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七話 伊賀忍者 新瑞清十朗

 寛永二十年といえば天草四郎時貞を大将とする島原の乱が終わってまだ五年ほどしか経たず、いわゆる寛永の大飢饉と呼ばれる飢饉の真っ最中で、全国的に餓死者が大勢出たり百姓が身売りしたりと大わらわの時代だ。


 その中で、周囲四方鈴鹿山脈などの山に囲まれ、世間の悲鳴も届かないような伊賀(三重)の国。むろん、そんなことはないのだが、しかしこの伊賀の国には本当に別世界なのではないかと思われるほどひっそりとした山里の存在があった。

 里の者の案内なしにここへたどり着くことは例え地元藤堂藩の武士であっても不可能ではあるまいか? 里を囲む山林のさりげない木々の植えよう、藪の広がりよう、石の置きよう、道の作りようによってその谷周辺に入ると地形も方角もよくわからなくなり、わからなくなった人間は誘導されるように里から外れた道を進んでしまう。

 その技術とは何か? 伊賀といえば忍術だ。忍者たる彼らは人間の心身をよくよく研究し、それを操り利用する技術を編み出し、これが人間の可能性の及ぶところかと驚愕すべき現象の数々を引き起こした。言うまでもなくそのためには恐ろしい荒修行が必要だ。


 早朝の薄白い空の下、今もまた谷里の板葺き屋根の家々を見渡せる山の崖を登って修行している者があった。


 しかし、これが忍法修行であるなら忍者の修行とはなんという危険で凄まじいものであろう。一見してそれはただの崖登りではないのだ。その人物が張り付いているのは落ちたら一巻の終わりの大断崖だが、しかも鎧兜を身につけて、さらにその当世具足の胴周りには通常の鎧にはないいくつかの鉄輪が拵えられており、そこに縄を通して先には大岩をぶら下げているのだ。さすがに崖登りに邪魔になるため袖や籠手は外しているが、それでもこれは凄まじい重量だ。当世具足だけでも二、三十キロはあるだろうにそれにも増して宙ぶらりんになっている大岩がある。これは鎧をつけていなければ胴が千切れてもおかしくない所業であった。

 そんなことをしているのだから鎧のきしむ音を鳴らしつつ手上げ足上げ崖を登るこの人物は明け方の冷気どころではない冷感に全身を襲われ、面頬に隠されている表情も般若に似た面頬そのもののように厳めしいものとなっているだろう。が、にもかかわらずその面頬と兜の間に覗く必死の目から薄く透けて出るようなかがやきは何だろう。崖の上を、天を見上げるそれはどんな人間でもぼうと酔わせてしまうような澄んだかがやきであった。

 やがてその人物は物凄い重りをつけたまま道具も使わぬこの崖登りをやり切った。崖っぷちに這い上がると、縄を引き上げて大岩の隣にごろんと寝ころんだ。そして息を乱して休憩するこの人物に、


「清十朗」


 との男の声が降りかかった。


 清十朗――清十朗なのだから男性だろう。寝ころんでいた彼はその声と共に鞭を打たれたようにバッと立ち上がった。それから中々手慣れた様子で鎧兜を脱ぎ始めた

 新瑞清十朗あらたま せいじゅうろう。年齢十七。伊賀鍔隠れの里に住む修行中の忍者だ。彼はさして時間もかからず鎧を脱ぎ終えた。鎧を速く着脱することもまた技の一つである。しかしその手並みよりも、兜がとられ面頬も外されたその下から現れた顔の何と美しいことだろう。今はまだ陽が昇り始めたばかりの時間で辺りは薄暗いが、鎧兜を脱いで高い崖際に立つ彼は低くなっていく月の代わりのように全身薄く発光しているとすら見えた。実に、彼の魅力はかがやかんばかりであった。真向かいから見る面相は日輪の如く暖かく活力的なのに、空のどこぞを見上げる横顔は月輪の如く神秘的であった、この澄み切ってかがやき出る美しさを見た者は皆、脳を湯につけられるように思わず吐息を漏らし判断力を失ってしまう。現に、この美しさに鍔隠れの女たちはみな酔った。


 ところで――これも忍法修行の影響なのか清十朗の両親は彼が産まれた直後に何故か揃って狂死している。そのため里の人たちが総出で世話をし育ててくれて、一応はここまで生きてくることはできているが、こんなことを皆がやってくれたのも彼のこの美しさのおかげもあるかもしれない。


 そんな清十朗の前に立つ男が、


「朝の分はこれで終わりだ。今日もできたな」


 と微笑して言った。


 今日も、と彼が言ったからにはこの修行をやるのは初めてではない。それどころかこれは毎朝やっていることであった。早朝、暗く陽も昇らぬころ、当然まだ眠っている清十朗の家に何者かが近寄ってくる。眠っていながら耳や第六感は起きている忍者清十朗がぱっと目を覚まして家の外に出ると、そこには当世具足の鎧兜と縄の結ばれた大岩が置いてある。鎧をつけて縄を自分にくくりつけると、清十朗は山に向けて走り出す。けわしい山道を大岩を引きながらしばらく走り、先ほどの崖にたどり着いてこれを登り切ればそれで完了だ。ここまでの過程を空が白み切るまでに行わなければならない。


 清十朗はこの修行をもう三年も前から続けていた。引く岩は当初から少しずつ大きくなって、これは忍法のための骨子を固め、土台となる身体を作るための修業だろう。もともと温厚で慎み深く、さらに両親がおらず誰というよりこの忍者の里そのものに育てられたような清十朗だけに、忍法修行においてはいっそう純粋無雑――文句も言わず一心にこのことに取り組んできた。だが、三年も続けているといい加減に気になってくることがある。彼はそれを聞いた。


「はっ。ここ数カ月ほど仕損じはありません。拙者、口幅ったいことを言うようですがこの修行、物にした気が致します。それで、はっきりお申し下され。果たして拙者の忍者としての素質は如何様なものでございますか? この修行を物にできたということは如何ほどのものですか?」


 これこそが彼の気になっていることだ。むろん、彼が行っている修業はこの体力作りだけではなく色々とやっている。が、いくら真面目とはいえ若い身空だから辛いのはいいとしてもこの地味で何の変哲もない修行を続けることに飽きて、かつ自分はいつまでもこんなことを続けなければならない程度の者なのかと不安にすら思い遂に堪らずこのようなことを聞いたのであった。

 問われた男は顎に手をやってううむ、と悩んだあと、


「せいぜい……いくつかの基本忍法は習得できても我らが伊賀忍法の秘奥には至らぬ中忍がいいところであろう。死んだお前の両親は忍法秘奥に至るほどの者たちであったが、その血筋あっても同じようには至れん。少なくとも俺の目にはそう映る」


 と言い切った。清十朗から聞いたこととはいえ、冷然といえば冷然とした言葉ではある。目を見開いた清十朗が「ぐっ」と喉を詰まらせて黙り込んでいると、続けて男が、


「やはりお前も秘奥を会得し出世がしたいか? しかし、お前ならば忍者に拘らずとも出世の道はあるだろう」


 と言った。これに辛うじて口を開いた清十朗が、「……とは?」と聞いた。


「例えば役者だ。お前はどんな色若衆も及ばぬ美貌をしておるし、これまで培ってきた体力や身軽さは常人をはるかに超えている。いや、役者どころかお前ならばちょっと江戸まで出向いて城の者の目に触れれば、将軍家にまで噂がいって何ぞ取り立ててもらえるかもしれん。当上様が女よりもそちらの方が好きだというのはむかし耳に入れたことだが、今はもし違ったとしてもお前を見ればきっと気に入ることだろう」


 言ってくつくつと笑う男に、「なるほど」と答えつつもさすがに清十朗は苦笑した。


「しかし、立身出世をしたいのは確かですが拙者はそのような方法は嫌でござる。拙者は是非とも忍者として出世がしたい」

「そうか? まあ、忍者の立身出世においてはその技の玄妙さや凄まじさよりも任務の果たしよう、知恵の絞りようが大事とされる。ここが技の冴えや生まれながらの身分に出世を左右されるただの侍とは違う忍者の良いところだ。お前にもきっと機会はある。腐らず頑張れ」

「ははっ」


 話を終えた清十朗は山を下り里へと帰った。鎧も岩も山の上に置いてきたため着物にたっつけ袴の軽装の清十朗だが、戻りは歩いてきたため里へ着くころにはもう陽が昇って空は白んでいた。そして彼が家屋の間を通り抜けては広場に出て、自分の家に帰っていると、


「おう、清十朗」


 と野太い声がかけられた。


 顔を向けるとやや離れたところにいたのは三十ばかりの六尺(約百八十cm)を優に超える大柄の男であった。大柄な身体つきだけあって顔の方も何とも男臭い、渋みの利いた豪快そうな面相――というより目の上の眉は太く、眉間も繋がっており、ひげまでもじゃもじゃとしてあまり麗しい男ではない。そんな彼には見た目に似合わぬある麗しい特徴があった。それは髪だ。忍者は様々な職に化けることがあるため月代を剃っていないのは清十朗もそしてこの男もまた同じだが、彼は獅子のたてがみのような髪形をして蓬髪を背まで伸ばしている。その蓬髪がその点の手入れには余念がないであろう大奥の女たちですら及ばないほどにつややかとして美しいのだ。しかも油を塗っているわけでもないからさらさらとしている。美しいことは美しいが男性についているとちょっと不気味なそんな髪を揺らしながらスタスタと歩み寄ってくる彼に、


「おお、猛蔵たけぞうどの。おはようございます」


 と清十朗が軽く頭を下げた。


「おはよう。修行帰りか。どうだ? 修行の程は」

「怠けることなく励んでおります」

「そうか。ところで、どこに向かっておるのだ?」

「畑仕事があるため農具を取りに家へ戻っているところですが。猛蔵どのは?」

「わしもいま畑に向かっておるところだ」


 顔に似合わず童子のようにニッコリと笑う猛蔵に清十朗は首をひねった。


「……しかし、その割には何も持っておられませぬが」


 清十朗が言ったそのとき、遠くから猛蔵を呼ぶ声と共に一人の女がバタバタと駆け寄って来た。クワを抱えた彼女はその途中、明らかに清十朗の姿を目に入れると頬にパッと朱を散らして走ることを止め、静々と歩み寄ってきた。


「ああ、クワ。畑に出ると言ってたしかに忘れておった。すまんな」


 二人の側に立った若い女に猛蔵が声をかけた。女は彼の妹であった。

 手を伸ばす猛蔵に「うん……」と気のない返事をした女が何故かクワを渡さず、むしろ抱きしめるようにしながら清十朗の方ばかり見ていた。何やらもじもじとした感じである。


「清十朗どのは何をしておいでなのです?」

「ん? いや、拙者が農具を取りに家へ戻っている最中だという話をしておりましたが」

「清十朗どのも畑仕事ですか。では、わざわざ取りに戻らずともこれをお使いなさいな」

「おい」


 という声と共にぐいっと伸ばされた猛蔵の手を「忘れていくぐらいだし、あなたはこれがなくてもできるでしょう」と言ってぴしゃりと叩き、女は一本しかないクワを清十朗の胸に押しつけた。それから頭を下げると、「それでは」と微笑んでから去って行った。去って行くその背を黙り込んで見送っていた清十朗と猛蔵の二人は、ふいに顔を見合わせた。ややあって、


「……どうぞ。猛蔵どの」


 と清十朗がクワを手渡した。


「おお、すまんな……しかし、わしに届けに来たクワをなぜ清十朗に渡すのだ」


 それは何となく察しはつくが、慎み深い清十朗は何とも言い難く、唇を尖らせる猛蔵に向かってただニンガリと苦笑した。



 それから家に戻りクワを取ってきた清十朗は自分の畑に出た。そして土を耕し始めたわけだが、さすがあれだけの修業を行っているだけあってその動作は軽快だ。見る見るうちに作業が進んでいく。ただこれは清十朗が努めて作業を早く終わらせようとしているためもあるだろう。これが終われば朝食を取ったのちに先ほどのものとはまた別の修業が待っているからであった。朝に岩を引いてから農作業に勤しみ、それからまた修行かもしくは引き続き何か用事があればそれを済ませる。清十朗の一日はだいたいこんな感じであった。しかし、忍者としての任務などは滅多にない。


 ――これでは農作業のための修業だ。


 と、クワを振り下ろしながら清十朗が心中で嗟嘆した。たしかにこれでは農民めいている。さらに清十朗が嘆くのは自分よりもよっぽど優秀な忍者である猛蔵もこのようなことをしていることであった。いや、猛蔵だけではない。この里自体が半農村と化しているのであった。

 何故なら戦国の折りならばともかく、それも終わり安寧が訪れようとしている今の世にあまり忍者ならではの仕事は必要ない。戦のないにしても江戸では同じ伊賀組が大奥の警護や諸藩への密かな探り入れなどを行い、この里にいる者にも九州の方の探索などを任せられることもあるが、それだけだ。しかも、大名監視のための諸藩の探索にしても寛永九年(1632)、つまりはこのときから十一年前に惣目付という後に大目付と名を変える監察職が幕府にできてその者たちと縁故の深い直接の手勢たちがほとんど忍者にとって代わっている。これを示す事実として、五年前の島原の乱では甲賀忍組が籠城中の城に潜り込むなどの活躍をしたそうだが、それ以後、忍者が活躍したという話は平成現代においてもあまり聞かない。もちろんそれ以後もこの世の現実としていわゆるスパイと呼ばれるような人間たちが歴史の時々で活躍したのは間違いないが、それはあくまでただのスパイであって忍法使いの忍者であるとは言えないだろう。そんな状況だけに、


 ――先ほどきっと機会はあると言われたが、本当におれに機会なんて来るのかな。おれよりも優秀な人たちも機会に恵まれないのに。もしやおれの人生は以後このままなのかな。


 と、また悲観的なことを心中に呟いた。


 悲嘆しつつもこれをやらなければ先々食う飯は得られない。よって動かす手は止めなかった清十朗がしばしして畑仕事に一区切りつけ、クワを地面について空を見上げた。少しして、額の汗を拭いながらぼうっと空を眺めていた彼がふと何か異変に気付いたように、


「むっ?」


 と目を凝らした。


 空に浮かぶ白い雲、その足がやけに速いということに気がついたのだ。遠い遠い雲なのに、それは鳥が飛ぶよりも速く動いて見える。今日はあまり風のない日だからこの速さはおかしい。いや、たとえどんな突風が吹いていようとここまでの速度は出まい。周囲の雲は全てまるで何かに吸い込まれるような速さである方へ移動しているのであった。


「なんだ? おかしな天気だな。それに雲が進むあの方は駿府、いや……江戸か?」


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