第2話 三人分の放課後
朝の教室で、ひそひそとした声が耳に入った。
「あの子、また知らない男の人と歩いてたらしいよ」
「えー……なんか危なっかしいよね」
「でもさ、ちょっと男慣れしてそうじゃない?」
くすくすという笑い声。
藤野は窓際の席で、何気ない顔をしたままその会話を聞いていた。
視線の先には、ひとりの女子生徒。
白崎凪沙。
黒髪を肩先で揺らしながら、何事もないような顔で席についている。
だが、制服の袖口から覗く手首には、今日も包帯が巻かれていた。
「包帯……! やはり超能力の副作用か!?」
隣で朝日奈が目を輝かせる。
今にも立ち上がって駆け寄りそうな勢いだったので、藤野は慌てて制服の袖を掴んだ。
「待て」
「なぜだ!? どう見ても怪しいだろう!」
「……いや」
藤野は白崎の方を見たまま、小さく首を振る。
「あれは、そんな単純なものじゃない気がする」
「む?」
朝日奈は不思議そうに首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
放課後。
秘密結社だか部活だかよくわからない活動の一環として、藤野と朝日奈は街を歩いていた。
とはいえ、やっていることはほとんどただの見回りだ。
困っている人がいないかと辺りを見渡しながら、朝日奈は終始そわそわしている。
「見たまえ藤野くん! あそこの店、限定版ヒーローグッズのビリビリマンフィギュアが売っている!」
「……目立つなよ」
そう言いながらも、朝日奈はもう店先に駆け寄っていた。
ショーケースに張りつくその背中を横目に、藤野はふと足を止める。
通りの向こうに、見覚えのある後ろ姿があった。
白崎凪沙だ。
その隣には、年配の男がいる。
親子というには距離感が妙だった。
男はにやにやと笑いながら、やけに馴れ馴れしく白崎の手首を引いている。
白崎は笑っていた。
けれど、どこか硬い笑みだった。
藤野は眉をひそめる。
男はそのまま、通りを外れて脇道へ入っていく。
白崎もそれについていく。
その先に見えた看板に、藤野は息を呑んだ。
ホテル街だった。
「……おい」
気づけば、足が動いていた。
白崎の手を引く男の背中が近づいていく。
男は振り向きもしない。
当然だ。まさか高校生が追いかけてくるなんて思っていないのだろう。
藤野は駆ける。
心臓がうるさいほど鳴っている。
男が白崎の手を少し強く引いた、その瞬間。
藤野は咄嗟に手袋を外し、手を伸ばしていた。
男の顔にかかった眼鏡に、指先が触れる。
ばしゃっ。
「……は?」
次の瞬間、男の眼鏡が水に変わって弾けた。
レンズもフレームも形を失い、顔を伝って水が滴り落ちる。
「なっ……!?」
突然視界を奪われた男が、間抜けな声を上げて立ちすくむ。
その隙に、藤野は反対の手で白崎の袖を掴んだ。
「こっち!」
「え、ちょ――」
そのまま強引に走り出す。
白崎も一瞬遅れて、藤野に引かれるまま走った。
細い路地を二つ三つ曲がって、ようやく人目の少ない場所まで来たところで、藤野は足を止めた。
「はっ……は、ぁ……」
息が切れる。
隣では白崎も肩で息をしていた。
けれど、しばらくするとすぐに呼吸を整え、藤野の顔を覗き込むようにして見上げてきた。
「……ねえ」
「な、なんだよ」
「君、さっきの……わたしを助けたの?」
「……そう、だけど」
白崎は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「そっか。ありがと」
拍子抜けするくらい、あっさりした礼だった。
だが次の瞬間、彼女は一歩だけ距離を詰めてくる。
藤野の肩がぴくっと揺れた。
「でも、変わってるね」
「……は?」
「普通、見て見ぬふりするでしょ。わざわざ追いかけてくるなんて」
くすっと笑う。
からかうような声音なのに、目はどこか静かだった。
「もしかして、こういうの慣れてない?」
「……っ」
図星すぎて、藤野は言葉に詰まる。
白崎はそんな反応が面白かったのか、少し身を屈めて藤野の顔を覗き込んだ。
長い黒髪がさらりと揺れ、やさしげな顔が思っていたより近くにある。
おだやかな顔立ちの少女だったが、その目には静かな強さと余裕があった。
「顔、真っ赤」
「ち、違う……!」
動揺した拍子に、手袋の奥で指先が熱を帯びる。
まずい、と藤野は反射的に手を引いた。
白崎の胸元が少し見えそうになって、さらに慌てる。
とっさに持っていた鞄を押しつけるように差し出した。
「……っ、と、とりあえずこれ!」
「え?」
「見えるから!」
「……ぷっ」
白崎が吹き出した。
「なにそれ。ほんとに慣れてないんだ」
「うるさい……」
耳まで熱い。
こんなふうに女子とまともに話すこと自体、ほとんどなかった。
白崎は鞄を受け取りながら、少しだけ首をかしげる。
「で? 君はただ、助けたかっただけ?」
「……そうだよ…」
藤野は気まずそうに目を逸らしながら言う。
「それに……ああいうの、よくないだろ」
その言葉に、白崎は一瞬だけ表情を止めた。
けれどすぐに、また軽く笑う。
「そっか」
「……」
「変なこと言うね、君」
明るい声だった。
でも、その奥にほんの少しだけ疲れた色があった。
藤野は迷った末に、ぽつりと口を開く。
「あんた、もっと自分のこと大事にした方がいいよ」
白崎の笑みが、わずかに揺れる。
「……そう見えたんだ、わたし」
その声は小さかった。
すぐに彼女はいつもの調子に戻る。
「でも、ありがと。そういうこと言われたの、久しぶりかも」
「……」
「ふふ。なんか今日の君、ずっと必死だね」
藤野は返事に困って視線を逸らした。
少し沈黙が落ちる。
やがて藤野は、ぎこちなく口を開いた。
「あ、えっと……家まで送ってくよ」
白崎は目をぱちぱちさせ、それからやわらかく笑った。
「大丈夫。ひとりで帰れるよ」
「でも……」
「気持ちだけもらっとく。ありがと」
そう言って、白崎は一歩下がる。
「じゃあね。助けてくれた人」
少しだけ手を振って、踵を返す。
藤野はその背中をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか。じゃあ」
そう言って、その場を後にする。
白崎は足を止め、去っていく藤野の背中を振り返っていた。
やがて、誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
「……なにも知らないくせに」
その声は、怒っているようにも、泣きそうにも聞こえた。
…
表通りへ戻ってくると、店先では朝日奈が両手いっぱいに紙袋を抱えていた。
「藤野くん!! いったいどこへ行っていたんだ! 探したぞ!」
「……お前こそ何してんだよ」
「見れば分かるだろう!」
朝日奈は誇らしげに紙袋を持ち上げる。
「ビリビリマングッズを、必要なだけ確保した!」
「必要の基準がおかしいだろ」
紙袋の中には、同じキャラクターのキーホルダーや缶バッジやアクリルスタンドが、無駄に何個も詰まっていた。
「限定品なのだぞ! 買わずに後悔するくらいなら、買って後悔するべきだ!」
「後悔する前提なんだな」
藤野は呆れたように眉をひそめる。
けれど朝日奈はどこ吹く風で、満足げに笑っていた。
***
家に帰ると、白崎凪沙は静かに靴を脱いだ。
古びたアパートの廊下は薄暗く、壁紙はところどころ剥がれている。
湿った空気と、染みついた煙草の匂い。
息をするたびに気分が少し沈む、そんな部屋だった。
「……随分早いな」
奥の部屋から、低い声が飛んでくる。
凪沙はびくりと肩を揺らしたが、何も言わずに鞄を抱きしめた。
「おい」
苛立った足音が近づいてくる。
「……金はどうした?」
凪沙は唇を噛む。
「今日は……その、ちょっと……」
言い終わる前に、鈍い衝撃が走った。
視界が揺れる。
床に手をついたまま、凪沙はじっと息を殺した。
反論しても無駄だ。
泣いても無駄だ。
ここで何を言っても、何も変わらない。
ただ今日は、運が悪かっただけ。
あんなふうに、知らない男子に連れ出されなければ。
余計なことを言われなければ。
少なくとも、今日はもう少しましに終われたかもしれないのに。
「使えねえな……」
吐き捨てるような声が降ってくる。
凪沙は俯いたまま、小さく拳を握った。
……なにも知らないくせに。
脳裏に浮かぶのは、夕方の路地裏だった。
もっと自分のことを大事にした方がいいよ。
…簡単に、いわないで。
そんなこと、とっくにわかってる。
わかっているのに、どうにもできないから、ここにいるのに。
凪沙はそっと目を閉じた。
翌日。
教室に入ってきた凪沙を見て、藤野は思わず目を止めた。
昨日も巻かれていた包帯が、今日は少し増えている。
手首だけじゃない。肘の近くまで白い布が覗いていた。
「やっぱり何か能力が関係して――」
朝日奈が目を輝かせた瞬間、藤野は無言でその顔を押しのけた。
「ぶっ」
「黙ってろ」
そう言いながらも、藤野の視線は凪沙から離れない。
大丈夫なのか。
昨日、送ると言った時、もっと無理にでもついて行けばよかったのか。
いや、そんなことをして何になる。
そもそも、あいつは嫌がっていた。
わからない。
でも、気になる。
授業中も、休み時間も、気づけば目で追ってしまう。
自分でも理由はうまく説明できなかった。
そして体育の時間。
「はーい、二人組作ってー」
教師の声が響くと同時に、クラス中がばたばたと動き出す。
藤野が適当に周りを見渡すより早く、ぐいっと腕を掴まれた。
「よろしくな!!」
朝日奈が満面の笑みで立っていた。
「……は?」
「オレたちはもう共に戦った仲だからな! 当然ペアだろう!」
「誰が決めたんだよ」
半ば強引に隣へ引き寄せられ、藤野はげんなりとため息をつく。
その時、ふと視線の端に凪沙が映った。
輪の外に立っている。
女子たちはちらりと凪沙を見て、すぐに別の相手と組んでいく。
まるで最初から、そこにいないものみたいに。
凪沙はいつものように笑っていた。
笑ってはいたが、その場に立ったまま、誰にも声をかけない。
藤野は一瞬だけ迷う。
「……なあ」
「む?」
朝日奈が振り向く。
藤野はそのまま凪沙の方へ声をかけた。
「俺たちと組まないか?」
凪沙がぱちりと目を瞬く。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「あれ、昨日の」
「……」
「助けてくれた人だ」
その言い方に、藤野は少しだけ気まずそうに目を逸らす。
そこへ朝日奈がぐいっと顔を出した。
「超能力の秘密を探るチャンス!! そこの君、もしかして超能力者じゃ――」
「おい」
藤野が無言で朝日奈の顔を押しのける。
「嫌か?」
凪沙はくすっと笑った。
「ううん、全然。ありがと」
こうして三人組ができた。
だが、始まって数分で朝日奈は端に座り込んでいた。
「はぁっ……はぁっ……おかしい……! ヒーローたるもの体力も兼ね備えているはずなのに……!」
「お前、身体能力終わってんな」
「どうやらヒーロー回路と持久回路は連動していないらしい……!」
朝日奈は校庭の隅でぐったりしている。
結果的に、藤野と凪沙が二人で動く時間が増えた。
ボールを拾いに行った帰り道、凪沙がふと藤野を見る。
「ねえ」
「……何」
「昨日のこと、気にしてる?」
藤野は少し黙った。
それから、観念したように口を開く。
「……あのさ。昨日、余計なこと言ったよな」
「余計なこと?」
「……もっと自分を大事にした方がいい、とか。白崎のこと何も知らないのに、偉そうに説教みたいなことまでして……ごめん」
凪沙は目を丸くしたあと、ふっとやわらかく笑った。
「ううん。大丈夫」
「……」
「気にしてないよ」
軽い口調だった。
でも、ただ流したわけじゃないのはわかった。
藤野は少しだけほっとする。
視線が、彼女の包帯へ向く。
「……その包帯、大丈夫なのか?」
凪沙は自分の腕を見下ろし、いつもの調子で笑った。
「これ? 平気平気」
「でも」
「ちょっと、周りに面倒な人がいるだけ」
そう言って笑う。
けれど、その笑顔はどこか薄かった。
藤野は何か言おうとして、結局言葉が見つからない。
大丈夫じゃないだろ、と思う。
でも、どこまで踏み込んでいいのかわからない。
そんな微妙な沈黙をぶった切るように、横から声が飛んできた。
「君! 超常秘密結社××部に入らないか!!」
「!?」
凪沙がびくっと肩を跳ねさせる。
いつの間にか復活していた朝日奈が、きらきらした目で立っていた。
「び、びっくりした……」
「噂の転校生くんだよね」
凪沙は胸を撫で下ろしながら、朝日奈を見上げる。
「他クラスでもちょっと話題になってたよ。なんか、やたら騒がしいイケメンがいるって」
「おお、そうなのか! いやはや照れるな!」
「そこ肯定するんだな……」
藤野が呆れたように呟く。
凪沙は少し笑ってから、首をかしげた。
「えっと……ちょう、なんだっけ?」
「超常秘密結社××部だ!!」
「長いなあ……」
朝日奈は構わず、びしっと指を立てる。
「人々を救う正義の組織だ!!」
「ただの部活に大袈裟すぎだろ……」
藤野が横から口を挟む。
「簡単に言うと、朝日奈が作ろうとしてる人助けの部活だ。そこになぜか俺も入ることになったんだけど、部活設立には部員が最低三人いるだろ。だから、もう一人を探してたんだよ」
「それで、わたしを?」
「ああ!!」
凪沙は少し意外そうに二人を見た。
「……その、君たちのやりたいことは分かったけど。超常って、どういう意味?」
朝日奈は待ってましたとばかりに胸を張る。
「超能力を使って人々を救うのさ!」
「……え」
一瞬の沈黙。
それから凪沙は、ふっと吹き出した。
「……ふふっ」
「む?」
「ごめん、ちょっと待って……それ本気で言ってる?」
肩を震わせながら笑っている。
でも、馬鹿にしているというより、あまりに予想外すぎて笑ってしまった、という感じだった。
「超能力って……ふふ、なにそれ。普通もっと隠さない?秘密ってついてるし」
「隠していては正義は成し遂げられない!」
「いや、そういう問題じゃないでしょ……」
凪沙はまだ少し笑いながら、目尻を拭った。
「君たち、ほんとに面白いね」
「ということは!」
「うーん……」
凪沙は少しだけ考えて、困ったように笑う。
「ごめん。楽しそうだけど、今はちょっと余裕ないかな」
「……そうか」
「でも、誘ってくれたのは嬉しかったよ」
その言い方はやわらかかった。
朝日奈はしょんぼりと肩を落とす。
「くっ……やはり秘密結社の理念はまだ時代に早かったか……」
「お前の説明の仕方が悪いんだろ」
「む、そうか?」
凪沙はそんな二人を見て、少しだけおかしそうに笑った。
***
体育の授業が終わる頃には、空の色が少しずつやわらいでいた。
朝日奈は最後まで「秘密結社の魅力が伝わらなかったのは遺憾だ……」とぶつぶつ言っていたが、凪沙は困ったように笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
そして放課後。
教室の窓から差し込む夕陽の中で、凪沙はひとり静かに鞄をまとめていた。
朝のような明るさはない。
体育の時に見せていた笑顔も、今はどこか遠い。
藤野は少し離れた席から、その横顔を見ていた。
気づけば、また見ている。
放っておけばいい。
そう思うのに、なぜか気になってしまう。
「……なあ」
声をかけると、凪沙は顔を上げた。
「あれ、藤野くん」
「……今から帰るのか」
「うん。まあ、他にすることもないし」
軽い口調だったが、目元は少し疲れて見えた。
藤野は少しだけ迷ってから口を開く。
「……だったら、とりあえず見学に来ないか」
「見学?」
「朝日奈の部活。……いや、まだ部活ですらないけど」
凪沙はきょとんとして、それから少しだけ口元を緩めた。
「まだ諦めてなかったんだ」
「朝日奈がしつこいだけだ」
「ふふ」
小さく笑ってから、凪沙は少し考えるそぶりを見せた。
「……少しくらいなら、付き合ってあげてもいいよ」
「ほんとか!?」
「うわっ」
いつの間にいたのか、朝日奈が机の陰から勢いよく飛び出してきた。
「白崎くん! それはつまり入部前向きということだな!?」
「いや、まだ見学だけ」
「十分だ!! さあ行こう! 正義が我々を待っている!!」
「お前、どこに隠れてたんだよ……」
朝日奈に急かされるまま、三人は街へ出た。
とはいえ、やることは相変わらず地味だった。
道に迷ったおばあさんに駅までの道を教えたり、落とし物を届けたり、道端に散らばった荷物を一緒に拾ったり。
朝日奈はすべてに全力で、いちいち声が大きい。
「困っている人がいるなら、放ってはおけない!!」
「お前はもう少し声量をどうにかしろ」
「でも、なんだかんだちゃんと助けてるよね」
「まあ……な」
凪沙は最初こそ半歩引いたところから見ていたが、次第に自然と会話に混ざるようになっていった。
「おばあちゃん、その荷物こっち持つよ」
「え、いいのかい?」
「うん。こっちの二人より、たぶんわたしの方が頼りになるから」
「なんだと!?」
「事実だろ」
そんな軽いやり取りのあと、三人で顔を見合わせて少し笑う。
しばらくして、朝日奈が急に足を止めた。
「あれは――ひったくり犯だ!!」
「は?」
「え?」
見ると、通りの向こうを女性が叫びながら走っている。
「誰か! バッグ、バッグを……!」
その前方を、男がひとり、バッグを抱えて逃げていた。
朝日奈の目がきらりと光る。
「行くぞ!」
言うが早いか、朝日奈は駆け出した。
「ちょ、おい!」
「朝日奈くん!?」
人混みを縫って犯人へ迫る。
逃げる男が振り返る暇もなく、朝日奈の手から青白い火花が走った。
バチッ!!
「うわっ!?」
足元に電流が弾け、男が驚いてバランスを崩す。
その隙に朝日奈が飛び込んだ。
「正義執行!!」
見事な勢いで体当たりを決め、バッグは無事に地面へ転がった。
周囲からざわめきが起こる。
「えっ、今の何!?」
「静電気……?」
「すご……」
藤野は思わず額を押さえた。
「目立ちすぎだろ……」
「だが助かっただろう!」
「そうだけど……!」
被害者の女性が駆け寄り、涙ぐみながら何度も礼を言う。
凪沙は少し離れたところから、その光景を見つめていた。
「……本当に」
「ん?」
「本当に、超能力者だったんだ……」
ぽつりと漏らした声には、驚きと、少しだけ楽しさが混ざっていた。
朝日奈は得意げに胸を張る。
「言っただろう!」
「うん。……ごめん、ちょっと疑ってた」
「まあ、普通は疑う」
藤野がぼそりと挟むと、凪沙はくすっと笑った。
***
それからの時間は、思ったよりもあっという間に過ぎていった。
迷子の子どもを親元まで連れていき、段差で困っている人の荷物を持ち、転びそうになった小学生を支える。
朝日奈が先頭に立ち、藤野がそれを支え、凪沙が間に入って空気をやわらげる。
いつの間にか三人で動くのが自然になっていた。
凪沙は何度も笑っていた。
大げさな朝日奈に呆れたり、
言葉の少ない藤野の反応を面白がったり、
時々、自分でも気づかないくらい素直な笑顔を見せたりした。
――いつぶりだろう。
こんなふうに笑ったのは。
胸の奥で、そんな思いが小さく揺れる。
けれど、日が傾くにつれて、凪沙の表情は少しずつ曇っていった。
空の色が橙から群青へ変わっていく。
店先の明かりが灯り始める。
その変化に、藤野は気づいていた。
朝からずっと、彼女の表情を見ていたから。
少し笑っていても、帰る時間が近づくほど、その笑みが薄くなっていくのがわかった。
「……白崎」
声をかけようとした、その時だった。
「おお、若いの! さっきは本当に助かった!」
昼間にひったくりから助けた女性だった。
手には封筒を持っている。
「これはほんの気持ちなんだけど、受け取ってちょうだい」
「いや、正義の味方は見返りなど求めない!」
朝日奈がびしっと手を前に出す。
「そのお金はご自身の幸せのために使ってくれたまえ――」
その言葉を遮るように、藤野が封筒を受け取った。
「ありがたく頂きます」
「えっ」
「え、ちょっと、藤野くん!?」
朝日奈が素っ頓狂な声を上げる。
藤野は平然とした顔で封筒を鞄へしまった。
「せっかくのご厚意だ。無下にしない方がいいだろ」
「し、しかし……!」
「部費の足しにすればいい」
「む……部費……」
まだ存在しない部費に朝日奈は少し揺れる。
「ほら、行くぞ」
「う、うむ……まあ、そういうことなら……!」
なんとか納得した朝日奈を連れ、三人は駅前まで戻った。
そこで朝日奈は反対方向の道へ向かう。
「では二人とも、また明日!! 白崎くん、見学ありがとう!!」
「うん、こちらこそ」
「……またな」
「うむ! 正義は眠らない!!」
最後まで騒がしく去っていく背中を見送り、凪沙はふっと笑った。
「ほんと、すごいね。朝日奈くん」
「うるさいだけだろ」
「ふふ。そこがいいんじゃない?」
二人きりになると、さっきまでの明るさが少しだけ静まる。
並んで歩きながら、藤野は鞄の中の封筒に手を入れた。
少し迷ってから、それを取り出す。
「これ」
「……え?」
凪沙が足を止める。
藤野は封筒をそのまま彼女に押しつけた。
「理由はわからないけど……金がいるんだろ」
「……」
「だから、あんなことしてた」
凪沙の表情が固まる。
「もう、するなよ」
短くそれだけ言って、藤野は前を向く。
「まっ――」
何か言いかけた凪沙の声を聞かずに、藤野はそのまま歩き出した。
振り返らない。
たぶん、振り返ったらうまくいかない気がした。
凪沙はその場に立ち尽くしたまま、手の中の封筒を見下ろす。
少しだけ震える指で、それを握りしめた。
「……」
言葉にならない何かが、喉の奥に詰まる。
風が吹いて、黒髪が頬にかかった。
凪沙はしばらくそのまま動けなかった。
***
翌日。
仮部室として使っている空き教室で、朝日奈はそわそわと落ち着きなく歩き回っていた。
「……白崎くんは果たして来てくれるだろうか」
腕を組み、珍しく神妙な顔で呟く。
「来るわけないだろ」
窓際の机に寄りかかりながら、藤野は素っ気なく返した。
「お前の暑苦しさに嫌気が差したに一票」
「そんなはずはない! 昨日の白崎くんは確かに我々の活動に心を動かされていた!」
「どうだかな」
藤野はそう言いながらも、ちらりと時計を見る。
放課後になってから、もう十分ほど経っていた。
正直、自分でも少し気になっていた。
昨日、金を押しつけるように渡して、そのまま帰ってしまった。
あれでよかったのか、今でもよくわからない。
「む……」
朝日奈がぴたりと動きを止める。
廊下の向こうから、かすかな足音が聞こえた。
二人が同時に扉の方を見る。
だが、すぐには開かない。
扉の前に、人の気配だけがある。
「……いるな」
「いるな!」
朝日奈が勢いよく扉の方へ歩いていく。
「おい、待て」
「白崎くん!!」
がらっと扉が開く。
「ひゃっ」
外にいた凪沙が、小さく肩を跳ねさせた。
少し恥ずかしそうに立っている。
入るべきか迷っていたのが、見てすぐわかった。
「白崎くん! 来てくれると信じていたよ!!」
朝日奈は満面の笑みで駆け寄る。
「ちょ、近い近い」
「感動の再会だからな!」
「まだ一日しか経ってないでしょ……」
困ったように笑う凪沙を見て、藤野は小さく息を吐く。
……来たんだな。
そのことに、自分でも少し驚くくらいほっとしていた。
凪沙は教室の中を見回してから、少しだけ遠慮がちに口を開いた。
「わたし……超能力者じゃないけど、いいの?」
朝日奈は即答した。
「構わないさ!」
「え」
「××部は、人の役に立ちたい人間なら誰でも大歓迎だ!!」
その言葉に、凪沙は目を丸くする。
藤野もまた、朝日奈の横顔を見た。
朝日奈はまるで当たり前みたいな顔をしていた。
能力があるかどうかなんて、最初から大した問題じゃなかったみたいに。
凪沙は少し黙って、それからふっと笑った。
「……そっか」
小さな声だったが、どこか力が抜けたようにも聞こえた。
「……決まりだな」
藤野がぽつりと言うと、凪沙はそちらを見る。
「え?」
「見学に来た時点で、もう半分入ってるようなもんだろ」
「なにそれ、適当」
「君に言われたくない」
すると凪沙は少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに髪を耳にかけた。
「……べつに、超能力がかっこいいとか思ったわけじゃないからね」
「む」
「ただ……放課後、ひとりでいるよりは、ちょっと楽しそうかなって思っただけ」
その言い方は、いつもの軽さを少しだけ残しながらも、どこか本音っぽかった。
朝日奈の顔がぱっと明るくなる。
「超常秘密結社××部へようこそ、白崎くん!!」
「うわっ」
勢いよく両手を広げる朝日奈に、凪沙は思わず半歩引く。
「共に世界を平和に導こう!!!」
「お前のその熱量はどこから湧いてくるんだよ……」
藤野が呆れたように呟く。
凪沙はくすっと笑った。
「それで、超常秘密結社××部の“××”の部分は、もう決めたの?」
「それがだな!」
朝日奈は得意げに胸を張る。
「考えた結果、あえてそのままでもいいのではないかと思っている!!」
「はぁ?」
「つまり、“超常秘密結社××部”で完成形ということだ!」
「バツバツってこと?」
「適当すぎるだろ……」
藤野が額を押さえる。
凪沙はしばらくぽかんとしていたが、やがて吹き出した。
「ふふっ……なにそれ」
「笑うところではないぞ白崎くん! この曖昧さには無限の可能性が――」
「いや、十分おもしろいよ」
「だろう!」
「褒めてない」
軽口を交わす声が、誰もいなかった空き教室に響く。
窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えていた。
何もなかったはずの場所に、いつの間にか三人分の空気ができている。
朝日奈がいて、
藤野がいて、
凪沙がいる。
それはまだ小さくて、頼りなくて、部活と呼ぶには形も整っていないものだった。
けれど確かに、この日から始まったのだ。
超常秘密結社××部は、こうして動き始めた。




