中編
月日が経つのは早いもの。
そんな話を大人たちがしているのをたまに聞く機会はあったが、秋穂にとってこの半年間ほどそれを強く実感した事はなかった。
周囲に人がいないのを一応確認してから、右手に下げたキャリーケースと共に動物病院の門をこそこそと潜る。この時間帯はいつも空いており、2台停められる駐車場にも車はないのだが、注意するに越した事はない。
受付で名前を伝えると、あらかじめこの時間ぴったりに予約を入れておいた事もあって、すぐに院長が待つ診察室へと通される。
この受付の人は果たして事情を知っているのか、秋穂は怖くていまだに確認できていない。もしも何も知らないまま、この患者が来たら即座に通せと言われているのだとしたら、さぞかし重要な患者なのだろうと思っているに違いなかった。
「こんにちはー……」
「はいこんにちは、2週間ぶりになりますかね?」
ここの診察室は完全個室となっている。ついでに言うなら、完全防音でもある。
愛想よく微笑んでくる初老の院長に挨拶をして、念の為にドアが完全に閉まっているかを確認してから、秋穂は診察台に置いたキャリーケースの扉を開けた。待っていましたとばかりに、勢いよく犬が飛び出してくる。ここまでは、どの動物病院でも良く見られる光景である。
「やあ、ペロくんも元気にしていたかな?」
「元気だぜ院長。ご覧の通りだ」
腹話術ではない。前もって録音しておいた音声でもない。
ふてぶてしくも明瞭な声は、間違いなく目の前の尻尾を忙しく振っている小型犬から発せられたものである。
驚天動地の事態に、だが院長は眉ひとつ動かす事はなく、飼い主である秋穂もまた驚くというよりは頭痛に見舞われているかのような顔で額に手を当てていた。
言語習得が早すぎる。
人間の子供でも言葉で意思疎通らしきものが出来るようになるまでは何年もかかるというのに、僅か半年に満たずこれ。大人にしたって、余程の語学の才能がない限り、今まで触れた事のない全く新しい言語を習得するのは相当困難な筈だ。そもそも、犬の喉は人間と同じく喋れるようには出来ていないのでは――。
様々な疑問が改めて浮かんでは消えていく。ちなみに、解答を得られた事は一度もない。
この半年間で何十度目かの頭を抱える秋穂とは裏腹に、体重計を見ていた院長は、カルテと数字を見比べながら言った。
「体重は前と変わりなし。特に問題なさそうですね」
「体重以外が問題しかないんですけど」
「なんと、お腹でも壊しましたか?」
「壊れたのは常識です。あーあ、なんでこんな事になっちゃったんだろう……」
「大丈夫か秋穂。俺の事で悩んでるんだな。ごめんな」
「ううん、ペロは悪くないんだよ。ペロは何も悪くない。こうなるって分かってたらやめてたかって聞かれたら、すぐには答えられないと思うし」
心配そうに見上げてくるペロを、そっと両腕で抱き締めた。有史以前から続いてきた麗しい愛情ですねと、院長はにこにこしている。あんたはもう少し悩めと秋穂は心の中で毒づく。
「こんなの親にも友達にも言えないしさあ。せめて先生がストップかけてくれてたら……っていうかパニクってた高校生に雑な説明しただけでやっちゃうって今更だけどおかしくないです?」
「治療か安楽死かなら当然ご両親の許可を先に取っていましたよ。未成年の同意だけで行ってしまったら責任問題になりますから」
「勝手に妖怪にしちゃうのは責任追及されないって?」
「追求できるものならしてみてください、うちの子があそこの先生に妖怪にされちゃったと。社会から追放されるのは泊木さんの方です」
「獣医以前に人間としてどうかと思いますよその言い方。そもそも先生って本当に獣医?」
「もちろんですとも。だからこそ愛犬の死を前にした飼い主の慟哭を聞いて、どうしても見捨てる事ができなかったんです」
「本音は?」
「この世の終わりかのように悲嘆に暮れて、ただでさえ未熟な判断力を更に喪失した子供なら、訳の分からない話でも深く考えず勢いで乗ってくるのではないかと踏みまして」
「人間のクズですか? 失敗してたらどうするつもりだったんですか!?」
「どのみち死ぬ筈だったのですから失敗して元々だったのではないでしょうか」
「ちょっと!?」
「ああ、そんな怖い顔をしないで。泊木さんの深い愛情はきっとペロくんにも伝わって頑張ってくれると僕は信じていましたよ」
「取ってつけたようにきれいな言葉かけてこなくていいから先生。そうじゃなくて、なんか得体の知れないもんになって暴れ出したりしてたらどうするつもりだったんですかって言ってるんです。……今でも充分得体の知れないもんだけど……」
「ペロくん、少しだけ血を頂きますよ。チクッとするけど我慢してくださいね」
「いいぜ」
「お願いですから人の話を聞いてください。ペロも私抜きで受け答えしないで」
院長は引き出しから奇妙に波打った細い刃を取り出すと、その先端付近を使ってペロの喉元に手早く二箇所の小さな傷をつけ、滲み出てきた血液を細長い紙片で拭い取った。紙切れはそのままどろりと濁った液体で満たされた試験管に収められ、ラベルを付けて刃と同じ引き出しに仕舞われる。医学的知識をほとんど持たない秋穂にも、これは普通の血液検査とは絶対に違うと確信できる流れであった。そもそも血液検査なのかどうかも怪しい。
採血した喉元に脱脂綿を当てながら、慰めるように院長が言う。
「そう気に病まなくても大丈夫ですよ。ペロくんは賢い、うっかりボロを出したりはしないでしょう。夜中に二本足で立ち上がって油を舐めた訳でもなし、これまでと同じに振る舞えるなら犬も犬神も傍目には変わりません」
「それ化け猫なんじゃ……」
「おや、詳しいですね」
「調べたの! ペロがこんなになっちゃったから、妖怪とかについて全然知らないままって訳にもいかないし……。あ、そうだ。犬神って先生は言ってるけど犬神じゃないじゃん。なんか調べたら作り方?みたいなのが出てきたけどペロの時と全然違ってましたよ」
「人工的に妖を仕立て上げる手法はひとつに限りません。泊木さんが見たというのはあくまで一例です。どんな手段であれ最終的に仕上がったのが犬神ならそれは犬神なのですよ。人間の弁護士や医者やパイロットだってそうでしょう? どの学校を出ようと免許はひとつです」
「……そう例えられると納得できるようなできないような……」
「まあ厳密に分けると犬神ではないのも確かなのですけどね。正確に言うならペロくんは山狗に当たります」
「やまいぬ?」
耳慣れない言葉に、秋穂は小首を傾げた。
「……って、山にいる犬? 野良犬の事ですか?」
「飼い犬だぜ俺は」
「犬かなあ……」
「それは野犬と呼ぶのだと思いますが、どちらにしても泊木さんの想像している犬とは違います。山で遭遇した何かの獣を――それが何なのかは分からないけれども、藪の奥に、太い幹の背後に、折り重なる梢の中に、確かに息を潜めてこちらを伺っていたものを、昔の人は山狗と呼んでいたのです。犬かどうかは分かりません。それどころか獣かさえ定かではありません。しかし確かにそれはその時そこにいた。険しい山中の、一筋の光も届かない夜の闇に紛れ、じっと眼を光らせていた――」
真に迫った語り口調となる院長から、今までのどこか他人事じみた雰囲気は消えていた。
秋穂は何度かきょとんと瞬きをしてから、ペロの両脇に手を入れて持ち上げる。だらんと、万歳の姿勢でペロの全身が伸びた。
「……犬じゃん?」
「犬ですね。ややこしいと思うのだったら、犬に似てる別の生き物くらいにふわっと捉えておけばいいですよ。ふわっと。犬神はあくまで犬ですが、山狗は犬に限定されません」
「はあ」
腑に落ちない表情で秋穂はゆるゆると頷いた。犬に似ているだけの別の生き物だと言われても、そんな事はこうなってしまった時点で嫌というほど分かっている。しかし院長の言っているのは、それとはまた違う事のように思えるのだ。おそらく全部を理解できるようになるのは時間がかかるのだろう。なるべく理解しなくていいような人生を送りたかったが、時間を遡る事は出来ない。
ちょうどいい格好だとばかりに聴診器をペロの胸に当てた院長は、最後にぽんぽんと頭を優しく叩いて微笑んだ。
「はい、今日の定期検診は全て問題なし。次は少し時間を空けても大丈夫かもしれませんね」
「いい子で我慢できたご褒美のおやつくれ、院長」
「はいはい。いい子のペロくんにはあっちの冷蔵庫にある肉をあげましょう」
「ジャーキーですよね先生?」
「でも少しだけですよ。あまり食べすぎると力がつきすぎますからね」
「ねえマジでなんの肉!? っていうかジャーキーだって言って!?」
これ以上状況を悪化させまいとキャリーケースへ入れようとする秋穂の手から、ペロは巧みに逃げ回った。まるで樹上のリスのように素早い。この速度で動いて、さして広くもない診察台からよく転がり落ちないものである。偶然毛先を掠めた指先に何やらぬるっとした感触が一瞬走ったのは気のせいだと思う事にした。何故なら、先程掴んでいた時にはそういった触感は一切なかったので。よって気のせいで間違いない。
そうこうしているうちに院長が持ってきてしまった赤黒い肉片を、ペロはががっと数度噛むと一息に飲み込んでしまった。あああ、と秋穂の口から絶望の呻きが漏れる。こうした敗北は今日が初めてではない。そして結局何だったのかはまともに説明してもらえない。
「うまかった。ありがとな院長」
「まったくもぉ……ほら、そろそろ帰るよペロ。ついでに散歩していこ」
「暗くならないうちに帰ってくださいね、近頃は物騒な世の中ですから」
「一番物騒な人が何か言ってる……」
「といっても、痴漢やひったくりや通り魔が出たとしてもペロくんがいるなら大丈夫でしょう」
「むしろ痴漢やひったくりや通り魔がどうなるかが心配なんですけど。あ、そういえば今日のお会計っていくらになります?」
「200円です」
「やっす!? どうして!?」
「ペロくんが肉を食べてくれましたからね」
「ねえだからなんの肉!? なんで食べた事がお礼みたいになってるんですか!?」
「ははは、まあまあ細かい事はお気になさらず。ほら、僕も次の患者さんを待たせてますから。どうぞお大事に」
細かくねえなどと騒いでみるものの無駄な抵抗であった。
否応なく診察室を追い出されにかかる秋穂の傍ら、キャリーケースにおとなしく戻っていきながら、またな院長とペロはぶんぶん尻尾を振っていた。




