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三十七話 絶望

 一つの夢が流れた。

 山林に囲まれた自然郷の鍔隠れ――その里にある小さな家の前に似つかわしくない金の輿が置かれている。担ぎ手は見当たらない。

 彼はその金の輿に向かって遠くから駆け寄っていた。金の輿を目に入れて、顔は綻び晴れやかである。しかし彼が近づくと、輿は人手もないのに浮かび上がり、どころか飛んで空の向こうに行き去った。そして空には幕のように灰色の雲がかかってしまった。曇り空の下、輿に乗り損ねた彼は空に向けていた顔をがっくり落とし、家の中に悄然と入った。畳みに寝転んだ彼は木の天井に金の輿を夢想し始めた。その永劫と思われる静かで無為な時間、天井を見続ける彼の体はいつの間にか老人と化していた。

 金の輿、これは夢であったろう。しかし木で出来た天井、これは現実であった。


「……。何だ、ここは」


 新瑞清十朗は目覚めた。目を開いた先には肋骨のように木材の浮き出た天井がある。横になっている彼はベッドに入っていた。白い掛け布団をかけられた白いシーツのベッドである。


「……おれはなぜ夜具に寝ている?」


 これが寝床だということを彼は王都で過ごした日々によって知っていた。


「……たしかに渓流に落ちたはず。あの後いったい何があった?」


 寝起きの枯れた声で言う彼は横になったまま首を左右に振った。彼のいる場所は全面茶色い木造りのロッジみたいな部屋であった。真四角で、妙に広く四十畳はあるだろう。その部屋の中央の壁際にベッドはあった。ベッドの反対側には扉が一枚あるが、棚や置き物などはない。右手にある木窓の側、そこには木のテーブルがあったがそれ以外はがらんどうであった。また清十朗一人きりでもあった。


「何だ、ここは」


 また言った彼はやや離れたところにある窓を眺めた。木蓋の両開きになった向こうには木々が見える。そして外は晴れやかな朝になっていた。


「あの山の中か?」

 清十朗は次いで窓の側にあるテーブルに目を下げた。その上には糊の入った皮袋、棒手裏剣の一本だけ残った二つの革鞘、アスファイヤの金、食料を入れていたが今はぺしゃんこになっている袋、洗われた様子のたっつけ袴と肌着と着物、そして足袋が畳んで置かれ、下にはわらじが揃えられ、横の壁に鞘込めの刀が立てかけてあった。

 清十朗はドキリとした。あのきれいに畳まれた着物を見て、誰か自分に干渉した者がいるという事実を今さらのことのように実感したのだ。助けられたとはわかるが、干渉されるのは危険な清十朗の身の上である。

 彼は目を閉じ、耳を澄ませた。彼の忍者の感覚が教えるに、今この近くに人の気配はない。


「何ともわからんが、とにかく急ぎここを出よう」清十朗はベッドから立ち上がった。――

「んっ?」すると彼は疑念の声を上げた。

「あれ? なにっ?」


 いや、正確に言うと立っていない。彼はベッドに寝たまま声を上げ続けている。


「た、立てんっ。――まさかっ」


 焦りの声のあとすぐに彼は自分にかかっていた掛け布団を捲り上げた。彼は忍者装束にかわって茶色のゆったりしたズボンとボタン留めの服を着ていた。そしてそれ以外にかわったこととして――何もない。他には特に異常は見当たらない。


「な、なぜ立てん?」


 布団を肌蹴た清十朗は首と肩を持ち上げ水中でもがくように天井に向かって手を振りかざした。しかし立ち上がれない。ふざけているわけではなく、縛られているわけでもない腰がピクリとも上がらず足もどうやっても動かせないのだ。


「どうした? 動けっ」


 清十朗は苛立ちと共に振り上げていた手を太腿に叩き落とした。その一瞬のあと、「え?」と漏らした彼は脳が空白になったような感覚を覚えた。耳は遠く、目も何も捉えなくなった。そのくせ、その感覚のまたすぐ後、心臓が鈍く動悸するのだけははっきりと感じられるようになった。目を見開き、口を薄く開く清十朗はゆっくりと手を振り上げると、また太腿に向かって叩き落した。幾度も、幾度も、しかも繰り返すごとに歯を噛みしめ力を込めて――。十回ほど腿を叩いた清十朗が呟いた。


「か、感覚が、ない……」


 顔は恐ろしく蒼白になっていた。彼はのどを鳴らしてヒッと細い息を引いた。その瞬間、彼の目に昨夜の光景が甦った。天に向かって流れる崖肌、遠ざかる天、水と泡の捻流――。


「ま、まさかおれは……不随となってしまったのかっ?」


 まさに、彼の足が動かないとはその通りであった。橋が落ち、高空から渓流へと落下した清十郎――彼は水中にあった岩に激突したのだ。同時に気絶し彼は押し流されたのだが、それでも命があったことは不幸中の幸い、ただこのような症状に陥ったのはやはり弾みというものの恐ろしさであった。


「こ、この不覚不動……間違いないっ。そうとしか考えられない!」


 そのとき、これを自覚した清十朗の脳裏に、


『いかん! 遅い! それ、もう一度!』

『辛かろうがあと二周りやれ。――よぉし出来たではないか。汗まみれになりよって、疲れたか? では終わり……とはいかん。あともう二周りやれ』

『違う! 忍法はただ決められたとおりに体を動かせばいいというものではない。忍法とは心身一致の技なのだ。それを意識しもう一度!』

『起きろ! 起きて立て! このまま技を得られずそれでよいかっ。お前のように顔がいいのに無能では普通の者より一層馬鹿にされるぞ。奴は所詮しゃっ面だけの男だと。他人からそう言われて、それでもよいか!』


 猛烈な走り込み、執拗な持久走、毎朝の岩曳き、風隠りなどの忍法修行、気絶させられては張り倒されて起こされた拳法の乱取り、刀の素振り、等々幼少からこれまでの修行の光景が走馬灯のように駆け巡った。まさに、走馬灯だ。彼のそれら苦行の意味は今ここに死んでしまった。走馬灯が過ぎると、彼は闇の中に放り出されるような感覚に陥った。忍者の味方である闇ではない。忍者すら震え上がる絶対無明の闇であった。それが恐ろしくて、感覚の失せた冷たい指で頭をかきむしり、清十朗は凄まじい悲鳴を上げた。


 ――足の動かなくなった忍者は忍者ではない。


 そうであろう。忍者の里に生まれ、人生常に忍者修業を積んできた彼のアイデンティティは今ここに崩壊を迎えたことになる。


 ――いや、忍者でなくなったどころか、おれはこれからどうやって生きていく?


 体の麻痺、この症状を負った人間の境遇は平成現代よりもこの時代の方が厳しいことは疑いようがない。仕事に現代ほどの多様性がなく社会保障もまだあるわけがないからだ。しかも清十朗には家族がいない。いやたとえ家族がいる者であったとしても、……例えば姥捨て山。この恐ろしい民間伝承の対象はその意義を考えれば果たして老人に限るものか?


 ――いやそもそも、おれはこれでは伊賀に帰ることすらできぬではないか。


 彼がいるここが日本であるとは考えられないだろう。ならばここはまだ大陸アスファイヤだということになる。そしてアスファイヤには元の世界に帰るという一つの決定事項が差し迫っている。このままここに寝てそれに巻き込まれ、異世界に行くことこそこれ以上ない恐ろしさだ。それは単に愛すべき故郷に帰られないということや縁もゆかりもない異国に独り放り出されるということに留まらない。それだけでも自分の身に降りかかると知ればこの世の誰しもがゾッとするような事態なのに、清十朗がこの国でやったことがやったことだ。それを思えば未来にかかる暗雲はさらに黒みと粘りを深めて地に淀む泥濘と化す感じがある。

 ……清十朗の脳内に絶望的な観念が次々と浮かんだ。そのたびに、それをかき消さんと彼は叫び、頭をかきむしった。だが観念は泡のように浮かんで収まることはない。彼の様相は発狂的ともなった。


 ただ、いくら発狂しようとも、それだけの絶望が襲って頭がぼうと霞がかり視界が妙に白く明るく靄がかり体の感覚が鈍くだるく薄くなろうとも、それでも目を開けば色のついた現実が見えるものだ。現実は自分を押して流れている。そのことが何より恐ろしくて、獣のように低い呻きを上げる清十朗の瞳からいよいよ一筋の涙が流れた。そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。

 扉を開いたのは一七、八と見える少女であった。彼女は清十朗の狂態を見てかアッという顔をすると、扉も閉めず小走りに清十朗の下へ近づいてきた。


「お前は……」


 涙が数滴で途切れるほどビクリとした清十朗は頭から両手をゆっくり放し、彼女を見た。


「お前は誰だっ?」


 少女は淡い緑色のゆったりとしたワンピースにクリーム色のエプロンを着て、肩まで伸びた金色の髪を持っていた。清十朗へと寄ってくる彼女は深刻そうであるが、それでもなお少しだけふっくらしたその顔は優しくふんわりして見える。彼女はベッドの側に立つと清十朗を見下ろした。


「うぬは何者だ?」


 改めてアスファイヤ語で問いかけた清十朗だが、彼女は何も言わなかった。無言のままに清十朗の体や顔を眺めしきりに頷いている。突如現れた人間に観察されて「な、何だ?」と言った清十朗は歯を噛みしめて視線に物理的に押さえ付けられているような顔をした。その顔を見ているだろうに彼女はやはり何も声をかけず、肌蹴た掛け布団を掛け直してやると、清十朗の腹辺りに向かって片手をかざした。かざされたその手からは緑色の光が放たれて清十朗の腹周りを包み込んだ。


「な、なにをいたすっ」


 清十朗がややしゃがれた恐怖の声を上げた。そして咄嗟に手を少女の光を放つ腕へと伸ばしたが、すっと差し挟まれた少女のもう一方の手で逆にその手を掴まれた。指を優しく握り包むようにである。

 ハッとして清十朗は顔を上げた。少女はその顔を見下ろしている。穏やかに微笑んで。清十朗の脳に何か名伏し難い観念がジンと広がり、染み入って溶けゆくような感覚がした。


 ――勝手にしろ。


 清十朗から力が抜け、少女に指を握られながら彼は自然と枕に頭を落とした。


 ――そうだ。どうせこれ以上どうともならぬおれの身だ。


 それから清十朗は光を当てられ続けた。これが何のための行いかわからないのに、清十朗はただ無心のままにそれを受けていた。自分の身すら人に任せて、それがいいならそうすりゃいいさという今の彼の老いたような心境であった。はたと光を当てる作業は終わった。それを受け、ちょっと自分の身を見て清十朗が口を開いた。


「終わったか。何が変わったのかわからんが、今のは何をされたのだ? あなたはこの家の人か? あなたが川からおれを拾ってくれたのか? ここはどこなのです?」


 枯れたような声だが、次々と生まれる疑念の言葉であった。

 少女はそれに反応して彼に顔を向けていた。が、じっと顔を見るだけで物言わない。双方顔を向き合わせて黙り込み、場が沈黙していると、少女は突如握っていた彼の手をそっとベッドの上に置いてそのままそそくさと扉の方へ向かって行った。


「お、おいっ。どこへ行く」


 かけた言葉もむなしく少女は音もなく扉を閉めて部屋を出て行った。

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