三十六話 転落
「来ん……」
清十朗が猛蔵と別れてから幾数日経っていた。その間、野の草に伏して寝る前と短い時を休んで鈍く重い頭で起きた後はもちろん、懸命に走って日本を目指す途中、時々後ろを振り返っては幾度となく先輩忍者たちが来るのを待っていたが彼らが来る様子はない。そして首を伸ばして後ろを遠望していると清十朗は必ず突如ハッとして前に走り出した。例の大地消失の刻限もあるし、何より空耳に馬の鉄蹄の音が聞こえてくるのである。
今もまた、あの三人が来るのを待っていたいがここにこれ以上留まるのは堪え難いといった顔をした清十朗が体を元の方へと反転して歩き出した。夕暮れのことである。彼の行く前には木々が広がっていた。彼は例の寒村近くにあったあの山林までたどり着き、今まさにその中に入り込むところなのだ。この山林までたどり着いたということは道程は半分以上来ている。ここを抜ければ相模まではあと数十里だろう。一日四十里を走れ、その気になればもっと足を速められるだろう忍者たる清十朗ならもうひと頑張りといったところだ。しかし、日本が近づくにつれて彼の心中は不安に重くなっていった。
――お三方が来られぬ。おれはこのまま進んでもよいのか?
何度となく待ってみてもあの三人の誰一人として追いついてこないのだ。清十朗も前に進んでいるのだからこれは当たり前のようだが、彼はここまでわざと道を逸れてそこで草を踏んだりむしったり、火をおこした跡を残したりとソーラコアの追手を撒くため進路の偽装工作をやっていた。待つ時間に加えてその手間の分、後続とは距離が縮んでいるはずなのだ。工作の甲斐あってかソーラコア兵が追ってくる姿はまだ見えないが、もしかして三人もその工作に引っかかってしまったのだろうか?
――いや、まさかあの人たちに限ってそれはない。
そんなものが工作だとは見抜く三人だし、そもそもあの三人は自分たちが王都に行くときに通ったこの道を知っているのだ。折り返して通るべきこの道からわざわざ逸れるとは考えにくい。かといってまさか追い抜かれてしまったということも三人との距離の差と足の速さを計算して考えにくい。では何故来ないのか?
「いっそ戻ってみようか? ……」
やや青ざめた顔の清十朗は足を止めて後ろを振り返った。山道だからそこは木々の乱立した下り傾斜である。そこに赤い陽が降り、今は鳥の声もなく閑散としていた。
少し時間が経った。彼はその間じっと傾斜を見ていた。静かな森に風が葉を揺らすサーっという音が鳴った。すると清十朗は「馬鹿な」と首を振って向き直り、再び山道を進みはじめた。
彼は日本へと帰ることを第一に考えなければならない身なのである。猛臓などそのために残ってくれた。忍者の合理性から言えば、仲間の身を案じてとはいえ待つことすらもおろかなのに戻るなどもってのほかであった。しかしやはり後ろ髪引かれざるを得ない状況ではある。歩きつつ、腕を組んでうつむきがちとなっている清十朗の足は重いのであった。が、とはいえ、心情として足が重かろうと傍から見れば足運び軽やかと見える彼の歩みだ。夜の帳が下りたころ、彼はすでに山の中腹をやや過ぎた辺りまで来ていた。
「もうすぐ前に渡った橋につくかな」
ここまで腕組みし、時折額を揉んで黙々と足を運んできた清十朗がふいに足を止めた。そして、
「もう夜か」
といまさら言ってまた歩き始めた。
その様子が変わらず腕を組んで、何か考えているようである。
しかし夜となった山道――ただ月明かりにぼうと浮かぶ暗い道となっただけではない。足元の都合も土の凹凸の陰に深い黒みを加えてさらに悪くなるだろうし、拓けた道を挟み乱立する木々の間は無限の漆黒のようで、そこからは正体の見えぬ奇妙な鳥の鳴き声が聞こえてくる。むろん夜気も冷たいのだが、この胆を縮みあがらせるような冷やかさは陽が落ちたためだけではあるまい。清十朗はこの不気味な夜の山を恐れないのか?
恐れないのだ。彼は夜の山歩きなど慣れているのだ。その彼が、急にびくりと震えてバッと後ろを振り返った。
緩やかな上り坂となった道に、八メートルは後ろだろう。そこには一頭の獣がいた。右手に広がる木々のうちの一本から、半分顔を出して声もなく清十朗を見つめている。闇の中から覗き込むように顔を出すその獣と、振り返った清十朗の目が合った。さすがにちょっと目を見開いた清十朗が我知らず身構えると、その獣は木々の漆黒からのそのそと清十朗の立つ道の中に出てきた。
「……あれは、あのときの山犬か」
出てきたのは前にこの山に入ったときにも見かけたウサギを追っていた獣――ベローチェであった。その橙色の毛はこの夜の闇にも浮き立って見える。ベローチェは道の上を右に左にウロウロとし始めた。ただその目は、清十朗から片時も外さずに彼を見つめている。
「なんだ? おれを襲おうというのか?」
ゆるり手を下げて直立し、身構えを解いた清十朗が声をかけた。口元にはかすかな笑いがそよいでそこにはいささかも恐れる様子はない。彼は刀の柄をポンと叩いた。
「止めておけ。犬に後れを取るおれではない。このまま去るならば見送るが、襲い来るならば容赦はせんぞ」
こう声をかけてもベローチェはその場を離れなかった。ただし駆け向かってくる様子もない。ただただウロウロし続けるだけだ。そのベローチェを、「何を迷っている。おれも無益な殺生はしたくない。帰れ。その方が互いのためだ」と苦笑の体で見ている清十朗の肩にそのときビタリとした感覚が走った。
濡れた手を肩に置かれたような感触である。ギョッとして清十朗が横を向くと、そこにはまさに手が置かれていた。だが人の手のようではない。この夜闇に忍者の目だからこそ見えるほどに黒く、どこから来ているのかわからぬほどに腕の部分が伸びていた。幽霊の手だ。清十朗が伸びた腕に沿って目を上げると、木々の隙間の漆黒からこの幽霊の手の群れが追って黄泉路に引き込まんが如く伸びてきていた。
「わっ」
はじめて清十朗が戦慄の声を上げ、とっさに大きく後ろへと飛び退いた。
彼を逃し、彼のいた空間を無数の黒い手がビラビラとゆらめく。
「な、なんだこれは」
ごく自然的な風情であったこの山に、突如現れた怪談めいた光景にさしもの清十朗が胆をひしがせていると木々の隙間からベローチェの群れが道へと歩み出してきた。幽霊の手とはベローチェの舌であった。彼らの舌は人の手のような形をし、伸びるのだ。
それにしても、続々と道に飛び出してきたベローチェたちはいったい何頭いるものだろう?
……十、十一、十二……二十、三十……三十七、三十八……。
四十頭はいる。このそう広いとも言えない道にひしめくように立つこれらが、一様に清十朗を見上げた。そして一斉に笑うが如く牙を剥いたのは先ほどの怪談景色よりもなお冷感の走る光景であった。
「うっ」
面を打たれたようになった清十朗がすかさず急反転すると全力で走り始めた。それと同時にびょうびょうと吠え、恐ろしい合奏をなしたベローチェたちも駆け出す。清十朗と山犬たち、彼らは必死の逃走、追走劇を開始した。
「まさか、兵ではなく犬に追われる破目になるとはっ」
振り向かずとも背後から不穏に流れ来る「ハッハッ」という息と足音を以ってそれが開始されたことを清十朗は知った。
先ほど犬に後れは取らんと言った彼も、いくらなんでも多勢に無勢、この四十頭を相手にしてはウサギに過ぎない。そのため刀も抜かずに逃げる彼の纏う雰囲気が、しかしその逃走の中で不意に変わった。具体的に言うと薄くぼんやりとしたようになった。懸命に足を動かしているはずの彼の顔も、何か沈思にふけるが如く落ちついたものとなり、どころか何と眼すら閉じてしまった。
「……忍法風隠り」
逃走の最中、瞑目して試みるのは気配を風や空気と同化する忍法風隠り。前にも山犬たちを相手に用いたこれによって背後に追うベローチェたちの八十の目は清十朗を前にしつつ、暗い色の着物が暗闇に紛れて幾度かその姿をフッと消えたものと見たかもしれない。が、ベローチェたちが完全に対象を見失う様子はない。それをカッと目を開いた清十朗が後ろに首を振り向けて見た。
「やはりっ。修行至らず、見られた上は風隠りはできん!」
気配を消し、術者の姿すら目に入れつつ知覚出来なくなる基本忍法風隠り――彼はこの技を相手に見られた状態では使えないのだ。効能を発揮しようと思えば見つかっておらぬうちに前もって意識し、試みていなければならない。それをわかっていただろうに試みていなかったのは迂闊と言えば迂闊だが、彼は例の三人に気を取られてそのことを意識する心境になく、そしてまさかたかが山林に自分を脅かすものがあるとは思っていなかったのだ。しかしここはたかが山林ではない。伊賀の山々にはいるはずもない不思議な動物たちが潜む魔の森だ。刀を抜いて手向かうも無謀、風隠りも無駄に終わり「くっ、撒くしかない」と呻いて前を向いた清十朗を猛追するベローチェたちの牙はよだれに濡れてそれこそぬめりとした魔的な光を放っている。
また脅威なのはその数、その牙、そして獣に備わった駿足だけではなかった。前を走る清十朗に一向に追いつけず、むしろ徐々に離されて人間に譲らぬはずの自分たちの駿足が及ばないと知ったこの山犬たちは三手に分かれ、うち二手は両端の木々の中へと散開した。次いでその口元から伸ばされるは舌である。それが散開した三方から幾多も伸ばされて一部が清十朗の肩、腕、足を亡者の手の如く掴んだ。
「くっ、放せ」
がくんと一瞬うしろのめりになりつつ、清十朗はその舌を振り解きまた走り続ける。このことはそれから幾度も繰り返された。後ろから迫るベローチェの舌は三方から絶えず伸ばされてくるのである。掴まれては振り切る清十朗の走りに陰りが見え始め、少しずつ後続との距離が縮まっていった。
「いかん!」
と焦りの声を上げたとき、彼の耳が何かの音が流れているのを捉えた。
「水音っ。……前に橋を渡っていたとき流れていた川だ!」
そしてややあって彼は木々の切れ目に出た。向こう岸まで二百メートルはある断崖である。深い谷底には激流が流れていた。その断崖にかかっている吊り橋、ここまで何とか逃げてきた清十朗はそこに駆け込んだ。橋はゆらゆらと揺れるが彼はよろめかぬ見事な身軽さである。二十メートルほど橋を進んだ彼は足を突っ張りそこで勢いよく振り返った。
「よし、来いっ。勝負はここだ」
狭い橋によって一度に相対する敵の数を制限し、その上で斬り払うためである。それにここで勝負をかけないと人犬一斉に吊り橋を渡ることになって橋が重量に耐えきれぬという可能性も考えられた。だが振り返った清十朗は刀の柄に手をかけたまま「やっ?」と拍子抜けしたような顔をした。橋を渡り始めても追って来ていると思っていたベローチェたちが来ていなかったのである。山犬たちは橋の前で立ち止まり、その周辺に半円を描いて広がり腰を低く地に這うようにして唸りを上げていた。
ところで清十朗の立っているこの橋――幅二百メートルの谷にかかっているということは長さも同じぐらいある。また脚のある鉄橋ではなく綱で吊り木板を敷いて並べた橋で、一体どうしてこの長さの橋をこんな原始的で心許ない造りにし、そもそもどうやってこんなものを架けたのかと言われれば前者はアスファイヤが乱世の頃ここを通る兵の集団があってその者たちが対応的に急遽造ったのを今になってもそのまま使っているからで、後者はむろん魔法を使ったのだ。――魔法でかけたこの橋、しかもこの橋には後世の人が付加したある一つの機能があった。それは獣避けである。獣たちはそのための魔法をかけられたこの橋の木板、綱、すなわち全てに触れることをとても嫌がるのであった。そのため橋を渡れぬベローチェたち、「何故来ん?」と焦れたように呟く清十朗はこの理屈を知らないがそれでも追走から逃れることができたと言える。
……渓流の澄んだ音が吹き上がるなか、少しのあいだ遠方でじっと睨み合い、それでも縮む様子のない両勢の距離。清十朗はふいに一息の気息を漏らした。が、その一瞬の間のあと、ベローチェたちは一斉に舌を伸ばした。
山犬たちには触れられぬ橋、だが中空を伸びる舌ならば差し支えないのだ。数多の手が清十朗へと迫る。
「しまった!」
このとき、清十朗にとって狭い橋に立っていたことは不利となった。迫る舌を避けるための横幅がない。加えてこの瞬刻の時に向きを変えて橋を渡り逃れるための暇もなかった。これならばベローチェたちには素直に橋に駆け込んできてもらった方が都合がよかったであろう。そのために待ち構えたのがかえってあだとなったのだ。
清十朗は気合と共に刀の抜き打ちを一閃させたもののそれは三枚の舌を斬り払ったに過ぎず、彼は残りの舌に手足を掴まれてしまった。次いで続々と伸びてきた舌に体の所々を捕らわれた。
手の形をした多くの舌に掴まれて、これは無数の人間に全身しがみつかれたに等しい。清十朗は「ぐっ」と呻きを上げつつ片膝をついた。
そして清十朗を捕らえる伸びた舌は彼を引き寄せ始めた。
引き寄せられて、その果てにある数十の口元、そこに待ちうけるのはもはや数えるのもならぬ鋭い牙である。この手繰り寄せに清十朗は身を強張らせて腰を引き、こちらも足を踏ん張って対抗した。
ここに双方必死の綱引きが展開した。といっても一方は人ではない犬である。夜の吊り橋を舞台に、渓流の轟々たる音の流れるなか、その異様さは地獄の猛犬に曳かれるのにもがく亡者を思わせた。
清十朗は足をじりじりと前へ擦り、時にずるりと一瞬滑らせて少しずつベローチェたちの方へと引き寄せられた。毎朝の修業で大岩を曳き、こういうことに慣れて強みを持っているはずの清十朗が負けている。大岩を曳けるほどの彼だけにその要因はただ多勢に無勢、しかもその相手が体躯の大きな犬だからというだけでなく足場の悪さからも来た。ここでも彼にとって立つのが吊り橋だということが悪い作用を及ぼしたのだ。吊り橋はこの力比べにぐらぐら揺れて、清十朗の足腰にネジの緩んだような感覚をもたらす。これでは思うような力を出すことができないのだ。
「いかん。このままではっ……」
歯を噛みしめて抵抗しつつ、徐々に山犬たちの牙が近づく清十朗。彼は刀を振り動かそうとした。だがその右腕はベローチェたちの舌により肘も動かせぬほど重点的に固定されている。どうやら山犬たちはその辺りのことを心得ているらしい。
それをわかった清十朗は「くっ」と呻きつつ同じく掴まれつつも固定の甘い左手を舌に逆らってスルスルと動かし始めた。左の太腿、そこにある鞘へ。彼は一苦労して棒手裏剣を抜き出した。
次いで彼は一時わざと体の力を抜くとグンと舌に引かれ前のめりになりつつ手裏剣を投げた。
さすが清十朗、縛りを食らったような状態でも狙いは正確で、棒手裏剣は橋の中央をまっすぐ飛び、橋の周辺にたむろしているベローチェたちの一頭に向かっていく。しかしこれはたった二本残ったうちの一本である。次いでもう一本を投げたとしてもたかが二頭を仕留めるにとどまり、それでは後が続かない気がする。いや、そこは相手が武器の残弾まで頭の回らないはずの獣だとして一頭でも仕留めれば慄いて逃げ去っていくはずだという清十朗の計算であった。
前のめりになったことで四つん這いになり、未だ引っ張られながら木板に爪をたてて飛んでいく棒手裏剣を眺めその目論見が叶うのを待つ清十朗。その彼が、「なにっ」と声を上げた。
目論見が叶わなかった。そもそも彼の手裏剣は一頭の山犬も仕留められなかったのだ。投げられた棒手裏剣は、清十朗に舌を伸ばしていなかった余りのベローチェたちの舌が束を成して上からのしかかり、ある一頭に刺さる直前、橋の上を過ぎた地面へと叩き落された。そして真に驚くべきことは次の瞬間に起きた。
地面に落とされた棒手裏剣を、その上に折り重なった舌の一枚が手のように掴み取った。すると一閃して橋を吊っている綱を切ったのである。
「ば、馬鹿な!」
清十朗の叫びが夜の山にこだました。
舌は水平に張られた二本あるメインケーブルのうちの一本を切断したに過ぎず橋は落ちない。だがぐるりと縦になって「わっ」と目を剥いた清十朗は滑り落ちつつ辛うじて空いた左手でそこにしがみついた。なおもベローチェに舌を絡められた惨憺たる有様である。その彼をさらに追い詰めるように橋の前で棒手裏剣を持つ舌がゆらりと上がった。
「止めろ!」
再度強烈な声が轟いたが、山犬に言葉は通じぬ。棒手裏剣はまた一閃した。
水音をかき消すほどの恐ろしい絶叫が上がった。橋は落ちた。清十朗は絡みついたベローチェたちの舌により数瞬振り子を描き、それが重みによりパッと手放されたため真っ逆さまに落ちていった。深い谷底、そこに流れる激流の中へ――。
……絶叫を呑んで辺りに元の渓流の音が響き始めた。崖の上のベローチェたちは谷をちょっと覗き込んでは首をかしげるような素振りを見せている。
それが陥れた清十朗に対する嘲弄的なしぐさなのか、当てが外れたなという困惑の所作なのか、そもそも彼らは何故橋を落としたのか。何せ獣だから何もかもわからない。――




