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四十四話 死

 これが最後。後ほかに何もなし。鳥も獣もない広漠たる草原に彼らはこの世にただ二人だけの人間のように向き合った。


「すべて破る、か」リィン・マクベスが呟いた。「事実バウルンとオーシャコットを立て続けに破ったお前だ。あながちそれは大言ではないかもしれぬ。だが、そのことを含め過大視してもお前が私に勝るとは思えない」


 未だ腰の剣すら抜かぬ上での言葉である、彼は静かに続けた。


「果たして今、お前に残された策とは何があるか。何か武器を隠し持っているか。仲間が振るっていたような不可思議な術を使えるのか。――いずれもあるまい。オーシャコットほどの者を相手にそのような奥の手を残す余裕があるとは思えない。つまり、お前に残されたものはただその一刀のみ」

「……」

「しかし、剣をとって立ち合ってはお前は到底私には及ばない。私が魔法の類をすべて封印し、純粋に剣術で勝負したとしてもだ。そのことは、お前の立ち姿を見ただけでわかる」

「……」

「よって本来使うまでもないことだが……しかし、貴公に敬意を表し、これよりの立ち合いは我が奥義を以ってお相手いたす」


 リィン・マクベスの上向きに開いた右手がすうと突き出された。何か杯でも持つような手を伸ばした彼が言う。


「これぞ、土王を見やる黄昏――リアリスティック・カレイディア」


 呪文と共に彼の右手に赤く輝く半透明の球体が浮かび上がった。清十朗がビクリとし後ろにやや足摺りすると、瞬間それは全周へ膨張した。

 迫ってくる赤い波動のようなそれに清十朗は声を出す間もなく反射的に後ろへ飛び退いている。が、逃れえぬ。飛んだ彼の下まで波動はすぐに広がり、その全身をすり抜け、遠く背後で夕日に融けた。


「さあ、軽々には見せぬ我が必殺の奥義。見事破ってみせよ」


 リィン・マクベスが腰の剣をスラリと抜いた。


 対する清十朗は謎の波動を浴びた自分の体を眺め下していた。敵の前のため素早く大まかな確認であったが、結果として何の異常も見受けられない。彼の感覚としても、不穏なところはどこもなかった。


 ――いったい何をした?


 そう思いつつ顔を上げて前を見た清十朗は、途端にその疑念を忘れた。

 ハッと瞠目した彼の目に飛び込んできたのはすでに剣を構えていたリィン・マクベスであった。別に驚くべき異様な構えをしているわけではない。ただ普通に、オーソドックスに、剣を正面に伸ばして青眼に構えているだけである。だがその姿を目にした清十朗の身はさあっと鳥肌立って引き締まった。


 ――こ、これは。


 清十朗の目から見て、リィン・マクベスの青眼の構えとはまさに剣の芸術、その内でも極点といえるものだったのである。


 概して芸術とは、作り表した当人がその道における一流であり、そしてその達人がいくら至高、これ以上のものが世にあるはずがないと思ってもどこかしら粗を指摘されてしまうものである。それは芸術へ対するにふさわしい清純な目で見て、当人が気づいていない鈍りというものを見抜かれてしまうからであろう。鈍りというものは当人にはわからないものなのである。そしてその鈍りというものはどのように達者な人間でも必ず生じてしまうものだ。だが、リィン・マクベスの構えにはその鈍りからくる綻びというものが一切存在しないように見えた。完全無欠、究極の芸術のように見えた。――

 いや、それはあり得ない。人間によって為されたもので、そんなものはおそらくこの世にあり得ない。それでもそう見えるのはその道における見る者と表す者の差に隔たりがある故であった。

 先ほどリィン・マクベスが言った、剣をとり立ち合って清十朗が及ぶことはないとは自惚れではなかった!

 清十朗の見るリィン・マクベスはまさに完全無欠にしか見えない。彼はこれほどの剣の腕前を持つ者を鍔隠れ内でも知らなかった。

 しかも次の瞬間、リィン・マクベスにある動きがあった。彼が剣の柄から片手を放し、両腕を無防備に垂らしたのである。清十朗の顔色は変じ、頭は悩乱した。いや、――どういうつもりだ? という観念こそ最初に浮かび、それ以後彼の脳中は悩乱というより意味をなさない混乱の迸りが雷雲の内部のように交錯し頭がぼわと白光して痺れるばかりであった。

 それでもこのとき、清十朗の足は前へと滑り出た。混乱の中にも敵の無防備ぶりを見て取った行動であったろうが、敵に隙ありと受け取った確固たる進みではなく何か誘い出されたように無意識的なもつれた踏み出しであった。


 リィン・マクベスが笑った。――


 が、清十朗はのどの詰まったような顔をすると爪先を地に食い込ませて止まった。何か嫌な予感を感覚したのである。というより無防備の相手に斬り込むことに前々の経験から何か想起するものがあったのである。


 ――落ち着け。落ち着くのだ。


 清十朗は改めてリィン・マクベスを眺めた。 


 ――見よ。刀を下ろそうと、奴にはまるで隙が無い。斬り込まなくてよかった。いま斬り込んでいればおれは斬り返されていたに違いない。奴が隙を生むその機会を待つのだ。


 そう自分をなだめた清十朗。この思念とは彼に冷静沈着を取り戻す、理にかなったものであったろう。だが傍から見れば、踏み出したり止まったり、実に煮え切れないか考えなしの踊りでも踊るような振る舞いにしか見えない。リィン・マクベスは「ふふ」と笑みをこぼした。


「どうした? かかってこぬのか? ならば、そろそろこちらからゆくとしようか」


 そう言ったもののリィン・マクベスはその場から動かぬままであった。

 清十朗もまた動かなかった。泰然とした不動ではなく、その身はぐらつくように小さく微妙に震えている。彼は自分を抑え、強いて動かないのであった。

 今しがた彼は奴が隙を生むその機会を待つと考えたが、一見してそれはすでに到来していると言うべきである。剣を下ろし、無防備になっている相手にこれ以上どんな隙が生まれることがあろうか。まさか相手がくしゃみするのを待つわけにもいくまいし。

 それでも、リィン・マクベスに隙はないのである。この判断は清十朗の剣に宿る第六感というべきものからきた。リィン・マクベスに相対する清十朗に剣の先から腕を伝って脳の深奥に向かう冷たい感覚が流れ込んでくるのである。あれは鉄像ではない。斬り込めば必ずそれをはね返して斬り返してくる鎧武者なのであると。

 とはいえ、現実的な目で映せば今が好機と思わしきことに間違いはない。彼の脳髄に理性と本能、どちらも勝利を望むものが引き合いをはじめた。かかるべきか、かからざるべきか。清十朗の体は推進力と制動力によって微動した。

 この煩悶が起こってから時間的にはまだ数秒のことであった。だが清十朗にはひたすらに長い時が経ったような気がした。彼は次第に体内の細胞が急速に消滅していくような感覚がしてきた。まず足から、次に腕、手、腰、全身に及びやがて脳へ。煩悶の末、彼が何もかも脳から消えた無念無想の領域に入りかけたとき、リィン・マクベスについに動きがあった。

 産毛が動くほどの予備動作もなく腕を下げたまま真っすぐ走り込んできたのである。剣を振り上げながらあっという間もなく間合いに入ったリィン・マクベスは電舜というべき速さでそれを振り下ろした。

 突発的な襲撃だがさすが清十朗は反応してのけた。こうなれば隙を待つも何もない。応じて彼は横構えにした刀を頭上に差し上げた。

 両者の刀身が噛み合う――。その寸前、剣を振り下ろすリィン・マクベスの体、肩回りから八方に腕が生え、その先に掴んだ剣が一斉に八方から振り切られた。つまり、刀を差し上げた清十朗には全く無防備な胴回りへも。


「なにっ!」


 驚愕の声ばかり残響し清十朗はリィン・マクベスの剣に斬り込まれた。――

 ……清十朗は閉じていた目を開いた。目を開けると彼は慌てて自分の胴回りを見回した。そこは何かヒヤリと冷えて痺れるような感覚がするばかり。痛みはない。傷はない。斬られたはずの傷はない!

 冷汗流れる呆気にとられた顔を上げるとそこにはリィン・マクベスが立っていた。距離も離れて両腕も下した走り込んでくる前と同じ姿であった。


「どうした? 呆然とした顔をして。私は未だ能力と言えるほどの能力を発揮してはいない。勝負はこれからではないか」


 リィン・マクベスは言った。風を背に受け、マントの裾をふわふわ揺らし、雲のようにゆったりとした姿である。


 ――まさか、煩悶が過ぎて悪夢を見たかっ?

「ハアッ!」


 大喝一声放って清十朗は差し上げていた刀を正面に構え直した。その顔つきは気合を入れ直して引き締められている。


「今しがたのような失態は二度とせんっ」


 だが清十朗の目にまた異常な光景が映った。前に立つリィン・マクベスの右の横顔から鼻、目口、全容が表れれば同じリィン・マクベスの顔が傷も生まれず幽霊が透けて出るようにせり出してきたのである。いや、右側だけではない。左側からも、ないし正面からも顔がせり出し、どころか次いで体すらもせり出してきた。自分の体から幾体もの分身を沸き立たせているとしか見えない姿である。


「な、なんだこれはっ?」

 と清十朗が叫ぶと、

「勝負はこれから……」

 とリィン・マクベスが呟いた。


 その間にも分身は完全に分離した。それら皆いずれも剣を携えている。否や、分身たちは左右と正面へ散開し、清十朗へと馳せ寄った。

 清十朗は首を左右に振ってこれらを見回した。事態は飲み込めぬが三方からの襲撃である。受けては包み斬られる。まずはこやつから斬るしかない! そう言葉なく悟った彼は正面のリィン・マクベスに目を留めると迂回しないため当然一番早く迫り来たそれに向かって気合一声刀を振り下ろした。

 刀は先ほどの自分のように剣を差し上げ防がれた。いや、右に身を逸らし避けられた。いや、逸らしたのは左だ。いずれかわからない。正面のリィン・マクベスはなんとさらに三人へと分身分離してしまった。

 そうしている間にも半円描いて迂回してきた左右のリィン・マクベスが殺到してきた。それに加えて正面の二人も剣を振るった。これら皆、その瞬間肩回りから腕が増え、どころか身を傾ける上半身が増え、放ったのは防ぐもならぬ阿修羅切りであった。――

 清十朗はカッと目を見開いていた。身を強張らせているが、荒く時折途切れがちな息を吐いて死んではいない。今度は目を瞑らなかった彼は剣を振り切ったリィン・マクベスたちが次の瞬間、パッと消え去ったのを目にしていた。

 いよいよ清十朗は混迷に陥った。傷もないしこれは目を開けていても悪夢を見たとした思えない。が、凄まじい現実感を伴った光景であった。走り寄って地を蹴る音や衣擦れも本物としか思われなかった。


「……お前だろう。何をした? いやおれに何をしている?」

 と清十朗が枯れた声で言うと、やはり走り込んでくる前の場所に剣を下ろしたまま立つリィン・マクベスはうなずいて、

「いかにも、私だ。だが、我が術の示すもの、それはわからぬか? ではこれならばどうだ?」

 その左手にどこからともなく全身に赤く透明感のある短剣を出現させた。魔法剣だ。すると彼は再び分身していた。


 展開されるのは先ほどと同様の光景である。違うのは左手に掴んだ短剣ばかり。未だ混迷したままだが応じぬわけにはいかぬ清十朗はまた同様の剣理で正面に迫るリィン・マクベスを斬らんと待ち構えた。

 そのとき、寄ってくる正面のリィン・マクベスの胸辺りから短剣が飛んできた。このリィン・マクベスが投げたわけではない。明らかにこれの背中から胸へ体をすり抜けて飛んできたものであった。思わぬ攻撃にその短剣はあっけなく清十朗へと突き刺さった。

 うめきを漏らしてのけぞり返る清十朗に三方からの襲撃者は斬りかかった。今回も八方に上半身の増えた多腕の阿修羅切り、しかももう片方の手に持った短剣によるものも加えてわけのわからぬ光景となった。――

 すべては夢幻。清十朗は倒れもせずにのけぞった体を戻した。相変わらず目を見開いているが、「まさか。今のは」と呟いた彼のそこには何か理解の光がある。


「もしや、おれに見せているのはお前の振るう剣の可能性なのか?」

「利口だな。よく気づいた」


 リィン・マクベスは左手の短剣を左腰の鞘の上に張り付けた。鞘に納めていないのにそれは落ちない。そして、


「そうだ。私が貴公を攻撃しようとすれば、そこには様々な方法がある。剣を使うにしても斬り下げることもできるし撫で斬ることもできる。間合いに入るにも直進するかもしれぬし、迂回するかもしれぬ。また剣以外にも――」


 リィン・マクベスの背に赤い半透明のものが二つ現れた。それは斜めに張り付いた弓と槍であった。話の途中にも清十朗は分身するリィン・マクベスに襲われていた。そこに矢を射る者と槍を薙ぎ、突く者が増えた。


「武器が増えればそれだけ方法は増えていく。動き方は増えていく。例えばこれだ。これだ。これだ――」


 リィン・マクベスの体に次々と赤透明の武器が備わっていく。左腰に鎌が下げられ、右腰に鎚が下げられ、その胴に斜めに鎖が巻き付いた。分身に鎌を振るい、投げ、鎚を叩き下ろし、鎖を薙ぎつける者が増えた。


「それによる攻撃の軌道は無限となる。私の魔法はその全ての可能性を同時に相手へ見せることができるのだ。これぞリアリスティック・カレイディア!」


 清十朗が見る阿修羅切り、それはリィン・マクベスの魔法の作用であったのだ。リィン・マクベスは続けた。


「どうだ? 私のこの奥義は。攻撃のあらゆる可能性を一度に見せられるとは、これまで受けたことのない体験であろう? ……いつか、私は剣の師匠に教えられたことがある。剣の極意とはすなわち、秘匿すること隠すこと、己の心を沈め和を求め、敵に己の意を読ませぬことにあると。だが、私はそれに疑問を持った。そこにはある限界があるのではなかろうかとな。己の心を沈め和を求むという部分はいい。それは剣を扱うには重要なことでありまた何より自分のことだ。だが敵に意を読ませぬということにはある懸念が生まれる。不可能ということではない。それは不可能ごとというほどではないが、それを試みているとき果たして本当に敵に己の意を隠せているのかという懸念が生まれるということだ。もしや敵には自分の意を悟られているかもしれん。読めぬふりをしておき利用して斬り返してくるつもりかもしれん。それは他人の心だけにわからん。実に矛盾したことを言うようだが、所詮人の心などその真実の気持ちは他人にはわからんのだ。そこで私はいっそすべてをさらけ出すことを考案した。さらけ出すことでかえって隠す。そして発明したのがこのリアリスティック・カレイディア」


 何やら語り出したリィン・マクベスだが肝心の清十朗はこの語りを間違いなく聞いていなかった。今もまさに清十朗はリアリスティック・カレイディアの魔法に襲われ続けている。分身は数秒の間隔で現れては殺到し消え、消えては現れるということを機を織るように繰り返しているのだ。その分身のいったい何人いることだろう? 武器が増えた分、その数も増してそれらすべてが現れる度にその手の武器で清十朗を斬り、刺し、射抜いてくる。今はまだ本物の刃はなかったが分身の出すものは音も匂いも気配すらも迫真性があり忍者の五感でもどれが本物かわからない。よってこの乱刃を前にうかつに背を向けて逃走もできず、それらすべてに対応しようとしてもむろんできるわけもないため四苦八苦し振る刀も無駄に終わり、攻撃を受けて「くっ……ぐっ……」と苦鳴を上げる彼はそれどころではない。

 しかもリィン・マクベスは続けて言い出した。


「だが、貴公が受けているものは真のリアリスティック・カレイディアではない。未だ総力を発揮していない半端な状態にあるのだ。このことは納得ゆくだろう? 剣の振りは現実的には八方向に留まらず、駆け寄る方向も三方のみではない。間合いを詰める速度にも変化は出る。より細分化するのだ。まさに無限のように。要するにいま貴公が見ているものは可能性のすべてではないということだ。とはいえ、手を抜いているわけではないぞ。私も久方ぶりに振るうものでこれまで調子が出なかったのだ。しかし、そろそろ肩もほぐれた。さあ、今こそ私が斬るかお前が斬るか、真の奥義を以って決着をつけよう」


 清十朗の目にする景色に驚くべき変化が訪れた。リィン・マクベスの分身がさらに増えたのだ。これまで三方に分かれ走り込んできていた分身の合間に分身が現れ、それが両肩など透け合わせ重なり合わせて隙間なく埋まった。そして地上のみならず、空中へ跳ね上がり飛び掛かってくるものたちも現れた。それらが高低差をつけ、やはり透けて重なり合うことでだんだらの重層となり、壁そのものと化した。

 清十朗の視界は無数のリィン・マクベスでいっぱいになった。

 迫ってくる顔顔顔。合間に見えるおびただしい赤透明の武器。そこに服、ないし髪の色や微妙な陰影を加え、それらが揺れ、融けて重なり合う。美しい容貌をしたリィン・マクベスだが、これはさすがにサイケデリックといえるほど吐き気のするおぞましい光景であった。


「な、なんだっ! この地獄曼荼羅はっ!」


 のけぞり返った清十朗がこの世のものならぬ恐怖の絶叫を上げるうちに人体の大津波となったリィン・マクベスたちは各々一斉に武器を振り上げていた。ここまで複層的で滅茶苦茶な絵図ではもはや判別不明だが、この事態に至ってもその腕は例の如くさらなる分身をしている。八方向ではなく花のように。清十朗は幾百、いや幾千かもしれない武器によって斬り込まれた。――

 それでも清十朗は生きている。リィン・マクベス本体が実際に攻撃していなかったからだ。だがすでに死んだも同然。リィン・マクベスの分身は数秒の間隔をおいていた先ほどとは違い、後続と時間的な合間を開けずまさに人波と化しては攻撃し清十朗の後ろへと流れ過ぎていく。伴う音も武器を振る風切り音は暴風のようになり、衣擦れの音は鳥の大群が羽ばたくようになって耳に響いた。途切れることのないそれに呑まれ包まれて、清十朗は全身引きつり、うつろな目で立ち竦んでいる。

 ついに清十朗は「ああっ!」と息を吐いて首を垂れた。その目はギュッと固く閉じられている。彼はあまりに変化の激しい光景を見て、目が乾き瞼を開けていられなくなったのだが涙ぐむ彼が閉じたのはそのためだけではあるまい。青眼に構える刀にすがりつくように両肩をすぼめている。

 ただ、たとえ眼前の光景に瞼を閉じ、暗闇に安寧を求めようと、耳までは閉じられぬ。リィン・マクベスが自身の間近を流れ過ぎてゆく恐ろしい轟音は聞こえる。清十朗は耳鳴りがしてきた。目の疲れが波及したか頭痛がし、眼球の奥が重くなり、こめかみが凝り固まるような感覚もしてきた。またそのためか鼻も鈍くなってきた。

 それはわかるが清十朗、果たしてそれでよいのか。リィン・マクベス本体はいつ可能性の分身に紛れて現実の攻撃をしてくるかわからない。もっとも、たとえ見て聞き嗅いでも、見極められる状況ではないけれど。

 その上、清十朗は目の前の状況を置いて心中に沈んでいた。


 ――こんなことがあるというのか! 可能性のすべてを敵に見せ、惑乱させるだと。こんな術は破りようがない!


 清十朗はギリギリと歯を噛みしめた。


 ――ここまで来て。いや、そもそもここまで来たことが間違いであったというのか? ……


 清十朗の脳にぼわりとした輪の広がるような感覚がした。何か清浄と聞こえる響きも頭のどこかにかすかに聞こえた気もした。それを感じると彼は、

 ――いや!

 と首を振った。


 ――それにまだ望みはあるはずだ。こうなれば、いや初めから残された道など一つしかない。こちらから踏み出し奴を斬る! いくら可能性のすべてを見せられようと奴にとれるものはその内一つ。奴の腕は所詮二本しかない。駆け寄って奴より先におれが斬ればいいのだ。そこに奴がいると信じて!


 清十朗が獣のように鋭く、精悍に光る眼をゆっくりと開いた。


「ほお」再び映し出された無数のリィン・マクベスが押し寄せながら一斉に言った。「その眼。さすがは我らが王城に忍び込み、途方もない事件を起こした者たちの一人。よほどの腕利きと認めた者にしか使わぬことにしているこのリアリスティック・カレイディア、それでも受ければ大方は気死するか、発狂するものを」


 だがそれは清十朗の側からすればということである。リィン・マクベスの視点に回れば彼は本体一人を以って話している。分身など何もなく、どこまでも広漠な夕暮れの草原にぽつりと立って構える清十朗をただ見据えている。清十朗を見つめる彼の眼が、ふと憂愁とも言うべきひかりを帯びた。


「一人、か……。思わば、我らは互いに一人となったな……。お前は仲間を失い、私は友人二人に近習二人を失った。残ったのは、我らだけ。我らのうちでも最後に残るのは、一人だけ。その上ソーラコアは帰る。魔族のいるあの世へと。こうなってみると、此度のことはいったい何であったのか。何の意味があったのか。……」


 呟かれたリィン・マクベスの声は清十朗の耳へ入った。入った言葉は清十朗の声へ変換され彼の深奥へ響いて遠くなっていった。

 此度のことはいったい何であったのか。何の意味があったのか。……


 そのとき、声は再び彼の脳中に返ってきた。やまびこのように。声は段々と大きくなり、それにつれて彼の脳裏に無数の想念が浮かんだ。

 修行し、農作業をするだけの日常に突如聞こえてきた謎の大地出現の報。ある日の夜、猛蔵によってもたらされたその大地にて任務を果たせという申しつけ。王都へ向かうまでの山を渡り、草の上に寝る日々。いざ王城へ潜入し周囲を窺って気の抜けない時間。そして、塔にて相対した聖女――。

 想念とはこれまでの旅の記憶であった。しかしその記憶の光景はすべて一瞬のうちに流れ消えた。同時にあれだけ悩ませていたはずのリィン・マクベスの分身は目も脳髄からも消え、周囲の雑音もまた消滅した。

 代わって甦ったのは猛蔵の快然とした声であった。


「お前はようやったな。その点、誇ってよいぞ」


 また柔膳の淡々としたような声も反芻された。


「ほう。そうか。ようやったな」


 そして、四季右衛門の低く柔い声も響いた。


「清十朗。……ようやった!」


 清十朗は笑った。晴れ晴れしく、誇るように、子供のように。


 その笑みを見て、リィン・マクベスの目に不審の光が揺れた。彼に初めて表れた動揺の気配であった。

 清十朗の刀が八双に上がり、彼は地を蹴った。分身をないもののように彼は走る。

 赤光に照る二つの剣光が交わったとき、新瑞清十朗とリィン・マクベスは流れ違った。

 ……生、あるいは死。一瞬、寂寞たるときが流れた。

 リィン・マクベスは立っていた。剣を横にし、撫で斬りの姿で。

 その背後に清十朗もまた立っていた。――両肘から先がなく、頭もない姿で。


 清十朗は赤い空に凄まじい血の奔流を噴き上げると、血だまりの中に、すでに地に転がっている自分の両腕、刀、頭の中に崩れ伏した。


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