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三十二話 清十朗、敵地からの逃避行

 城門を抜け、まだ深夜ゆえ人気のない静かな城下町を走り抜けた清十朗と猛蔵はこの王都の城郭にあたる大門の前で立ち止まった。深夜ゆえ王都の外へ通じるその門の扉は閉まっていたのである。


「いかん。これでは通れん」


 そのそれだけでも高さ四十、幅六十メートルは超えるであろう巨大な鉄の扉を見上げ見下ろした清十朗が焦った声を出すとバッと後ろを振り向いた。背後に伸びるのは王城まで続く一本道である。ここまで来るのに忍者の足でも優に一刻(およそ二時間)以上かかったその長い長い道にはまだ追手の姿は見えないが、それも今だけ、すぐにソーラコア兵たちが自分たちの命を狙ってやってくることは間違いないと思われた。

 再び門扉に向き直った清十朗が辺りを見回した。門扉は地下から厚い鉄壁がせり上がって来て扉を閉めるというちょっと変わった形になっているようで、むろん人力で開くことは到底かなわぬし、その開閉装置がどこにあるかもわからない。勿論この厳とそびえること鉄壁と言うより灰色の山のごとき門扉を破ることも絶対にできない。それに側の城壁を登ろうにも登頂付近はねずみ返しのように建材が大きく突き出しており、聖女の塔を下りるときに使った髪の綱を置いてきた清十朗には登れそうもなかった。ということはつまり――


「……この王都に、と、閉じ込められた?」

「いや、そうはならん」

 と再度ひやりとして後ろを振り向こうとした清十朗の肩に手を回したのは猛蔵であった。彼は清十朗の肩を自分の胸へぐっと引き寄せた。


「な、なにをなさる?」

「しかとわしにしがみ付け。追手が来る前に、早うこの門を越えるぞ」


 言うや猛蔵の頭髪が逆立ち、そのまま彼の髪は頭上に向かって数十メートルも伸びた。伸びあがる髪を見上げ、それで何を悟ったか、慌てて清十朗が猛蔵の着物を掴んだ。その瞬間、胃のグッと下がる気味の悪い感覚と共に彼らの体は勢いよく空中に飛び上がっていたのである。

 伸びあがり、先端が門の屋根の突起に絡みついた猛蔵の髪が凄まじい勢いで縮みながら強烈に引かれ、曲げられ、二人の体を空中に浮かび上がらせたのだ。城郭の高さすら越える百メートル近い高空へ一気に飛び上がった猛蔵は目を見張って建物が遠く小さな地上を覗き込でいる清十朗を抱えたまま、またも髪を伸ばした。今度は前方の下方向へ。髪の毛の先端によって大門の屋根にある突起を再度掴んだ猛蔵はまたもグンと髪を引いて二人は王都の外――果てのないような広い草原に向かって水平に飛び出した。

 まるで城郭から空に飛び立った黒い大ワシのような姿だが、飛び出した彼らは言うまでもなく落ちている。放物線を描きながら二人は地上へと徐々に落下していった。何せ百メートルからの落下だからさしもの忍者ですら激突すればただでは済まぬ。その地上が近づく中、突風に髪をなびかせる清十朗が「だ、大丈夫でござるか?」と猛蔵の顔へと必死の目を向ける。すると、「まあ、いけるだろう」と清十朗の懸念など素知らぬような顔をしている猛蔵の側で彼の髪の毛が風によるはためきでない再三のうなりを見せた。斜め下に伸び地面に突き刺さると、二人の体を一度空中でつんのめらせてから振り子のように揺らし、再度前へ飛び出させてしまったのである。だがこれは城郭から飛び出したときのものと違い、地上も近いし緩い勢いの発射だ。二人は地に足をつくとザザーっと滑って止まった。


「無事、落着」


 髪の毛の凄まじい応用性と丈夫さを見せた猛蔵が後ろに尾を引いた髪を縮め戻しながらコクリと頷いた。何事もなかったかのような落ち着きを見せる彼だが、対して彼の腕から離れ、息を弾ませ未だドギマギしているようなのは清十朗である。彼は「猛蔵どの」と声をかけた。息が弾んでちょっと高い声であった。


「拙者、猛蔵どのの指示には従いますが、しかし何かなさるなら急ではなくせめて一言言って下されよ。今のも我が事終わったと思いました」

「ん? ああ、すまんすまん。追手が来るため早くせねばと思うてな。それに、例のこの大地が消えるという話もあるだろう。そのため我々は急がねばならんのだ」


 清十朗は「あっ」という声を漏らした。追手が来るという話も勿論怖いが、いま彼らに差し迫るものはそれだけでなくそういえばその件もあったのだ。聖女の力が弱まったからには大陸アスファイヤは元の世界に帰る。それに巻き込まれてしまえば彼らは永遠に日本には帰れない。そのことを思い出した清十朗が王城の方へ振り返った。四季右衛門どのと柔膳どのは果たして逃げ出して来られるだろうか? ――


「あの二人なら後を追ってくるだろう。行くぞ」


 心を読んだ猛蔵が清十朗の肩を叩いて進み出した。清十朗もその後を追って走り出す。二人風のように夜の草原を走りながら清十朗は、

「しかし、追手のこともそうですが、この大地が消えるまでに我ら相模の地まで戻れるでしょうか?」

 とちょっと心配そうに言った。


「大地が消える刻限はどれほどのものであったかな?」

「四季右衛門どのの話によれば十数日」

「ならば我らの足なら間に合うだろう」

「しかしそれも保証のある話ではないとのこと。もしかしたら今にでも大地が消えるということも考えられる……」


 清十朗のやや前を走る猛蔵はこれに考えるように首をかしげた。そして彼はややあって突如足を止めると、こんな話をしているなかそれだけでも不自然なのに次いで何のつもりか地面に膝をついて四つん這いになってしまった。


「いかがなされた?」


 やや行き過ぎて、取って返しては足を止めた清十朗が後ろ髪に覆われた猛蔵の巨大な背を見下ろして不審げに聞いた。


「いや、なるべく急がなければならない我らだし、それならばこの方が速く走れるからの」

「四つん這いがですか?」


 確かに獣のような四足で走ることを得意とする忍者は存在する。しかしそのやり方が得意な人だったかな、と清十朗が首を捻っていると猛蔵の背に垂れた髪がふわと持ち上がり、その碁盤のような広く四角い背が露わになった。


「さ、わしに乗れ。いや、ただ跨るのではなく、べたりと背に身を伏せろ」

「えっ?」と清十朗は驚いたが、「早うせい。時間が惜しいぞ」と言われると、困惑しつつ「では失礼致す」と言ってそそくさと猛蔵の背に跨り、前に回した足を腹に巻き付け、両手を肩から厚い胸に回し、後頭部の横に顔を添えてべたりと身を寄せた。真に驚くべきことが起こったのはその直後である。


 猛蔵の髪が伸びながら周囲に扇のように広がると、清十朗を含め彼らの体をグルグル巻きに取り包みはじめたのだ。「おっ」と清十朗が声を漏らす間にも髪の毛は二人を完全に覆い包んでしまった。夜の草原に、現れたのは一つの巨大な黒い繭であった。まさに繭だ。もともと艶やかで滑らかなこれだけは素晴らしく美しいという猛蔵の黒髪は物を包むと蚕の繭が如き様相となる。その渦巻く絹のような髪に包まれた清十朗は猛蔵の耳元で「それで、ここからどうするのです?」と言った。二人手も足も出さずに包まれて、たしかにこれでは動けない。


「こうする」


 猛蔵が言うと繭の両脇から八束の髪の毛が放射状に飛び出した。それは途中で一度折れ曲がり地面につく。つくと二人を地面から浮かせた。それはたちまち八本の足になったのだ。巨大な黒い繭は、三メートルばかりの丸々と太った奇怪な大蜘蛛と変じた。


「身が浮きましたが、なにが起こりました?」


 髪の中にいて外の状況がよくわからない清十朗が聞くと、


「足を生やしたのだ。では行くぞ」


 と返して猛蔵は目の前を覆っていた髪を紗のように薄くした。これで前方が透けて見える。次いで蜘蛛が八本の足から両端一、三番目の組、二、四番目の組とそれぞれ四本ずつ交互に前へと踏み出し始める。草原を駆け出したその速度が――


「は、速い!」


 紗のようになって透けて見えるようになった前方、そこに尾を引くように勢いよく流れる景色を見て、足の速さにおいて常人を遥かに超える忍者清十朗がこう驚嘆したのだからこれはとんでもない速度であろう。八本足をわさわさと不気味に動かし、草原の暗闇を恐ろしい速度で疾駆する黒い大蜘蛛は魔物さながらの姿であった。


忍法倡妓蜘蛛じょろうぐもだ。この応用を用いたわしはどんな駿馬にすら勝る。これならば追手が追い付いてくることは絶対にあり得ぬし、大地が消える刻限にも間に合うだろう。むしろこれでその双方為せぬようならどんな方法でも到底無理だな」


 たしかにこの大蜘蛛、生物には到達し得ぬであろう速度で走っている。ならば追うにしても馬を用いるだろうソーラコア兵にこれに追いつくことは不可能だろうし、同じく馬以上の移動手段を知らぬ清十朗たちにはこれで例の刻限に間に合わぬことなどあり得ぬことと思われた。


「おお。これで安心」と改めて猛蔵の髪を操る忍法の応用性に感嘆した清十朗が、「しかし、このようなことができるのならば、もっと早くやっておればよろしかったのに」と言った。


「さすがにこの忍法応用、数多の髪を細かく動かす必要があって非常に疲れるのだ。例えるなら四肢を同時に動かしながらその二十本の指も常に蠢かし続けるようなものだな。これが大変気が張る。なのであまり使おうと思わなんだ」

「なるほど。ただ、それならば大丈夫でござるか? ということはこの倡妓蜘蛛、そう長く続かぬのでは?」

「そうだな。実を言えばわしといえども修行未だ及ばず、普段そう長く続く技ではない。だが安心しろ。お前が任務を果たした今、後は我らの地まで帰るだけだ。ならばわしもお前が任務を果たしたように踏ん張って、お前を相模の地まで確かに返してやるわ。それがわしの任務じゃ」

「……。ではお頼み申す」


 しみ入るように言った清十朗が力を抜いて猛蔵の背にもたれた。

 そしてしばしして――。猛蔵に後を頼みやることもなく、追手や大地消失の刻限への懸念もなくなった彼は猛蔵の背で微動を感じながらやがてそのままうつらうつらとし始めた。これまでのことで疲労が溜まっていたのは当たり前だが、彼が包まれているこの髪の中、草原を走る振動は思ったよりも小さいし、肌触りはまさに絹のようでしかも夜気を切っても吹きこんでくる寒風はほぼなく、案外居心地がいいのである。その寝具のような髪の中でまどろんでいた彼にふと猛蔵が声をかけた。


「しかし、よくよく思ってみても今宵ないし今宵に至るまでの任務、お前はようやったな。改めて、それだけは申しておくぞ」

「……む? ああ……ありがとうございます」


 目を薄く開けて、いかにもぼうとしたように清十朗は返した。彼は続けて、


「しかしまた改まって、どういたしましたか?」

「いや、こうして後は帰るだけという段になってようと考えると、つくづくお前はようやったと思ってな。だから言ったのだ」

「そうですか。……。しかし猛蔵どの。拙者……本当にようやったのでしょうか?」


 ぼうとした声はそのままに、なお虚ろな感じのある言葉であった。


「なんだ、自覚がないのか? それはもう、よくやったろう。まだ十も半ばを過ぎたぐらいのお前がこれまでの山を渡り野に寝る旅をこなし、そして敵国に潜り込みあまつさえ敵の本丸たる城にまで潜伏して任を果たすという心身共に辛抱苦難の大仕事をやってのけたのだ。忍者としても、お前は他の誰にもできぬことをやった。その点、誇ってよいぞ」


 対する猛蔵が快然と言う。清十朗の口元に薄っすらと笑みが淀んだ。


「……そうか。おれは、ようやった。ならば、これでよいのか。……」

「こうして帰れるのもお前のおかげだ。これで、褒美をもらって伊賀へと帰り、久方ぶりに家族に会えるわ。ふふ、褒美をあやつらに見せて鼻を高くするのが今から楽しみではないか。ただ、何を持って帰ろうと末の妹などはお前が帰ってくるほうを喜ぶかもしれんが」


 こう言って苦笑を滲ませた猛蔵は「それで清十朗。あれが肝心なことを言わんためわしから聞くが、お前はあやつのことをどう思っておるのだ? 何かこう特別に思ったりは――」と続けたが、そこで彼は「ん?」と気付いたことがあった。


「寝ておる」


 清十朗がいつの間にか彼の耳元で小さな寝息を立てていることに気がついたのである。

 安息を吐いて眠る清十朗を包んで大蜘蛛は草原を駆ける。もはや着いたも等しい安静の地、相模に向かって。――

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