四十話 心の奥の奥
少女の正体は清十朗が刺した聖女だった。
とっさに弾かれたように清十朗が身を動かした。が、動けない。今の彼にそれはできないのだ。辛うじて動くの胴ばかり。彼の上半身はベッドの上でややずれた。そのまま彼は微動だにせず聖女をただ張り裂けんばかりの目で見上げた。
その彼を見下ろした聖女が、
「その様子では覚えているようですね」
と言った。
嘲るでも喜ぶでもない一切感情の掴めない深沈たる表情であった。
それから場は沈黙した。聖女は無表情で今どんなことを考えているわからないし、その彼女を見やる清十朗はあまりの事態に次にどうすればいいのか判断がつかない。清十朗と聖女――因縁これほど深い者はこの世にまたとあるまいと思われる両人が見つめあう場はぎこちない、重苦しいを過ぎて空気すらなくなったかのような無そのものといった空間と化した。しばしして、清十朗が酸素にあえぐように言った。
「……あ、あなたが化けていたのか。これまでの女人は」
「そうです。姿を変える魔法によって。けれど声までは変えられないので話すことは控えてきましたが、こうなってはそれもできます」
この言葉を聞いた清十朗はジワリと胸に広がる鈍い恐怖を覚えた。彼女が自分と話すことができると言ったことにである。一体彼女は自分と何を話そうというのか。いや、それは考えるまでもなく――。恐怖しつつ清十朗は続けた。
「あなた自ら、おれを追ってこられたのか。それほどの……。いや、それも無理もない。だがどうやって追ってこられた? どうしておれのいる場所がわかった? おれは川へと落ちた。そんなおれをどうして見つけられたのだ?」
「わたしとあなたには特別な繋がりが生まれました。それによってわたしはあなたの居所や状態を感じ取ることができるようになったというわけです。特別な繋がりとは、わかりますね?」
聖女が下していた片手をスーッと上げるとそこには一本の棒手裏剣を持っていた。先ほどまで持っていなかった物を、いつの間にどこから取り出したのか、といったふうに。清十朗は鼻白んだ顔をした。しかし聖女が、「……清十朗」と呟くと、そこに被せるように彼は「待て」とやや慌てて口を挟んだ。
「居所を知ることができたわけは分かった。されど、どうしておれに追いつくことが出来なさった? あなたは少なくともあのとき馬で追ってきた男たちよりも後に出たはず。にもかかわらず、おれに追いつくには早過ぎる。一体どうやってここまで来られた?」
「……。瞬間移動。この概念がわかりますか? 遠く離れた場所に歩くことも時間を必要とすることもなく移動することですが、わたしはこの技を持っているということです」
こう口で説明されても、清十朗は眉をひそめてその瞬間移動というものの概念を聖女が伝えたいほど正確には理解できなかった。理解への骨子となる前提知識の豊富な平成現代の人ならともかく、江戸時代の人間たる彼には当然のことだ。だが、脳中小さくうなりつつ、説明を吟味してみると朧気ながら何となくはわかった。彼女の今の説明を当てはめるに、そうかそういうことだったのかとこれまでのある事象に納得のいくことがあるのだ。
それから二人の会話はまた途切れた。清十朗は聖女をじっと見やりつつ次いで何かを聞く素振りは見せないし、先ほど「……清十朗」と何か言い出しそうであった聖女は彼と目を合わせているうちに再度そうする気配もなく視線をやや落としてしまった。
それと共に聖女の顔を見ていた清十朗は彼女の握る棒手裏剣に目を下げた。胸の前に両手で抱くように握られている棒手裏剣。それを見つめる彼はややあってまたちらと聖女の顔に目を移した。視線を落としている彼女は無表情であるが、そこに影が差してその薄灰色の顔は心中を表出させているようにも思わせる。清十朗は不意にふうっと弱く息を漏らして不敵そうな表情を浮かべた。
「聖女どの。あなたはおれが憎かろうな。……刺すか? その手裏剣で、このおれを」
清十朗は恐怖の源泉たることを、むしろ自分から言い出した。せめて不敵そうにしている顔は、しかし若干強張っている。
反応して目を上げた聖女は眉をやや寄せて、初めてちょっと悲しげとも困ったとも見える微妙な表情となった。
「……清十朗。どうしてあのときあのようなことをしたのです。わたしの持ちかけた話を振り払うようなことを」
「それがおれの任務であったからだ。おれが受けた任務はあなたを害すること。元々それを果たすためにおれはあそこへと忍び込んだのだ」
「けれど、あなたはわたしの話を聞いて悩んでくれたではありませんか。あれは決して思わせぶりではなかったはず。どうして決心を変えてくれなかったのですか」
「……。そもそも……悩んだことそのものがおれの未熟、間違いだった。忍者は命じられたこと以外はしてはならない。命じられたことはどんなことでもやり遂げなければならない。そのことを忍者として身を立てたいおれが徹底できなんだとは」
「……身を立てたい、ですか……。あなたはその忍者というものに随分とこだわっているようですね。それもあなたの口ぶりでは何かやりたいことがあるから忍者になりたいのではなく、忍者そのものでありたいとこだわっているように感じられます。どうしてですか? 人間にとって大切なことは何かであってそれらしくあるということではなく、何をやりたいかということではないですか。王も聖女もそして忍者も」
「忍法とは分野が違えど、聖女というものとなるべき、魔法の大天才らしい天稟を持って生まれたあなたにはわかるまい。おれはこれまで様々な忍者修行を積んで生きてきた。それでもおれの素質は忍者たる者となれるかわからぬほど小さなものなのに、重ねて時代は忍者を必要とはしなくなっていく。天下泰平の世が訪れたというからだ。その平和の中で、あなたたちがやってきたことはおそらく最後となる好機であった。おれは此度の任務を果たすという最後の機会を生かし、これまでの人生の意味を成す承認というものが欲しかったのだっ。少なくとも自分からだけでも!」
言い進めるにつれて声を大にしてきた清十朗の言葉に、聖女がショックを受けたような顔をした。しかし、興奮ぎみに、
「けれどっ、忍者としての承認を得るということなら、両国の和睦を取り成すという話を実現させてもできたではありませんか。この話を実現させるためにあなたは隠密としての腕を存分に振るいます。舞台の裏を秘密裏に動き、敵対していた国を仲良くさせるなんてこれは世にも最大な忍者といって間違いありません。より良きことのためになるなら時には主君すら欺き、様々な思索を巡らし状況を巧みに操り、実現させた成果を見てニッと笑うのが忍者というものの神髄ではありませんか? こちらの方が格好よく、あなたとしても本懐ではありませんか?」
と言い募った。
清十朗は「ぐっ……」と詰まったような声を出して、
「それは、偶像が過ぎる。所詮そんな忍者は存在しない……」
と苦り切った顔で呟いた。
が、これもすぐにふつふつと昂然としてきたのか、はね返すように、
「第一この和睦話、あのとき供らしき男が言っていたことから、おれとあなたがこの件について話していた時点ですでに我ら忍者が城に忍び込んでいたことは知られていたということだ。ならばこの件、初めから弾ける定めの泡沫の夢であったということではないか! 所詮、おれがどうあろうとも、忍者にはあのような話縁ないことであったのだっ」
これを聞いた聖女はいよいよ目を見開くと、次いで消沈し、うなだれた。
その様子を見た清十朗は似たようにハッとし、固まって、彼の方も何か打ちのめされたような表情をした。
……双方言いたいことを言ってのけた口論である。だが思わばこれは両者にとって何の得もない。すでに終わったことだ。もう全て決してしまったことだ。清十朗は聖女を害し、彼女の策を破ったのだ。
ややあってうなだれる聖女がゆっくりと顔を上げた。その静かな目には、何か決然とした光がある。そして彼女はやや前に踏み出して、清十朗の寝る側に立ち直した。たれ下げたその手には未だ棒手裏剣を持ったままである。その手裏剣を、胸の前まで持ち上げた。
「……刺すか?」
と眼前に棒手裏剣を見る清十朗が言った。
聖女は手裏剣を下した――。清十朗は彼女の手が動くと同時に歯を食いしばって耐えるような顔をした。
ただ、彼女が下したのは側にある服や水差しの置いてあるテーブルの上であった。すると彼女は空いた手を清十朗にかざした。そこからは薄緑の光が放たれた。
耐えるような顔をしていた清十朗がアッとして叫んだ。
「な、何をしているっ!」
「今回、訪れてまだ行っていなかったので、行っているだけです」
「馬鹿な! それは人の体を治す技ではなかったのか?」
文言だけ取ればちょっとおかしな発言だが、清十朗の心情の全てがこもったような叫びであった。しかし清十朗のこの言葉に聖女は答えない。彼女は清十朗に光を当て続けることに専念している。いや、しようとしていると言うべきだろう。いかにも信じられないというふうに目を見張ってこれを見ていた清十朗はやがて顔をしかめて呻きだすように聞いた。
「……何故だ? 何故さようなことをなさる? いや、そもそもだ。そもそも……そもそも、何故おれを救い、これまで世話をするようなことをなさった?」
この言葉こそ清十朗にとって少女の正体が聖女だとわかってから一番にまとわりついていた疑念であった。これまで彼はどうして自分の居場所がわかった、どうしてここまで来られたなどと問いかけていたが、そんなものはこの疑念を問いかけるに問いかけられなかった躊躇の現れに過ぎない。そんな躊躇が生まれるほど彼女のこれまでの行いは清十朗が彼女に行ったことを鑑み不可思議なものであった。不可思議とはつまり恐怖へと繋がるものである。その答えとなることを薄緑の光を消した聖女が彼に目を移して言った。
「あなたは先ほどから刺すか、刺すかと言っていますが、わたしはそんなことのためにあなたの下へ来たのではありません。どころか、あなたはわたしがあなたを追って来たと思っているようですが、わたしはあなたを追うつもりもありませんでした。わたしとあなたに特別な繋がりが生まれたと言ったことを覚えていますか? わたしはあなたが何やら怪我を負ったと感じ取れるため、来たのです」
清十朗は言葉を失った。彼が絶句している間に聖女は続けた。
「これまで口を利くわけにはいけなかったので説明できませんでしたが、あなたの体は確かに治りますよ。これは見込みであっても間違いありません。そのことは、安心しなさい」
この場合に微笑みすら携えた聖女に清十朗はぶるりと一度身を震わせて彼女の言葉を黙って聞いている。
「そしてあなたが心配しているこの大陸の消失までにもそれは間に合う計算となっています。大陸消失まではわたしの感覚ではあと九日。あなたの完治まではあと三日というところでしょう。完治したあなたの足ならここからあなたの国まで一日と半分か、かかったとしてもあと二日でたどり着けます。十分に余裕はあるということです。ただ、あなたには足が治っても一日ここに留まってもらわなければなりません」
「……何故?」
「王城での話を聞く限り、あなたには追手がかかっています。陛下兵団の隊長二人と隊員一人です。これも聞いた話ですが、砂浜の前に詰めて戦闘を行っていた兵たちはすでに撤退を始めているそうですが、この三人だけはあなたを待ち構えてアスファイヤ大陸とあなたの国との境の前に待機しているそうです」
この三人とはリィン・マクベスをはじめとする例の三人以外に考えられない。清十朗を追走していたはずの彼らが待ち伏せしているとは清十朗がここまでの道中で行ってきた追跡殺しの仕掛けを無視して、また清十朗自身を探すこともせず先回りしたということだろう。清十朗が日本へ帰るには途中どこへ行こうとも最終的に例の砂浜という一つの道、一つの方向へ進むしかないため妥当な判断だと言える。
「彼らはあなたの命を狙っています。この三人と出会えば、あなたはまず助からないでしょう。あなたの実力はよく知りませんが、三人を相手に戦って到底敵うはずがありません。そうでしょう? けれど、彼らは帰ります。彼らは刻限の近くまであなたを待ちつつ、それでも来ないと思えば大陸が元の世界に帰る前に王都へ帰るはずなのです。つまり、この一日待つというのは彼らが帰り始めるのを待つ時間というわけです」
「……」
「このことは、あなただけでなく陛下兵団の人たちのためにも言います。あなたを倒せるとは言っても、あなたもただではやられないはず。彼らもきっと傷を負うでしょうからね。そうでしょう? わたしはあなたたちに戦闘などしてほしくないのです」
「……」
「本当は彼らが帰るのに合わせてあなたの治療を遅らせ調整できればいいのでしょうが、それはできません。あなたの怪我は単なる外傷ではなく神経にまで関わる話です。これを手当てするのは普通よりも遥かに難しい。下手なことをしてはあなたの体の動作が元通りにならなくなる可能性があります」
「……」
「さて、これまでの言葉を、清十朗、あなたは信じますか? これはあなたの任務などは関係ありません。あなたがわたしの話を信じるか信じないか、そういった話です。……わたしはその結末を、見てみたい」
淡く微笑んだ聖女は清十朗が何か返すのを待つ様子もなく、すぐにテーブルの上の棒手裏剣を隣の畳んだ服に乗せ、その服を持って扉の方へと歩き出した。
「どこへ行く?」
と清十朗が聞くと、彼女は振り返って、
「王城へ帰ります。わたしがここに通っていることは誰にも秘密ですからね。隙を見てここへ来ているのです。なので来る時間は好きにできませんが、けれどまた来ます」
と言い残して去っていった。
扉は閉まった。嵐のような状況に一端の区切りがつき、シンとした部屋に聖女の言葉は未だ残響しているようだった。
『これはあなたの任務などは関係ありません。あなたがわたしの話を信じるか信じないか、そういった話です。……わたしはその結末を、見てみたい』
皮肉といえば世にこれ以上ないほど静穏たる皮肉。だが万感溢れてほとばしるような言葉でもあった。
清十朗は――。




