後編
夕暮れの帰路。
見事に広がる茜雲の下を、秋穂は自宅を目指してとぼとぼと歩いていた。
思い返せば、あの運命の日もこんな空だった。たまにはいつもと違う散歩コースに行ってあげようと隣町まで足を伸ばし、その途中で事故に遭い、たまたま近くにあった動物病院に駆け込んで、そして。
「あの先生マジなんなんだろう……」
「悪い人間じゃないぜ」
「そうなんだろうけどさ……」
近くに誰もいない事を確認しつつ、キャリーケース越しに小声で喋る。
あんな事にならなければ、自分が違う散歩コースを選んだせいでペロが死んだという傷は秋穂の心に永遠に残っていただろう。だから感謝はしている。定期検診と銘打って引き続き状態を見てくれているのも有り難い。ただしそれは秋穂とペロにとって利益があるというだけであって、良い悪いで区分するなら少なくとも良い人間には当てはまらないように思えてならない。
「とりあえず代金ふんだくられないのだけは助かるよね。今日なんて特に――」
「しっ」
雑談は、鋭く息を吹くようなペロの声で中断された。右手に下げたキャリーケースが、内側からガタガタと揺らされている。左側へ、左側へと。
激しい振動に導かれるまま、秋穂は顔を左へ向けた。そこには建物と建物とが作る狭い隙間が、普通なら入ろうとも思わない薄暗い路地が続いている。これがただの犬の散歩であったなら、野良猫でも見付けたのかと思うところだ。
「はあ、またかぁ……」
どうしたのと、当然あるべき疑問を秋穂は口にしなかった。ペロの態度から全てを察し、また抵抗するのは無駄だと熟知しているかのように、気の進まない足取りで路地裏に入っていく。表通りから気付かれにくい程度の場所で、頃合いを見てキャリーケースを地面に置き扉を開けると、勢い良く飛び出したペロがぶるっと全身を震わせて歩き始める。嫌々その後を追う秋穂の肌を、つんと尖った嫌な感覚が刺した。
暗くて気持ち悪い。汚いから行きたくない。そうした当たり前の感覚とはまた違う、何がいるのかは分からないが何かがいるという直感。例えるなら、部屋に一人でいる時にふと暗がりに感じる気配。普段なら気のせいで済まされるあれを何倍にも強めたような、ここにいてはいけないと本能的に人を後退らせる悪寒。
人の通らない場所、光の当たらない場所には、澱みが溜まっていくのだという。あるいはそうしたものが溜まりやすい場所だからこそ、知らず人は集うのを避けるのかもしれない。
そうして溜まり続けていった澱は、いずれ切っ掛けひとつで形を成す。力尽きた鼠の骸を糧として。流れ込んだ雨水に乾きを癒やされて。それに気付いた者の視線により、自分はここにいるという意識を得て。
ペロが奥まった位置で足を止めた。
不安そうに秋穂は視線をさまよわせる。周囲にあるのは、細身の秋穂をして体にくっつきそうなくらい近い、まともに掃除もされていないのであろう黄ばんだ壁や、綿のように大きく固まった埃の山くらいだった。じめっとした空気の一点を、ペロの丸い目が見据えている。ゴミでも埃でもないその先にあるものを、否、いるものを、秋穂には見る事ができない。
「秋穂」
「平気だよ……どうせ何してんのかなんて分かんないし」
「ああ、あっちの方はな」
「……っ」
誰かに見られたとしても大丈夫ですよと、先生は無責任なくらい呑気に言っていた。
何故なら、人間は常識に縛られた社会で暮らしているからだと。犬がいきなり変身したなどと言いふらしても誰も信じず、そのうち本人もあれは見間違いだったと思い込むようになるからと。現代社会において怪物だの妖怪だのといった存在は、単なる空想の中で生きるものに過ぎないのだからと。
だが、秋穂には信じられなかった。万一これを目撃してしまった後で、あれは夢か何かだったのだろうと笑い飛ばせるようになるという事が。
ペロの背が幾重にも割れる。頭部が盛り上がり、裂け目が首を目指し深く広がる。細く短い四肢が脈打ち隆起していく。白茶の毛並みをした小さな犬が、犬とは似ても似つかない異形へと崩れ落ちていく。
ばけもの。
ペロがこうなってから何度も叫び、そのたびペロに許されていた言葉を、秋穂は今再び口内で呟いていた。
「はい、どうぞお大事になさってくださいね」
ぺこりと頭を下げて診察室を出ていく飼い主を、にこやかに院長は見送った。もうじき本日の診察時間も終わりに近付こうとしている。手早くカルテを記入し終え、次の患者のカルテを取り出そうと伸ばした手が、ふと空中で静止した。そのまま椅子ごと体を反転させ、壁の方を向く。視線の先には幾つかの予定が書き込まれたカレンダーしか見当たらない。
しかし、院長の目は暦も予定も追ってはいなかった。
まるでカレンダーの、カレンダーが掛かる壁の、それらの更に向こう側にあるものを見て――否、感じ取っているかのように凝視を続けている。
「……一口に犬神と言っても、作成方法はひとつに限りません。どの学校を出ようと弁護士や医者の免許がひとつであるように、最終的に仕上がったのが犬神ならそれは犬神なのです。ただし、勤め先や役職は異なってきますよね。もちろん能力も、人柄も、仕事へ取り組む姿勢も」
一呼吸置いて、院長はようやくカレンダーから目を離した。
「山狗というのは山にいる何かをそう呼んでいただけで、犬に限った話ではありません。場合によっては獣ですらなかった事もあったでしょう。逆に言うなら、正体不明の何かは全て山狗と呼んでいいという事になるのでは? いえ、ペロくんの場合は犬の形を保っているのだからむしろイヌと呼ぶ資格はある方でしょう」
他に誰もいない診察室で、何度も何度も院長は頷いている。
誰かに聞かせる為ではなく、その言葉の意味を自分自身が愉しむ為のように。
「犬と人の絆は強い。歴史がそれを証明しています。ですから大丈夫ですよ泊木さん。たとえ私が何を核として用いたとしても、何をペロくんに詰め込んだとしても、脈々と連なる血の絆によって、きっと――」
なんとかなるんじゃないでしょうか多分、と院長は呟くと、先程読むのを中断したカルテをひょいと引き抜いた。
メキメキと台風の夜に軋む樹木のような音を立てて縮んでいく輪郭を、心底ぐったりした顔付きで秋穂は見詰めていた。始まってから終わるまで一分もかかっていない。すっかり犬の形に戻ったペロは、はたはたと尻尾を振りながら秋穂の元へ駆けてくる。立ち去った後には特に何もない。間違いなくあそこには何かがあった、いや、今もあるのだろうが、ただの人間に過ぎない秋穂には見る事ができない。
しかしまあ、きっと酷い有様になっているのだろうとは想像がついた。一時的に三つに増えていた口が頻りに噛み締める仕草をしていたから、もうきれいさっぱり全部飲み込んでしまった後かもしれないが。
「うえぇぇ……見慣れたのに慣れない……グロ……」
「愛犬に向かってグロはあまりにひどくね。傷付く」
「ごめんって。でもいきなり背中割れたり足が分かれたり目玉が増えるのは愛犬でもグロいと思う」
外見の変化に対して秋穂が愚痴をこぼし、それに対しペロがやや悲しげに抗議し、一応は秋穂が謝る。これもまた、こうなってしまってから散々繰り返されてきた流れであった。
「ペロも見境なく喧嘩ふっかけるのやめなよ。見えないけど相手は化け物なんでしょ? そのうちやられちゃうよ……」
「ああいうのを放っておくと良くないって院長が言ってただろ。今はたいした事なくても、そのうち人間に危害を加えるようになりかねない、ってさ」
「だからって別にペロがやらなくてもいいじゃん……本当にヤバくなったらその道の専門のヤバい人が来て解決してくれるよ。それこそ先生みたいな」
「さりげなく院長罵ってんな秋穂。でも大丈夫だぜ」
その自信はどこから来るのかと問う秋穂に、ペロは小さな耳を力強く立ててみせた。
「たぶん、今の俺はすごく強いと思うから」
獣は相手の力を本能的に見抜くというが、それは自身の能力を正確に把握できているからこそなのだろうか。だとしたらペロのこの発言も、あながち根拠のない慢心だけから生まれた訳ではないのかもしれない。
はあ、と秋穂は憂鬱そうな溜息をつく。普通の飼い主が犬に求めるのは可愛らしさや賢さや従順さであって、化け物を殲滅する能力ではないというのにそこを誇られても。
「でも秋穂って模範的な飼い主だよな。なんだかんだ言ってても俺を捨てようとはしねえもん」
「そりゃどんなになってもペロはペロだし……だいたい今のペロをそこらに放り出す訳にいかないでしょーが。無責任じゃ済まないよ」
「そう考えられちゃう時点で素質あるんだって院長が言ってたぜ」
「いつよ。っていうか素質って何のよ!?」
「シーッ、声でかいって」
言い合いながら、一人と一匹は湿った路地裏を後にする。日の差さない暗がりから、日の当たる日常へと。昨日も今日も、そしてきっと明日も代わり映えのしない、平凡で平穏な生活へと――。
「いやでもコイツいるんだよなぁ!!」
「愛犬にコイツって言った!」
「いいかげん本音のひとつも漏れるわ!! いつまで犬ヅラしてんの図々しい!!」
どこか遠く、という程でもないご近所で、耳慣れた獣医の笑い声が響いた気がした。




