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三十三話 疾風の追手

「起きろ。起きろ、清十朗!」


 耳元で放たれた大音声によって清十朗はぶるりと身を震わして目を覚ました。次いで彼はバッと頭を上げて起き上がろうとしたが、それが何かに押さえられ出来ず、その背と頭の上に自分を覆っている膜のようなものがあることに気がついた。同時にそういえば猛蔵どのの倡妓蜘蛛の中にいたのだったと思いだした彼は、

「いつの間にか、寝ていたのか」

 目を軽く揉み、寝起きの枯れた声でこう呟いた。


「起きたか、清十朗」

 と猛蔵が低い声で言った。


「はい。起きました。申し訳ない、猛蔵どの。どうやら拙者いつの間にか眠りこけていたようで」

「……それはよいが、お前には起きてもらわなければならん。見ろ」


 清十朗が紗のように髪の透けた前方を見ると、草原の景色が勢いよく後ろに流れていくのがわかる。それは寝る前と同じだが、寝る前とは違って外はもう陽が昇り、明るい朝となっていた。


「あっ、もう朝か。ということは猛蔵どの、もしかして夜通し走っておられたのですか。これは相すみませぬ。お疲れでしょう。一旦止まって休憩を取りましょう」

「……止まる? いやそれはならん――」

「な、なにっ!」

 突如清十朗が叫びを上げた。猛蔵の言葉がそれほどに不服だったのか――というとそうではない。彼は前方の景色にあるものを見たのである。


 それは走る清十朗たちより前に出ると、遥か前方にて急にスッと消えた。と、見るやまた同じものが清十朗たちの後方より飛んできたのである。太陽のような赤光をひいて――。


 それは煮えたぎったように燃える人の胴体ぐらいの大きさをした火球であった。当たれば燃えるを過ぎてこの身が溶けるであろう。そんなものが後方から次々と飛んできている。目を疑う清十朗はそれでも慌てて頭上の髪の毛をかき開くと上体を起こして蜘蛛の外へと半身を出し、後方を振り向いた。すると、


「あっ!」

「人が出てきたぞ!」


 口々にわめきが起こった。その方には遠く馬に乗り、こちらを指差し猛追してくる二十人ほどのソーラコア兵たちがいた。


「ば、馬鹿な!」


 その自分たちに追い付かんと歯を食いしばり目を鋭くし走る人馬の迫力、勢いよく踏み込まれる蹄が低い重奏となり轟然とした地響きと化した足音を受けた清十朗は改めて仰天した。後方へと捻った腰を戻し、再び蜘蛛の中へと入って猛蔵の肩にしがみついた彼は言う。


「猛蔵どのっ。敵が追い付いて来ております。な、な――」

 何故――。とは清十朗は言えなかった。そんなことを聞いても猛蔵だって知らんだろうし、こちらも歯を噛みしめながら今も懸命に髪を動かして疾走している彼にそんな取りようによっては責めるようになることは言えない。しかも猛蔵は、猛然と走りながら撃ち掛けられてきている魔法を後ろに目のあるように左右に振れてかわしているのだ。だが、確かにソーラコア兵たちが二人に追いつけた理由は気になる。猛蔵の忍法倡妓蜘蛛はどんな駿馬に譲らぬ速度を出せ、現実そうだと清十朗が認めるほどの速度で走っているのではなかったか?


 これは別に猛蔵がうさぎのように途中サボって休んでいたわけではない。彼は確かにこれまで間断なく走り続けていた。ということは、兵たちが追いついてこられた要因は兵たち自身にあるということになる。


 骨肉に敏捷なる息を吹き込み、動作に風のような躍然さを宿らせる瞬躍の魔法。兵たちはこれを自分の乗る馬たちにかけたのだ。蜘蛛と変じた猛蔵があらゆる生物に走力で勝る魔物と化すのなら、この魔法をかけられた馬は神馬めいた存在となる。魔法と忍法――同じく幻妖たる技ならもともと健脚を以って鳴らす馬を用いているソーラコア兵たちが勝るのは当たり前だ。これこそが彼らが猛蔵たちに追いすがって来られた理由であった。神魔、ソーラコアの人間たち――彼らはそう容易く逃げられる存在ではなかったということだ。


 とはいえ、城を上げて清十朗たち二人を追っているはずのソーラコア兵たちがそれほど大勢でなく今ここに二十人ほどしかいないということは、瞬躍の魔法を以ってしてもこの時間内に猛蔵に追いつける者はそう多くはないということになろう。しかし、それだけに、現在ここに追いすがって来られた者たちは馬の中でも駿馬中の駿馬、またそれを操るのも精鋭中の精鋭ということになる。その颯爽たる人馬の群れが奇怪なる大蜘蛛を追い、しかも追う兵たちが手綱を握るもう一方の手に小さな太陽のような火球を掲げる光景は神話めいた風情があった。


 白い陽の登る眩く爽やかな朝の草原に、怪物黒蜘蛛とそれを狙って火球を撃ち掛ける兵たちの軍団は凄まじい逃亡、追跡劇を展開する。

 だがいくら怪物じみた様相をしていても、黒蜘蛛を操るのはどこまでも人間たる蓑毛猛蔵だ。走りながらサンセクションの火球を左右に振って避ける彼はそのたびに八本の足の運びにつっかかり、淀みが生じ、徐々に遅れが生じるようになってきた。蜘蛛の中にいる彼本体は苦しげに歯をギリギリと鳴らし、その満面には水を浴びたような汗が流れている。


「いかん!」


 明らかに蜘蛛が速度を落としていくことを感じ、そして猛蔵の軋む歯の音を聞き、顎に垂れる汗を見た清十朗が顔色を変えて狼狽する。すると、彼はすぐに何か決心した顔をして再度上辺の髪をかき広げ、蜘蛛の外へと上半身を出した。


「猛蔵どの。いましばし堪えなされ。いま拙者が手裏剣を投げて追手の鼻を弾きます。それで奴らの意気は挫け、足は止まり、奴らとの距離は離れるでしょう。そうなればどこかに隠れ伏してやり過ごしましょう」


 自分の両足の間に挟んだ猛蔵の背に向かって嵐のように声を降らすと、清十朗が腰を後ろに捻じ曲げてキッとした目を追跡隊たるソーラコア兵たちに投げた。徐々に近づいてきているとはいえ、清十朗と後方を追走してくる兵たちとの間には未だ二百メートル少しの間隔が開いている。しかもこの双方は凄まじい勢いで疾駆している。だが、これまで散々手裏剣術の名手ぶりを見せてきた彼ならばこの距離と速度を物ともせず見事命中させて見せるかもしれぬ。さすがにこの体勢では手裏剣を届かせるのは力の込めようから無理だと猛蔵の背から尻を浮かせ、代わりに両足をその背につけて後方へとくるりと器用に振り返った彼はしゃがみ込んだ姿勢のまま腿の棒手裏剣へと両手を伸ばした。が、それを「止せ!」と止めたのは猛蔵であった。


「投げるといってもお前の手裏剣はあと二本しかないではないかっ。たとえそれら全て当てたとして、二人仲間がやられたとして次に続く攻撃がないと見れば奴らは止まらぬ。むしろお前は手裏剣を失って一層窮地に陥ることになる。手裏剣はお前の切り札であろうが。止めておけ!」

「ぐっ」とうめいた清十朗の動きは止まった。


 たしかにもともと持ってきた棒手裏剣の数は四本で、聖女の塔で二本使ったまま回収してはいないから今彼が持つそれは二本となる。数少ない武器たるこれを効果も薄く失うことはまさに無為であった。対してソーラコア兵たちはそんな物資的な制約なく火球を撃ち掛けてくる。それに「猛蔵どのっ。右だ。右に避けなされ!」と目を見開いて指示を出しつつ清十朗は、

「何か投げる物がありさえすれば!」

 と悔しげな呻きを上げた。


 だがこの疾走する大蜘蛛の上では新たな投擲物を調達することは不可能だ。褐色の皮袋に入った例の糊こそあるが、これは届くはずもないし、しかもそれを飛ばそうとこの風の中では空中ですぐさま乾き、いささかの効果も望めまい。そのためしゃがんだ姿勢のまま飛来する火球を見て猛蔵への指示に集中していた清十朗だが、ややあると彼は「あっ、こうなれば」と言い放って突如すっくと猛蔵の背の上で立ち上がった。そして彼は髪や服を風になびかせながら腰の刀をスラリと抜いたのである。


「我らを追う追手の者々たち! うかと我らに近寄るならこの剣の威光と威風を受けるが、よいか!」

 とアスファイヤ語で吼えた清十朗が構えを作った。刀身を垂直に、右肩辺りに上げられたいわゆる八双に構え上げられた刀の先端が陽の光を受けて煌めく。


「エイヘー! ヤーッ! カーッ!」


 次いで天に抜けるような気合と共に繰り出されるは斜めと横を走る二振りの斬撃。続いて彼は横薙ぎにした刀を幾度となく振るい始めた。


「おおっ」これを見たソーラコア兵たちがどよめきを漏らした。


 清十朗の刀は白光を照り返し、剣光を引いて止まることなく流れるように振り出されていく。その剣の鋭さもさることながら、いやその鋭さよりももっと驚くべき彼の驚異的なバランス感覚よ。清十朗は今も恐ろしい速度で走る猛蔵の背に立ち、その速さの分だけ突風も吹き付けているだろうにその足場としては心許ない背の上で危うげなくしっかりと剣を振っている。これは忍者ならではの、その身一つで為す凄まじい軽業に間違いなかった。その軽業を土台に繰り出される剣、これは言うまでもなく空を打っているのだが、全身風に吹き荒びながら為す彼の軽業の凄まじさもあって剣気剣風とも言うべきものが放出されソーラコア兵たちに薙ぎつけられているかと思われた。


 ただ虚しいかな――。清十朗必死の脅しだが、ソーラコア兵たちにはさほど通じていないようだ。彼らは馬を走らせる向かい風よりもなお鋭く身を斬るような剣気を感じ、「おお」「これは」と驚いて目こそ剥いているものの足を止めるどころか緩める気配もまるでない。これが通常の騎馬武者ならばこの物凄い曲芸には面を吹かれ、胆をひしがれてせめて追走の速度を落としてしまったかもしれない。だが魔法という飛び道具を持ち、加えて聖女様が傷つけられたと知ってとにかく怒り憤然としている彼らはこの程度では怯まず、むしろ清十朗に向かって魔法を放った。


「うっ……」という声が尾を引いて清十朗の剣を振る手が止まった。その全身もぎゅっと固まっている。蜘蛛の上に立つ彼へと放たれたのは横走る稲妻の魔法であった。


 幸いにして直撃こそしなかったものの、これが真横を行き過ぎて痺れたように立ち竦んだ清十朗は明らかに追撃の稲妻を放とうとしている兵たちを目にして、

「た、猛蔵どのっ。左へ。左へ!」

 と我に返って叫んだ。


 撃ち掛けられる魔法は火球から稲妻へと変わった。言うまでもなく、それはただ種類が変わったという単純なものではない。火矢の速度で撃ち掛けられる魔法が、まさに雷電そのものと代わったということだ。それはこれまで死力を振り絞って火球を避けていた猛蔵がさらに辛い事態に見舞われるということに他ならなかった。それから数十秒――短いようだが恐ろしく長い時間だ――猛蔵はしゃがみ込んだ清十朗の指示によって何とか稲妻を避けていたが、ついには「ああっ」と苦しげな喘ぎを漏らすようになってきた。気付けば、蜘蛛の全身は毛がピンと飛び出し、毛羽立ちの様相を呈している。さらに蜘蛛さながらの様態となったようだが、これまで蚕の繭のようにつるりとしていた体がこうなったということはこれは忍法の破綻が近いという前兆ではあるまいか?


「猛蔵どの。大丈夫でござるか?」と清十朗が問いかけると、

「こりゃいかん、清十朗。こりゃいかん。来るわ。限界が来るわ!」

 と猛蔵は実際にこう叫んだ。


「えっ、で、では、どういたすっ?」

「止まる。こうなれば止まって追手と戦う。それしかない」

「……。ですが、やれますか?」


 目を落としていた清十朗が顔を上げた。自分たちは二人、彼の目の先に迫ってくる追手は二十人ほど。実に十倍の戦力差がある。しかも相手は騎馬兵だ。


「この期に至ってはやむを得まい。たとえ相手が魔法使い、たとえ相手が多勢であろうとやるしかない」


「……。よし!」


 意を決し、清十朗が昂然と頷いた。彼の持つ刀が白光の煌めきを放つ。


「やりますか。猛蔵どの。なに、我ら二人ならばどんな相手でも切り抜けられます。あれらに一つ伊賀の技を見せてやりましょう」

「いや、戦うのはわしだけだ。わしが一人残って奴らを止める。その間に、お前はゆけ」

「な、なにっ!」下を見た清十朗は思わず刀を取り落としかけた。「何故ですか、二人でやればよろしいのに。わざわざ一人残るなど」

「いま我らが為すべきことは奴らを全滅させることではない。生きる見込みを少しでも高めることだ。それなら一人は先に行ったほうがいいし、残ったわしもお前が行くまで奴らをあしらったあと隙を見て逃げるには一人の方が都合がいい」

「では、残るのは拙者がやりましょう。猛蔵どのは消耗しておられます。一人残って戦うのは危険だ。代わって拙者が残り、ここを防ぎます」

「馬鹿っ!」


 猛蔵は大喝した。


「奴らは河の流れのようなものだぞ。お前ではそこに石が飛び込むに等しい。即座に呑まれるは必定だ」

「……」


 黙る清十朗に猛蔵は向けぬ顔を微笑させ、

「おい、清十朗」

 と穏やかな声をかけた。


「お前は任務を果たした。柔膳は引きつけ役を果たした。四季右衛門も色々と仕事を為した。わしは今回何をやったか? ――ここはわしに任せろ清十朗。お前を相模に返すことが、わしの任務だと言ったではないか」


 柔く言い含めるように言った猛蔵に数秒の間のあと眉を寄せた清十朗が渋い表情で頷いた。


「……ではお頼み申す」

「よし。ではもう止まるぞ。備えろ」


 備えろと言われても何をすればいいのかわからず、首を振って周囲を見渡した清十朗はとりあえず手に携えた刀を慌てて鞘に納めた。するとその直後、猛蔵の大蜘蛛がグッと地を踏んで足を止めた。よって前につんのめった蜘蛛に乗っていた清十朗は、当然大きく前に跳ね飛ばされた。馬ではなく蜘蛛だが、とにかく似たように疾走する乗物から前のめりに振り落とされて、空中に投げ出された人間は普通頭から真っ逆さまに転落してただでは済むまい。だが忍者清十朗、地に頭がついた瞬間ぐるりと前転し、そのまま幾度か転がるとバネが伸び上がるように無事立ち上がった。立ち上がり、勢いのまま五歩ほど駆け過ぎた彼は素早く振り返った。


「猛蔵どの!」


 猛蔵はすでに倡妓蜘蛛の忍法を解いていた。二本足で立ち、清十朗の呼びかけを背中で受けた彼が声を放つ。


「よし。ゆけ、ゆけ! 全速力で、とにかく走れ! ……あ、いや、少し待て! 最後に、わしの末の妹のことだがな」

「え? な、何のお話?」


 踏み出しかけていた清十朗が再び振り返って困惑気に聞くと、猛蔵は「……。いや、何でもない」と頭を振った。「ゆけっ。わしも後から追い付く!」


 清十朗は今度こそ走り去って行った。


 その場に残った猛蔵は、奔流のように駆けてくる二十頭の人馬の群れを突っ立って睨み据えていた。その岩のような剛毅な顔には疲労の汗が流れ、息は上がっている。


 彼は先ほど迫る人馬のことを河の流れだと例えた。そしてそこに清十朗が立ち向かうは石が呑まれるに等しいと言った。だが、彼すらも、この人馬を前にしてどれほどの防波堤となるだろう。


 見よ。ソーラコアの人馬たちは一人突っ立つ猛蔵のことなどまったく無視したように突っ込んでくる。たとえ特別な魔法など使わずとも、彼らはただ走るだけで猛蔵など踏み潰せるのだ。瞬躍の魔法をかけられ、激流すら超える恐ろしい速度と化して駆け込んでくるこの馬群を受け止めるパワーはいかに屈強な身体つき、いかに毛髪を操る忍法を持つ猛蔵であろうともあるはずがなかった。かといって彼は逃げようとはしない。清十朗を背後にそのわけはわかるが、どういうつもりなのか何をする素振りすらも見せない。


 進行方向に立ったまま微動だにしない猛蔵を見て、「よし。ならばそのまま、轢け、轢け」とソーラコア兵たちは声を掛け合っていた。が、その彼らが突如「あっ」と目を剥いた。


 まさに路傍の石、小さな存在だったはずの猛蔵が見る見るうちに十メートルばかりの黒い巨人と変じたのである。いや、それは猛蔵が巨人と化したのではなかった。それは猛蔵の背後に瞬間的に出現した。まさに浮き立った黒い影の如く。だがそれは影でもなかった。立体の影のようなそれは猛蔵の黒髪が人間の形をして織り成されたものであったのだ。


 地より湧き出したかのように現れた黒髪の巨人――これが前方に立ちはだかったソーラコア兵たちだったが、「怯むことはない! 脅しにもならんわ!」と吼えて彼らはそれほど動揺しなかった。彼らとしてももう猛蔵たちが使う不思議な術の存在を十分に認識している。ならばもうこれくらいのことはやってくるだろうと無知から来る狼狽はない。そして彼らはあの巨人がこの魔法の前でどれほどの意味があるか、とサンセクションの火球をその手に出現させた。


 が、黒髪の巨人が突如立ちはだかったこの場合、動揺したのは人よりも馬の方であった。兵たちの乗る馬は異様なる巨人を見て明らかなる動揺を露わにした。それを見てとった猛蔵の目がニッと笑う。それこそが彼の狙いであったこともまた明らかであった!


 馬たちは驚きいななき、慌てて足を止めたやつもあれば走り続けたもののあらぬ方向に行こうとしたやつもいる。さすが精鋭ソーラコア兵だけあってその上の兵たちは唐突なその行動に対応して振り落とされないように馬首にしがみついたり、方向を正そうと焦りつつ手綱を引いた。が、結局馬たちは猛蔵の前で止まったり、彼の両脇を駆け過ぎてしまった。


 人馬という河の流れを、猛蔵という巨岩が割ったさながらの光景であった。


 そして猛蔵は素早く次の行動に移っている。彼は背後の巨人を一流れの髪として解くと、首を大きくぐるりと回した。十メートルの巨人を形作っていた長い長い黒髪が、歌舞伎の毛振りのように振り回される。振り回される黒髪が行き過ぎるところ、何とそこにいたソーラコア兵たちの体と馬たちの首は横合いから丸太に殴られるように叩き崩され、血味噌と化してしまった。猛蔵の髪は、どうやら彼の意思に応じて鉄の硬度を持つものらしい。それに加えて凄まじい首の力によって振り回される髪の毛は、鉄棒で打つより激しく人の体を砕いてしまうのだ。しかもその髪の毛は、猛蔵の周囲にいる二十余名のソーラコア兵全てを圏内に捉えていた。


 果然、自分の身へと迫りくる髪を横目に、仲間たちの様子を目に入れていた猛蔵の前に止まった兵の内の一人が「あっ」と絶望的な声を漏らした。だが、猛蔵の隣を行き過ぎて背中を向けている者はもちろん、馬が急停止したことで馬首にしがみついて硬直しているその者たちが風車の羽の如く迫りくる髪の毛に対応することは不可能である。二十余名――猛蔵の周囲にいた全てのソーラコア兵とその乗馬たちは、瞬く間に血の旋風と化してさらに風に吹き巻かれる血霧となった。


 爽やかな朝の草原に吹き散った血霧が、間もなく浄化されるように晴れていく。薄っすらと少しずつ血霧が晴れたとき、それでもなお残り散乱している死体たちの中央で猛蔵がひげの中でキュッと笑った。


「案外やれたの。思惑通り」


 この言葉から推し量るに、巨人を出現させ馬を驚かせ、隙を生み出させて兵たちを一網打尽にするあの一連の流れは猛蔵の作戦であったに違いない。


「ただ、意外とこんなものか。清十朗を逃がそうと、気を張っていた己がちょっと馬鹿馬鹿しいわ」


 だが、その作戦が上手くいったのは勿論いいのだが、それが想定通り行き過ぎていささか拍子抜けしたのか、そのようなことを言った猛蔵はしてやったり、といった顔で笑んだまま清十朗の後を追おうと伸ばした髪を戻して背後へと身を返そうとした。その時である。


 彼はソーラコア兵たちが追ってきた王都の方角から何かがやってきているのを横目に見た。やや遠くから来たるそれは一頭の人馬であった。


「ひとり遅れていた奴がいたのか」


 身を返そうとしていた猛蔵がその方へと身を戻した。岩のように立ち、再び敵の人馬と向かい合った蓑毛猛蔵。彼はちょっと思い悩んだ。


 むろん、迫り来るあの一頭の人馬にどう対応しようか悩んだのである。人馬を撃退しようにも、何を繰り出すかわからない魔法使い――絶対の隙を作った上でなければ襲いかかるには躊躇するべき存在である。優位性が同等の状況で戦えば、魔法によって瞬く間に抹殺されるということは十分にあり得る。だが隙を作ろうにも、先ほどの巨人を使った作戦は相手が多勢だったことによる馬の進行の混雑混乱も計算に入れてのもので相手が一頭のこの場合にはあまり効果があるとは思えない。また、このまま走り込まれては猛蔵にとって実に困るのだが、やはり例のごとく流星のような速度で駆けてくるあの人馬を正面から受け止めるのは大変危険であった。


「魔法使い……混乱を利用できぬだけ、一人の方がよほど厄介な奴らではないか」


 そう呟いた猛蔵は、さらに悩みを深めた。が、今も人馬は走り続けている以上、悩むための猶予の時間はほぼないといっていい。刻一刻と人馬は迫ってくる。近く、近く、近く。――


「ええい」と頭をかいた猛蔵は腰を曲げて前かがみになり、地に向かって頭を思い切り振り下ろした。すると、猛蔵の前の地に絨毯のように広がった髪の毛は、続いて波打つように数十メートルも伸びて迫る人馬の足元にまで広がったのである。


 広がり、走る馬の足まで及んだ猛蔵の髪の毛はその足を網のように絡め取った。絡まり、足の引っ掛かった馬は声を上げて慌ててつつそれでも前のめりに倒れ込んだ。疾走する馬が前のめりになったなら、馬上の人がその勢いの影響を受けるのは当然である。馬に乗っていた兵は、前の清十朗のように前方へと大きく投げ出された。


 同時に伸ばした髪を凄まじい勢いで戻した猛蔵は前かがみからバネのように上体を起こし、ギロリと前方を見上げつつその方へと飛びかかろうと左足をやや引いて猫のように腰を低くしている。その右手は、抜かりなく腰の刀にかかっていた。馬から放り出されたソーラコア兵が、大地に叩きつけられて倒れ伏したとき、あるいは受け身を取れたとしても免れ得ぬ着地の硬直の隙を突いて斬りかかるためである。


 が、走り出し、躍りかかろうとしていた猛蔵の足は踏み出すことはなかった。馬上から吹き飛ぶように放り出された兵が、大地に叩きつけられて倒れ伏すどころか着地による硬直の隙すら晒す様子が見られなかったからである。いや、着地による硬直じみた様子はたしかに見せた。しかし投げ出された彼はしっかりと背すじを伸ばしたまま、空中で一度ぐるりと一回転して足から突き刺さるように着地したのである。まるで銅像のように微動もせず着地した彼にそれを見た猛蔵は踏み出す足も止めて「おお」と目を見開き感嘆の呻きを上げた。


「きゃつ! どうやって無事着地した? 上手く受け身を取ったわけではない。あんな棒のような体勢で、受け身が取れるはずがない」


 だが、馬上から放り出されるという危険な事態が起きて受け身も取らずに普通無事で済むわけがない。しかし現に特に怪我をした様子もなく着地し、しかも厳とした重々しい気配を放って黙然と仁王立ちするその兵を前に当てを外された猛蔵は再び口の中で「ううむ」と呻いた。


「これまでの者とは違う。奴、容易ならぬ奴……」


 戦慄とし、低く声を漏らした猛蔵の前で、十数メートルほどの距離を置いて立つ兵がふいに口を開いた。しかも彼は先ほどの着地の衝撃などなかったように薄っすらと笑ったのである。


「……驚いた。何だ今のは、髪が伸びたのか」


 呟き出された言葉は翻訳の魔法がかかっているのか猛蔵にも解り、小さな声であったが忍者たる彼には聞こえた。だが、笑いながら呟かれた言葉はあまり驚いたようでもない。その兵は無造作に猛蔵の下へと歩み寄りながら少し声を張って話を続けた。


「お前たち、魔法を使えんと思っていたが代わりに不思議な術を使うな。お前は髪の毛を伸ばすことができるのか」

「……」

「いや、ただ伸ばすだけではないだろう。それを手のように自在に操る……おそらくそんなところと見た」

「……」

「何にしてもうらやましいぞ。そんなに髪が豊かで、あまつさえ伸び縮み自在など。……私など二十も半ばを過ぎた頃から頭頂が一気に薄くなってな。いっそのこと全て剃ってみたら以来、なぜか一切髪の毛が生えなくなってしまったのだ。聞くが、髪に関する能力者として原因は何だと見る? 心労か? まさか病気ではあるまいな?」


 入道頭をつるりと撫で、苦笑している兵が猛蔵から五メートルの距離で立ち止まった。ここまで取るに足らないことを言っていた彼だが、歩いている間も目は油断ならない光を放って猛蔵を見ていた。立ち止まり、猛蔵の周囲に散乱した酸鼻な死体たちを眺めたその目がいよいよ恐ろしく鋭くなって、


「私の名はオーシャコット・エレクティア。ソーラコア王国兵科兵団の隊長が一人。王城にて繰り広げられた事件の下手人、また敵国の者であるお前たちを始末しにやってきた!」

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