「王国陰謀編」第一章 「首都へ」5ー司祭ー
――突如、微睡み(まどろみ)の闇を切り裂いて、澄んだ声が脳裏へ直接響き渡った。
『ダム……ダム=ダール……目覚めなさい』
「ん……だ、誰だ……?」
意識が夢と現の狭間を揺蕩う中、ダムは重い声を漏らした。
『あなたの助けを必要とする者がいます……』
その言葉と同時に、脳裏へ見知らぬ青年の顔が鮮明に浮かび上がる。
青ざめた顔。
苦痛に歪む表情。
そして――。
「誰だ、こいつは……?」
『あなたと共に歩む者――』
次の瞬間、その青年が血に染まり、漆黒の森へと崩れ落ちる情景が視界をよぎった。
「どういうことだ!? 一体、何が起きている!」
『さあ、行きなさい、ダム。彼を救い、共に歩むのです』
「お前は誰だ!? なぜ俺にそんな告げ告白をする!?」
『私はエルウス。運命の神ルークと共に、あなたを見守る者……。行きなさい。グドが待っています』
「グド……?」
その名を最後に、声は途絶えた。
ハッと息を呑み、ダム=ダールは跳ね起きるように目を覚ました。
窓から差し込む陽光の位置からして、すでに正午近くになろうとしている。
「……夢、だったのか?」
冷や汗を拭いながら、ダムは呟いた。
だが、ただの悪夢と片付けるには、あまりにも鮮烈だった。
何より――。
自らが信仰する幸運の神ルークだけではない。
この聖王国エーデルンにおいて主神と崇められる、至高神エルウスの名までが与えられたのだ。
もしや、真なる神託(お告げ)ではあるまいか。
ダムは胸騒ぎを覚えると、すぐさま旅立ちの身支度を整え始めた。
彼が暮らすのは、聖王国エーデルンの首都エーデル――その北東区画、ルーク神殿のほど近くに建つ、こぢんまりとした一軒家である。
ダムは十年前、この街へやってきたドワーフ族のルーク神の司祭だった。
亡き師の親友であるキムがこの地で布教活動を始めるにあたり、その助力をするために身を寄せたのが始まりだった。
天涯孤独の身で聖職者となったダムにとって、それが実質的な最初の仕事でもあった。
長年の地道な苦労が実を結び、今では信徒も増え、生活も安定している。
本来ならば、キムが最高司祭、ダムが副司祭に就く手筈であった。
しかし、ダムはその地位を固辞した。
かつての師のように、身分や立場にとらわれず、悩める人々へ分け隔てなく手を差し伸べたかったからだ。
キムもまた、ダムの志と亡き友への敬意を汲み、彼を自由な下級司祭のままにしていた。
聖王国エーデルンは、主神エルウスを掲げつつも、他宗教に対して非常に寛容な国である。
ゆえに首都エーデルには、多種多様な神々の神殿が立ち並んでいた。
もっとも、都市の秩序を保つため、神殿の建立が許可されているのは、城の存在する北東区画のみと定められている。
そして当然ながら、世に害をなす邪教の存在は固く禁じられていた。
一般にエーデルで信仰される主な神々は、主神エルウスを頂点とし、その傘下に配される「六神将」である。
秩序と法を司る「光の神将シャール」。
破壊と混沌を司る「闇の神将ダルク」。
戦と勝利を司る「力の神将ビグロス」。
叡智を司る「知の神将エルリース」。
技と婚姻を司る「技の神将ジーク」。
そして、ダムが奉る幸運と商業の神――「運の神将ルーク」。
エルウスなる神は、独自の意志を持つ至高の存在であり、宗教学者からは時に「自由の女神」とも称される。
自らを崇める者には絶大な加護を与える一方、信仰を怠れば容赦なく天罰を下す。
その気まぐれな側面ゆえに、人々から敬愛と畏怖の双方を集める神でもあった。
祈りを捧げ終えたダムは、導かれるように家を出た。
足は迷うことなく、街の南門へ向かっていく。
(……なぜ俺は南門を目指しているんだ? これも神のお導きという奴なのかねぇ)
南門へ着くと、見知った門番の青年に声をかけた。
「カイ、元気にやっておるか?」
「うわっ!? だ、ダムさん! 驚かさないでくださいよ~!」
振り向いた門番のカイに、ダムは胸の前で手を結び、悪戯っぽく笑った。
「不信心者のカイ殿にも、ルーク様の幸運があらんことを」
「もー、勘弁してくださいよ……」
カイは苦笑いしながら頭を掻いた。
数年前、強盗犯との戦いで瀕死の重傷を負ったカイの命を救ったのが、たまたま通りかかったダムだった。
以来、カイはルークの信徒となった。
しかし最近は門番の仕事が忙しく、神殿へ参拝する機会も減っていたため、恩人であるダムにどこか気まずさを感じていたのである。
「で、今日はどんなご用で?」
「ふふ、カイ。『私にご用』とは、畏まったな」
「うう……からかわないでくださいよ」
「よいのだ。忙しくて参拝に来られぬことなど分かっておる。気にするな」
ダムの温かな言葉に、カイはホッと胸を撫で下ろした。
「それで……こんな南門まで、一体なにを?」
「ルーク様のお導きがあってな。近くの森まで、少し確かめに行ってくる」
「ルーク様の……? 分かりました。どうかお気をつけて!」
「うむ。では、またな」
門をくぐり抜ける。
するとダムの足は、まるで何者かに手引きされているかのように、迷いなく鬱蒼とした森の中へ進んでいった。
(間違いなく、俺の意志だけで歩いているんじゃないな……)
森へ踏み入って十分ほど進んだところで、不意に足が止まった。
耳を澄ませる。
木立の奥から、途切れ途切れの呻き声が聞こえてきた。
「……!」
ダムは即座に駆け出した。
そこに倒れていたのは――。
今朝の夢と寸分違わぬ、血に塗れた一人の青年だった。
駆け寄り、脈を確かめる。
一刻の猶予もない重体だった。
だが、ダムは慌てなかった。
静かに膝をつき、癒しの詠唱へ入る。
「大いなる慈悲の神よ、我が手に癒しの光を授け給え――『神聖治癒』」
ダムの掌から眩い聖光が溢れ出し、青年の全身を包み込む。
特に深い傷口へ丹念に光を注ぎ込むと、数分と経たぬうちに血は止まり、痛々しい傷痕は見事に塞がっていった。
命の危機は脱した。
しかし、体力を使い果たした青年は、そのまま深い眠りへと落ちていった。
――やがて、夕闇が森を茜色に染め始める頃。
「う……く……ここ、は……? 俺は、一体……」
青年がゆっくりと瞼を開いた。
「静かに。無理に動いてはならんよ。君は先ほどまで、命の危険に瀕していたのだからな」
「あ……あんたは……?」
「わしはダム。ダム=ダール。ルーク神の司祭じゃよ。まあ、わしくらいの腕の司祭でなければ、あの重傷は救えなかったやもしれんがな」
その言葉を聞いた瞬間、青年の瞳に狂乱と絶望の色が走った。
「エ、エイラスさんは!? アルさんは!? ワーグさんは!? リリスさんはどこだ!? みんなはどうなったんだよッ!?」
「落ち着きなされ! 何があったかは知らんが、ここには君しかおらん!」
「なんで……なんで俺だけが生き残ってるんだ!? あれは……あの洞窟で、俺たちは……ッ!」
青年は頭を抱え、獣のような慟哭を上げた。
ダムは、その姿を見て悟った。
仲間と共に凄惨な惨劇に巻き込まれ、彼ひとりだけが生き残ったのだ。
ダムは青年の錯乱した精神を静めるため、穏やかな呪文を唱えた。
「慈悲なる神よ、この者の心に静寂を与え給え――『平静の息吹』」
魔法の温もりが、青年の興奮を和らげる。
だが、原因である絶望そのものが消えたわけではない。
ダムは力強い眼差しで青年の目を見つめた。
「心を強く持ちなされ。君が取り乱したところで、過ぎ去った現実は何ひとつ変わらんのだ」
温かくも厳しいその言葉に、青年はしゃくりあげながらも、必死に感情を押し殺すように頷いた。
「……助けてくれて……ありがとうございます。僕の名前は……グド=ンと言います……」
「そうか。グドというのか」
ダムは、少しだけ表情を和らげた。
「……すっかり日も暮れてきた。よければ、わしの家へ来ないか? 温かいスープと美味い酒、それにふかふかの毛布もあるぞ」
立ち上がったダムが大きな手を差し出す。
グドは涙を拭うと、その手を固く握り返した。
服は血と泥でボロボロ。
怪しい男を連れているとあって、街へ入るまでに何度も衛生兵に制止されるという一幕もあった。
それでも、顔の広いダムの説得によって、二人は無事に帰宅することができた。
「さあ、これに着替えなさい。奥に風呂もある。体を洗って、さっぱりするといい」
ダムが渡したのは、手持ちの中でもっとも大きな仕立ての服だった。
だが、風呂から上がってきたグドの姿を見て、ダムは思わず酒を吹き出した。
「ぶふっ! ……やはり、丈が足りなかったか!」
「す、すみません……。袖や胸元は入ったんですが、丈が短くて……」
申し訳なさそうにするグドに、ダムは豪快に笑った。
「気にすることはない! 人間とドワーフでは、根本的に体型が違うからのう! 背が低くて横に広いドワーフの服では、背の高い人間につんつるてんになって当然じゃ!」
重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
すっかり夜も更ける頃、ダムは秘蔵の食材を振る舞い、豪勢な夕食を作り上げた。
落ち込んでいたグドだったが、ダムの優しさに報いるように料理を口へ運ぶ。
「……うまいです」
その一言を、噛みしめるように呟いた。
食後、ダムは友人特製の極上酒を杯に注いだ。
「さあ、飲みなされ。飲む者の気分に合わせて、酔い心地を変えてくれる名酒じゃ」
温かな料理と酒が身体に染み渡り、少しずつグドの強張った表情が解けていく。
ダムは静かにパイプの煙をくゆらせながら、語りかけた。
「……グドよ。よかったら、何があったのか話してはくれんか?」
グドの身体が、再び固く強張った。
「いつまでも、過去の闇に立ち止まっているわけにはいかんじゃろう」
ダムは煙を吐き出し、静かに続ける。
「……わしは今朝、夢を見た。君が血に染まり、森に倒れている夢をな。そして、エルウス様のお声を聞いたのだ」
ダムは、グドをまっすぐ見つめた。
「『お前は彼と共に歩む者だ』とな」
「エルウス様が……?」
「そうじゃ。だからこそ、わしは君を救えた。話してくれんか。君がどうしてここへ来たのかを」
グドは深く息を吐き出した。
そして――。
冒険者になった理由。
エイラスたちとの出会い。
ダークウッドの森での決戦。
そして、洞窟の奥で起きた恐ろしい結末までを、すべて語り明かした。
……死術師カルファスの卑劣な罠。
魔法を封じられ、圧倒的な暗黒の力の前に次々と倒れていった仲間たち。
そして最後に――。
リーダーのエイラスは、グドの腕に「謎の腕輪」を嵌めた。
自らの命と引き換えに転移魔法――あるいは脱出の秘術を発動させ、駆け出しのグド一人だけを森の外へと逃がしたのだった。
「……そんな悲劇があったとはな」
ダムは深く嘆息し、グドの肩へ温かな手を置いた。
「グド、生き残ったことを恥じてはならん。君が生き残ったのは、まだ果たすべき使命があるからじゃ。仲間たちの死を、無駄にしてはならん」
「でも……俺だけが……何もできなかった俺だけが生き残るなんて……!」
「わしも昔、自分の運命を呪ったことがある」
ダムは静かに語り始めた。
「だが、ある老人がわしを救い、こう言ってくれたのだ。『今度はお前が人を導く番じゃ』とな」
そして、グドへ手を差し出す。
「……グド。わしと共に歩もう。そして、君がこれからなすべきことを見つけるのだ」
ダムが差し出した無骨で温かな手を、グドは涙を流しながら両手で強く握りしめた。
「わしらは運がいい。必ずやり直せるさ。ルーク様の幸運も、エルウス様のご加護もあるのだからな!」
その言葉が、深い闇の中にいたグドの胸へ、ほんの小さな灯火をともした。
こうして――。
一人の若き戦士と、一人の老いた司祭。
本来なら交わるはずのなかった二人の道が、神々の導きによって重なり始めたのである。




