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三十九話 少女の正体

「あははははははは」


 それから三十分ほど経った。


「あははははははは」


 窓の外の空はここ数日の陽気のなかでも特に晴れやかとなった。窓から流れてくる子鳥の声はいっそう朗らかに弾み、吹きこむ風は暖かくのどやかで、差しこむ陽光は白く輝かしかった。


「あはははは。あっはっはっはっは」


 その中でこの抜けるような快笑を上げているのは新瑞清十朗である。別に誰かが面白いことをしたわけではない。少女はあれから部屋を出て行ったため彼は一人であった。それでも彼は声も枯れよとばかりに笑っている。体を揺すり、くつくつと笑いながら何かを抑えるように顔の前に両腕を組んだかと思うと、それを解放するように腕を開いてまた快笑した。しかもここ三十分ほとんど間断なくずっとこの調子であった。

 人間にとってあまり長い時間笑いというものを持続させることは難しい。いくら楽しいことがあったとしても三十分ものあいだ途切れることなく笑い続けることなどそうそうないだろう。そこから考えて今の彼の心中はこれこそまさに明らかというべきものであった。


 やがて扉が開いて少女がやってきた。それを認めて清十朗は、

「おお。帰って来られたか!」

 と目を輝かせた。


 部屋に入ってきた少女はトレーを持っていた。


「食事か。持ってきて下さったのか」


 彼女がベッドの側に向かってくる間、清十朗は後頭部と両手を使ってベッドを這い上がり始めた。慌てて側のテーブルにトレーを置き、手をかざした彼女より前に彼はすでにベッドの背もたれに体を預け座っていた。素早い行動である。彼はニッと白い歯を見せた。


「かたじけない。ありがとう。いただきます」


 トレーを受け取って彼は食事を始めた。その食べっぷりは非常に美味そうで手は止まらず甚だ旺盛であった。食事の最中、彼はふいにフッと笑うと頭を垂れ、重々しく言った。


「そういえば、あなたがおれに無理に物を食わせたのも、全てはわかってのことだったというわけか。苦労を、おかけしたな」


 食べ終えると清十朗は歯磨きを受け、「おお、やってくれ」と目を輝かせて薄緑の光を当てられた。それが終わったとき、もっと飴が欲しいような顔をした清十朗は一瞬ののち「いや……」と呟き目をつむり、開くと微笑んでこう言い出した。


「ところで今お時間はござるか? まだここを出なくてよいのなら是非あなたと話がしたい。ああ、いや、あなたは聞いて頷いたりしてくれればよいのだが、これまでろくに意を交わすことがなかった分、いかが?」


 やや悩んだ様子を見せた少女がそれでも微笑み返して頷くと、一旦部屋を出た彼女がどこからか白い椅子を持ち込んできて二人は会話を始めた。とはいえ、「まず、遅ればせながら名乗っておく。おれの名は新瑞清十朗」という言葉から始まったこの会話中彼女は相変わらず何も喋らなかった。そのため彼女は名などを伝えることは一切なかった。


「ははぁ、ということはあのとき木槌で叩いたのも痛みを知らせるためではなく、膝の反射を起こそうとしていたのか。あはははは。それは無理だ。人体にその反応のあることはおれも教えられたことがあるが、寝た状態ではできん。ちょうどあなたのように腰かけておらんと。それにあの木槌は大げさ過ぎだ」


 ただ、最早それを心得て少女と身ぶり手ぶりの対話をする清十朗はいかにも上機嫌で事あるごとに楽しそうに笑った。対する少女も声こそ上げないが微笑みを絶やさなかった。屈託のない二人の若者が白い陽光の射す木造りの部屋で描き出すのは温雅で明るい青春像と見えた。


「よければあなたに試して差し上げようか?」


 だが、会話も終わり彼女が部屋を去ってしばらくすると笑い疲れてくたびれていた清十朗は静寂の中である一つの悩みを浮かび上がらせた。もともと楽しいことの後は気が沈むものだが、これはそれによる一時的な不安では済まない一度気付くと深刻にならざるを得ない問題であった。


「そういえば、治るのはいいのだが、おれはいつ動けるようになるのだ? ……おれには時間がない。早くせねばおれは二度と伊賀に帰れなくなる」


 実に悩み尽きぬ男、新瑞清十朗。この不安に囚われ、時が一刻一刻と刻まれることそのものに恐怖し、頭を抱えていた彼は次に少女がやってきたとき、聞きたいことがあるとそのことを切り出した。


「あなたは知らぬことかもしれんが、実は今我らのいるこの大地は世界というものを移動して別の世界、つまりこの世に来たらしいのだ。だが、もうしばしすると大地は元の世界とやらに帰るという。……事情は言えぬが、おれは今いるこの世にある土地からこの大地に乗り込んできている。つまりおれの故郷はこちらの世にあるのだ。要するにこのままここに留まっていてはその故郷に帰れなくなるというわけだ。おれの言うことの意味をわかってくれたか? 理解してくださったか? それで聞きたいのだがおれの体はいつ治るのか、その見込みはつきなさるか?」


 少女はしばらく何か考え込むように顔を伏せて立っていた。喋らないのはいつものことなのに、清十朗はその沈黙に重苦しさを感じて、

「元の世界に帰るのはもうしばしと今言ったが、実のところ正確な時をおれは知らん。だがとにかくそう猶予があるわけではない。治るなら一刻も早い方がいいのだが……無理か?」

 とおずおずと言った。


 少女はゆっくりと清十朗の方を向いた。彼を見下ろしたその顔には何か言いたげな様子があった。それを見とめて「あっ」と声を漏らした清十朗は言い出した。


「……そうだ。そういえば、治ったとしてもおれは帰らねばならん。それも急いで帰らねばならんためおれはあなたに恩返しすることもできん……。悪いがその暇すらないのだ……。申し訳ない……」


 何を思って言ったのか自分でもわからない無意識にこぼれ出した言葉だったが、言ったすぐあとハッとした清十朗はヒヤリと背に冷感を走らせた。これも半ば無意識的であったが「しまった」と思った。少女の瞳は想いの読めぬ静かなものへと変わっている。それと目を合わせて清十朗はごくりと唾を飲んだ。


 ……ややあって、少女はゆるゆると幾度も頷きながらふわと微笑した。そして彼女はとん、と軽く胸を叩いた。すると次いで行ったことは薄緑の光を清十朗に当てることであった。

 清十朗はそれを気の抜けたように見ていた。が、やがてじわりと笑みを浮かべて言った。


「かたじけない。ここまで嬉しいことはこれまでの人生にもない」


 しかしさすがにこのときに治るということにはまだならず、清十朗の足は未だ痺れたときのような鈍い感覚と微動しかできぬ状態であった。少女はまたも立ち去った。清十朗は再び寝たまま刻一刻と時が過ぎゆくのを待つこととなった。だが天井を見上げる彼に恐怖の様相は見られなかった。静かに、水面のように、ただただ待っていた。むろん少女をである。

 夜となった。魔法のランプに照らされる部屋にやってきた少女に清十朗は言った。


「おれはあなたがおれを故郷に帰してくれると信じる。あなたはおれの人生において故郷の人々にも並ぶ大恩人だ。だがおれは治ればすぐにでもここを立ち去らねばらぬ。ならぬが恩人に対しそれはあまりに心苦しい。今のおれにはろくなことはできぬが、せめて今の内におれにできることはありませぬか?」


 清十朗が先ほどまで来ていた服を持ち、彼に向かって背を向けていた少女がゆっくりと振り返った。数十秒、彼女はそこに微動だにせず立っていた。ふう、と軽く息を吐いて動き出した彼女はやおらベッドに向かって近づいてきて清十朗の顔の横に立つと服を側のテーブルに置き彼を見下ろした。伸ばした両手を腹の前で組んで、その目は例の何か言いたげな光を携えている。しかもそれはこれまでよりさらに色濃かった。表情も何か喉のつまったようなものとなっている。これまでたびたび見せてきた彼女のこういう様相だが、具体的になにを伝えたいのかはわからない。喋らない、いや喋れないからだ。清十朗はそこから何かを探ろうとその目をじっと見つめた。

 ……何かが融けゆくような沈黙のときが過ぎた。清十朗の神経は自然と集中した。すると、ふと何か感付くことがあった。少女を見る目にではない、鼻にである。


 ――なんだ?


 彼の鼻をかすかに掠めすぎたのは違和そのものといっていい匂いであった。それなのに、それは妙に馴染みのある感覚であった。ちょっとした没入状態にあった彼は半ば無意識にその発生源と思われるものに手を伸ばした。

 彼が掴んだのは少女の手首であった。彼女の両腕は先ほどまで水球を生み出し清十朗の体を布で清めていた関係上袖捲りされていた。彼はその腕を引き寄せた。少女の肌は白く露を溜めたようにじんと心魅かれるべきなめらかでしっとりしたものであったが没入状態の彼はそれを意識せず、次いで自分の鼻元に近づけるような真似をした。少女は唐突なことに当然驚いた顔をしているが、それも目に入らぬ清十朗であった。

 少女は困惑しているだろう。が、清十朗も困惑している。近づけて改めて嗅いだのはやはり馴染み深いある匂いであった。


 ――これは、形容し難い糊の匂い。しかもただの糊ではない。これは間違いなく鍔隠れ秘伝の特有のものだ。


 それが彼女の腕から匂い出している。ようやくハッと彼女の腕を掴んでいることに気付いた清十朗は手を放すと、「ああ、これは相すまん」と謝ったのち聞いた。


「あなたの腕から糊の匂いがいたすが。おれの糊をいじくりなさったか? あれは付くと普通では一月はとれぬものだが」


 瞬間、少女は妙に劇的な反応を示した。顔には暴風のようなものが吹き過ぎ、清十朗にとられた腕をもう一方の手で押さえつつ彼女は後ずさりした。その大げさな反応には「そういうことであれば糊の取り方を教えます」と言おうとしていた清十朗がやや呆気にとられた。別に糊を勝手にいじくったぐらいで怒るつもりなど毛頭なかったのである。彼女のこの反応は一体なんだろう? するとその反応によって彼の脳裏にある疑念がパッと点灯して現れた。


 ――そういえば、彼女はいつ糊をいじくったのだ?


 こういう疑問を抱くからには清十朗は彼女がそれらしい素振りを取っているところを見てはいなかった。

 その清十朗の目が窓の側にあるテーブルに動いた。卓上には糊が入った皮袋が置かれている。刀や棒手裏剣を取り上げた彼女だがその皮袋はそのままずっとそこに置かれていた。つまり清十朗の見ないところでそれをいじくった可能性はないと言える。いや、見ないという可能性を言うなら彼が寝ている間にそれをいじくったということがあるのではないか? しかし浮かんだその疑問を、彼はいや、と自信を持って否定した。気配を感知できる彼が忍者でもない彼女が部屋にいるのにあほみたいに眠りこけていることなどあり得ないと断定したのだ。

 ではいつ糊が付着する機会があったのか? 匂いからして間違いなくこのアスファイヤの大地には一つしかないあの鍔隠れ秘伝の糊が。

 清十朗は少女に目を戻した。後ずさった彼女は目を見開いた顔をして、口元に手を添えたその愕然たる表情はのんびりしたような容姿をした彼女とは若干人が違うように思える。そのとき、清十朗の脳にぐぁんという恐ろしい衝撃が走った。それは連想に伴う一瞬のうちに行われる記憶のさかのぼりによってある驚愕の光景を思い出したからであった。


 ――思わば、これまでにおれの糊が誰かに付着した唯一の機会がある。唯一腕に付着したと思われる人が一人ある!


「ま、ま、まさか。あ、あなたはっ」


 狼狽極みに達したという声を出した清十朗に対し、この声を聞いた少女は目を瞑った。清十朗の叫びの余韻を感じているような彼女は、その残響が消えるとふうっと静かでしとやかな息をついた。それから目を開いた彼女は丸く穏やかな顔にはやや似合わない憂いに満ちた、それだけに清楚たる表情をして頬に手を添えた。


「……ついに、見抜かれてしまいましたか。けれど、これまでこのままでいいのかと考えつつ決心がつかなかったことを思うと、かえってこれでよかったのかもしれません」


 この言葉を言ったのは清十朗ではない。呟いたのは少女であった。仰天すべきはこれまで口を利いたことのない彼女が喋ったことだけではない。その声は、確かに清十朗の脳裏に深く刻まれた清浄たる声であった。絶句し、脳を白い光に包まれたように呆然としている清十朗の前で彼女は続けた。


「これぞ、風王の冷酷――ディフォリエイション」


 少女の全周に足元から小さな竜巻のような風が巻き起こった。風なのに赤い色のついたそれは彼女の服をはためかせ、土埃も立っていないはずなのに彼女の体を一切覆い隠してしまった。数瞬後、赤い風は吹き流れて消えた。


 そこから現れた姿を見た清十朗は、


「あーっ」

 と叫びを上げた。


「清十朗。私のことを覚えていますか?」


 そこにいたのは白いドレスを着て、金の瞳をし、水色の髪を背に垂らした清く涼しげな美貌をした聖女であった!


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