四十三話 刃、通じぬ男
弟であるバウルンを殺され、オーシャコットは獣の如き凄まじい形相と化した。
「これぞ、炎王の気晴らし――アッソエトナ! そして、風王の立腹――デスパレート!」
同時に彼は片足を引き、獅子の口を表すように両手を上下に広げ呪文を唱えている。
呪文の声が遠く響き消えると、辺りの頭天には赤い空に血管のような青い網目状の光が広がり、草の下の大地はこれ自体が赤い光を放ち始めた。
清十朗がこの異常事態に周囲を見回したのちキッとオーシャコットに目を戻して刀を構えるや、彼の眼前に凄まじい光景が現出した。数メートル先の地面からいくつもの火柱が次々と立ち昇り、彼に向かってまっすぐ迫って来たのである。
「あっ」と叫んだ清十朗は咄嗟に横へと飛び跳ねて元いた場所を行き過ぎていった火柱をかわしている。そのとき、中空を飛ぶ彼のさらに頭上で不穏な青光りが強く発光した。途端に叩き落されたのは暗雲もないこの空に稲妻であった。
幸運という他ない。中空をすでに飛んでもはや身動きとれぬ清十朗は流動の勢いに任せることで落ちた稲妻をそのままかわしている。しかし、着地した彼の背後からは彼を追って蛇行してきた火柱の列が迫り、空は青い光を膨らませ今にも何か放出しそうな気配を見せた。
火柱を見て前を向き直った清十朗は走り出した。背後からは噴き上がる火柱が追い、空からは稲妻が落ちる。
この不可思議現象は言うまでもなくオーシャコットの魔法だ。これまで拳法に重きを置いていたような彼の、魔法使いとしての本領発揮といったところであった。片足を引き両手を上下に広げたまま清十朗を追って向きを変える以外銅像のように動かない彼だが、その姿から発せられる威容はバウルンの死を知って思わず剣の柄に手をかけていたリィン・マクベスがその手をゆっくりと離して見守るほどの物凄さであった。
かかる緊急事態に見舞われて、当然走り続け避けの一手を取りつつ清十朗はこの場からの本質的な逃亡を目論んではいなかった。先ほどは我知らず逃げ出そうとした彼だが、改めて戦う覚悟を決めている。最早それしかないと断定している。とはいえど、彼をつけ狙うは世にこれを超える恐ろしさなき天地よりの挟撃であった。清十朗は左右へ飛び石を飛ぶように駆け空からの稲妻をかわしていく。その間に背後の火柱は徐々に距離を詰めてきていた。復讐の念が迸るようにこれらけして清十朗を追うことを止めず、また術者を襲って邪魔をしようにも繰り出しているのはどんな攻撃も効かぬオーシャコット・エレクティアである。
――このままでは抗いようもなく焼かれる時を延ばすだけだ!
追われながら内心にこう叫んだ清十朗。しかし次の瞬間、彼の脳裏に、――いや待て。止める方法はある! という着想が閃き過ぎた。
すでに結構遠くまで走っていた清十朗は地につま先を食い込ませ方向転換するとその方へ駆け出した。元いた方へ。というよりオーシャコットの方へ。いや、詳細に言うならリィン・マクベスの方へ。
「なに?」
自分の方へ火柱と落雷を伴って馳せ寄ってくる清十朗にリィン・マクベスが首を傾げた。やおら腕組みを解き、剣の柄に手をかけた彼だが、何か悩んだ顔を浮かべたのちその手を離している。清十朗が近づいてくると困惑気な彼は追われるように同じ方へと走り出した。
「おい、リィン! 頼むからそいつは斬らんでくれよ。私に任せてくれよ」
清十朗とリィン・マクベスが接近したことでオーシャコットの焦りの声が飛んだ。それに「わかっている!」と返しつつリィン・マクベスは背後を振り返り振り返り走っている。清十朗が後を追ってくるのだ。それは右へ左へ蛇行しようと同じであった。そして蛇行していることや振り返っていることが災いしたかリィン・マクベスはやがて清十朗にすぐ後ろまで追いつかれた。従ってそれは火の熱さと落雷の光がより差し迫って感じられるということであった。
後続に位置する清十朗がリィン・マクベスに向かって、
「やあ。いや背中が熱いな。これは堪らん。あなたもそう思わんか? というわけで、おい、そろそろこれをどうにかしようではないか」
とまるで知人と相談でもするような親しげな笑顔で話しかけた。
これに後ろを振り向いていたリィン・マクベスは「こいつ」と苦笑いを浮かべた。
背後に張り付いて走る清十朗はリィン・マクベスを巻き込むことで他ならぬ彼自身にオーシャコットの攻撃を止めさせようとしている。しかも何たる不敵さ、清十朗はたとえ近寄ろうとも彼が自分に危害を加えぬということを計算に入れているに違いない。その計算がなければとてもできる策ではない。
リィン・マクベスはこの危急の事態の最中、その上走りながらそんな人を食った策を考えだしてきた清十朗にちょっと感心の念を送りつつ、同時にまんまとその策に乗せられることに反抗心を抱いた。とはいえ、今も火と雷は草を燃やし巨大な獣の口のように天から地から迫ってくる。
「オーシャコット! 魔法を止めよ。立ち合うならもう少し規模の小さな魔法で立ち合え。私が巻き込まれる」
リィン・マクベスは停止の言葉を送った。
オーシャコットはギリと歯を噛みしめ、それでも腕を下し、片足を前に出して直立した。ぼやりと空の血潮は薄れ、地の赤光は収まった。天地の騒乱は消えた。
清十朗とリィン・マクベスの二人は立ち止まった。相手の目を無言で見交わすと、リィン・マクベスはこれはこれで不敵にも清十朗に背を向けて、歩き出した。
「逃げるなよ。少なくとも、あれを倒すまでは」
と清十朗がそのマントに声をかけた。リィン・マクベスは「……。ふふっ」と含み笑いを漏らし、一、二歩の助走のあと鳥のように百メートル以上も跳んで少し遠くまで離れた。
清十朗はオーシャコットへと向き直った。彼による天地挟撃の恐ろしい攻撃は凌いだ。だがまだまだ戦いはここからだ。あらゆる攻撃の通じぬ金剛不壊のオーシャコット。彼自体を倒す目途はまだ立っていない。その彼はじっと清十朗を見ている。両者の距離はいま数十メートルと離れているが、仁王立ちする彼の全身から放射する凄まじい気迫はここまで薙ぎつけ、清十朗は面を吹かれるような感覚を覚えた。まるで難攻不落の大砦を前を前にしたといったところだ。
――さりとて、やつを突き崩す方法は必ずあるはずだ。知恵を絞れ、清十郎。今しがたのように。知恵を絞ること。それこそが忍者最大の武器だぞ。
それを探すため、オーシャコットを注視する清十朗が拡大視すらしたかと思われる没頭の境地に入ったとき、ふいにオーシャコットが片足を引いて頭を垂れた。次いで彼は地を蹴りイノシシのように猛進し始めている。反射的に刀を前に構えた清十朗は直後、まさに直後というべき数瞬ののち、地面に後頭部を打ち付けて倒れていた。空を見上げる彼には右腕を鎌のように横に差し出すオーシャコットの姿が映った。刀の切っ先から両腕へと伝播する痺れに顔をしかめつつ、彼は「くっ」と身を横へ転がした。頭があった場所にはオーシャコットの足が振り下ろされ、地響きを鳴らした。清十朗は急ぎ立ち上がったが、そこにはオーシャコットの拳が待ち構えていた。
天地挟撃の魔法こそ封じたものの、オーシャコットには拳法という武器があるのだ。そしてそういえば、距離を詰められ彼の拳法に一度捕捉されてしまえば防戦一方となってしまうとは前に示された通りである。
打ち出された拳を清十朗は刀で受けたものの、オーシャコットは更なる連打を繰り出してきた。それが何という凄まじさだろう。清十朗は拳の連打をすべて刀で受けているのだが、オーシャコットは刃に構わず連打を続けてくる。しかも、その連打は猛烈苛烈、一切休まることなく打ち出されてきた。一つ一つ、打ち込めば魔族の頭骨すらひしゃげさせ粉砕してしまう拳である。
――こんな男に果たして突き崩す方法などあるのかっ? いや、ある! あるはずだが、何しろこのままではそれを考える暇もない!
オーシャコットの片方しかない目は怒りに満ちていた。その目がいつまでも続く清十朗との攻防によってかさらに苛立たしげに鋭くなって、開かれた片手がぐわと刀に向かって突き出された。
瞬間、清十朗はびくりと反応していた。オーシャコットの突き出された手は空を掴んでいた。清十朗は腰を落として手をかわすとオーシャコットの体を踏み台にその後方へと飛び上がっていた。
着地と同時に清十朗はそのまま前に駆け出している。彼としてはオーシャコットに接近したままでは先ほどの巻き戻しとなってしまうため離れるしかないのだ。しかし、背後にちらと首を向けると、彼へと反転したオーシャコットが奔流のように駆けてきていた。
離れようにもそう簡単には離れられるようにはしてくれない。何か策を練ろうにもそのための猶予の時間を与えてはくれない。しかも当然、追走するオーシャコットは足を動かしながらサンセクションの火球を放っている。
清十朗は斜めに走って火球を避け、続いて飛んでくる攻撃もかわしのけた。その彼が、はたと足を止めた。彼は岩場に行き当たったのである。オーシャコットたちが現れたあの岩々である。すなわちそれは行き止まりにぶつかってしまったということであった。
「追い詰めた。まんまと誘導にかかったな」
振り返るとオーシャコットが駆けてきた。
「ここまでよう耐えた。凌いだ。それは認めよう。だがこれで終わりだ。今こそユールズやオネストたち、そしてバウルンの仇をとるぞ!」
数メートルの距離を置いたオーシャコットは呪文を唱えた。彼が広げた両腕を何か掬い上げるように振り上げると地面から二つの炎の幕が立ち上りつつまっすぐ走った。清十朗の背後にある岩を過ぎるまで。炎の幕は高さ十メートル以上はあるだろう。揺らめき波打ち、まさに赤い緞帳のようであった。続いて彼はまたも何やら呪文を唱え始めた。
絶体絶命。左右を炎の幕に遮られ、前には敵、背後には岩。清十朗に逃げ場はない。そんな中、彼は身じろぎ一つせず佇んでいた。それが全て観念したという姿ではない。炎の幕とそれが地の草を焼いて漂い始めたチリチリという音に包まれながら、瞳には至極冷静な光を宿し氷像のような立ち姿であった。
彼は観察しているのだ。この万事休すの危急の事態にこそ、彼はこれまで欲しがっていたオーシャコットを突き崩す方法を案ずる猶予というやつを得たのだ。だがその時間はあまりにも少ない。彼はオーシャコットを倒す方法に気付けたのか? 何か大逆転の妙案を思いつけたのか? 彼の頭上には網目状の青い光が走り、
「準備は整った」
とすでにオーシャコットは口にしてしまったが――。続けて彼は言った。
「さあ、終わりの時だ! 最後に何か言い残すことはあるか、と言うべきだがそんなものは聞かん。言いたければ死にながら言え。行くぞ!」
「では手短に言おう!」
清十朗が声を張った。そしてニッと笑って、
「お前の弱点、見つけたり」
「なにっ!」
オーシャコットは動きを止めた。次いでその顔が、延命を図る嘘ではあるまいかという疑いの色に染まった。
炎の幕に挟まれて、清十朗は堂々と、また悠々と笑っている。
「お前は片目をどうにかしているようだな。だがその片目、以前からのものではないのではないか? 覆うものは眼帯ではなく、おそらくそこの破れた袖を差し当たって結んだものだろう。それに今にして思えば、おれがお前の頭に刀を突き立てたとき、また先ほどお前の手から逃れたとき、お前ほどの男を踏み台とできたのはお前自身の動きの一瞬のぎこちなさが助けとなった感がある。つまり、お前が一眼に慣れていなかった節がある。違うかな?」
「違うかなと言って、だからどうしたっ? 私にとって動きがぎこちなくなろうとそんなものは大きな問題ではない。何しろ攻撃が通用しないのだからな。そんなことを見破ったぐらいで、とどのつまり私を倒すことができると言えるのかっ?」
「うん? ううん、それは確実にとは言えんかな」
こんな場合に清十朗はぼんやりとしたことを言った。
「たわけっ! では結局、弱点と言っても些細な弱み程度のことではないのか。そんなことでよく弱点を見つけたなどとうそぶけたな!」
「――だが」清十朗の目が鋭くなった。「やはりおれはそこに穴があると見る。突けば崩れる穴がな。お前は猛蔵どのと戦ったと言っていたな。ならばその目の怪我、新しいことを考慮して猛蔵どのにやられたものに違いない。とはつまりお前の術も完全無欠ではないということになる。しかし猛蔵どのがどうやってお前に傷をつけたのかはわからんし、わかったとしてもおれに同じ手段が取れるかがわからん。それでも、猛蔵どのは何かそこに突破口を残してくれているはず。おれはそれを信じて、そこを突く!」
オーシャコットの手が布で覆われた目に伸びた。布で隠れているが、そこにはまさに「穴」があった。猛蔵が蓋を外したことでできた文字通りの「穴」である。オーシャコット真の弱点である脳へとつながるここを突かれれば、彼と言えどもただでは済むまい。脳が云々の理屈は知るはずもなかろうが、清十朗は実質彼の弱点に本当にたどり着いたのだ。
ふいにオーシャコットがフッと息を漏らした。それは内心にたぎる全てを差し置いて自然と浮かんだ薄笑みであった。彼は静かに言い出した。
「なるほど。お前の言いたいことはわかった。だがそれでもし私を倒せるとしても、いったいどのようにこの穴とやらを突くつもりなのだ? 指を入れるか? ――そこまで近寄れば私の拳が頭骨を砕く方が早い。では剣を使うか? ――入るかそんなもの。さらに突くどころか、お前はもはや私に近寄ることすらできんのだ。――見ろ。お前の左右は火に塞がれている。そして私はこれよりこの直線上にサンセクションを放つつもりでいる。まずもって包み焼かれる定めというわけだ。かといって、後ろの岩を登って逃げようなどと考えても無駄だぞ。その場合には頭上から雷を落とすよう備えがしてある。飛び道具という手段にしても、見る限りお前の腿の鞘には何もなく、服にもそれらしい膨らみは見られぬではないか!」
確かに清十朗の腿の鞘に棒手裏剣の手持ちは最早なかった。バウルンをかき消したものが最後であり、それもどこか空の彼方へ消えてしまった。伊賀謹製の糊はあるにはあるが、この炎に囲まれたなか、それを飛ばそうとすぐに乾いて効果を失うことは推して知るべし。
オーシャコットの問いに清十朗は答えなかった。彼はすでに口を紡ぎオーシャコットを見据えている。その瞳には、炎の幕よりも燃えるような強い光があった。
炎の揺らめき、草の焼ける音。清十朗とオーシャコットの間に数秒が永劫にも思われる時間が過ぎた――。
オーシャコットの腕が上がった。その手には火球が生み出されている。振り切って火球は放たれた。
同時に清十朗の方も腕を振り切るような格好となっていた。
火球は清十朗へと迫る。逃げ場はない。だが火球が彼にぶつかる間際、左右の炎の幕は消えた。清十朗の体は横へと流れ、転がり、火球は背後の岩を溶かしつくした。
これらみな一瞬の出来事である。清十朗は生きている。片膝つく彼は立ち上がり、その方を見た。
そこにはオーシャコットが振り切った腕もだらりと下げてやや前傾に立っていた。彼の覆われた方の目には、溶けかけた柄のようなものが突き刺さっていた!
次の瞬間、オーシャコット・エレクティアはどうと倒れ伏した。それきり彼は、動かない。
「小柄……おれの手裏剣は無くなったわけではなかった。もう一本、ただ一本、これだけは残っていたというわけだ」
見送った清十朗がそう呟いた。
小柄――鞘の刀の鍔が触れる付近に装着する小刀のことだ。清十朗はあの転瞬の合間にそれを抜き、投げた。流星のように飛んだ小柄は飛び来る火球と炎の幕の隙間を見事すり抜け、オーシャコットの眼窩を射抜いたのであった。
小柄とは別に忍者の暗器というわけではない。何かを削ったり、ちょっとした日常の雑務をこなすために持つもので多くの武士が所有をしている。むろん、オーシャコットはこの存在を知らない。彼の国にこれに該当する道具はないだろう。知らないからこそ彼は咄嗟の対応すらできなかったのだ。
この場合にそれを用いて敵の意表を突き、火球と炎幕の隙間をすり抜けさせその上相手の眼窩を正確に射抜いて見せたその絶技――新瑞清十朗、忍者として、今ここに彼ならではの神髄を発揮したというべきであろう。
……神髄に至った清十朗は、さすがに息を切らせていた。激しく乱れているというわけではないが、吐かれる息は深く、重く、しかし細い感じがあった。顎が上がり空に向いた目も、ぼやりとして何を見ている様子はない。ややあって顔を正面に向けた清十朗はのっそりと歩き始めた。
刀を引っさげた手をだらりと垂らし、遅い足取りだがふらついた歩行ではなかった。しっかりと背筋を伸ばし、確かに歩いている。夕日に照る草原の地平を眺め、この遥か先にある相模の浜に向かって。――
「感服したぞ。清十朗」
その彼にふいに声がかけられた。
「まさかオーシャコットを討ち取るとは。敵ながら、戦士として見事と言うほかない。だがそれだけに哀れ――そこまでやってのけようと、お前は国に帰ることはできない」
横向けば佇んでいるのはリィン・マクベスであった。清十朗の汗の流れる顔に淡い笑みが浮かんだ。
「……そういえば、いたのであったな……」
向き直り彼は刀をゆらりと上げた。
「参れ……剣か魔法か、ここまでのことを成し遂げてきたおれだ。最早何使おうと、すべて破ってみせる」
新瑞清十朗とリィン・マクベスは相対した。




