前編
診察台には、血まみれの小さな犬がぐったりと横たわっていた。白茶の毛は生々しい鮮血に濡れている。足は有り得ない方向に折れ曲がり、皮膚の裂け目から砕けた骨が覗いていた。心電図の示す波形は不規則かつ弱々しい。犬は苦痛に呻きながら、胸で大きく息をしている。今にも残り僅かな命を吐息ごと吐き出してしまいそうに。
叫びながら動物病院へ駆け込んできた少女は、難しい顔をしている獣医師に向かって悲痛な声を張り上げた。
「轢かれたんです!! 曲がり角でいきなり、車もそのままどっか行っちゃってっ、それでっ…‥!!」
少女は完全にパニックに陥っていた。
散歩中の交通事故だったらしい。相手の不注意かそれとも少女の不注意かは一方の説明からだけでは判断できないが、たとえ軽い接触だったとしてもこの小柄な体格ではひとたまりもなかった事だろう。腹部は踏み付けたようにひしゃげ、タイヤにでも巻き込まれたのか、捩じ切られて開いた穴からは臓器が覗いている。今にも死にそうどころの話ではない。むしろまだ息があるのが不思議な程であった。
「お願いです先生!! ペロを助けてください!!」
「……残念ですが……この状態では救命するのは難しいでしょう。獣医師の責任として、治るとはお伝えできません。今取れる方法としては三つあります。ひとつは最後まで痛みに苦しむのを承知で治療を行うか。もうひとつはこのまま薬を使い、せめて安らかに眠らせてあげるか……」
初老の獣医師は白髪交じりの髪を撫でつけ、残酷な、されど動かしようのない現実を告げた。
お前の犬はもう死ぬと断言された少女の、涙に濡れた顔が歪む。が、喚き散らさないだけの冷静さは辛うじて残っていたのだろう。それ程までに、小型犬が死の淵に瀕しているのは誰の目にも明らかだったのだ。
とてもではないが、これを助けるのは奇跡でも起きない限り不可能であると。
小さな命が消えていく。愛おしく、楽しかった思い出が、流れ出す真っ赤な血と共に失われていく。
少女は服や髪が血で汚れるのも構わずに、瀕死の犬に縋り付いた。
「そんな……やだよぉ……ペロ……」
「最後に、ここにある妖怪の核と融合を試みるか……犬ではないものに変貌しますが、とりあえず命は」
「ごめんもう一回言って先生」
「私が持っているとある妖怪の核、要は心臓のようなものですね。これとペロくんを合体させる事で回復させようという提案です」
「ふざけてんの!? ペロが死んじゃいそうなんだよ!?」
「ふざけてなどいません。これだけの致命的な外傷を負った状態から蘇生させるとなると、もはや外法を用いるより他に手はないと……」
「だから何言ってんのか分かんないよ!! とにかくそれやればペロは助かるの!?」
「助かります」
「じゃあやってください!! お金なら貯金とバイトで絶対払いますから!!」
「では直ちに取り掛かりましょう。お金に関してはご心配なく。生きるか死ぬかの緊急事態ですから、その弱みにつけ込んで法外な代金を請求するような真似は致しません」
お金に関しては、と初老の獣医はもう一度繰り返すや、迅速に施術の準備に取り掛かった。
獣医師は奇跡を起こせる存在ではない。ただ、一般の目には奇跡のように映る何かの技術を使う獣医師はたまに存在する。




