「王国陰謀編」第一章 「首都へ」1ー魔術師ー
堅牢なる城塞都市エーデルの北方に、異彩を放つ一画が存在していた。
人々が畏怖と神秘を込めて「妖魔の森」、あるいは「妖精の森」と呼ぶ秘境――。
そこには事実、幾多の妖魔や小妖精たちが息づいていた。
古代魔法王国の魔術師によって創造されたと伝わるその樹海は、絶対的な協定に守られ、種族の隔たりを超えた調和に満たされていた。
だが、その安寧は森の住人だけに許された恩寵に過ぎない。
外から訪れる者――とりわけ人間に対して、森は容赦なく牙を剥く。
それでもなお、近隣の村々に暮らす人々にとって、ここは豊かな恵みをもたらす重要な狩場であった。
年に数人の行方不明者を出しながらも、民草は生活の糧を求め、恐る恐る、この緑の深淵へと足を踏み入れていたのである。
その日のことだった。
森の最外縁。
深々と枝葉を広げる大木の木陰で、空間が波紋のように揺らめいた。
異変を察知した小妖精たちが、一斉に飛び退く。
直後――。
歪んだ空間の向こうから、一人の男が姿を現した。
「ここは、どこの森なのかな……」
漆黒のマントを羽織り、手には古木の大杖。
その佇まいは、いかにも魔術師といった風情を漂わせていた。
男は悠然と周囲を見回すと、樹根の陰に身を潜める小妖精を見つけ、柔和な笑みを浮かべた。
そして、口から漏れたのは――人間には到底理解できぬ、「妖精語」の音色だった。
「ここは、どこの森だい?」
話しかけられた小妖精は、驚愕のあまり口をぽかんと開けたまま固まっている。
やがて我に返ると、慌てて木の影へと隠れ直し、警戒に満ちた瞳で男を見つめた。
「怖がらなくても大丈夫だよ。それとも、妖精語を喋る人間は珍しいかい?」
男は穏やかな声音で語りかけると、後ろで束ねていた髪を解いた。
長い髪の奥から、隠されていた耳が露わになる。
「ほら、見てごらん。私は正確には人間じゃないんだ。もっとも、純粋な妖精でもないけれどね。……そう、ハーフエルフなんだよ」
そこに現れたのは、エルフ特有の先細った尖り耳だった。
ただし、その先端にはわずかな丸みがある。
人間との混血であることを示す、何よりも分かりやすい証だった。
男の柔和な気配と、「エルフ」という言葉に安心したのか、小妖精はおずおずと影から姿を現した。
慎重に距離を保ちながら、男の周囲をくるくると旋回する。
興味と警戒。
その両方を宿した瞳が、男の姿をつぶさに観察していた。
「おいで」
男が優しく囁き、掌を差し出す。
すると小妖精は、しばし迷った末に、その手の上へちょこんと降り立った。
「さあ、教えておくれ。ここはどこなんだい?」
すると妖精は、先ほどまでの警戒が嘘のように胸を張った。
「ここは『古の森』だよ! 長老様がそう言ってたもん。それより、あんた誰なの? どこから来たのさ!」
「俺の名は、カミュ。エルフの道を通って、ずっと遠くから来たんだよ。……けれど、『古の森』なんて名前は聞いたことがないな。道を間違えたのかな」
カミュは腕を組み、しばし首を捻った。
「ここは『妖精の森』とは呼ばれていないかい? 近くに大きな街があるはずなんだけれど……」
「あ! そういえば、ときどき迷い込んでくる人間が、そんな風に呼んでたかも! それより『エルフの道』ってなぁに? 教えてよ!」
好奇心に瞳を輝かせる妖精を見て、カミュは破顔した。
そして次の瞬間――。
子供のように、その場で飛び跳ねた。
「やったーーー! 母さんの言った通りだったんだ!」
不意を突かれた妖精は、驚いてカミュの手から飛び離れる。
空中で目を丸くしながら、喜びを爆発させるカミュを見つめていた。
「妖精さん、ありがとう! エルフの道っていうのはね、太古のハイエルフたちが各地を一瞬で移動するために作った、異空間の抜け道のことさ。俺は遥か遠く、ヴィルハーンの最西端にある森から、それを通って来たんだよ!」
カミュは満面の笑みを浮かべ、再び妖精へと語りかける。
「さて、親切な妖精さん。街はどっちの方向かい?」
圧倒された小妖精は、しばし呆然とした後、無言で一方を指差した。
その方角を確認すると、カミュは満足そうに頷いた。
「ありがとう。じゃあ、行くね!」
軽快な足取りで歩き出す。
呆然と見送る妖精をあとにして、カミュは森の外へと向かった。
しばらく歩いたところで、カミュが空へ手をかざす。
すると頭上から、一羽の美しい鷹が舞い降りてきた。
「アレス、ちゃんとついてこいよ」
アレスと呼ばれた鷹は短く鳴き声を上げると、再び上空へ舞い上がった。
そして、主の行く先を先導するように、大きく旋回を始める。
「エーデルの街は大きいと聞いているけれど、どんな場所なのかな……」
呟きながら、カミュは解いた髪を再び丁寧に結い直した。
露わになっていた耳を、長い髪で覆い隠す。
ハーフエルフという存在は、人間からもエルフからも異端として疎まれ、どこへ行こうとも差別の対象となりがちだった。
カミュもまた、幼少期からその偏見に晒され、深い傷を負ってきた一人である。
幸いにも、耳以外にエルフの特徴が現れなかった彼は、人里へ降りる際にはこうして耳を隠すことを常としていた。
さらに、その上から深々とフードを被る。
(よし、これで完璧だ……)
フードを被り、大杖を携えた姿。
それは誰が見ても、典型的な「魔術師」の装いだった。
世間一般において、魔術師とは――。
「偏屈で、他者との交流を嫌う者たち」
そのように認識されている。
ゆえに、この姿をしておけば、無闇に声をかけられることもない。
カミュ自身は、決して人嫌いではなかった。
むしろ、人と関わることを好む性格である。
それでも彼は知っていた。
自らの正体が露見した瞬間、それまで向けられていた親しげな眼差しが、冷たいものへと変わっていく。
その絶望を、カミュはこれまで何度も味わってきたのだ。
ほどなくして、街道沿いに小さな集落が見えてきた。
カミュは村人にエーデルへの道順を尋ねる。
教えられた道を確認すると、短く礼を述べ、それ以上の会話を交わすことなく、その場を後にした。
聞き及んだ話では、このまま歩けば数時間ほどで目的地へ辿り着くという。
その言葉を胸に、カミュは歩みを進めた。
一歩。
また一歩。
その足取りは、次第に速くなっていく。
胸の奥から込み上げる高鳴りを、もはや抑えることができなかった。
――エーデル。
まだ見ぬ大きな街へ。
そして、これから始まる新たな日々へ。
カミュは期待に胸を膨らませながら、街道を駆けるように進んでいった。




