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三十八話 寝たきりの清十朗と謎の少女

 謎の少女によって部屋に一人残された半身不随の清十朗。会話をすかされ続け、やや呆気にとられていた彼は窓から風が吹き込むと我に返り「……何なのだ」と呟いて目を瞑った。


「どこへ行った?」


 目を瞑った彼は耳を澄ませた。一帯の気配を察知できる忍者の感覚である。……一秒、二秒、彼は驚いたように目を開いた。


「人の気配がない」


 それから二時間ほどが経った。

 清十朗はまた一人になり、次第にまた這い上りはじめた現状の辛さや未来への不安、恐怖、絶望感に苛まれ、時折頭を抱えて激しく唸り反対に一切微動だにせず深く長く消沈するということを繰り返していた。実感とは時間の経って改めて考えるほど色濃くなるものだからこの苦悩は先刻よりもさらに重篤なものであった。その彼の下に少女は再びやってきた。


「あなたか」


 心の苛みが尾を引いて、首を横にし枕に顔の半分を沈める清十朗は鋭い目でベッドの横に立った彼女を見た。


「また来てくれるとはな。何をしに来られた? 前にした問いに答えてくれるのか?」


 しかし少女は答えない。口を開かないのだ。苛立った清十朗がいよいよ目をギラと光らせていると、彼女は少し膝を折って手に持っていたものを清十朗の前に差し出した。彼女の持っていたものとは磁器のトレーであった。その上にはスープやサラダ、ソースのかけられた魚の切り身、楕円形をしたパンを二つ乗せた皿が並べられている。


「食事か。お持ち下さったのか」


 料理を見てこう呟いた清十朗。彼は続けて「くくっ」と陰たる笑いをこぼした。


「とにかく、今このときは生きていられるということか。行く末塞がりつつも、このときばかりは」


 いつになく皮肉げな様子の彼はそれでもすぐに「かたじけない。ありがとう」と言って頭がベッドの背につくまで体をずり上げ、後頭部をその背にくっつけ支えにし何とか座る形となった。が、尻に敷くようになった枕を抜き出し側に置いてトレーを受け取ろうとしたそのとき、突如彼にある思念が浮かんだ。

 果たしてこの食事、食べるべきなのかという思念である。


 ――行く末塞がるおれの未来だ。それを見続けて生きるならいっそ食わずにいた方がよいのではないか?


 つまり清十朗は自分の以後の人生を荒涼したものと思って、ならばむしろ命をつなげるような行いをしない方が幸せなのではないかと思案したのだ。すなわちそれは、


 ――餓死でもした方がよいのではないか?


 という意味であった。


 恐ろしい発想である。痛ましい着想である。考えを浮かべハッとした清十朗自身もこれには心臓の重い動悸を感じた。だが、彼は苦笑することもできずそのことについて真面目に悩み始めた。この発想を現実に行うべきかということをである。手段を餓死に限らずとも、この自殺というものが自分を救うではないかと彼には急激に思えてならなくなってきたのだ。

 追い詰められた人間が一度この発想に及ぶとしばしばこの思考に頭を囚われてしまう。そしてそれがこの世で最も暗然たる希望であると知りつつ、人はそう簡単には一度浮かんだこの発想を拭い去れない。何故なら人間とは偉いもので、判断がつかなくなりでもしなければどんなに悪い精神状態のときにでも希望に向かおうとするものだからである。精神状態が暗澹としているだけに見出す希望は惨としているが、それを希望としているだけにそこに向かいたいという欲求は強烈なものなのだ。自殺する人間とは無気力ゆえや絶望に支配されて死ぬことはあまり多くない。ただ生きることが嫌だ、生きていたくないと思うだけの者や心気衰えている者は意外にグダグダと生きることが多い。何しろ心気が衰えているのだから自殺に向かう気力すら湧かない。人間とは生きることよりも死ぬことにたまらない希望を抱くからこそ死ぬことに勇気を向けて自殺するのだ。生きることよりも死ぬことに勇気を持ってしまうのだ。清十朗もこの発想が虚ろな胸の奥底に希望として灯り始めた。むろん、そのことに対する抵抗の思念は浮かんだ。しかし衝動は彼の抵抗と拮抗した。拮抗はすぐに傾いた。それに従って彼の脳髄は灰色と化した気がした。

 傍から見たら突如銅像のように固まった清十朗である。トレーを差し出した少女は俯く彼の顔をちょっと眉を寄せて覗き込んだ。すると清十朗はベッドに潜り込んで、少女から顔を背けてしまった。その彼が小さな声で言った。


「……用意して頂いて悪いが、それは下げてくれ」


 少女は、……どうして? といった顔をした。ただそういった表情をしただけで声には出さぬ。勿論それではそっぽを向いた清十朗には伝わらないので、数瞬思い悩むような顔をした彼女は彼の肩を叩いた。それに従ってちょっと自分の方を向いた清十朗に彼女は首を振って辺りを見下ろすような素振りを見せると、思うようなものが見つからなかったのか不服そうな顔をして手に持っていたトレーを何もない空中に置いた。無言のままにである。

 普通ならあり得ぬ光景だ。このとき清十朗は始めて魔法とは別に呪文を唱えずとも使えるものだと知った。口がなければ魔法が使えぬというこれまでの認識を覆す事実にさすがに鈍くなった情感が動かされて少し驚いていた清十朗だが、むろん少女としてはそれを見せるために肩を叩いたわけではないようだ。清十朗の気を引いて自分の方を向かせた彼女はまた思い悩むように口元に手を添えると、その手を離し、何かを食べるようなジェスチャーを行うと空いた両手を頬に当ててその頬を膨らませた。


「……もしやするとこの食事は美味いと仰せありたいのか?」


 少女のジェスチャーを見た彼は静かな声を出して「……ふふっ」と可笑しげだがうつろな笑いを漏らした。


「だがおれは別にその料理に不服があって食わぬわけではない」


 むしろ、トレーに乗っている料理はこの時代の貧乏人によくあることとして平生一汁一菜にすら及ばない食事――つまり、飯と汁のみ――をすることもよくある清十朗からすれば豪勢と思われるものであった。

 ならばと少女は次いで腹をさする真似をした。


「別に腹が痛いわけでも、膨れているわけでもない。一つ思うところがあってな。何も食べたくなくなったのだ。今だけではなく、この先も。もしあなたがこれからも食事を用意してくれる気でいたならば、以後それを運んでくれる必要もない」


 清十朗の言葉に少女はやや惑ったような仕草を見せた。が、少女は間もなくその意味を理解したか、すぐに深刻な表情を見せてベッドに手をつき身を乗り出した。彼女に迫り見下ろされた清十朗がその意図を汲んで言う。


「わがままを言うが、この部屋を数日の間、いや明日まででもおれに貸しつつ、そのときまでおれのことを放っておいてくれはすまいか。それまでには全ては終わっているだろう。それから来てくれ。この部屋を汚すことにはなるが、それはまあ許してくれ」


 清十朗の言葉を聞いた少女は目を見開いてやっぱりと確信を抱いた表情となった。次いで彼女は明らかに慌てて首を横に振った。それに対しむしろ清十朗の方が何か悟ったような落ち着きぶりで言った。


「一刻ほど前か? そのときおれは川からおれを拾ってくれたのはあなたかと聞いたな。よくよく考えて恐らくそれはあなただろうということはわかる。少なくともあなたに関わる人だとはわかる。そして、食事を運んできてくれた通り、あなたがおれを世話してくれようとしていることもわかる。ありがたい。それは感謝いたすが、運んでくる食事もタダではあるまい。ならば世話をかけるのも心苦しいのだ。それにおれは最早この有り様で将来のない身。ならばいっそ生き長らえるよりもすっぱり命脈を断った方が根腐れなく快い」


 乾いて、諭すが如く穏やかに語る清十朗だが、少女はそれを受けて慎重に吟味するように悩んだ顔をしては、やはりわからんという表情になってまた激しく首を振った。


 先ほどの自殺に向かう人間の根源的な精神作用を置いておくとしても、そもそも武士とは志抱きつつ布団の上でただ朽ちるように死ぬのは恥さらし、それならいっそ死に花咲かして散ったるわということを考えるのが多い連中である。


 それを示すものとして一つ派手な例がある。

 時は江戸時代初期の今より未来、端まで飛んで末期幕末の時代。久坂玄瑞という男がいた。彼の死にざまがそうである。

 まず、この幕末という時代、尊王攘夷という運動が活発化していた。概論的にざっと言うなら天皇を敬い、外国人を排斥しようという思想、運動である。ペリーの黒船来航からそういった思想が徐々に高まっていったのである。

 その運動の最先鋒であり、久坂玄瑞の所属していた長州藩と他いくつかの藩は京に潜伏し活動を行っていた。しかし、彼らが会合を行っていたところ、その活動内容に不穏なところがあるとした新選組に踏み込まれ――玄瑞はその会合には参加していなかったが――参加していた尊王攘夷派の多くの者が斬り殺され、あるいは結果自刃するという事件が起こる。知る人も多いだろう池田屋事件である。

 この事件を受け、いきり立つ長州藩には京へ挙兵し冤罪を訴え出るという論調が立つ。玄瑞はそれを止めるが、同志を殺されたため激昂し、また前々からそうするのも一つの策としてありではないかという意見の出ていた藩内ではそれも通らず、長州藩は結局京の御所へ進撃する。いわゆる禁門の変である。戦闘を始めたものの長州藩は総督が死亡するなど刻々と敗退への道を進み、追い詰められた玄瑞は御所にある鷹司邸というところに入り、鷹司輔煕たかつかさ すけひろに朝廷への取り成しを頼む。だがそれはすげなく断られてしまう。そのころ自分たちを追ってきた敵方会津軍は鷹司邸を包囲し始めていた。頼みを断られた玄瑞は敵陣へ斬り込み包囲を破ろうとするも左腿に弾丸を受け歩行が困難になってしまう。彼が再び鷹司邸に逃げ込み立てこもると、敵方の会津軍は邸宅の土塀が高く中に入り込めなかったため周りに火を放って玄瑞たちをいぶり出そうとする。おまけに六斤砲という大砲まで持ち出して土塀に撃ち込み穴まで開けようとし始める。

 万事休す――もう駄目だと悟った玄瑞は動ける仲間に逃げるように言い、自分は自決を決意する。たとえここから逃げ出しても天皇に向かってこんなことをした以上、朝敵となることは避けられず世の中からはさんざん叩かれるだろうし、その上この足の怪我では床の上に寝て暮らすことになると思ったためであろう。彼はまず屋敷に火を放った。このことは会津藩が火をつけたのは燃えにくい土塀――それも侵入できないほど高い土塀の外であったこと。にも関わらず邸内から火が出て奥の間にあった玄瑞の遺体が焼けたことからそうだと思われる。自決の理由はともかくわざわざ火をつけた理由はわからないが、最後だしとにかく派手にいこう。どうせ外は燃えてるし、ここの主は朝廷への取り成しを頼んでも無視しやがったし、と思ったからかもしれない。まあ、信長の本能寺の例もある通り、武士は自決するとき放火することが結構あるものだ。ただ何にせよ火を放ったのは他人の家である。傍から見れば笑えるほどの大迷惑だが、久坂玄瑞は同志の寺島忠三郎と炎の中、互いに相手を刺し合って自決した。人の死に方としては壮絶な例だと言える。


 ともかく、こういうことをやるのが武士である。そのことを知らなければ、それから派生した花さえ咲かせられずしかも迷惑をかけて生きるぐらいならせめてさっさと死ぬのがいいという清十朗がこのとき新たに生み出してきた理屈を理解し難く納得できないかもしれない。しかしともかく清十朗が何をやりたいのかその心理を読んだらしい少女は言い募るように口をふわふわと動かした。それでもなおすぐに口に手を当て彼女からは言葉が出ない。彼女は苦い表情となった。このときはじめて清十朗は、もしかしたらこの人は口が利けぬのではないか? と思った。


 喋らない彼女は空中に置いたトレーからスープの皿を取ると、それを清十朗の顔へ近寄せ、共に取っていたスプーンでスープをすくった。スプーンを持った手をくいくいと上げて、これはどうやら食えということらしい。清十朗は「すまぬが要らぬ」と言ってまた顔を逆に背けた。だが少女は諦めずスープを寄せ、皿の縁が清十朗の耳に触れるまで近付けた。触れる皿を感じつつ、清十朗は振り向かない。


「零れるぞ」

 と言うだけであった。


 何をしても取り合わぬ様子である。そんな清十朗に対し少女はスープを下げてトレーに戻すと、頬に手を当てて困ったような顔をした。少しの間、彼女は清十朗に目を注いで悩んでいるらしかった。すると彼女はふいに何か思いついたように手から頬を浮かせ、あ、という顔をした。彼女は片手を清十朗の腹周りに差し出すとそこから薄緑の光を放ち始めた。


 さすがに清十朗はその方へ顔を振り向けた。が、なにも言わぬ。目は留めたまま、見るだけ見て何もしなかった。それは少女の謎の行いに対し陰々たる反応と言える。結局、彼女が手の光を消すまで彼はただじっと見るだけであった。そんな何もかも放り出したような態度の清十朗の足を、そのとき少女が叩いた。元気づけでもするかのように軽くだが幾度もである。

 叩かれる清十朗はやはり無反応であった。それどころかじわりと笑いすら滲ませた。いくら叩かれてもまさに無反応、自分の足から何も感じないことに暗い想いが湧き立ちそれがねじ曲がって表情に噴き出したのである。


「そうやって叩いても無駄だぞ。何も感じぬ。もはや動くことすらないのだ」


 そう言う彼の笑いはどこか冷笑じみたものともなった。


「おれは怪我や病気で具合が悪いから起きぬのではない。もはや起きられぬから起きぬのだ。いや、そういえばそもそも、あなたはおれの状態を知っておられたか? ならば言おう。おれは不随となっているのだ。……これは治らん。おれが命脈を断つといったわけもこれでお分かりになったろう」


 少女は驚いた顔をしていた。しかし、清十朗の話を聞いているのかいないのか、彼の顔の方は向かないで、その足ばかりを見てそんな表情をしていた。彼女は次いで苦い顔になると、それからすぐに清十朗の顔の方へ向き、何かを訴えるような表情で首を横に振った。


「そんな顔をされても何を言いたいのかわからん」


 すげなく返された少女はちょっと喉のつまったような反応をした。すると彼女はまた空中に浮いたトレーから食器を取った。それを清十朗の顔の側に近寄せる。


「おれは食わぬ。不随と知れば、おれの前途に望みのないとはあなたも分かるはずだ。ならばこのままおれの意を汲み放っておいてくれることこそ慈悲と思わんか? それに、あなたとてこのおれにいつまでも手間をかけるわけにもゆかぬだろう。おれは以後の人生ずっとこのままなのだからな」


 少女は静かに食器をトレーに戻した。彼女は目をつむり、ふと息を吐いた。


「……わかってくださったか? しかし、おれとしてもあなたに感謝していることに――」と清十朗が言ったときである。目をカッと開き決然と引きしめたまなじりをした少女は手を清十郎にかざした。


 途端に清十朗の体が彼の意思もなくずり上がってゆく。「なにっ」と言っている合間にも彼はベッドの背にもたれ座った状態となった。


「何をするっ」


 清十朗は声を張った。声を出した彼の尖った唇は、すぐに丸く開かれた。またも彼の意思によるものではない。ただし何か「あっ」と思ったためでもない。むしろ驚きはそうしたその後に来た。開かれた口が球体でも噛まされたように閉じられない。口を閉じようと苦闘する清十朗の前で少女がトレーの食器を手に取り、スープをすくったスプーンをその口に入れた。彼は口を閉じそれを飲んだ。続き三度差し出されたスープも同じく飲んだ。少女は次にパンを千切って彼の口に入れた。白いパンは柔らかく、ほのかに温かく、バターの風味の香ばしく、実に美味いものだったが、噛み締めつつそれよりも清十朗には意識することがあった。


 ――こいつ! おれを肉人形にして操って、無理にでも物を食わせる気か。


 清十朗はそれから二十分ほどをかけて食事をきれいに平らげた。いや、平らげさせられたと言える。憤然たる目をしつつ動けない清十郎に見られながら、背を向ける少女は空中に浮いたトレーを伴って清十朗の私物が置かれている机の方に歩み寄って行った。彼女はそこに立てかけてある刀に手をかけた。


「まさか」


 強引に飯を食わせたことからわかるように、少女が彼を生かそうとしているのは明らかである。呟いた彼は「お、おい」と彼女に声をかけた。


「それを捨てんでくれよ。それは父の形見なのだ」


 少女が振り返った。図星であったのか、彼の言葉を聞いた彼女は少し鼻白んだような顔をした。が、ややあって彼女はやはり刀を持ち上げた。ついでに机の上の棒手裏剣の納められた革鞘も腕に抱えると扉の方へと向かって行く。


「おい!」


 清十朗の呼び止めに足を止めて彼の方を向いた彼女は首を振った。そしてまた歩き出し部屋を出て行った。

 一人残された清十朗は目を瞑って耳を澄ませた。閉められた扉の向こうで何かごそごそやっている気配を感じる。


「捨てるのを止めて隠すに留めたか?」


 それから少女は部屋に帰って来ずどこかへ出て行ったようだ。気配を探っていた清十朗が驚いて言った。


「なにっ。気配が消えた」


  〇


 三日経った。


 風の吹く音も微かな静かな部屋で、新瑞清十朗はベッドから物を映さないような目で窓の外を見ていた。動けないため当然のことに、ここ三日ぼうと外を見ているばかりであったがとにかく彼はまだ生きていた。もちろん生かされていたのである。


 刀と棒手裏剣は取り上げられてしまったし、隠されたらしいそれらは取り返せない。何しろ探そうにも、一度ベッドからダラリと下りて扉まで這って行った清十朗は扉に鍵がかかっていることを知ったからである。それに、少女がやってくるのは不定期であったが、一日に何度かここを訪れる彼女は朝昼夕、いい時間になると食事を運んで来て清十朗の体を操縦しそれを食べさせた。

 これらの行いによって彼は生きていたのであった。


 自分の思うようにさせてくれない少女に対して清十朗は喉の奥で呻く憤悶の感情を抱いた。だがそれは当初のことでこの三日間で彼の心は次第に苛立ちを消していった。自分の向ける視線、そこに乗る感情は察知できているだろうに、それにも負けず施してくれる少女の世話が故であった。


 人間、生きるためには食事以外にも様々な手間がかかる。少女はその問題をことごとく解決してくれたのだ。新しい清潔な服を用意して着替えさせてくれるし、体を拭いてくれるし、ベッドのシーツを換えてくれるし、新たにテーブルを運び込んできてベッドの側に置き水差しとコップを用意して来るたびに中身を取り換えいつでも水が飲めるようにしてくれるし、その他人間の生理による種々の不都合もである。憤っているのが心苦しくなる介護ぶりであった。


 ここまでの世話をされて、少女に引け目のような申し訳ない、という感情を抱き始めた清十朗は同時に自殺への願望もまたぼやけ霧消するように少しずつ薄れさせていった。もともと他人に何かされるとそれに返礼せねばという気持ちが人より強い男であった。自然と彼は食事ももはや自分の手で取るようになった。とはいえ、それは元気になったというわけではない。自殺願望を失ったということは鮮烈たる希望を失ったということを意味する。この状況でただ一つの目的を失った彼は行動力、活動力を失い気だるそうにぼうと窓の外を見るばかりとなった。連日、窓の外だけがうららかな晴れ模様であった。

 窓の向こうの明るい空を虚ろに眺めて彼はぼんやりと思う。


 ――いったいあの人は何故ここまでおれに世話を焼いてくれるのか?


 この疑問であった。

 確かに水差しまで用意してくれる少女の介護は実に気が利いていて手間を惜しまぬ感じがある。清十朗は彼女にとって家族でもなんでもなく、どころか友人でもない数日前まで面識のなかった全くの他人だ。その他人を相手に、しかも明らかに自分に報いることのできる見込みがない不随の男を相手に、魔法を使って常人がやるよりは楽とはいえそれでも心身に負担のかかるだろう看護というやつをやれるだろうか? いや、川から拾った人間が重体であったならば人倫というべきものに基づいて世話をしてやろうとは思うかもしれないが、それは短期的かつ負担の軽い施しに限り、三日にも渡り――どころかこれからも続くとなれば厄介な面倒事を抱え込んじゃったよ、こいつをこれからどうしようと仏面は般若へと変わっていくのもまた人心というものではないか?

 だが、一日にわざわざ何度も足を運び、諸々の世話をしてくれる少女にそんなことを考えている様子は見受けられない。おくびにも出さないという感じもない。そうと疑ってかかれば相手の細かな所作からねちねちと情報を汲み取り、あるいは思い込みにでもやっぱり奴は心中ではこう思っているに違いないと判断しがちなのが人間の特徴だが、清十朗が観察する少女は思い込みすらできぬほど清十朗に対する邪念がないと見えた。金の髪をふわりと揺らし、大抵のほほんと見える顔をして、まるで春の木漏れ日の精のようであった。


 ――あの人が慈愛に満ちた人だということか? もしくは、おれの世話を焼くことに何らかの目的を見出しているのか?


 そういえば、彼女が自分を見る目には邪念はなくとも時折なにか言いたげな迷いと躊躇のようなものがあると清十朗は気付いていた。彼女は自分に何かしてほしいことがあるのではなかろうか?


 しかし清十朗は何かをできる身ではない。財産を持っているわけでもない。それは彼女もわかっているはずだ。では――、

 もしや、おれに惚れたか?

 あり得ない話ではない。むしろ起こらぬほうが不思議な話である。このたびの任務にあらゆる女性へそれを起こせることができると買われて呼ばれた清十朗だから。さすがにここまで傲慢っぽい考え方をしたわけではないが確かに彼はこれと本質を類する思いを抱いた。何しろこういった理由ならば彼女が彼を世話する目的としては一つの説得力があると思われるからである。もっとも、この考えは扉に鍵がかかっているということに一種恐ろしい連想をもたらすものでもある。――


 思い起こせばあの窓枠も床を這うおれには手が届かぬとは試したことであったな……と思念していたそのとき、清十朗は扉の向こうに突如気配を感じた。目の焦点すら動かさず粘体のようにだらりと体を横たえていた彼の体がそれによってわずかに震えると、扉が開いて少女が入ってきた。彼女は食事を乗せたトレーを手に清十朗の下へ歩み寄ってきた。少女はベッドの側のテーブルにトレーを置いた。そしてもう手慣れたことに彼女は清十朗に手をかざし、彼の体をずり上げてベッドに座らせた。


 言わずと知れた食事の時間だ。いただきますとは言わないが、軽く礼をした清十朗はトレーを受け取って太腿に乗せ食事をはじめた。

 黙々たる食事である。静かな時間が流れた。この間、少女は食事をする清十朗を見守って立っている。清十朗はちらとそれを見上げた。二人の目が合った。しかし双方何も喋らない。静かな空間はそれだけ清十朗にとってぎこちないものとなった。ただ、少女もまたそうと感じているかはわからない。彼女は相変わらずやや丸い顔をして、ふんわりとしたいい意味で特に思うのところのなさそうな面持ちをしている。


 ややあって食事は終わった。清十朗がトレーを脇のテーブルに置いた。置くと少女は無言のままに手に小さな水球を生みだした。二度目の食事以降そのたびに行われていることで清十郎ももう心得たことだ。彼は差し出されたその水球をアッと口に含んだ。彼はそのまま口内をゆすぐ。自分の膝に向かって戸惑いなく吐き出されたその水は水球の形をなお保って空中に浮いた。


 少女が操っているらしいそれは彼女がその方へ手を振ると窓の外へ飛んでいった。次いで彼女は清十朗の口内に指を突っ込んだ。いきなりのことではない。清十朗も解って口を開いて待ち構えていたことだ。彼女の指はそんな彼の口内を微動を以って優しく這い回った。この微動とは彼女の指が震えているのではなく、彼女の指の周りに微旋風が起こっているらしい。食事のすぐあとそのたびに行われるこれが歯磨きだとは当初指を口に突っ込まれて困惑していた清十朗にもすでに理解できたことであった。アスファイヤではいわゆる歯ブラシのような道具が普及しているが、それは用意できなかったのかその代わりのようだった。

 歯磨きは終わった。再び口をゆすいだ水球を外へ放り捨てると、次いで少女は水差しの取っ手を掴んで中の水を手中に注いだ。その水は掌を伝って零れず水球と化すとまた手の振りと共に窓の外へと放り出された。水差しの蓋が外されると代わりに同じ手からどこからともなく溢れてきた水が注がれて水差しは新たな飲み水が補充された。続いて共に置かれているコップにも水を注ぎそれを勢いよくかつこぼさないように捻流させて簡単に洗った。コップの水をどうしたかは例の如しだ。

 水仕事を終えた少女は清十朗をベッドに寝かせた。寝かせると薄緑の光を清十朗に当てはじめた。彼女がやってくるたびに忘れず欠かさず行っていることだが、これだけは清十朗には何のための行為なのかさっぱりわからない。それでも、


 ――つくづく至れり尽くせりだな。

 とは改めて思った。


 そしてその心配りが結局どういうところから来るのかがわからん、とも思う。

 人類的な情愛深さか、人間的な恋情深さか。それ以外の何かか――。ただ何にせよ、この世話にはいつか限界が来たるとも清十朗は思った。


 第一に彼女が一人だからだ。考えるに彼女は誰にも頼まず自分一人でおれを世話しているからだ。

 何故ならこれまでここにやってきたのは彼女だけである。誰か他に事情を知る者があるならば一度ぐらい清十朗がどんなやつか顔を見に来るだろう。


 第二に彼女がここに来るために面倒を負っているはずだからだ。

 清十朗の知覚によるとこの家に普段人の気配はなく、つまり彼女の家族や彼女自身すらここには住んでいないことになる。どころか家中の範囲を超えて周囲一帯を感知できるはずの清十朗が少女以外の気配を感じ取ったことはなかった。開いた窓から人の声が入ってきたことは一度としてない。すなわちこの家は村の一軒ではないということになる。この家がどこにあるのかはわからないが、彼女は自分の村からここへ足しげく通っているはずだということになる。


 第三に彼女の経済的な事情を考えてだ。

 このことの前提としてまず彼女の住む村とはどこだろう? 恐らくそれは前に行ったことのある例の寒村ではないかと思われる。ベローチェに追われた夜、川に流されたがそれだけでそう遠くまで運ばれたとは思えない。従って少女が清十朗を拾ったのはあの山の付近であり、あの山の近くにある村とは例の寒村だろうからだ。では、その寒村に住んでいる人間の経済事情を考えてみよう。するとそれは、失礼ながらとても裕福とは思えない。これは鍔隠れという一種似たような地に住んでいる自分を鑑みての思考である。鍔隠れに住んでいたときの自分の生活を参考にすれば、何もできない人間を養うことは相当に厳しいはずなのだ。


 ――つまりそのときは必ず訪れる。たとえ心情に背こうといつかこの人はおれを放り出さざるを得なくなる。いずれ訪れるならば、一刻も早くそうしたほうが利口だ――とは言っても耳を貸すまいな。だが一刻も早くとはおれにとっても利得であることなのだ。……ああ、この世界から消えるとはいつのことなのだろう。せめてその前に。


  〇


 また一日経った。


 朝、清十朗は目覚めてからも寝るに似たようにぼんやりしていた。目は半眼にして、微動だにせず、窓から入る穏やかな風にまどろむというより乾き切ったようにである。そのまま一時間ほど土人形のようにしていた彼がふいにビクリと体を震わせた。その直後、扉は静かにゆっくりと開かれた。

 扉が開かれたとは少女がやってきたということである。それ以外にないためこの頃はその方を見もしない清十朗がしかし今回は首を上げ、見て、言った。


「あなたはいつもはたと現れるな。気配が――」


 ここまで言った彼はギョッとした。彼が見たのはやはり少女であった。ただその様子がいつもとは違う。開いた扉の前に立っていつまでも中に入って来ない彼女はやや顔を伏し、その顔は白蝋のごとき無表情となっている。普段が黙っていても微笑んでいるとも見えるほど穏やかな顔つきの女だけに、この何か思い悩んでいるとも受け取れる姿からは不気味な冷気が発せられていると思われた。そして真の異常とは他にあった。佇む彼女はその右手に柄の長い大型の木槌を携えていたのである。


「……何だそれは? 何かに使うのか?」


 いぶかしんで声をかけた清十朗の脳に直後ある想念が閃き過ぎた。彼女の深刻な表情、人を打ちのめすには十分だろう木槌――。


「そのときが来たか! あなたにもわかったか!」


 アッとした彼はここしばらくなかった叫びを上げた。少女はその声をきっかけとしたか部屋にゆらりと入ってきた。そのまま水も揺らさぬような足取りでベッドに近づいてくる。立ち止まった彼女は清十朗を深沈とした瞳で見下ろした。


「……つまり、そういうことだろう?」


 昨日までの介護ぶりから考えて唐突なようだがもう五日目である。よくよく考える時間はたっぷりあったと言える。

 部屋の中は静寂となった。これまで聞こえていた遠い子鳥の声、穏やかな風の音は消えた。それどころか窓から差す陽は陰り、薄暗くなった室内の空気は冷たくなった。少女が両手に木槌を掴み、頭上に振り上げた。


「……しかし、このような方法を取るとはあなたも無茶をする人だな。部屋が汚れるぞ。何かここまでやった責任を果たすような心を抱かれたか? あるいはおれが自分でやるのは酷だと思ったか? 刀を返してくれれば自分でなるだけ綺麗に済ませるが」


 清十朗が淀むような苦笑を浮かべた。木槌を見上げる彼はさすがに血の気の引いた顔色をしている。


「……まあいい。あなたがこうしたいというならそれに任す。ただ、あなたが思い悩むことは何もないとだけは申しておく。あなたはおれの望みを叶えるのだからな。加えてこれまでの様々な手間、そのことにも礼を申す。……」


 清十朗は深く静かに息を吐き自然と目を瞑った。訪れた暗闇は安らかなものであった。……死生の溶けあったが如く。暗闇に清十朗は音、気配――木槌が一度構え直され次いで振り下ろされるのを感じた。


「ああッ!」


 体に衝撃が走るのを感じ、叫びを上げた清十朗はグワッと目を見開いた。続いて彼の目は眠りに沈むように半眼となり、そのままぼやりとした瞳を天井に向けた。一秒、二秒……息のない寂たる時間が流れた。だが自然と下りるべき彼のまぶたは一向に下りない。そのことに自分でもおかしいと気付いて彼は眉をひそめて首を上げた。

 そこには少女がいた。彼女は清十朗へ振り下ろしたはずの木槌をすでに床についていた。打撃部位を床につけ、ななめになった木槌を手に彼女は首をかしげている。不審げに首をかしげる彼女はこの場合だというのに子供のようにあどけなく見えた。だというのに彼女はもう一度木槌を振り上げ始めた。そして清十朗が見つめるなか、木槌を胸辺りに浅く構えた彼女はそれを振り下ろした。――清十朗の足、その向こう脛辺りへ。


「ぐっ」


 呻いた清十朗はせきこんで言った。


「な、なにをしている? 狙うなら頭だろう。頭に向けてひと思いにやれ」


 だが少女はまた木槌を振り上げて動かぬ足に向かって振り下ろした。


「何のつもりだ! い、痛い。待てっ。一度手を止めておれの話を――」


 その瞬間のこと。清十朗の脳中で爆発的に膨れ上がったある想念があった。あまりにも突発的かつ膨張しながら生まれたその想念は彼の脳を一瞬機能停止にするほどであった。ある想念とは疑念であった。いや、疑念というよりそれはまさか、という気付きであった。そのことを解した途端、彼は体内に何かが頭へ向かい凄まじい勢いで流れ上がってくる感覚を覚えた。怒涛のように流れ上がってくるそれに大波に呑まれるような錯覚すら覚えた。


「いや、もう一度だっ。もう一度やってくれ!」


 猛然と逆のことを叫んだ清十朗にバッと目を向けた少女は頷くと再度木槌を振り下ろした。音は鳴らずとも確かに振り落とされた木槌。受けて、張り裂けんばかりに目を開いた清十朗の口がわなわなと震えた。


「い、痛い。……。いっ、痛い! 確かに痛い! 痛いのだ!」


 魂から絞り出したような声であった。彼は掛け布団を引き剥がすが如く取り払い、首を持ち上げて自分の足を見た。彼は歯を食いしばった。するとその腰、そして足もわずかながら震え出したのである。動くとまでは言えないほどの微動だが、間違いなく彼の足腰は震えているのだ。一切動かぬはずの彼の足腰が!

 愕然たる表情のままふっと力を抜いては首を枕に下ろし、乱れた息が整うのも待たれんといった様子の清十朗がつっかかりつつ声を上げた。


「み、み、見たか? う、動いたな。確かに今おれの足は動いたな? 何故だ? どういうことだ? 治らんというおれの知識が間違っていたということか?」


 またも首を上げた清十朗の前で少女が片手に薄緑の光を灯した。清十朗に当て続けていた例の光である。


「まさか、それには人の体を治す力があるというのか?」


 少女は頷いた。


「おれは、治るのか?」


 太陽にかかった雲は晴れた。部屋は今再び窓から射す陽光に照らされた。少女はにっこりと笑った。

 清十朗は天地開闢を見たような顔となった。

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