表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

第1話 君が友達になった日

ごぽ、ごぽ、ごぽ――。


いつも同じ夢を見る。

暗い水の底へ、ひとり沈んでいく夢だ。


苦しくて、必死に手を伸ばしても、水面は遠ざかるばかり。

揺れる光は見えるのに、そこにはどうしたって届かない。


その時、不意に誰かの手を掴んだ。


助かった、と思った瞬間――


バシャッ!!


「っ……!」


水しぶきを上げるように、藤野耕介は飛び起きた。


荒い息を吐きながら、ぼんやりと布団を見下ろす。

シーツはぐっしょり濡れ、抱き枕は無残にも水を吸って沈んでいた。


「はぁ……またやっちまった……」


額を押さえ、小さくため息をつく。


濡れた布団を抱え、

廊下へ出て、洗面所へ向かう。

その背に、部屋から祖母がひょいと顔をのぞかせた。


「まあ、またおねしょ?」

「……ちがうよ」


すぐにそう返したものの、濡れた布団を見下ろしていると、我ながらまるで説得力がなかった。


藤野耕介には、人に言えない力がある。


触れたものを、水に変える力。


普段はどうにか制御できている。

けれど、感情が大きく揺れた時や、眠っている間のように意識が薄い時は難しかった。

意思とは無関係に、力が勝手に漏れ出してしまうことがある。


だから藤野は、いつも手袋をはめていた。

学校へ行く時も、外へ出る時も、できる限り誰にも触れないようにして生きている。


顔を洗い、制服に着替え、慣れた手つきで手袋をはめる。

朝の支度をしながら、藤野は心の中でいつものように自分へ言い聞かせた。


――人とは、極力関わるな。


誤って触れてはいけないものに触れないために。

余計な面倒に巻き込まれないために。

そして何より、自分のせいで誰かを傷つけないために。


通学路の脇を、野良猫がのんびり横切っていく。

少しだけ目で追って、それ以上は近づかない。


道の向こうでは、荷物を抱えた老人が困ったように立ち尽くしていた。

一瞬だけ足が止まりかける。

けれど藤野は、見なかったことにしてそのまま通り過ぎた。


面倒事は避ける。

波風は立てない。

心穏やかな日々だけを守って生きる。


本当に、くだらないくらい平和な毎日だった。


それで良かったんだ。


あいつが、この静かな日常に土足で踏み込んでくるまでは。


***


教室の空気は、朝から最悪だった。


「オラァ、もういっちょ!」


怒鳴り声と一緒に、鈍い音が響く。


クラスの隅で、ひとりの男子生徒が囲まれていた。

机を蹴られ、肩を突き飛ばされ、情けない声を漏らしている。


それをじっと見ながら、藤野は唇を噛んだ。


見て見ぬふりだ。

関わるな。

俺は、人と関わっちゃいけない。


目の前でどれだけ理不尽なことが起ころうと、やり過ごすしかない。

そうやって生きると決めたのは、七年前だ。


助けたいなんて思うな。

正しいことをしようとするな。

そんなことをして、もし誰かに触れてしまったら。


そう自分に言い聞かせていた、その時だった。


振り上げられた拳が、いじめられていた生徒に落ちる――


バシッ。


「……あ?」


乾いた音がして、教室の空気が止まった。


いじめっ子の手首を、誰かが掴んでいた。


見慣れない顔だった。

このクラスの生徒じゃない。

やけに堂々としていて、場違いなくらいまっすぐな目をしている。


「あ? なんだお前」


睨みつける相手にも動じず、その少年は胸を張った。


「弱いものいじめは良くないな!

いますぐこの生徒に謝りたまえ」


教室が一瞬、しんと静まり返る。


「は? 何様だよ、お前。

そんなにお望みなら、てめぇからぶっ潰してやろうか――」


言い終わるより早く、


ドカッ!!


眩しい火花が弾けた。


「うわぁっ!?」


次の瞬間、いじめっ子の身体が大きく吹き飛ぶ。

椅子を巻き込みながら床に転がり、教室のあちこちから悲鳴が上がった。


ぱち、ぱち、と空気の中で小さな火花が散る。


少年は何事もなかったかのように、手を払って言った。


「正義執行!」


きらり、と笑う。


「…………」


一同、ぽかんとしていた。


藤野もまた、言葉を失っていた。


今、火花が散ったように見えた。

いや、そんなはず……。


ざわつく教室の真ん中で、少年はくるりとこちらを振り向く。


「今日から転校してきた、朝日奈零だ!」


無駄に声がでかい。


「二年二組のみんな、これからよろしく頼む!」


あまりにも場にそぐわない、明るく真っ直ぐな笑顔だった。


しばしの沈黙のあと、教室が一気にざわめきだす。


「転校生!?」

「いやその前に今の何!?」

「え、アイツ吹っ飛んだよな!?」


だが、藤野はそんな騒ぎよりも別のことを考えていた。


面倒そうなやつが来たな。


正義感が強くて、空気を読まなくて、しかも妙に目立つ。

関われば絶対にろくなことにならないタイプだ。


藤野は机に頬杖をつき、できるだけ興味のないふりをした。


まあ、俺には関係ないか。


ああいうやつには近づかないに限る。

そうしていれば、きっと今まで通りの平和な日常を守れる。


……その時の藤野は、本気でそう思っていた。


***


休み時間。


窓の外をぼんやり眺めていると、教室の向こうからやけに大きな足音が近づいてきた。


ズンズンズンズン……。


嫌な予感がする。


そう思った次の瞬間、


バンッ!


机を両手で叩く音が、教室に響いた。


「やあ! 君、超能力者だろう!」


「…………は?」


目の前には、朝日奈零。

少しくせのある明るい髪を揺らしながら、期待に満ちた大きな目でずいっと顔を近づけてくる。

妙に人懐こい顔だった。


周囲の視線が一気に集まるのを感じて、藤野は反射的に立ち上がった。


「ちょっ……ちょっとこっち来い!」


朝日奈の腕を掴み、そのまま教室の外へ引きずり出す。


いやいやいや、なんでだ。

なんで俺が力を持ってることを知ってる!?

それを知ってる人間がいること自体、大問題だ。

こいつは俺の平穏な生活を、簡単にぶち壊しかねない……!


落ち着け。

冷静になれ、藤野耕介。


廊下の端まで来たところで、藤野は朝日奈を振り向いた。


「……俺が超能力者? はっ。何を根拠に言ってる」


「あ、やっぱり図星だな!」


朝日奈は嬉しそうに身を乗り出す。


「超能力者じゃない人間は、まずその存在自体を否定する。その返答は、君が当事者であることの何よりの証拠だ!」


「……!」


藤野はわずかに目を揺らした。

長めの前髪と眼鏡のせいで少し鋭く見えるその目つきも、今は隠しきれない動揺を滲ませている。


すると朝日奈は、得意げに胸を張った。


「まあ、実を言うと賭けだったけどな。話しかけたのは君で三人目だ」


「は?」


「その手袋。超能力を持つ者は何かと副作用を抱えていて、それを隠す装飾品を身につけていることが多い。つまり、オレの天才的な頭脳が教えてくれたというわけだ!」


きらん、と効果音でもつきそうな顔で決める朝日奈に、藤野は呆れたように眉をひそめた。


「……はあ。何者なんだよ、お前……」


「オレか? よくぞ聞いてくれた!」


朝日奈は待ってましたとばかりに人差し指を立てた。


「何を隠そう、オレも君と同じく超能力者だ!!」


「……」


藤野は黙り込む。


……まじかよ。

俺以外にも、能力者がいるのか……?


だが、言うだけなら誰にでもできる。


藤野は慎重に朝日奈を見据えた。


「証拠を見せてくれ」


「いいとも! まあまあ、来たまえ!」


朝日奈は嬉しそうに歩き出す。

その背を、藤野は半信半疑のまま追った。


案内されたのは、使われていない空き部室だった。


薄暗い部屋の中で、朝日奈はくるりと振り返る。


「よし、じゃあ見せよう」


次の瞬間――


バチバチバチバチッ!!


青白い火花が、朝日奈の指先から弾けた。

空気が震え、焦げたような匂いがふっと漂う。


「オレは電気を操れる」


「……すご……」


思わず声が漏れた。


嘘じゃない。

本物だ。


目の前の光景に、藤野はしばらく言葉を失う。


「……本当に……」


自分以外にも、こんな力を持つ人間がいる。

その事実が、胸の奥をざわつかせた。


けれど同時に、警戒も強くなる。


「仮に……俺が本当に超能力者だったとして」


藤野はゆっくり口を開いた。


「なんで同種を探してる。……目的は何なんだよ」


すると朝日奈は、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。


「ズバリ!!」


勢いよく指を突き上げる。


「超常秘密結社××部を立ち上げたい!!」


「……ちょう……え?」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「超常秘密結社××部だ! ちなみに××のところは未定だ。いい名前がまだ思いついてなくてな!」


「秘密結社なのか部活なのか、どっちだよ……」


思わず素で突っ込むと、朝日奈は気にした様子もなく続けた。


「まあまあ、細かいことはいいじゃないか! 超常秘密結社××部は、超能力で人々を救い、悪を討つ正義の組織! 共に世界を平和へと導こうじゃないか!!」


「……」


藤野は怪訝そうに朝日奈を見る。


……っていうか、“超常秘密結社”って、あの古いヒーロー番組のまんまじゃないか?


胡散臭い。

胡散臭すぎる。


だが、朝日奈本人だけはどこまでも本気だった。


まっすぐで、迷いがなくて、ひどく眩しい。


「さあ!」


朝日奈が一歩近づく。


「その手袋を取って、オレに君の力を見せてくれ!」


「……」


藤野の表情が、すっと冷える。


沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。


「……これはただ、昔の傷を隠してるだけだ」


朝日奈の目をまっすぐ見返して、言い切る。


「俺は、力なんて持ってない」


そのまま踵を返し、藤野は部室を出た。


引き留める声は聞こえた気がしたが、立ち止まらなかった。


廊下を歩きながら、強く拳を握る。


……まぶしい。


俺には、まぶしすぎる。


朝日奈零は、正しい。

力を持つ者が、その力を他人のために使う。

きっとそれは、素晴らしいことなんだろう。


でも、俺には無理だ。


できない。


俺の力は、そんなふうに使えるものじゃない。


俺の力では……誰も救えない。


脳裏に、七年前の光景がよぎる。


忘れたくても忘れられない、あの日の記憶。

今もなお胸の奥に食い込み続ける、消えない傷。


それが、今も俺を苦しめていた。


***


七年前の夏。


家族でキャンプに行った。


俺は、川遊びが好きだった。


まだ何もわかっていない子供で、

両親がキャンプの準備をしている間、

ひとりで川辺ではしゃいでいた。


でも、その川は子供が遊ぶには思った以上に深かった。

連日の雨のせいで、水かさも増していたらしい。

流れも、見た目よりずっと速かった。


足を滑らせたのは、一瞬だった。


気づいた時には、もう川に落ちていた。


冷たい水が全身を包み込んで、

息ができなくなって、

上も下もわからないまま流されていく。


苦しい。

怖い。

助けてほしい。


最初に異変に気づいたのは、母だった。


母は迷わず川に飛び込んだ。

自分の危険も考えず、俺を助けるために。


俺の意識はもうその頃には朦朧としていて、

肺に水が入り込んでくる感覚だけが、やけに生々しく残っている。


死にものぐるいで、母の方へ手を伸ばした。


その後のことは、あまり覚えていない。


ただ――


父が俺を川から引き上げてくれたこと。

母の姿が、消えてしまったこと。


警察も、消防も、必死に捜索してくれたらしい。

でも、その甲斐もなく、母の身体は最後まで見つからなかった。


その事実だけを、俺は後になって知らされた。


……それからだった。


俺が、

触れたものを水に変えるようになったのは。


まるであの日、母を飲み込んだ川の一部が、

そのまま俺の中に居ついてしまったみたいに。


それから俺は、祖母とふたりで暮らすことになった。


父は母を失ったことで心を病んだ。

そして今も、施設に入院している。



昼休み。


「やあ」


声をかけられて顔を上げると、そこには案の定、朝日奈が立っていた。


「……何しに来た」


「何って、勧誘だ」


朝日奈は悪びれもせず、いつもの調子で言う。


「オレ一人では秘密結社は成り立たない!」


「なら他を当たってくれ」


藤野はそっけなく言い捨てる。


「言っただろ。俺は能力なんて持ってない。……それに」


「それに?」


「関わりたくないんだ。面倒事には」


そう言って視線を逸らす。

それで会話は終わりだと思った。


だが、朝日奈は引かなかった。


「……そうなのか?」


その声は、さっきまでとは少し違っていた。

ふざけた調子が消えて、妙にまっすぐだった。


「……今朝」


藤野の肩が、ぴくりと揺れる。


「君は興味を示していないように見えた。でも」


朝日奈は藤野を見つめたまま、静かに続ける。


「みんなが目をそらす中で、あの時一人だけ、君は険しい顔をして、いじめの現場をまっすぐ見つめていた」


「……」


「君も……」


朝日奈の声が、さらにやわらかくなる。


「本当は、あの子を助けたいと思ってたんじゃないか?」


「……っ」


藤野はわずかに目を見開いた。


その一言に、心の奥を不意に突かれた気がした。


だからこそ、すぐには言葉が出なかった。

けれど、次の瞬間には表情を消して、吐き捨てるように言う。


「……そんなわけないだろ」


朝日奈はしばらくその顔を見つめていたが、

やがて「そうか」とだけ言って、机を離れた。


***


放課後。


校門を出ようとしたところで、藤野は見覚えのある背中を見つけた。


朝日奈零だった。


その前には、今朝いじめられていた男子生徒が立っている。

おどおどと落ち着かない様子で何度も頭を下げ、何かを必死に伝えていた。


「……それで、お礼が言いたくて……」

「おお、そうか!気にするな!困っている人を助けるのは当然のことだからな!」


朝日奈は胸を張って笑う。

いじめられていた生徒は、引きつった笑みを浮かべたまま、細い声で言った。


「その……ちょっと来てほしいんだ。ちゃんと、二人きりでお礼を言いたくて……」


朝日奈は疑う様子もなく、ぱっと顔を明るくした。


「なるほど!律儀なやつだな!」


……嫌な予感がした。


藤野は少し離れた場所から、その様子を見ていた。

放っておけばいい。

関わる必要なんてない。

そう思ったのに、なぜか足が止まった。


気づけば、二人の後を追っていた。


連れて行かれたのは、人気のない裏路地だった。

細い路地の先で、男子生徒が立ち止まる。


「このへんでいいのか?」

「あ……その……」


朝日奈が首をかしげた、その時だった。


路地の奥や脇道から、ぞろぞろと人影が現れる。


見覚えのある顔。

今朝、教室で吹き飛ばされたあのいじめっ子たちだ。


「よぉ、いたいた」

「ずいぶん探したぜ、転校生」

「朝の仕返し、させてもらおうか」


朝日奈はきょとんとした顔で周囲を見回す。

その横で、いじめられていた生徒がびくりと肩を震わせた。


「ご、ごめん……ごめんなさい……!」


泣きそうな声で、彼はその場にうずくまる。


「脅されて……逆らったら、今度はもっとひどいことされるって……!」


その言葉で、朝日奈もようやく状況を察したらしかった。


「……なるほど。そういうことか」


笑みが消える。

代わりに、静かな怒りがその目に宿った。


そこへさらに、奥から重い足音が響く。


ガシャン、と空き缶を踏み潰しながら現れたのは、ひときわ体格の大きい男だった。

制服ではない。年上だ。髪を染め、耳にはいくつものピアス。

この辺りの不良たちの親玉らしい、威圧感をまとっている。


「おいおい、ガキ相手に何人がかりだよって顔してんな、転校生」

「……君は?」

「テメェがうちの連中をコケにしたって聞いてな。ケジメつけに来てやったんだよ」


朝日奈は小さく息を吐くと、泣き崩れている生徒を背中にかばうように立った。


「この子を脅して囮に使うとは。実に気に食わないな」

「あ?」

「弱い者いじめは良くないと、今朝教えたはずなんだが」


ぴしり、と空気が張り詰める。


物陰から様子をうかがっていた藤野は、思わず息を呑んだ。


逃げろ。

そう思うのに、目が離せない。


「へえ。まだ威勢がいいじゃねえか」

「当然だ。正義はいつだって屈しない!」


次の瞬間、先に動いたのは不良たちの方だった。


「やれッ!」


一斉に飛びかかる。


だが、朝日奈はひるまない。

踏み込んできた一人の腕をかわし、逆に腹へ蹴りを叩き込む。


ドカッ!


さらに手を払うように振るうと、ばちっと火花が散った。


「うわっ!?」

「し、痺れ……!」


青白い電撃が走り、前に出た数人がまとめて吹き飛ぶ。


狭い路地に悲鳴が響く。


朝日奈は一歩も退かず、いじめられていた生徒を守る位置を崩さない。

自分が前に立ち、攻撃はすべて受け止め、背後へは一撃も通させない。


その姿に、藤野は目を奪われた。


強い。

それだけじゃない。


守ってる。


自分が傷つくことも構わずに、

他人を守るために、

あいつは力を使っている。


胸の奥が、ずきりと痛んだ。


どうしてあいつは、あんなふうに迷わず立てるんだ。


不良たちは次々となぎ倒されていく。

最後に残った親玉が、舌打ち混じりに前へ出た。


「調子に乗ってんじゃねえぞ……!」


鉄パイプを振り上げ、朝日奈へ突っ込む。


朝日奈も正面から迎え撃つ。

電撃をまとった拳と鉄パイプがぶつかり、火花が散る。


「うおおおっ!!」

「はあっ!!」


激しい応酬の末、朝日奈の蹴りが親玉の顎を捉えた。


ドカァッ!!


巨体が大きくよろめき、壁に叩きつけられる。


決まった。

そう思った、その瞬間だった。


「……え?」


朝日奈の背後で、か細い声がした。


倒れたふりをしていた一人が、いじめられていた生徒の首元を腕で締め上げていた。


「う、あ……っ」


「動くなよ、転校生」


男はにやりと笑い、ポケットから折りたたみナイフを取り出す。

刃先が、喉元すれすれに突きつけられる。


朝日奈の動きが止まった。


「このガキがどうなってもいいのか?」

「……卑怯だな」

「うるせえ。正義の味方ごっこは終わりだ」


次の瞬間、横から親玉の拳が朝日奈の顔面に叩き込まれた。


ガッ!!


「ぐ……っ!」


朝日奈が地面に倒れる。


それでも起き上がろうとするが、人質を取られているせいで反撃できない。

蹴られ、殴られ、それでも朝日奈は歯を食いしばって立とうとする。


「やめろ……その子に手を出すな……!」

「だったら動くなよ、ヒーローさん」


また一発、腹を蹴られる。

朝日奈の身体がくの字に折れた。


物陰で見ていた藤野の指先が、震える。


……やめろ。

……もう、やめろ。


脳裏に、あの日の川がよみがえる。


七年前の夏。

家族で行ったキャンプ。

濁った流れ。

冷たい水。

沈んでいく身体。


あの時、俺は確かに母さんの手を掴んだ。


助けてくれると思った。

助かると思った。


でも、次の瞬間。


母さんの手の感触は、ふっと消えた。


まるで最初から何もなかったみたいに。


母は、水になって消えた。


……俺が殺したのだ。


あの時からずっと、そう思っている。


俺の力は、奪うためのものだ。

誰かを救うことなんてできない。

幸せになんて、できない。


でも――


視界の先で、朝日奈がまた殴られる。


それでもなお、背後の子を守ろうとしている。


ぼろぼろになりながら、それでも諦めない。


ドカァーンッ!!


反撃の電撃が一人を吹き飛ばす。

だが、すぐに別の男が人質の首に刃を押し当て、朝日奈は再び止まる。


その姿が、焼きつく。


……俺も。

俺も、あんなふうに。


誰かを守れるなら。


藤野は震える手で、片方の手袋を外した。


ひやりとした空気が、指先に触れる。


そして、足元の地面へそっと手をかざした。

触れた点が境界を失い、無色の液体へと崩れていく。


水が、するりと動く。


細い流れとなって、地面を這うように伸びる。

誰にも気づかれないように。

朝日奈の足元へ。

そして、人質を取っている男の足元へ。


二人をつなぐ、水の道。


「朝日奈……!」


思わず声が漏れた。


朝日奈がはっと顔を上げる。

その視線が、地面を走る水の筋を捉えた。


一瞬だけ目が見開かれる。


だが次の瞬間、朝日奈は笑った。


「なるほど……!」


男たちが気づくより早く、朝日奈が手を突き出す。


バチィッッ!!


電撃が水の道を駆け抜けた。


「ぎゃあああっ!!」


人質を取っていた男の身体が跳ね、ナイフが手からこぼれ落ちる。

同時にその周囲にいた不良たちもまとめて感電し、次々と倒れ込んだ。


隙を逃さず、朝日奈が飛び込む。


「正義執行!!」


渾身の一撃が親玉を吹き飛ばし、巨体が盛大に地面へ転がった。


静寂が落ちる。


路地には、倒れた不良たちのうめき声だけが残っていた。


助かった。

その事実に、藤野はしばらく動けなかった。


自分の手を見る。


誰も、水にはなっていない。


誰も、消えていない。


初めてだった。


この力で、誰かを傷つけるんじゃなく、

誰かを守れたのは。


その震えを、まだうまく飲み込めないでいると。


「やっぱり君、超能力者じゃないか!」


朝日奈の声が、路地に明るく響いた。


藤野は顔をしかめる。


「……うるさい」

「しかも今のは見事な連携だったぞ!素晴らしい初共闘だ!」

「勝手に共闘にするな」

「いやしかし、君の力……」


藤野は吐き捨てるように言った。


「ああ、そうだよ。俺は触れたものを水に変えられる」


朝日奈が目を丸くする。


「地味で笑えるだろ。お前みたいに派手な戦いもできないし、誰かの役にも立てない。分かったら、仲間探しは他を当たってくれ」


「……す、」


「?」


「素晴らしい力じゃないか!!」


「……へ?」


朝日奈がずいっと身を乗り出す。


「水は万物の祖、生命の源! すべての生物は水なしでは生きていけない! しかも応用次第では無限の可能性がある! たとえばゴミや有害物質、毒物なんかを水に変えられるなら、それはもう環境保全にも医療にも――」


ぶつぶつと語り始めた朝日奈を見て、藤野はぽかんとする。


「……でも、だって、うまく制御もできない。こんな力でどうやって戦えって言うんだよ」


どうやって、お前の隣を歩けばいい。


言葉にはしなかったが、その思いは確かに胸の奥にあった。


すると朝日奈は、迷いなく言った。


「そんなことは、これから考えていけばいい!」


「……え」


「一緒に見つけよう!」


朝日奈はまっすぐ藤野を見る。


「君の力は、間違いなく人の役に立つさ。現に、さっきオレは君の力に助けられた」


その言葉に、藤野の目がわずかに揺れた。


朝日奈は力強く笑う。


「強きは弱きのために! オレと一緒に世界を平和に導こうじゃないか、藤野くん!」


そう言って、手を差し出した。


「……っ」


藤野の肩がびくりと揺れる。


反射的に、一歩後ずさった。


朝日奈はきょとんとして差し出した手を止める。


「……あ。もしかして、触れない方がいいのか?」


「!」


藤野は息を呑んだ。


とっさに誤魔化そうとしたが、うまく言葉が出てこない。


少しの沈黙のあと、視線を逸らしたまま、低く呟く。


「……昔、ちょっとあって。……人に触るのは、苦手なんだ」


朝日奈はその言葉を、茶化しもせずに受け止めた。


「そうか」


ただ、それだけを静かに言う。


余計に踏み込んでこないその反応に、藤野は少しだけ拍子抜けした。


朝日奈は差し出していた手を引っ込めると、代わりにいつものように明るく笑った。


「だが、それでも君の力がすごいことに変わりはない!」


「……え?」


「さっき君は、その力で人を助けた。

それだけで十分だ!」


藤野は言葉を失う。


自分ではずっと、呪いみたいな力だと思っていた。

誰も幸せにできないと思っていた。


なのに。


「……そんなふうに言うやつ、初めてだ」


気づけば、小さくそう漏れていた。


朝日奈はにっと笑う。


「なら、これからはオレが何度でも言おう!」

「いや、それはいい…」


その笑顔に、藤野は思わず目をそらす。


そこへ、おずおずと、あのいじめられていた生徒が近づいてきた。


「あの……さっきは、本当にごめん。お礼を言いたかったのは、本当なんだ」

「……別に、お前が謝ることじゃないだろ」

「で、でも……助けてくれて、ありがとう……!」


深く頭を下げるその姿に、藤野は少しだけ困ったように目をそらす。

朝日奈はそんな彼に、にかっと笑いかけた。


「今度こそ、無事でよかった!」

「は、はい……!」


そして朝日奈は、改めて高らかに宣言した。


「それでは改めて――超常秘密結社××部、始動だ!!」


びしっと指を突き上げる。


「さっそく生徒会に、部活立ち上げの申請をしに行こう!!」


「ところで」


藤野が冷静に口を挟む。


「部活って、最低人数三人からなのは知ってるよな?」


「……あ」


朝日奈の動きが止まる。


「見つけなければ!!! もう一人の社員を!!」


「……部員、じゃないのか」


藤野が呆れたように呟く。


その時、通りの向こうを、ひとりの女子生徒が歩いていくのが見えた。


夕陽に照らされ、黒髪がふわりと揺れる。

まっすぐすぎない、やわらかな毛先。

その姿は目を引くのに、不思議と静かな存在感があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ