「王国陰謀編」第一章 「首都へ」4ー戦士~ダークウッドの森の決戦~ー
――カシーン、カシーン……。
鋭く澄んだ金属音が、しとしとと雨に濡れる深い森の静寂を破り、木々の間へと響き渡っていた。
城塞都市エーデルから南へ下った場所に広がる密林――“ダークウッドの森”。
音の発生源は、森の入り口から少し踏み込んだ木立の中にあった。
そこには、赤黒い血を流して伏せる三匹のオークの骸と、すでに冷たくなった一人の人間の遺体。そして、武器を手に佇む五人の冒険者――四人の男と一人の女の姿があった。
彼らがこの森へ踏み入ったのは、ほんの一時間ほど前のことだった。
突如として現れたオークの奇襲を受けたものの、鍛え上げられた猛者揃いの彼らにとって、三匹程度の敵を退けることなど、本来ならば容易いはずだった。
しかし――戦いには勝利した。
それでも、代償はあまりにも大きかった。
予期せぬ形で、仲間の一人が命を落としたのである。
沈黙を破り、リーダーを務める戦士エイラスが重々しく口を開いた。
「倒れたのは……ケイか。悲しいが、立ち止まっている暇はない。依頼の遂行に支障はないはずだ。急ごう。ここに留まっていても、惨劇を繰り返すだけだ」
淡々とした言葉だった。
だが、その声の奥にあるものを、誰もが感じ取っていた。
聖職者の法衣を纏った女性――リリスが、取り乱したように叫ぶ。
「ケイをこんな場所に置き去りにするっていうの!? まるで……まるでケイが役立たずだったみたいじゃない! エイラス、今すぐ街へ引き返せば、蘇生魔法で命が助かるかもしれないのよ!?」
「エイラス……俺もリリスと同じ意見だ。街へ戻って、彼女を救う手立てを探さないか?」
夫である戦士ワーグも、妻を庇うように申し出た。
しかし、エイラスは静かに首を横へ振る。
その瞳には、深い苦悩が滲んでいた。
「村人の話が確かであるなら、この討伐を終えて帰還しても十分に間に合うはずだ。……それに、今の俺たちには街へ戻ったところで、蘇生の儀式を執り行うほどの金もない。往復するだけの時間も余裕もないんだ」
エイラスは一度、倒れたケイへ視線を向けた。
「俺たちが選べる道は、ただ一つ……真っ直ぐ進み、この仕事を完遂して報酬を得ることだけだ。リリスの気持ちは痛いほど分かる。だが……今の俺たちには、それが限界なんだ」
決然と言い放ち、エイラスは森の奥へと視線を向けた。
彼らがパーティーを結成して、すでに三ヶ月。
これまで幾多の修羅場を潜り抜けてきた。
それでも、犠牲者を出したのは今回が初めてだった。
命を落としたケイは、「世界一の女盗賊」を自称する軽妙な性格の持ち主だった。
重苦しくなりがちな一行の雰囲気を和らげてくれる、かけがえのないムードメーカー。
だからこそ、その場所に彼女がいないことが、今になって痛いほど身に沁みていた。
もう一人の女性――リリス=シフォンは、至高神エルウスに仕える僧侶であり、戦士ワーグ=シフォンの妻でもある。
温厚な性格の彼女だが、聖職者であるがゆえに、命の尊厳に対する想いは人一倍強い。
だからこそ、冷徹とも取れるエイラスの判断に、珍しく感情を剥き出しにしたのだった。
ワーグは、そんな妻の優しさを愛していた。
そして、生涯守り抜くと心に誓っている。
一度は冒険者を引退し、静かな暮らしを送っていた二人だった。
しかし三ヶ月前、旧知のエイラスから強く頼み込まれ、再び前線へと戻ってきたのである。
パーティーの頭領――エイラス=ク=パルマ。
ベテランの戦士でありながら、神聖魔法をも操る「聖騎士」に近い存在。
彼は数年前から、とある凶悪な事件の影を追い続けていた。
その最初期からエイラスと行動を共にしているのが、滅多に口を開かない凄腕の魔術師――アル=イル=アルだった。
そして最後の一人。
若き戦士、グド=ン。
彼は半年前、奇跡的にエイラスの危機を救ったことをきっかけに、旅の仲間へと加わった。
その恩義から、エイラスに「望みを言え」と問われたグドが返した答えは、ただ一つ。
――「一人前の戦士になりたい」。
それだけだった。
エイラスとアルの二人だけでも、大抵の依頼はこなせる。
それでも、駆け出しだったグドを育てるため、そして互いの力を補い合うために、バランスの取れた仲間たちが集められたのだ。
最近ではグドも一人前に戦えるようになり、エイラス自身も、賑やかな仲間たちとの時間に救われていた。
だからこそ――。
この不運な惨劇は、あまりにも重かった。
「……さあ、急ごう。オークどもを一掃して、一刻も早く街へ戻るぞ」
エイラスは胸の奥に渦巻く感情を押し殺し、静かに気合いを入れ直した。
(ケイ……少しの間だけ、ここで待っていてくれ)
一行は、静まり返った森の奥へと足を進めた。
今回の依頼内容は至って単純だった。
ダークウッドの森周辺を脅かすオークの群れ――およそ二、三十匹程度の討伐。
ただ一つ気になる噂があった。
群れを率いるボスが、通常のオークの倍近い巨体を誇るというのだ。
討伐報酬が高額だったこと。
そして、グドの実戦訓練にも最適だと判断したエイラスが、この仕事を引き受けたのである。
しかし、歩を進めながらも、エイラスの胸には懸念が渦巻いていた。
先ほどの奇襲。
――なぜ、アルの『敵意探知』に反応しなかったのか。
アル自身も不審感を拭えぬまま、より精神を研ぎ澄ませ、探索呪文を再展開していた。
敵意や殺意を感知するこの探索術は、アルほどの熟練者であれば、敵の正確な位置や数、さらには種族すら特定できるはずなのだ。
それなのに、先ほどのオークたちは探知をすり抜けた。
その事実が、エイラスの胸に小さな不安を残していた。
不意に、アルが低く鋭い声を上げた。
「エイラス、敵だ」
アルは深く目を閉じ、集中力を高める。
「前方から十。左右の木立から、それぞれ五だ!」
「アルは前方の十を叩け! ワーグとグドは右の五匹を! 左は俺が引き受ける。リリス、援護を頼む!」
エイラスの指示と同時に、グドを除く四人が即座に詠唱へ入った。
最初に紡ぎ終えたのは、リリスだった。
「至高なる神エルウスよ、我ら聖なる使徒に祝福を与え給え――『聖なる祝福』!」
一瞬にして、全員の身体と武器が神聖な光に包まれる。
攻撃力、防御力、回避率を高める最上級の支援魔法。
リリスは間髪入れず、次の詠唱へと移行した。
続いて、魔術師アルの呪文が完成する。
「空間に集いし力よ、我が意思に従い消失せよ――『空間消滅』!」
アルが得意とする、高位の空間破壊魔法。
詠唱が終わると同時に、前方の空間が一瞬だけ歪み、眩い閃光を放った。
次の瞬間――。
そこに存在していた樹木もろとも、十匹のオークが跡形もなく蒸発し、消滅していた。
下級の妖魔に、抗う術など存在しなかった。
右手に陣取ったワーグの呪文が追いつく。
「大いなる炎の精霊よ、我が剣に宿りて敵を討て――『火炎付与』!」
ワーグの長剣が、真紅の業火を吹き上げる。
そして、エイラスの詠唱が響いた。
「至高なる光よ、剣芯に宿れ――『光華授与』!」
エイラスの掲げた光は、彼自身の剣ではなく、傍らに立つグドの剣へと宿った。
呪文を使えないグドのために、エイラスはあえて自らの魔法を仲間へと授けたのだ。
「ルゴォアッ!」
前方の十匹が一瞬で消し飛ばされたことで、左右の木立からオークたちが奇声を上げて飛び出してきた。
奇襲を仕掛けたつもりが、逆に完全な待ち伏せを受けたことに混乱している。
エイラスは、その隙を見逃さなかった。
左手から飛びかかってくる五匹のオークを視界に収め、静かに剣を構える。
次の瞬間――。
エイラスの姿が掻き消えた。
刹那。
オークたちの背後に、五人のエイラスが同時に現れた。
そして――一閃。
五匹のオークは反撃の間すら与えられず、一刀両断にされて崩れ落ちた。
目にも留まらぬ超高速の多重分身斬撃。
標的となったオークたちは、敵を見失った瞬間には、すでに命を奪われていた。
勝敗は一瞬で決した。
ワーグの振るう炎の剣が二匹のオークを焼き払い、グドも光を纏う剣で苦戦しながら二匹を撃破。
最後の一匹が逃げ出そうとした瞬間、アルが放った麻痺呪文によって捕縛された。
戦闘開始から、わずか数分。
エイラスたちの圧倒的な勝利だった。
「みんな、怪我はないか?」
戦況を確認しながら、エイラスはアルへ振り向いた。
「今度は探知できたな、アル」
「ああ……。だが、なぜ最初の奇襲の時に反応しなかったんだ? 確かに探索呪文は展開していたはずなのに……」
アルは深緑の森の奥を見つめ、思慮の海へと沈んでいく。
「まあいい。少し休息したら進もう。グド、そのオークを縛っておいてくれ」
「はい! ……あ、アルさん。このオークを殺さないのは、どうしてですか?」
「残りの敵はあと数匹だ。おそらく巣穴に潜んでいる。こいつに案内させる」
「えっ、オークを操れるんですか!?」
「言葉を通わせるのは無理だが、精神を操作するのは容易い。深層心理に直接命令を書き込めば、忠実な道案内になる」
目を丸くするグドを見て、アルの唇がわずかに緩んだ。
それは、この旅の中で彼が見せる、ほんの小さな笑みだった。
縛られたオークを先頭に立たせ、一行は森の深部へと進んだ。
やがて姿を現したのは、岩肌が窪んだ不気味な洞窟の入り口だった。
アルに操られたオークが、吸い込まれるように穴の中へ入っていく。
「どうやら、ここが奴らの巣窟のようだな」
エイラスが呟いた、その直後――。
洞窟の奥から、凄まじい惨叫が響き渡った。
次の瞬間。
先ほど中へ入ったオークが、血だるまとなって跳ね飛ばされてきた。
「なっ!?」
エイラスたちは即座に武器を構え、警戒を強める。
リリスが防護の詩を詠唱し始める。
だが、アルは呪文を唱えようとはしなかった。
その顔に、初めて明確な恐怖が浮かんでいた。
「……探知できない。ケイが殺された時と同じだ。魔法の波長が遮断されている!」
常に冷静なアルの顔に、焦燥と恐怖の影が走る。
さらに、詠唱を続けていたリリスが絶望的な悲鳴を上げた。
「呪文が……効かない!? 神の御声が……エルウス様のご加護が届かないの!」
「全員、背中を合わせろ! 敵の強襲に備えるんだ!」
エイラスが叫んだ、その時――。
物理的な音ではなかった。
彼らの脳内へ直接、悪意に満ちた声が響き渡った。
『クックック……諸君、遠路はるばるご苦労だったね。お陰で私の可愛い従者どもも、残すところあと一匹になってしまったよ』
『だがね……魔法を封じられた諸君に、果たしてこいつが倒せるかな? もし倒せたなら、私自らが直々に葬ってあげようじゃないか』
声の余韻が消えぬうちに、洞窟の暗がりから巨躯がのしのしと姿を現した。
日光の下に晒されたその姿は、単なる巨人ではない。
それは禍々しい気を放つ――“ジャイアントオーク”と呼ぶべき、狂気の生命体だった。
『そう、その通り。私が作り上げた至高の魔獣……ジャイアントオークだ。それだけではない力を、身をもって知るがいい!』
「みんなは下がっていろ。こいつは俺がやる」
エイラスは低く告げると、大剣を手にゆっくりと歩み出した。
「……エイラスに任せよう。下がるんだ」
アルの言葉に従い、仲間たちは息を呑んで戦況を見守った。
巨獣は、目の前に立ちはだかるエイラスを視認するや、驚異的な跳躍を見せた。
一瞬にして間合いを詰め、着地と同時に丸太のような腕を振り下ろす!
だが、エイラスはその一撃を紙一重でかわした。
すぐさま怪物の背後へ回り込み、脳天から一刀両断にすべく大剣を振り下ろす――!
しかし。
そこで、信じがたい光景が起きた。
ジャイアントオークは振り返りもせず、後ろへ回した巨腕でエイラスの剣刃をがっちりと受け止めたのだ。
「……くっ!」
驚愕したエイラスは即座に後方へ跳躍し、追撃の払い打ちを間一髪でかわした。
間合いを取り直したエイラスの額に、汗が伝う。
怪物はこちらの動きを完全に見切っているかのように、悪魔のような笑みを浮かべていた。
エイラスは握っていた盾を、地面へ投げ捨てた。
そして両手で大剣を握り締め、自らの背中へぴたりと沿わせる独特の構えを取る。
正面からは剣先すら見えない。
無防備にも思える、奇妙な体勢だった。
「……出るぞ」
アルが呟く。
「エイラスの真の奥義が」
次の瞬間。
エイラスの全身から凄まじい気魄が立ち昇り、髪が逆立った。
彼の周囲に激しい大竜巻が巻き起こり、ジャイアントオークの巨躯を丸ごと飲み込む。
「グガアアアッ!?」
絶叫を上げる怪物は、竜巻の真空圧力によって手足を広げたまま、身動きを封じられた。
「奴はもう動けない……!」
アルが呟いた。
グドには、それが魔法なのか技なのか理解できなかった。
ただ、エイラスが放つ圧倒的な気迫に、息を呑む。
「はあああああッ!」
エイラスの咆哮とともに、背に沿わせていた大剣が閃光となって振り下ろされた――。
エイラスと怪物の間には、十数メートルもの距離があった。
しかし――。
「世界が割れた」
その場にいた誰もが、自らの目を疑った。
空間そのものが切り裂かれ、その一線上に存在していたジャイアントオークの巨体までもが、縦真っ二つに断裂したのである。
数瞬の後。
両断された怪物の肉体は、周囲を渦巻く竜巻によって木端微塵に切り刻まれ、肉片となって森へ飛び散った。
エイラスは剣を収めることなく、洞窟の暗がりを見据えて大声を張り上げた。
「カルファス! 貴様なんだろ!? 姿を現せ!」
グドたちが駆け寄り、エイラスの背後に身構える。
『クックック……流石だな、エイラス。すでに気づいていたとは、つまらん奴だ。もう一つ趣向を凝らした演出を用意していたのだがな』
『まあいい。洞窟の中へ入ってくるがいい。死の宴で歓待してやろう』
「エイラス、どうするんだ……?」
ワーグが緊張した面持ちで尋ねる。
「カルファスは強い。奴が絡んでいるなら、アルの魔法や探知が封じられたのも頷ける。……カルファスはアルの元師であり、その魔力は今なおアルを凌駕しているのだからな」
エイラスの視線を受け、アルは固い表情で頷いた。
「それでも……行くんだろ?」
「ああ」
エイラスは仲間たちの顔を見回した。
「……どうやら、ここで引き返せと言っても、聞く奴はなさそうだな」
「一人で行くつもりだったのかい?」
ワーグが苦笑する。
「これは、僕自身の過去の清算だ」
アルが瞳に炎を宿す。
「私だって戦えます! ケイの無念を晴らさなきゃ!」
リリスが叫ぶ。
「エイラスさんになら、どこまでもついていきます!」
グドが剣を握り直す。
「まったく……どいつもこいつも、命の大切さを分かってないな」
呆れたような言葉とは裏腹に、エイラスの表情には温かな絆の笑みが浮かんでいた。
だが、感傷に浸る時間はない。
エイラスはふとグドに向き直ると、怪しげな紋章が刻まれた古い腕輪を突きつけた。
「グド、これを持っていろ。万が一の時、お前を助けてくれるはずだ」
「えっ……? これは一体……?」
「時が来れば分かる。いいから持っておけ」
なぜこの時、自分だけにこの腕輪が託されたのか。
グドがその本当の意味を知るのは――ずっと後のことであった。
「よし……洞窟に入る前に、奴の正体を話しておこう」
エイラスは洞窟の闇を見つめたまま、静かに語り始めた。
「“死術師カルファス”――その名の通り、死を操る禁忌の術に長けた暗黒魔導士だ。数年前、北方の都市エルクが一夜にして死霊の街と化した事件を覚えているか? あれは奴の仕業だ。俺はその時から奴を追っている。アルと出会ったのも、その時だ」
「師匠は……昔は慈愛に満ちた、素晴らしい魔導士だったんだ」
アルが悔しさを滲ませながら引き継ぐ。
「……だが、不慮の事故で奥さんと幼い子供を失った。神に祈り、蘇生を願ったが……失敗に終わった。絶望した師匠は神を捨て、悪魔に魂を売った。暗黒道に堕ち、心が歪んでしまったんだ」
アルは拳を握り締めた。
「僕が……僕が師匠を止められなかったから、エルクの悲劇が起きてしまった……!」
「過去を悔やんでも始まらない」
エイラスはアルの肩を強く叩いた。
「図らずも、奴を追い詰める形になった。奴は、自分が負けるなど微塵も思っていないはずだ」
エイラスは仲間たちを見渡した。
「これ以上の犠牲を増やすわけにはいかない……ここで断ち切るぞ!」
「「「おお!!」」」
その時、リリスが再び祈りを捧げ始めた。
静かな祈りの言葉が、洞窟前の空気を震わせる。
やがて、全員の身体と武器が神聖な光を帯びていった。
「さあ、行きましょう! 私の祈りは……もう途切れません!」
リリスは力強く微笑んだ。
結界を打ち破り、神の加護を取り戻したことを、自らの祈りによって証明してみせたのだ。
「よし……行くぞッ!」
エイラスを先頭に、決意を胸に秘めた五人の冒険者は、黒い死の気配が渦巻く洞窟の暗がりへと突入していった。




