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四十一話 決断

 朝となった。


「いや、いい、いい! せんでいい!」

「せんでいいとは言っても、しないわけにはいかないでしょう。あなたの方が」

「それはそうだが……とにかく、ひとまず止してくれ!」

「何を恥ずかしがっているのです。わたしが変装していたときからしていたことではありませんか? ……わたしは気にしませんっ。これはやらなければならないことなのですから」


 思うところあって何をしているのかは伏せるが、清十朗と聖女のやり取りであった。


 何やら拒絶している清十朗だが、彼は別に恥や遠慮によってそうしているのではなかった。彼は聖女に世話を受けるのが心底恐ろしいのであった。それというのも聖女の心情を想像してのことである。つまり、果たして彼女は本当に自分を救う気があるのか? ということである。

 やり取りが清十朗が従う形で一応終わり、聖女が去ったあとも彼は天井を見上げこのことを疑わしく考えていた。疑うほかないことであった。何しろ彼が彼女にやったことを考えれば。

 いったい誰が自分の下腹に手裏剣を刺した人間を助けようと思うだろう?

 通常の神経ではまずあり得ない。理性のない人間ならなお考えられない。聖女はどうだろう?


 ――助けるなど、あり得ない! 何か胸に企てを抱えているに違いない!


 目を見開きそう考える彼にしかし遠くから呻き声のような思念が追って響いてきた。


 ――だが、今しがたといい、これまでのことといい、あの人はおれを世話し助けてくれた。それが事実だ。現実だ。それをどう説明する?

 ――いや! それこそが罠だ。おれに対する復讐の罠。まずおれを嬉しがらせ、そこから一気に絶望の地獄へ叩き落す。実は治らぬとか、あるいは大陸消失の刻限を偽っており治ると同時にそれが起こるよう図っているとか、その類のこと。


 疑い出せばきりがない、悪い想像というものあぶくのように浮かび来る。それでもその中に彼は、

 ――しかし、それでも、信じるべきなのだろうか……? あの人はそんなことをしないということを。あの人がおれにしてくれたことを思って。

 という念を現した。


 そうであることが彼にとっての希望であるというだけでなく、もっと人間的な奥底から来る想いであった。


『あなたがわたしの話を信じるか信じないか、そういった話です』


 まこと聖女の言葉とは人心の両端を引き、つっぱり返させるこれに勝るもののない大難題であった。

 その難題を出した彼女が、またやって来た。


「食事を持ってきました」

「……」


 彼女の言葉に清十朗は布団に寝て見上げたままであった。


「どうしました? 食べますね?」

「……。……わかった。いただきます」


 手を貸そうとする彼女に「いや……」と手を差し出した清十朗はベッドに座り、トレーを受け取って食事を始めた。


 持ち込んであった白い椅子に腰かけた聖女がその様子を見ながら、

「料理は美味しいですか?」

 と話しかけた。


「……」

「その食事、わたしに出されているものをあなたに分けているのですが、口に合いますか? わたしは美味しいと思いますが。――ああ、安心してください。分けているとは言ってもわたしの食べた途中のものではありませんよ。わたしが食べ終えた上で、同じものを全てもう一度頼んでそれを持ち込んでいるのです」

「……」

「このころわたしが毎食、それも全ての料理のおかわりをお願いするものですから、太り出すのではないかとみな心配していますが、ふふふふふ」


 のどの詰まったような食事を清十朗は終えた。一度トレーを下げに部屋を出ていき、すぐに戻って来た聖女の話は続く。


「そういえば、変装しているときは話せなかったため答えられませんでしたが、何か聞きたいことはありますか?」


 清十朗は何か考え込むように黙っていたが、しばしして聞いた。


「ここは一体どこなのです?」

「ここは砦の近くにある山のふもとです。とは言っても山間の、おそらく滅多に人が入るようなところではありませんが。あなたの流された川から、そう離れてはいませんよ」

「では、この家は? 人が来ぬような場所にちょうどこんな小屋があったのですか」

「いえ、この家はわたしが川であなたを拾い、とにかく外傷を治したあと、辺りの木を使って建てたものです」

「あなたが建てた? 一人だろう?」

「魔法です。どうですか? 家など初めて建てましたが、急ごしらえでもなかなか上手にできているでしょう」


 難題を出した聖女はこのように、清十朗へ何のこともないような、むしろ穏やかで、ちょっと親しげとも思えるような振る舞いをしてきた。例の難題については特に口にしない。清十朗の悩乱はますます深まるばかり。そしていよいよ三日が過ぎた。――


「治療はこれで完了しました。清十朗、立ちなさい」

「……立てますか?」

「立てるはずです。さあ」


 緊張した顔をしている清十朗が「ふっ」とかすかな気息を漏らした。ベッドに寝る彼の半身は、ゆっくりと起き上がっていった。棺桶に寝た遺体が復活するかの如く。彼はベッドに座る形となり遂には前のめりとなった。揺れる瞳を見開いている彼は次いで、足を横に向けて床に着け、ベッドから下りた。

 清十朗は立った。曲げた足を伸ばし、彼は確かに床に立ったのだ。少しの間呆気にとられたような顔で棒のように突っ立っていた彼は何思ったか、突如前に踏み出しながら仰向けざまに空中に舞い上がる、いわゆるバク宙というやつをやった。天井のすれすれ数メートルも飛んだ彼はとんと降り立った。見事舞い上がり屈み込むその姿は優雅ですらあった。だが、彼はすぐにわなわなと震え出した。着地の衝撃が全身に伝播するように。いや、この震えは――。彼は蝶が羽化するかのようにスーッと立ち上がった。その顔が、やわく微笑んで彼を見る聖女の方へ向く。


「まだ治ったばかりです。そんな無茶は止めなさい。けれど、どうです、治ったでしょう?」


 確かに新瑞清十朗は元通りに治った。果たしてあの人はおれを治してくださるのだろうか、と心許なく思っていた清十朗だが、聖女は宣言通り彼を治してくれたのだ。肉体の復活、その喜び、さすがに目に涙を滲ませた清十朗は、

「ありがとう。ありがとう。礼を言う」

 とちょっと涙声で言って彼女の両手を押し頂いた。

 しばらく笑顔のままなすがままになっていた彼女はやさしく彼の手を外すと言った。


「清十朗。治療は終わりました。これでわたしが行うことも終わったということです。あとは、あなたが――」


 清十朗の目に滲んでいた涙がスッと引いた。その彼の前で聖女は「少しお待ちなさい」と身を返すと部屋を出て行った。まもなく彼女は帰って来た。その手に棒手裏剣の一本納められた革鞘と刀を掴んで。


「あっ」と声を上げる清十朗に彼女はそれらを差し出した。


「これらは返しておきます。隠していてもあなたは見つけ出すでしょうし、それに……。……。とにかく、返しておきます」


 刀と革鞘を受け取った清十朗はそれらを見下ろした。その目には、父の形見が戻って来たという以上の何か混在した感情がある。じっと見下ろしている彼に聖女が声をかけた。


「さて、清十朗。実は、わたしはもう城に帰らなければなりません。ちょうどあちらで重大な用があるのです。おそらく、しばらくはここへ来られないでしょう」


 清十朗がさっと顔を上げた。彼の目が、聖女の目と合う。時も流れぬような沈黙が下りたが、実際それは一瞬であった。


 彼女は、

「時間が経ってもすぐには悪くならないと聞いた覚えのあるものを何とか集めておきました。食べてください」

 と続けてその方に目を向けた。

 

 そこには清十朗の私物が置かれた窓際のテーブルがあり、彼女が持ち込んでいた大皿があった。上にはいくつものパンや干し肉と思わしきもの、チーズなどが乗せられている。


「水の方も……いいですね。では清十朗。わたしはゆきます」


 聖女が扉の方へと歩き出した。その背を、清十朗は見つめている。扉を開いた聖女は最後にちらとその彼に目を向けると、去っていった。

 清十朗は一人部屋に残された。これまでとは違う――彼は立っている。音も気配もなくなった中に清十朗は呟いた。


「これより、一日待て……」


 真に難題と向き合う時――。








 それから一刻ほど経ったころである。穏やかな朝の日が差す室内の床に新瑞清十郎は凝然と坐っていた。だが、目をつむる彼の眉間には苦慮苦悩の縦筋が深く刻み込まれている。


 ――一日……一日……この一日、おれはこの一日をここに留まるべきなのか……。

 ――馬鹿な! 何を悩むことがある。あの人がおれを治してくれるとは本当であった。その他世話をしてくれたことといい、ましてあの人が、よりにもよってこのおれをだっ。そんな人の言葉を信じぬはあまりに不義忘恩というものではないか?


 すると、心中の声を抑えられないといったふうに彼の口から、

「だが……だが、あの人がこのおれを治したからこそ、怖いのだ……!」

 と軋るような声が漏れだした。


 体が治り、聖女が言っていた待機の一日を過ごし始めた清十朗。彼がこの日を過ごすにあたって一秒ごとに胃をやすりで削られていくような苦しみを伴った。何しろ今こそ彼の今後の人生を全く異なるものへと左右する瀬戸際である。聖女の言葉を信じて一日を待つか、それとも信じず外へ出て日本へ向かうか、といった。


「一日ここで待つ――とは、おれへの追手を避けるためだという。その追手らどれほどのものかは知らんが、確かに出くわせばおれの身は危ういかもしれん。……だが、それを恐れてここで待つことこそ罠かもしれん。待っている間に大陸消失の刻限という別次元の追手が襲い来るかもしれん。待ち伏せの兵がいるともこれはつらつら案ずるに信憑性があるが、もしやしたら嘘かもしれん。そうして取り残されたおれをあの人は笑うつもりかもしれん。その懸念は、やはり捨てきれん!」


 清十朗は俯いて歯を噛みしめた。彼がこれまでにわたる一刻続けていたのはこうした思念であった。長々と二時間も続けていたということは堂々巡りである。すると、ぎゅっと目をつむっている彼が、「そうだっ」とこれまでにない声を上げ突如目を開くと窓際のテーブルへ顔を振り上げ勢いよく立ち上がった。


「この食べ物、まさか毒が盛られているということはあるまいな?」


 早足にテーブルに歩み寄った彼は大皿から一つのパンを取った。


「これまでそんなことはなかったが、この期に至ってはあるかもしれん。おれにはどんな毒も利かんっ。だが、食べて、それで諸々の判断がつく」


 清十朗は大口開けて躊躇なくパンを半分かじった。そして噛んでそれを飲み込むと、彼は高らかに、

「美味い! 毒はない! となればつまり、やはり! あの人はおれを罠にかけようとはしていないということかっ」

 だが不意に妙な顔をすると、

「いや待て。これだけでは断ずるに足りまい。この期に至って果たして今更毒などというものを用いるか? おれに復讐するにしても、訪れたとき部屋で勝手に死んでいるおれを見るより、見てもっと快然たる手はいくらでも考えられるというのに。こんなことは何の確証にもならん!」


 彼は「ああっ。おれはどうすればいいのだ」とテーブルに肘つき頭を抱えた。


 結局、こんなことはどうとでも考えられる話なのだ。今回の件に対しこれが正しい選択だと保証をつけることなどできはしない。解決の指標、基準のぼやけた話である。ただ、そうした問題に向き合ったとき、人には各々判断の助けをするものがある。それはこれまでの人生で学んできた教え、習い――。


「忍者なら……」ぽつりと呟いた。「忍者ならばここは待たぬはず。そちらの方が合理的だからだ。やはり如何様に考えてもそちらの方が助かる可能性が高いからだ」


 そのとき、彼の脳裏に改めて『これはあなたの任務などは関係ありません。あなたがわたしの話を信じるか信じないか、そういった話です』という言葉が甦った。甦るべくして甦ったというふうに。この言葉の意味を、求めるところを純真な心で深く深く考えるならそれは――。


 清十朗は今再び瞑目した。その寂たる姿の内でどのような奔流が交錯したか、数分して目を開いた彼は無表情となり、その目は鍔隠れにいたときや四人で旅をしたときにもなかった鈍い光を放っていた。


「……さりとて、おれは忍者になったのだ。ようやく、なれたのだ。おれは忍者。忍者清十朗だ」


 寄りかかっていたテーブルから離れた彼は服を着替え始めた。今着ているものを脱ぎ、こげ茶の着物に黒いたっつけ袴をつけ、足袋とわらじを履いて、左腰に刀を差し、その辺りに皮袋をぶら下げ、両の腿にそれぞれ帯を巻き棒手裏剣の一本残る革鞘をとりつけた。着ていた服を畳んで置いた彼は次いで元々食料を入れていた袋に大皿の上のものを詰め始めた。詰め終えるとベッドの側に行きそこにある水差しの水をコップも使わず一気に飲み干した。


 再び窓際に歩み寄って来た彼は窓枠に手を置きつつ振り返った。彼はこれまで窓の外ばかり見ていた。だが今はその窓際から部屋の中を見ている。四十畳ばかりと無駄に広く作られている室内を眺めまわした彼は、一度しまったはずのアスファイヤの銀貨をあるだけ懐から取り出すと側のテーブルに置き、窓枠を乗り越えて外へと飛び出していった。

 数日ぶりに満身に陽の光を浴び、ちょっと空を振り仰いだ彼は辺りを見回した。ここは聖女の言う通り確かに山中らしく草が生え周囲を森に囲まれてはいるものの平らで不思議とくり抜かれたようにここだけ木がないという広場であった。彼はそこを抜けて森の中の傾斜路に入った。

 それから彼は久々の歩行、しかも山歩きを黙々とこなした。方角に迷う素振りがないこと以上にその足取りは確かで決然として見えた。その彼の先に現れたものがある。


 遠くから木々の合間から緩やかな斜面を下りてくるのは四十頭に及ぼうかというベローチェたちであった。


 清十朗がやや目を開いて立ち止まる。何しろ人には顔の違いがわからぬ獣だからあのときのと同一の者たちかはわからないが、とにかくあのベローチェだ。ベローチェたちは清十朗の下へと近づいてきていた。しかし、それを見やりつつ何故か清十朗は動かない。彼が佇んでいる間にもベローチェたちは眼前にやってきた。

 人犬再びあいまみえる。前回と同様の恐ろしきやり取りがまたも展開されるのか。


 と、見えたのに、両者は目を合わせることすらない。いや、清十朗は据えた目で山犬たちを見下ろしている。にもかかわらず対する山犬たちはまるで彼などないもののように足も緩めずその側を行き過ぎ始めたのである。

 風に同化し存在を紛らわす忍法風隠り――これを清十朗は試みていたのだ。今度はこの山に入る前から抜かりなく。とはいえ、まさか目と鼻の先にあってそれが有効とは。それでもさすがに触れてはならぬと清十朗が人混みでも避けるように体を横にしていると、ついに全てのベローチェたちが彼の側を通り過ぎていった。

 人犬の再会は風の如く流れ過ぎた。歩き去っていく犬たちを背中に感じながら清十朗は一瞬目を空に投げ、それでも顔を戻すと足を踏み出した。


「……いや」


 その彼が、三歩踏み出しただけですぐに止まった。すると次の瞬間、彼は右向きに反転しながら頭上に躍り上がった。その左腰から冷光を噴出させつつ――。


 緑の森に赤い花が咲いた。地に咲いたその大花は広がった山犬の血であった。清十朗は背後の空から袈裟斬り一閃、山犬の胴を寸断してしまったのである。山犬の右脇に着地した彼は片膝をついていた。

 血が広がるのに遅れて山犬の上半身と下半身が八の字に崩れ落ちた。同時に周囲からそれを認識した獣たちの叫喚が沸き起こり、彼らは一斉に飛びずさった。彼らにとっては怪異なる仲間の突然死。そして首を振り、わめく山犬たちのうちから一頭の声がフッと消えた。片膝をついていた清十朗がすかさず立ち上がったのである。

 間をおかず山犬たちの声は一頭、また一頭と消えていった。消えると共に血花は咲いた。このとき、山犬たちは自分たちを襲う何事かがあることを知った。だが不可思議なことにいくら首を振ろうとも誰も何も捉えることができない。その間にも仲間は胴から血を噴き、首を落とされ次々と死んでいく。また自分すらも――。

 むろん、彼らは身をひるがえして散り散りにこの場を逃走しようとしたがそれは叶わなかった。まるでかまいたち、四十頭ばかりいた彼らは遠く離れたものから斬られ一分もかからず全滅した。


 恐怖、痛みのけたたましい吠え声は止んだ。場は多量の血によってジトリとし、どんよりとした静寂となった。遺骸と血の散乱した中に立つ清十朗が血刀を掴んだ手を下した。異様なことにやや俯き加減となっている彼自身には全く血がついていない。幽霊の如く不気味に綺麗な彼は息をつくと言った。


「……以前のようなことがあるかもしれぬからな。一応のことだ」


 言うと彼は歩き始めた。大殺戮のあとを振り返りもせず、血刀を引っさげたまま、日本の方へ。

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