかった。


その人々の正面。

古びた事務机の向こうに、ひとりの子どもが座っていた。


小学校高学年くらいの男の子。

年齢に似合わないほど整った白いシャツ。

椅子にちょこんと腰かけ、足を軽く揺らしている。


顔立ちは可愛らしい。

にこにこと、やわらかい笑みまで浮かべている。


なのに、その光景だけがひどくおかしかった。


大人たちが、子どもの前で順番を待っている。


子どもの方が、場を支配している。


「次の方」

男の子が言った。


その声はよく通るのに、不思議と高圧的ではない。

むしろ礼儀正しいくらいだった。


「順番を守ってくださいね。皆さん、平等ですから」

その言葉に、スーツ姿の男が小さく肩をすくめる。


「……っ」

藤野の背筋に、ぞわっと冷たいものが走った。


朝日奈も、それは同じだったらしい。

息を呑む音が隣でかすかに聞こえた。


その時。


机の向こうの子どもが、ふとこちらへ顔を向けた。


にこり、と笑う。


「こんばんは」

やわらかな声だった。

「そこにいるんでしょう、先輩方」


藤野と朝日奈の間に、緊張が走る。


「ご案内もないのに来るなんて」

その子は首を傾げた。

「感心しませんね」


倉庫の蛍光灯が、白くその笑顔を照らしていた。


妙な光景が、そこにあった。


***


朝日奈が一歩前へ出る。

藤野も、遅れないようにその横へ並んだ。


「……随分、余裕だな」

藤野が低く言う。


子どもは机に頬杖をつき、楽しそうに目を細めた。


「だって、隠れる気もないんでしょう?」

「ふん」

朝日奈が鼻を鳴らす。

「ならばこちらも回りくどいことはやめよう!」

「やめてくれ」

藤野が即座に突っ込む。

「まず状況を見ろ」

「見ているとも! そして十分に異常だ!」

朝日奈は倉庫の中を見回した。

「大人が子どもの前に並び、何かを待っている……実に怪しい!」

「失礼ですね」

子どもはにこにこしたまま言った。

「みなさん、自分の意思で来てるんですよ」

その言い方が、余計に気味が悪い。


パイプ椅子に座る大人たちは、誰も口を開かなかった。

目を逸らす者。

唇を噛む者。

ただじっと順番を待っている者。


自分で選んでここに来た。

それが本当だとしても、まっとうな場所でないことくらいは一目で分かる。


朝日奈が子どもを睨む。


「お前が、ここを仕切っているのか?」

「仕切っている、というほど偉くはありません」

その子は礼儀正しく首を振った。

「ただ、今夜ここでお渡しする役目を任されているだけです」

「何をだ」

藤野が問う。


子どもは机の上に並んだ小箱を、指先で軽く撫でた。

白くて無機質な、小さな箱。

病院の備品のようにも見えるし、玩具の箱のようにも見える。


「希望を、です」

「気持ち悪ぃ言い方すんな」

藤野が眉をひそめる。


子どもは少しだけ笑みを深くした。


「皆さん、変わりたいんですよ」

その視線が、椅子に座る大人たちへ向く。

「弱いまま終わりたくない。見下されたくない。踏みにじられたままでいたくない」

「……」

「だから力を望む」

小さな手が箱を一つ持ち上げる。

「それの何が悪いんですか?」


朝日奈の目つきが変わった。


「悪いに決まっている!」

倉庫の空気がびりっと震える。

「そんなものを人にばら撒いて、力を弄ぶのは悪だ!」

「悪、ですか」

子どもは首を傾げた。

「不思議ですね」

「何がだ」

「あなたがたも能力者でしょう?」

その無邪気な問いに、藤野の肩がほんのわずかに強張る。


子どもは続けた。


「力があるから、こうして立っていられる」

「……」

「力がない人は、欲しがるしかない」

「……」

「アガスティアでは、それを否定しませんよ」


その名前が出た瞬間、倉庫の空気がまた一段冷えた気がした。


朝日奈が低く問う。


「お前、アガスティア教団の者か」

「はい」

子どもはあっさり頷く。

「末席ですが」

「……末席」

藤野が呟く。


その年で。

その笑顔で。

こんな場所にいて。

それで“末席”。


アガスティア教団という組織の歪さが、説明より先に伝わってきた。


子どもは足を組み直す。


「アガスティア教団では、年齢は関係ありません」

やわらかな声で、恐ろしいことを言う。

「強い者が上に立つ。ただそれだけです」

「ふざけるな」

朝日奈が吐き捨てる。

「子どもがそんなことを当然のように口にするな!」

「当然のことです」

子どもはにこりと笑った。

「強きが弱きを支配する。それが正しい秩序でしょう?」

「違う」

朝日奈が一歩踏み出す。

「力は、誰かを踏みにじるためにあるんじゃない!」

「……」

「守るためにある!」


その言葉に、倉庫の隅で何人かがびくっと肩を揺らした。


けれど子どもは、まるで面白いものでも見たように目を細めるだけだった。


「きれいごとですね、先輩」

「きれいごとで結構だ!」

「それで世界が変わりますか?」

「変えるのがヒーローだ!」


藤野は小さく息をついた。

こうなると思った。

でも、今の朝日奈を止める気にはなれなかった。


むしろ、この場にいる大人たちを見れば、黙っていられる方がおかしい。


「……で?」

藤野が口を開く。

「その希望とやらを渡して、暴走したらどうする気だ」

「適合できなかっただけでしょう」

子どもはあっさり言った。

「適合?」

朝日奈が目を細める。


「力には向き不向きがありますから」

「人を実験台みたいに言うな」

藤野の声が低くなる。


初めて、子どもの目がわずかに細まった。


「実験台?」

その笑顔は崩れない。

「違いますよ。選別です」

「……っ」

「強くなれる者と、なれない者を分けているだけです」


その一言で、倉庫の空気が張り詰めた。


朝日奈の指先で、ばち、と小さな火花が散る。


「もう十分だ」

「そうですね」

子どもは机からぴょんと降りた。

小さな靴音が、妙に乾いて響く。


「先輩方に見られてしまった以上、今夜はここまでにしましょう」

その声と同時に、椅子に座っていた大人たちの間にざわめきが走る。

「お帰りください」

「え……?」

「でも、まだ」

「順番は守ってください」

子どもは笑顔のまま繰り返した。

「今夜は中止です」


その時だった。


藤野の腕に、何か細いものが触れた。


「……?」

反射的に視線を落とす。


見えたのは、月光と蛍光灯をかすかに拾う、細い糸だった。


透明に近い、けれど確かにそこにある糸。

それが、倉庫の鉄骨から鉄骨へ、無数に張り巡らされている。


「藤野!」

朝日奈が叫ぶ。


次の瞬間。


ぴん、と。


どこかで弦の鳴るような音がした。


張り巡らされた糸が一斉に震える。

その一部が、まるで生き物みたいにしなって、藤野と朝日奈へ襲いかかった。


「っ!」


藤野は咄嗟に身を引く。

朝日奈が腕を振り上げ、電撃を走らせた。


ばちっ、と火花が散る。

だが、糸はただ焼き切れるだけじゃない。

焼ける寸前にするりと軌道を変え、まるで蜘蛛の巣そのものが意志を持っているみたいに二人へ絡みつこうとしてくる。


「能力か!」

朝日奈が叫ぶ。


子どもは数歩後ろへ下がりながら、楽しそうに笑った。


「はい」

その声は相変わらず礼儀正しい。

「蜘蛛の糸、みたいなものです」

「みたいなものってなんだよ!」

藤野が吐き捨てる。


すでに糸は足元にも回り込んでいた。

床、壁、棚、鉄骨。

倉庫の中のあらゆる場所を足場にして、細く鋭い糸が網のように広がっていく。


「気をつけてくださいね」

子どもは机の向こうへ下がる。

「それ、切れるだけじゃなくて、縛れますから」

「言われなくても分かる!」

朝日奈が前へ出る。


だがその瞬間、別の糸が横から走った。

椅子に座っていた一般人のひとりの腕に絡みつき、無理やり立たせる。


「う、うわ!?」

「っ、この……!」

朝日奈が動きを止める。


子どもはにこっと笑った。


「乱暴は困ります」

「人を盾にするな!!」

「盾ではありません」

その声だけは、少し冷たかった。

「元々、弱い人たちは巻き込まれる側でしょう?」


藤野の表情が険しくなる。


「朝日奈! 一般人から離す!」

「うむ!」

「お前は正面! 俺が糸を切る!」

「切れるのか!?」

「切るんじゃない」


藤野は手袋を外し、一般人に絡みついた糸へ手を伸ばした。


触れた瞬間。


透明な糸が、音もなく輪郭を失う。

細い水の筋となって床へ崩れ落ちた。


「……っ!」

一般人が息を呑み、飛び散った水しぶきに目を細める。


「……へえ」

子どもの笑みが、ほんの少しだけ変わった。

初めて興味を持ったような目だった。


「それは便利ですね」

「褒められても嬉しくない」

藤野が吐き捨てる。


その横を、朝日奈が踏み込む。


「行くぞ!!」


ばちっ、と電光が走る。

倉庫の暗がりを裂くように、朝日奈の身体が一直線に子どもへ迫った。


子どもはなおも笑っていた。


まるで、それすらも待っていたみたいに。


「速いですね」

「当たり前だ!!」


朝日奈が踏み込みざまに腕を振るう。

電撃をまとった拳が、子どものいた位置を正確に薙ぐ。


だが、その直前。


ひゅっ、と細い音がした。


透明な糸が何本も床から跳ね上がり、朝日奈の足首と手首へ絡みつく。

一瞬だけ動きが鈍る。


「っ、邪魔だ!」

朝日奈が力任せに振り払おうとする。

だが糸は細いのに妙にしぶとく、焼き切れても次の糸がすぐに伸びてくる。


「朝日奈! 無理に突っ込むな!」

藤野が叫ぶ。


床の上を滑るように走る糸へ手を伸ばす。

触れた糸が、するりと水に変わって崩れ落ちた。


「へえ」

子どもが目を細める。

「やっぱり便利ですね、あなた」

「黙ってろ」

藤野は次の糸も水に変える。

「朝日奈! 右!」

「うむ!」


右側の鉄骨から迫っていた糸が、水となって床へ落ちる。

その隙に朝日奈が身をひねり、再び距離を詰めた。


今度は速い。

糸が追いつく前に、一気に間合いを潰す。


「逃がさん!」

「怖いなあ」

子どもは笑う。

けれど、その笑みの奥にほんの少しだけ焦りが見えた。


朝日奈の指先から小さな電流が走る。

糸を焼き切りながら、じりじりと包囲を狭めていく。


藤野は周囲を見た。

一般人たちはもう壁際に追いやられている。

何人かは腰を抜かして座り込んだままだ。


「一般人に近づけるなよ!」

「わかっている!」

朝日奈の返答は鋭かった。


子どもは机の上にひらりと飛び乗る。

無数の糸がその背後で持ち上がり、まるで本物の蜘蛛の脚みたいに空中へ広がった。


「でも」

その声はまだやわらかい。

「正義の味方って、案外単純ですね」

「何?」

朝日奈が眉をひそめる。


子どもはにこりと笑う。


「守りたいものがあると、動きが読みやすい」

次の瞬間、糸が一斉に跳ねた。


今度は朝日奈ではなく、壁際の一般人たちへ向かって。


「っ!!」

朝日奈が咄嗟にそちらへ身体を向ける。

「させるか!!」


電撃が走る。

糸の半分は焼け落ちる。


だが、その一瞬の反応で十分だった。


「朝日奈!!」

藤野が叫ぶ。


子どもが、もう目の前にいた。


いつの間にか距離を詰めている。

小さな手。

そこに握られていたのは、銀色に光る細い注射器だった。


「素体としては、上等そうだったので」

「なっ――」


避けきれない。


首筋に、ちくりと鋭い痛みが走った。


「っ!!」


朝日奈の目が見開かれる。


子どもはもう一歩後ろへ下がっていた。

手には空になった注射器。

相変わらず、にこにこと笑っている。


「試してみましょうか」

「貴様……!!」

朝日奈が踏み出しかけて、止まる。


「っ、ぐ……!?」


その顔が、一瞬で歪んだ。


首筋を押さえる。

呼吸が荒くなる。

ばち、ばちっ、と不規則な火花が肩口から弾けた。


「朝日奈!」

藤野が駆け寄る。


「来るな!!」

朝日奈が叫ぶ。


その声と同時に、床を電流が走った。


バチィッ!!


近くの鉄骨に青白い火花が散り、壁際の古いコンテナが震える。

倉庫の蛍光灯まで明滅し始めた。


「っ……!」

藤野は反射的に足を止める。


朝日奈は片膝をついていた。

必死に何かを抑え込もうとしている。

けれど身体の内側から溢れてくる力が、それを許さないらしい。


「ぐ、あ……っ」

歯を食いしばる。

首筋を押さえた指の隙間から、細かい電流が漏れ出していた。


「なんだ、これ……!」

朝日奈自身も理解できていない声だった。


子どもはその様子を見て、満足そうに目を細める。


「適合すれば面白いと思ったんですけど」

「てめえ……!」

藤野が睨む。


「でも、やっぱり強い人は反応も派手ですね」

そう言って、子どもは後ろへ退いた。

糸がまた何本も持ち上がり、視界を遮るように広がる。


「待て!」

藤野が追おうとする。

だがその瞬間、朝日奈の放電がさらに強く弾けた。


ドンッ、と空気が震える。


「っ……!」

藤野は腕で顔を庇った。

倉庫の床に走った電流が、近くの金属棚を焼く。


「く、そ……!」

追えない。

今はそれどころじゃない。


子どもはその隙に糸の向こうへ下がっていく。


「では、失礼します」

礼儀正しく一礼までした。

「先輩方、今夜は良い実験になりました」

「待て!!」


藤野が叫ぶ。

だが、次の瞬間には糸が一斉に切れ、視界の向こうの小さな姿はもう消えていた。


静まり返ったのは、一瞬だけ。


「っ、あああ……!!」

朝日奈がうずくまる。


抑えようとしている。

理性はまだある。

でも止まらない。


放電が、倉庫の中へ無差別に走り始めた。


「朝日奈! 落ち着け!」

「来るなって、言ってるだろ……!!」


その叫びには、怒鳴りつけるより先に必死さがあった。


「……近づいたら、危ない……!」

「っ……」


藤野は周囲を見た。

金属棚、コンテナ、配線、鉄骨。

感電の媒介になるものだらけだ。


すぐそばの鉄パイプを水に変える。

床に走る電流の進路を少し逸らす。

だが全部は無理だ。


「くそ……!」

朝日奈は両手で頭を抱えるみたいにしてうずくまっていた。

電流は感情に反応するように激しくなる。


「抑えろ……!」

藤野が叫ぶ。

「やってる……!!」


声が掠れていた。


その時。


ざあっ、と。


不意に、倉庫の奥から灰色の塵が舞い上がった。


「……なに?」

藤野が振り向く。


入り口の薄暗がりに、ひとつの影が立っていた。


「だから言っただろう」

聞き慣れた、ひどく冷めた声。

「隠し事をするなら、もう少し上手くやれ」


灰薔薇だった。


「……お前」

藤野が目を見開く。

「着いてきてたのか」

「お前らの様子が妙だったからな」

灰薔薇はつまらなそうに言った。

「案の定だ」


朝日奈の放電がまた跳ねる。

その瞬間、灰薔薇の周囲の灰が一気に広がった。


ざあっ、と。


灰の壁が、朝日奈の周囲を半球状に囲む。


「っ!?」

藤野が息を呑む。


内側でバチバチと激しい放電が暴れる。

けれど灰の壁がそれを受け止め、外へ漏らさない。

表面が焼け、崩れ、また新しい灰が重なる。


「封じた……?」

「一時的にだ」

灰薔薇は目を細めた。

「長くはもたん」


灰の壁の向こうで、朝日奈が荒い息をついている。

まだ完全には収まっていない。

それでもさっきよりは被害が抑えられていた。


藤野は壁越しに朝日奈を見る。


「朝日奈! 聞こえるか!」

「……っ」

返事はすぐにはなかった。


やがて、壁の向こうから掠れた声が返る。


「……オレは、まだ、大丈夫だ……」

まるで大丈夫に聞こえない声だった。


灰薔薇が低く問う。


「何を打たれた」

「薬だ」

藤野が答える。

「一般人に能力を与えるやつと同じかもしれない」

「……なるほど」

灰薔薇の目が冷える。

「面倒なことになったな」


灰の壁の中で、また小さく電流が弾ける。


藤野は拳を握った。

逃げた子どものこと。

アガスティアの薬。

そして、うずくまったまま必死に理性を保とうとしている朝日奈。


駅裏の古い倉庫は、もう静かだった。

なのに、さっきまでよりずっと不穏だった。


***


灰の壁の向こうで、朝日奈の放電がなおも暴れていた。


ばち、ばちっ、と不規則に弾ける光が灰の表面を焼く。

壁は崩れ、また積もり、ぎりぎりのところで封じ込め続けている。


「長くはもたん」

灰薔薇が低く言う。

「どうにかしろ」


「どうにかって……!」

藤野が歯噛みした、その時だった。


壁際にへたり込んでいた一般人のひとりが、震える声を絞り出す。


「ま、待ってくれ……」

三人の視線が一斉にそちらを向く。


スーツの乱れた中年男だった。

顔色は青白く、まだ腰も抜けたままだ。


「暴走した時に、抑える薬が……ある、はずだ……」

「……なんだって?」

藤野が目を細める。


男は必死に息を整えながら言う。


「さっきの、あの子……箱を分けてたろ……」

震える指が、机の奥を指す。

「たしか、白い箱と……黒い箱が、あって……黒い方は“落ち着かせる用だ”って……」


「……!」

藤野が振り向く。


さっき子ども売人がいた机の上には、まだいくつかの箱が散らばっている。

白い箱。

そして、その奥に確かに、黒い小箱があった。


「藤野」

灰薔薇が短く言う。

「取ってこい。こっちはまだ抑える」

「っ、分かった!」


藤野は机へ駆け寄った。

白箱と黒箱。

どちらも似たような形だが、黒い方には小さく番号のシールが貼られている。


開ける。


中には一本だけ、注射器が入っていた。


透明な液体。

見ただけで安全なものには見えない。


「これ……」

「迷ってる時間はないぞ」

灰薔薇の声が飛ぶ。


灰の壁が大きく揺れた。

内側から、朝日奈の叫び声が漏れる。


「が、ぁっ……!」

「朝日奈!」

藤野が反射的に駆け寄る。


壁の中の朝日奈は、片膝をついたまま、必死に床へ手をついていた。

電流が指先から漏れ、床を焼いている。

理性はまだある。

けれどもう限界が近いのが見て分かった。


「……来るなって、言っただろ……!」

掠れた声。

でも、その声の奥にあるのは怒りじゃない。

怯えに近い必死さだった。


「お前を傷つけるかも、しれない……」

藤野は注射器を握る手に力を入れた。


怖い。

これが本当に抑える薬なのか、分からない。

逆効果かもしれない。

余計に悪化するかもしれない。


それでも、今ここで何もしない方がよほど駄目だ。


「灰薔薇!」

「なんだ」

「一瞬でいい、抑え込めるか」

灰薔薇は朝日奈を見た。

それから藤野の手の注射器に視線を落とす。


「打つ気か」

「……他にない」

「失敗したら?」

「その時は、考える」

「責任はもたないぞ」

「それでいい」


灰薔薇は小さく鼻を鳴らした。


「三秒だけだ」

その声と同時に、灰の壁が一気に内側へ収束した。


ざあっ、と灰が朝日奈の四肢へ絡みつく。

完全には止められない。

けれど、一瞬だけ動きを奪うには十分だった。


「今だ!」


藤野は飛び込んだ。


「朝日奈!」

「っ……藤、野――」


首筋は危険だと思った。

だから、露出していた腕へ狙いを定める。


震える手。

けれど迷っている暇はない。


「悪い!」

注射器を押し込む。


朝日奈の身体がびくっと跳ねた。


次の瞬間、強い電流が一気に暴れかける。

だが灰薔薇の灰がそれを押さえ込み、藤野はぎりぎりで離れた。


「っ、ぐ……!」

朝日奈が息を呑む。


放電が、まだ荒い。

けれどさっきのような爆発的な広がりではない。


ばち、ばちっ。

不規則な火花が散る。

それが少しずつ、小さくなっていく。


やがて。


朝日奈の肩が、がくりと落ちた。


「は……っ、は……」

荒い呼吸だけが残る。


灰薔薇が、ようやく灰を少し緩めた。

藤野はその場に膝をつく。


「……収まった、のか」

「完全ではないがな」

灰薔薇が冷静に言う。

「さっきよりはましだ」


朝日奈はしばらく言葉も出せなかった。

額に汗をにじませたまま、ただ息を整えている。


藤野はようやく、自分の手が震えていることに気づいた。


***


それから少しして。


警察が来る前に、三人は倉庫から少し離れた路地の暗がりへ身を寄せた。

中にいた一般人たちはまだ怯えていたが、少なくとも命の危険はなさそうだった。


灰薔薇が腕を組み、二人を見る。


「さて」

その声はいつものように冷めている。

「説明してもらおうか」


朝日奈はまだ本調子ではなかった。

だから口を開いたのは藤野だった。


駅前で暴走した一般人のこと。

薬のこと。

次の受け取り場所としてここへ来たこと。

子ども売人のこと。

そして、朝日奈が薬を打たれたこと。


灰薔薇は最後まで口を挟まなかった。


聞き終えてから、短く息を吐く。


「……なるほど」

「驚かねえのか」

藤野が言う。


「今さらだ」

灰薔薇はそっけない。

「お前たちが厄介ごとを拾ってくるのは知っている」

「それ、褒めてるのか?」

「まさか」


相変わらずの言い草だった。

それでも灰薔薇は、ここへ来た。


少し沈黙してから、朝日奈が掠れた声で言う。


「……凪沙くんにも、話すべきだろうな」

藤野は顔を上げた。


「お前」

「隠しても、たぶん気づかれる」

朝日奈が苦く笑う。

「こんな怪我をしていれば、なおさらだ」

たしかにその通りだった。

制服は焦げ、腕にも擦り傷がある。

藤野だって無傷じゃない。


「灰薔薇にも話したんだ」

朝日奈が小さく続ける。

「なら、××部のみんなに正直に言うべきだと思う」

藤野はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「……ああ」

「白崎は絶対心配するぞ」

灰薔薇がぼそっと言う。

「だから先に言え」

「お前がそれ言うのか」

「事実だ」


朝日奈が少しだけ笑った。


「うむ」

その笑いは弱かったが、ちゃんといつもの朝日奈のものだった。

「明日、全部話そう」


倉庫の外では、遠くでサイレンの音が響いていた。


逃げた子ども。

アガスティアの薬。

暴走と、その抑制剤。

そして、もう隠してはいられない現実。


夜の空気は冷たかった。

けれど三人のあいだには、さっきまでより少しだけ、はっきりしたものがあった。


秘密を抱えたままでは、もう戦えない。


そういう地点まで、来てしまったのだ。


***


翌日。


教室の窓から差し込む朝の光は明るいのに、藤野の気分はまるで晴れなかった。


机に頬杖をつきながら、鞄の奥にしまった小さな白い箱の感触を思い出す。


昨夜、倉庫にあった薬のひとつ。

暴走薬と同じ系列らしい、白い箱入りの注射器。

とりあえず証拠として持ち帰ったものの、扱いに困っていた。


捨てるわけにもいかない。

かといって、警察にそのまま渡して済む話なのかも分からない。

そもそも、あれが本当に何なのか、どんな成分でできているのか、自分たちには調べようがなかった。


解析できる専門家の味方でもいれば話は別だが、そんな都合のいい相手がいるわけでもない。


「……どうすんだよ、これ」

藤野が小さく呟く。


隣では、朝日奈がいつもより少し静かだった。

右腕に包帯が巻かれている。

制服の下にも、昨夜の擦り傷や火傷がまだ残っているはずだ。


見た目だけなら軽傷に見える。

だが、藤野には分かる。

朝日奈の顔色は、ほんの少しだけ悪かった。


「体調、平気なのか」

低く問うと、朝日奈はすぐに顔を上げる。


「うむ!」

返事だけは元気だった。

「多少ぴりぴりするが、問題ない!」

「その“多少”が信用ならねえんだよ」

「本当だぞ!」

「昨日の今日でよく言えるな」

「ヒーローは多少の負傷では倒れん!」

「そういう話してねえ」


すると、不意に前の席から凪沙が振り返った。


「ヒナくん」

その声は、いつもより少しだけ低かった。


朝日奈が「む?」と首をかしげる。


凪沙の視線は、朝日奈の腕の包帯に落ちていた。


「その怪我、どうしたの?」


朝日奈は一瞬だけ言葉を止めた。

藤野は小さく息をつく。

やっぱり気づくよな、と思う。


凪沙の視線が、今度は藤野の方へ移る。


「フジくんも、なんか顔疲れてるし」


藤野は目を逸らした。

図星だった。


凪沙は少しだけ困ったように眉を下げる。


「昨日、何かあったの?」


その問いに、朝日奈と藤野はほんの一瞬だけ視線を交わす。


ここで黙り込むのも、たぶん違う。

いや、違うというより、もうそうしたくなかった。


朝日奈が先に口を開く。


「……あった」

凪沙は黙って次を待つ。

「ただ、ここでは話せん」

「……」

「放課後、部室で話そう」

「私にも?」

「うむ」

朝日奈は頷いた。

「きちんと話す」


凪沙はしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく息をついた。


「……わかった」

それだけ言って、前へ向き直る。


けれどその背中には、いつもより少しだけ張りつめたものがあった。


藤野は机に頬杖をつき直しながら、小さく呟く。


「怒ってるな」

「心配してるのだろう」

朝日奈が言う。

「どっちもだと思うけど」

藤野が返す。


朝日奈は少しだけ笑った。

けれど、その笑いも長くは続かなかった。


鞄の中の白い箱が、やけに重く感じる。


この件を話せば、もう後戻りはできない。

××部全員を巻き込むことになる。

けれど、昨夜の倉庫で見たものを思えば、隠したままで済ませられる段階ももう過ぎていた。


一般人に薬を打ち、能力を引きずり出す。

暴走すれば抑制剤まで使う。

そんなものを扱っている相手が、今もどこかで動いている。


自分たちだけで抱え込める話じゃない。


チャイムが鳴る。

教室の空気が少しずつ授業前のものに変わっていく。


藤野は鞄の中に手を入れ、白い箱の角を一度だけ指先で確かめた。


「……放課後、な」

「ああ」

朝日奈も小さく頷いた。


放課後。

部室で、全部話す。


そう決めたはずなのに、胸の奥は妙に重かった。


***


放課後。


授業が終わり、教室のざわめきが少しずつ廊下へ流れていく。

凪沙は珍しく真っ先に席を立たず、静かに鞄をまとめていた。

朝日奈も今日は無駄に騒がない。

藤野だけが、やけに時間の進み方を遅く感じていた。


「行こうか」

凪沙が立ち上がる。


「うむ」

朝日奈が頷く。

「……ああ」

藤野も鞄を肩にかけた。


三人は無言のまま、部室へ向かう。


廊下の窓の向こうでは、夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。


部室の扉を開けると、先に来ていた灰薔薇が椅子に深く座っていた。

机の上には読みかけの本。

けれどページはしばらく前から止まっていたらしい。


「遅い」

それだけ言う。


凪沙が目を瞬く。


「イバラくん、待ってたの?」

「その呼び方をやめろ」

「はいはい」

「はいはい、じゃない」


いつものやりとり。

けれど今日は、そこに少しだけ硬さが混じっていた。


凪沙が部室の真ん中で立ち止まる。

朝日奈の腕の包帯。

藤野の表情。

灰薔薇の不機嫌そうな顔。


全部を見回して、静かに言った。


「……で」

その声は、やっぱり少しだけ低い。

「昨日、何があったの?」


部室の空気が、すうっと重くなる。


藤野は鞄の中から、例の白い箱を取り出した。

机の上に置く。


ことり、と小さな音がした。


凪沙の目が、それに吸い寄せられる。


「……それ、何」

朝日奈が息をひとつ吸う。


「昨夜」

その声は、いつもより落ち着いていた。

「オレと藤野くんは、駅裏の古い倉庫へ行った」


凪沙の表情が変わる。

灰薔薇は黙ったまま腕を組んだ。


「そこで、アガスティアに繋がる連中と接触した」

朝日奈はそう言って、ゆっくり包帯の巻かれた腕を見下ろした。

「……そして、少し面倒なことになった」


それから朝日奈は、昨夜のことを順を追って話した。


駅裏の古い倉庫。

そこにいた、子どもの売人。

蜘蛛の糸のような能力。

戦闘の末、自分が薬を打たれ、暴走しかけたこと。

そして、そこで薬のひとつを回収したこと。


説明が終わったあと、部室にはしばらく沈黙が落ちていた。


机の上の白い箱だけが、妙に白く見える。


凪沙はすぐには何も言わなかった。

ただ、包帯の巻かれた朝日奈の腕と、藤野の擦り傷、それから灰薔薇の少し疲れた顔を順番に見た。


「……まず」

ようやく開いた口調は、思っていたよりずっと静かだった。

「みんな無事でよかった」

朝日奈が少しだけ目を見開く。

藤野も、無意識に息を止めていた。


凪沙は小さく息をついた。


「ヒナくん、包帯してるし。フジくんも、そこ怪我してるし」

視線が灰薔薇へ向く。

「イバラくんも、たぶん助けるの大変だったんでしょ」

「その呼び方は」

「今はいいから」

「……」

灰薔薇が珍しく黙る。


凪沙はまた三人を見回した。


「ほんとに、無事でよかった」

その言葉には、責める響きはなかった。

ただ素直に心配していたのが分かる声だった。


だからこそ、次の言葉が静かに刺さった。


「でも」

凪沙が言う。

「今度からは、言ってほしいな」


朝日奈と藤野が同時に顔を上げる。


凪沙は怒っていなかった。

声も強くない。

けれど、だからこそ誤魔化せない。


「たしかに、わたしは戦えないけど」

少しだけ首を傾ける。

「知ってるのと、知ってないのじゃ、ちがうよね」

「……」

「危ない場所に行く前に、作戦とかも立てられたかもしれない」

凪沙の目が、まっすぐ三人を見る。

「止められたかは分からないけど、少なくとも何も知らないまま待ってるだけじゃなかったと思う」


藤野は言葉を探した。

でも、うまく出てこない。


朝日奈も珍しく黙っている。


凪沙は少しだけ困ったように笑った。


「四人揃って、××部なんでしょ?」

その一言で、朝日奈の肩が目に見えてしょんぼりと落ちた。


「……う」

「反論ある?」

凪沙がやわらかく聞く。

「……ない」

朝日奈が小さく答える。

「フジくんは?」

「……ない」

藤野も素直に言った。


灰薔薇が腕を組んだまま、ちらりと二人を見る。


「当然だ」

「お前は黙ってろ」

藤野が言う。

「貴様も大概だろうが」

「それはそうだけど」

「認めるのか」

「今はな」


凪沙がくすっと笑った。


その笑いで、部室の空気が少しだけやわらぐ。


「別に、責めたいわけじゃないよ」

凪沙が言う。

「ただ……わたし、みんなのことちゃんと心配するし」

その声は、さっきよりもっとやわらかかった。

「仲間なんだから、そこは頼ってほしいなって思っただけ」


朝日奈が、がばっと顔を上げる。


「凪沙くん……!」

その目がすでにうるんでいる。

「君ってやつは……っ!!」

「なんで泣きそうなの」

藤野が呆れる。

「だって感動したのだぞ!!」

朝日奈は胸を押さえた。

「なんと優しく、なんと器の大きい……! これぞ真の仲間……!」

「大げさ」

凪沙が笑う。


でもその笑顔は、さっきよりもちゃんと柔らかかった。


朝日奈は勢いよく立ち上がる。


「わかった! 今後はどんな危険な任務であろうと、必ず相談する!」

「それはそれで止める時は止めるけどね」

「むっ」

「あと、危険な任務って自分で言ってる時点で問題だからな」

藤野が言う。

「うっ」

「でも、そういうこと」

凪沙が頷く。

「ちゃんと話して。みんなで考えよう」

「……うむ!」

朝日奈が今度こそ真面目に頷く。


藤野も、小さく息を吐いた。


「……悪かった」

凪沙が少し目を丸くする。

「フジくんが素直」

「うるさい」

「ふふ」

「でもまあ」

藤野は机の上の白い箱を見る。

「次は、ちゃんと皆で考える」

「うん」

凪沙が頷いた。


その時、灰薔薇がぽつりと言った。


「最初からそうしろ」

部室が一瞬、静かになる。


藤野がそちらを見る。

凪沙も朝日奈も目を瞬いた。


灰薔薇は本を開いたまま、視線だけを上げる。


「無駄に話をこじらせるな。面倒だ」

「……」

「それで勝手に死なれても困る」


朝日奈が目を輝かせた。


「灰薔薇くん……!」

「やめろ、寄るな」

「君もまた、仲間想いということだな!!」

「うるさい」

「ふふっ」

凪沙が吹き出す。

藤野も、少しだけ口元を緩めた。


机の上には、まだ白い箱がある。

アガスティア教団の不穏さも、薬の危険も、何ひとつ片づいていない。


それでも。


少なくとも今この部室には、ちゃんと顔を上げて話せる空気があった。


次は、四人みんなで考える。


そう決めたことだけが、少しだけ心強かった。

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