「王国陰謀編」第一章 「首都へ」3ー盗賊見習いー
その日は、朝からしとしとと不気味な霧雨が降り続いていた。
午後を迎える頃には深い濃霧が街全体を呑み込み、わずか一メートル先すら見通せぬほどの濃密な白に包まれている。
だが、この時期のエーデルにおいて、このような陰鬱な雨に見舞われることは、決して珍しいものではなかった。
城塞都市エーデルの南西角。
その一角にある、とある小道具屋の二階で、一人の男が窓辺に佇んでいた。
「小柄な人間」という形容が、これほど似つかわしい種族もない。
草原の妖精とも称される種族――グラスランナー。
そのグラスランナーの男、ロブ=ノールは、窓の外で煙る雨景色を静かに眺めていた。
彼がこのエーデルの街へ流れ着いてから、かれこれ十年になろうとしている。
雨に煙る街並みを見つめながら、ロブの意識は遠い過去へと揺蕩っていった。
(そういえば……ログが死んだのも、こんな雨の日だったっけな)
ロブには、ログという双子の弟がいた。
故郷であるグラスランナーの村を捨てたのも、その弟の死がきっかけだった。
唯一の肉親を失ってから、すでに十五年。
それだけの歳月が流れてもなお、こうした雨の日になると、ロブは亡き弟を思い出す。
そして、自分が今歩んでいる人生について、ふと疑問を抱くのだった。
もし、ログが生きていたなら――。
故郷を離れることもなく、弟の世話を焼きながら、平々凡々とした穏やかな日々を過ごしていたのかもしれない。
(俺がこんなところで油を売ってるのも……全部、ログがいなくなったからなんだよな)
自嘲めいた思いが、胸の奥をかすめていく。
城塞都市エーデルの南西領域。
王城からもっとも遠く離れたその一角には、街の裏社会を束ねる盗賊たちの集合体――「シーフギルド」が存在していた。
表向きの法を司る王国であっても、裏の秩序を統括する彼らの存在を暗黙のうちに認めることで、かえって都市の円滑な運営を保っていたのである。
ゆえに、この区画に居を構える住民の大半はギルド関係者だった。
ロブもまた、その例外ではない。
もっとも――。
彼は未だ一度として正式な依頼をこなしたことのない、単なる住み込みの見習いに過ぎなかった。
過去の感傷に浸っていたロブの意識を、不意に階下から響いてきた声が現実へと引き戻した。
「ロブー!」
「ロブ! 上にいるのか?」
小道具屋の店主であり、ロブの居候先の主でもあるキールの声だった。
「はいはい! いますよーっ!」
ロブが部屋の扉を開ける。
すると、階段を上ってきたキールが、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「おい。ワシをお前ごときに『親父さん』などと呼ばれたくはないぞ」
「親父さん、どうかしたんですか?」
ここ一週間ほど、顔を合わせるたびに繰り返されている、お決まりのやり取りだった。
原因は至極単純。
――なんと、この二人はまったくの「同い年」だったのである。
外見だけを比べれば、誰の目から見ても「おじいさんとその孫」にしか見えない。
しかし、それこそが異種族の間に横たわる、決定的な隔たりだった。
人間に比して約三倍の寿命を誇るグラスランナーのロブ。
そして、人間としてはすでに人生の終盤へ差し掛かっているキール。
十年もの間、寝食を共にしておきながら、キールがロブの本当の年齢を知ったのは、ほんの数日前のことだった。
二人が同じ「六十歳」だと聞かされた時のキールの愕然とした表情は、相当なものだった。
だが、事実である以上、文句のつけようもない。
以来、キールは、
「同い年の奴から『親父』などと呼ばれてたまるか!」
と腹を立てている。
しかし、十年間の習慣というものは恐ろしい。
ロブの口からは、今日もまた自然と「親父さん」という言葉が飛び出していた。
「あ……すいません」
ロブは頭を掻き、ばつが悪そうに縮こまる。
「で、用事って何ですか? 親父……っと」
「……」
言いかけて慌てて口を押さえるロブ。
キールは呆れ果てたように深々と溜息をついた。
「もういい。お前を呼んだのは他でもない」
そう言って、表情を改める。
「最近、ギルド員が極端に減り始めているのは知っておろう?」
「え? そうなんですか?」
「ああ。おかげで深刻な人手不足でな。それで……その、ギルドがお前にも仕事を頼みたいらしいのだ」
「えっ、俺に!?」
ロブの顔がぱっと輝いた。
「ああ。お前がまだ正式なギルド員ではない見習いだということも、承知の上での指名だそうだ。詳しい話は、シーフギルドの本部で直接聞いてくれとのことだ」
キールはそこで言葉を切り、ロブを見つめた。
「何にせよ……よかったな、ロブ」
その言葉に、ロブは手放しで喜んでいいものかどうか、少しだけ戸惑った。
「正式なギルド員でないことを承知の上で」。
その言葉の裏に、どのような意図や危険が潜んでいるのか。
この時のロブには、知る由もなかった。
ただ一つ確かなことがある。
これが、彼にとって記念すべき――「初仕事」になるということだった。
ロブは最低限の身支度を整えると、愛用の道具袋を肩に担いだ。
「キール、それじゃ行ってくるよ!」
「ああ……気をつけてな」
店を出ていく小さな背中を、キールは重苦しい表情で見送った。
やがて、ロブの姿が雨煙の向こうへ消えていく。
その背中を見つめながら、キールの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。
かつて自分自身も、軽い気持ちで初仕事へ赴いたことがある。
あの日の自分も、何も知らなかった。
裏の仕事が、どれほど生易しいものではないのかを。
「あいつも……きっと何も分かっちゃおらんのだ」
キールは窓の外を見つめた。
「裏の仕事が、どれほど生易しいものでないかということをな……」
雨煙の中へ消えていくロブの小さな背中。
その姿を見送りながら、キールは静かに呟いた。
やがて、雨音だけが残った。




