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二十八話 渡されたサイコロ

 聖女と清十朗――対面して、 

 しかし、清十朗は部屋の中央まで進み扉を背にして聖女と向かい合ったものの二の句を継げずにいた。何を喋ればいいのかわからないのだ。彼が黙っていると、逆に耳に手を添えて何故かもう一度驚いたような顔をしていた聖女の方がこれまた何故かちょっと顔を微笑ませて、

「そうですよ。私が皆から聖女と呼ばれている者です。あなたは誰ですか? 名前は何というのです?」

 と言って手元の本を閉じると清十朗へと椅子ごと体を向き直らせた。


 彼女はどうやら本を読んでいたらしい。清十朗の顔にちょっと惑いの色が差すもすぐに、

「新瑞清十朗、と申します」

 と名乗った。


 この名乗りをきっかけに清十朗は会話の糸口を掴んだか、というとそうでもない。彼は再び次に何を言えばいいのか思いつかず沈黙した。代わって口を開くのは聖女の方であった。


「セイジュウロウ、ここに何をしに来ましたか?」

「……」

「いや、戦をしている国の人ですもの。この国のことを調べに来ましたか? それとも何か工作をしに来ましたか? 或いはもしかして……私を害しに来ましたか?」

「……」

「隠密という仕事でしょう。オッフェンバック断結界をどう越えたのかは知りませんが、その苦労に加えてこんなところにまで忍び込んで……遠路はるばるよく来たものです。道には迷いませんでしたか? それに、ふふっ、そのアスファイヤ語、まだ拙いようですが時間も無かったでしょうによく勉強しましたね」


 胆太い、というよりどういうつもりか、隠密を前に人を呼ぶ素振りも見せず穏やかな語調で話しかけてくる聖女であった。しかし、彼女は急に目を鋭くすると、

「それでセイジュウロウ、ここ数日城中で起こっている事件、それはあなたが起こしたものですか?」

 と声を静めて言い出した。


 清十朗は狼狽して手を振った。


「いや! あれはおれがやったものではござらぬ。おれは誰も殺してはおらぬ」


 一応うそではない。そう言ってドギマギする清十朗をじっと見ていた聖女であったが、彼女は少しすると目元を戻した。


「……。ここはそういうことにしておきます。そして、ここへ何をしに来たかも聞きません。その代わりというわけではないですがセイジュウロウ、少し私の話を聞くつもりはありませんか?」

「話? な、なんでござる?」

「その前に」聖女は清十朗をなだめるように胸元に両手を掲げた。「あなたはこのソーラコアの風景を見てここまで来たはずです。この国を見てセイジュウロウ、あなたはどう思いましたか?」


 唐突かつ不可思議な問いかけだが、ちょっと考えた清十朗は答えた。


「それは……面白い国だと思う。この王都にしても拙者はこんなにも人が集まって賑やかな場所を他に知らないし、町並みの目に明るく楽しくて温雅な光景を見たことがない。特に驚いたのは人々が魔法を使う光景だ。あれは本当に摩訶不思議……恐ろしくもあったがそれでもやはり心の弾むものであった。あとは……そう、この国は飯が美味い。鉄板で肉を焼いた料理を食べたが……御存じか? あんなに美味いものは生まれて初めて食べました」


 これまで緊張していた清十朗だが、これだけは無意識に軽く笑みまでこぼしての言葉であった。聖女もその顔を見て微笑んで、


「いい国でしょう? 他にも面白いものや美しい場所はたくさんあります。例えば『疾風の彼方』や、青く光るスクファーラの至純の地下ろ過湖。そしてそれは、あなたの国も同じことでしょう。そんな国同士が戦をしているなんて惜しい、悲しいとは思いませんか?」

「ん? んん……」

「そこで話というのはここからです。セイジュウロウ、私とあなたで力を合わせてこの戦を終結させませんか? いえ、ただ終結させるわけでなく、二つの国を和睦させ、交友のよく通る仲となるよう働きかけませんか?」

「な、な、なに!」


 清十朗は飛び上がった。聖女はすでに始まってしまっている戦を治めるだけでなく、どうやってか二つの国を仲良しにさせようとしている。そういえば彼女はテューマー王に談判に行ったほどの戦争反対派であったのだ。ただ驚くべきことに彼女はその協力者に敵国の隠密である清十朗を選ぶと言っている。仰天する清十朗に聖女は、

「戦はもう始まっています。つまり二つの国の流れは双方の王の下、その方に傾いているのです。ならばこの話を現実にするためにはまず私たちだけでも手を取り合って動くしかありません。私ひとりではなく、向こうの国の人であるあなたと知恵と力を合わせることが必要なのです」

 と言った。


 なるほど、思えば真に気を許さなければ声すら遮断する結界を張る聖女が、初対面の人物であり、何よりいかにも怪しい侵入者と会話できているのは清十朗の超然的な魅力による作用があろう。彼女にこのためという自覚はなかろうが、ただ美貌というだけではなく、服に薄っすらと形のわかる胴、腕、足、つまり全身の形や体の匂いから月光の如く朧に放たれるのはあらゆる人間悩殺の忍法に天然自然に圧勝する清十朗の魅力であった。だがそれだけではなく、しょせん侵入者である清十朗を前にして聖女が誰か人を呼ぶ素振りも見せなかったのはこのためであったのだ。


 この予想外の申し出に清十朗は当然困惑した。目を見開いて微動だにしない彼に聖女が、

「……どうです、セイジュウロウ? あなたも争いが治まり、国同士が仲良くできるならばそれが何よりだと思うでしょう。それに先ほど何をしに来たかは聞きませんと言いましたが、国が仲良くできるならあなたが任された仕事をする必要はないでしょう?」

 と言った。


 たしかにそうだ。考えてみるに、この話がもし実現したならば幕府並びに日本を救うという彼が受けた任務の趣旨と同じものが達成されてしまうのである。いやむしろ、仲のいい国ができるのならその方が幕府にとってためになる気がする。清十朗にとっても聖女を害する必要がなくなり実に平和的だ。要するに素晴らしさこの上ない話だと言ってよかった。にもかかわらず清十朗はこの話に協力すべきかしないべきか惑った。それはこの話の実現は可能か、という疑いよりも、――だがこのために本来受けた任務を放棄してよいのか? という思いからであった。


「これは何もソーラコア王国の利益だから言うのではありません。戦争などもう金輪際嫌だから言うのです。ソーラコアの人たちだけでなく、そちらの国の人たちがこれ以上傷つくのも嫌だから言うのです。お願いセイジュウロウ、私に協力しておくれではありませんか」


 黙考する清十朗に聖女が続ける。その言葉は内容もさることながら人の善性を揺り動かす切々とした調子があった。彼女が言うことは人心に基づいて実に正しいことのように思われるし、そもそもが性根の優しいところがある清十朗だ。彼は咄嗟に「わ、わかった」と口にしかけた。脳中に、たとえここでそう言ったとしても場合によっては任務を果たし前言を覆せばいいし、ここはその任務のためにもともかく聖女の機嫌を取って信用を得ておいたほうがいいという言い訳めいた思念も後を追って浮かんでいた。が、彼の口はその後を追った思念そのもののために止まった。聖女の真剣に光る金の瞳に見つめられて、「うっ」となった清十朗はそういえば彼女が真実の姿を見抜く目を持っているという話を思い出したのだ。そんな目を持っているのなら、それが長じてこんな思念は見破られるかもしれない。こんな不誠実な思念を見破られては聖女の話も立ち消えとなり、聖女も自分に対して心を閉じ任務達成が不可能となるかもしれない。それこそもはや何の望みも消えるということであった。任務を放棄し話に乗るか、あくまで任務を完遂させるか、このようにどちらかを取れず悩む清十朗は、

「それを答える前にお聞きしたいが、そもそもあなたは本当にその話を実現しよう、実現できるとお思いか?」

 と呻くように言った。


 この言葉への返答で聖女がこの話へのためらいや考えの甘さなど見せれば任務を遂行しようと思ってのことだ。ここでそのような素振りを見せるようではどうせ戦を止めるなど無理に違いない。そのときはいよいよ心を鬼にし腿の棒手裏剣を不意を打って投げよう、結界もきっと通るだろう、と彼は決めた。その彼は続けて、

「例えば、あなたの言う通り戦はもう始まっている。すでに犠牲となった者はいるでしょう。それだけでなく、近くこの城中で起きているという怪事、これは本当は拙者の仕業かもしれない……とはあなたは疑っていることでしょう。他の者の心は置くとして、まずあなたは自国の民を傷つけた我ら日本の者どもが憎くはござらぬのか? その一員たる拙者と手を取り合うことができるのか?」

 さすがに聖女はやや鼻白んだような顔をした。


 が、すぐに、「すでに犠牲となってしまった人は不憫と思います。もしその人たちに話を聞けるなら戦を続けろと言うかもしれません。けれど、この先どうなるにしてもとにかく今、今は戦を止めて仲良くすべきです。せっかく平和となるはずだった世にまた戦いの火を広げるべきではないのです。生きている民、そして私たちの幸せのためにも。そのためなら相手を恨む気持ちを捨てなければなりません。犠牲になった人を想う気持ちを今このときは抑えなければなりません。とはいえ、それは兵科兵団の人たちには特に酷でしょう。なのでこの話の実現が為されるまで、いえ或いは為された後も、私はあなたのことを秘密にします。そしてあなたがその必要があると言うのなら、私はあなたを匿い守りましょう」と言った。


 ――怖い女だ! と清十朗は心中に叫んだ。いま彼も触れたように、先ほど納得したかのように見せた聖女だが心の内では城中で起きている事件はクルリンパではなく清十朗がやったものと思っているはずなのだ。現に怪しき敵方の男が城内にいたのだから十中八九そう疑っていると見て間違いない。あの事件は何が起こっているのか知らされたとき、仲間の清十朗ですら心底戦慄し敵城に潜んでいることよりもなお恐怖の念で頭をジン、と打たれたのに彼女はそんなことをしでかしたと思っている人間を前にして逃げもせず手を結ぼうとし、あまつさえ守るとすら言っている。それはその字面のとんでもなさのみならずこの事件の真相を暗中に葬るも同じことであった。たしかにこの聖女様、風姿に似合わず大胆不敵、というよりそれを過ぎて物凄い根性の持ち主だと思われる。しかしそれだけ彼女がこの話を本気に考えているということであろう。


「し、しかしそもそも……戦を止め交友のよく通る仲にするとは具体的にどうなさるおつもりか? それを聞かねば拙者としても決心のしようがない」

 と言った清十朗に聖女は頷いた。


「それを言う前に、ここからはあなたのために私が翻訳の魔法、つまりはお互いに相手の言語を話す魔法を使いましょう。いいですね?」


 清十朗は頷いた。聖女が「これぞ、土王のいじらしさ――バブル」と小さく呪文を唱える。唱え終えた彼女は、


「うっかりとして気付きませんでしたが椅子にかけますか? 必要ない? ……そうですか。では話に戻りましょう。あなたはそもそもこの戦が何を目的として行われたか存じていますか?」

「目的? ……いや、それは知りませぬ。きっかけが砦でのいざこざにあるということは聞いているが、目的まではなぁ。目的とは何です?」

「まず事の始めとして、信じられないかもしれませんが私たちは別の世界からこの世にやってきました。あなたたちの国が戦に踏み切ったのは突如側に現れた私たちを悪いものと思ったからでしょう。ですが私たちは悪意を以ってここへ現れたわけではありません。私たちからしても予想だにせずこの世に現れてしまったのです。そんな私たちはこの世で居場所を求める必要がありました。私たちが戦を始めた目的とはそこなのです。元の世界に帰るわけにもいかず排斥の危険が降るなか自分たちの居場所を確立するため……それこそが私たちが戦を始めた理由。で、あるならば私たちが居場所を確立し、あなたたちの国に私たちがそう悪いものではないと認められたなら戦は止まり仲よくできる可能性は十分にあるというわけです。そこで私たちが取るべき手段は一つ、両国の王をそれらを叶えるための会談の場にお据えします。と言っても口で説得しても双方お動きなされないでしょうからたとえお攫いしたとしても」

「な、なにっ!」

「二人の王を攫い一つの場にお据えするなど大変な難しさと苦労があるでしょう。けれど、私の魔法に加えてここに忍び込んでくるほどのあなたが協力してくれればそれもできます」

「ば、馬鹿! 何を言うかと思えば上様をお攫いするなど……で、できるできぬの前にそんなことをすればおれの首が飛ぶわ!」

「そのときは私があなたを守ります」

「……」

「二人の王はお互いに顔すら知りません。そんな二人が相争うなどおかしいとは思いませんか? 魔族でなく、人間同士なら話し合うことで必ず争いは止められます。それに、両国が仲良くするに納得するであろう根拠は各々の国から見て確かにあるのです」

「……それは?」

「まず私たちソーラコア側から見た根拠。私たちはこれからを生きるための地盤を求めています。通商やお金という意味ではなく、まさに安心して立っていられる大地そのものという意味で。それというのも今のアスファイヤの大地は私という非常に不安定な条件で存在しているのです。救国物召喚に関する説明はしてもよくわからないでしょうから省きますが、とにかく私が死ぬようなことがあればこの大地は元の世界に帰ってしまいます。私たちは元の世界に大敵がいるという理由から帰るわけにはいきません。けれど私の死は必ず訪れることなのです。私にも寿命というものがありますからね。そこでソーラコアの人々は安定した大地に移りたいわけですが、あなたたちの国がある大地に移り住むことは不可能だと陛下に言われてしまいました。ソーラコアの全住民など到底受け入れられるはずがないと。言われてみればそれもそうです。そこで私はそれを解決するための一つの案を思いつきました。それは人々が移住するための大陸をこの私が生み出すことです」

「大陸を……生み出す?」

「そうです。この大陸を生み出すために応用する土を作る魔法は救国物召喚によるものとは違い、一度生み出してしまえば私がどうなろうとも消えることはありません。そうして生み出した大陸に移り住めば居場所を確立するというソーラコア側の戦争理由はなくなります。これでソーラコアの事情は解決するはずなのです」

「ま、待った!」清十朗は手を上げた。「その理屈はひとまずわかったが、大地を生み出すなどという滅茶苦茶なことが本当にできるのか。左様なこと、とても信じられん!」

「何を言います」聖女様は穏やかに笑った。「あなたが今立っているこの大地こそが何もないところから現れたものではありませんか。それを思えば似たようなものです」


 それもそうだ。清十朗は絶句した。言葉を失う彼の前で、「とは言うものの、そのための魔法はまだ修得できていません。さすがに大陸を生み出すための魔法など例がないのでそれを新たに作るのも修得するのも難しいのです」と言った聖女が体の向きを横に変え、後ろの机に置いてあった本を何気なく開いた。清十朗がこの部屋に入って来たとき彼女はこの本を開いていたが、どうやら彼女はこのための勉強をしていたらしい。しかし、いくら勉強しようとも常人なれば大陸を生み出すなどという大幻想的な魔法を修得できるわけがない。例がないということは歴史あるソーラコアでもこれまで使った者は誰もいなかったのであろう。ただこの聖女は「けれど必ずや修得してみせます。魔法はもう出来ているし、修得も近いはずなのです。大陸を生み出すための場所を作る空間魔法も救国物召喚に含まれたものを応用すればよいですからね」と言った。魔法的な技術に関する知識は当然ないが、これでどうやら本当に可能らしいと理解した清十朗は「い、いや、待てよ……」と呟いた。


「大地を作ることができるというのは相わかった。そこにこの国の民が移り住めばよいのも理解できる。ただ、移住したからといって果たして戦は止まるものかな? 何せ戦況が優位なのはそちらだ。人々が移住したあと、さて続けようとならないものかな?」

「そうはならないでしょう。ソーラコアの人々は本来戦をしたくないと思っているはずなのです」本を閉じて向き直った聖女が言った。「先ほど口にしましたが、私たちには元の世界に大敵がいました。ちょうど私に物心がついた頃から、その大敵と私たちは長きにわたって戦い続けてきたのです。その大敵は恐ろしく、侵攻されゆくソーラコアは結果としてその者たちから逃げる形となってこの世にやってきました。これが私たちがこの世界に来た理由です。そのような経緯があるためソーラコアの人々は誰しも戦というものが嫌になっているはずなのです。その上、よく想像ができないかもしれませんが、その大敵とは魔族という人間あらざる者たちでした。その魔族に人間一丸となって戦ってきたソーラコアの人々は同じ人間に特別な親愛を抱いているはずなのです。このことは、希望的な感情もままあることは認めますがとにかく道理からそうだと考えます。ならば居場所さえ確立できるなら多くの人々はこれ以上戦いたくないと思うでしょう。強い権力を持っている私たちの陛下、いわば王も人々の多数意思なら聞かざるを得ません」

「つまり、天下は天下の天下なり、ということか」

「そうですね。それに、人々の意見がなくとも陛下も居場所が確立できるなら戦を止めると仰せになるでしょう。あの方は本来やさしいお方ですから」


 聖女は微笑んだ。それはその人を心から信頼し、会ったことのない他人にすらその者を信用させるような柔らかい笑みであった。事実、その笑みを見た清十朗は妙な納得感が自分に生じるのを感じた。


「では我らの側から見た根拠は何です? 幕府から見てそちらと仲ようしたいと思う理由はありますか?」

「それこそ先ほどあなたが言ってくれたことではありませんか」聖女はまたにっこり笑った。「こちらの世における摩訶不思議、魔法やそれに伴う私たちの文化についてあなたたちは興味があるはずです。それに、私たちの魔法ならあなたたちの国に起こっている問題を解決することもできるかもしれません。なにか今あなたたちを悩ませる問題は起こっていませんか?」

「それは……そういえば近頃、我らの国々では飢饉が起こっておるが……」

「それです! ……と言っては悪いですが、私たちの国では魔法によって食料問題は解決しています。私たちの国では一日三回、食べ物を買えない人のために各地で食事を配給しているほどなのです。和睦すれば食料支援ができると言えばあなたたちの国も仲良くしたいと申し出るでしょう」


 確かに食料問題の解決は他国に頼ってでも解決したい国家における最重要事項だ。一度はなるほど、と頷いた清十朗であったが、ふと彼の脳裏に浮かび上がる光景があった。


「だが、城下を見て回ったとき路傍には乞食らしき者たちがあったが……あれは何なのです? 本当にそんな配給があるのならいるはずの無い者たちではござらぬか?」

「その人たちですか」聖女は苦笑した。「その人たちも食事の配給は受けているはずです。ただ配給があるといっても食事はどうしても似たものが出されますし、色々な美味しいものや着る物、家などは自分の手で稼いだお金で手に入れなければなりません。けれど世間には、食事さえできるなら家やお金がなくても魔法が使えるため心底困ることはない。それなら一切合切何もしたくない。何もしないことが人生とにかく楽だと言って暮らしている人たちもいるようです。おそらくその人たちはこのような考えを持った人たちでしょう」


 気持ちはよくわかるが、何とも駄目な洒脱さをしている者たちであった。しかしなるほど、そのような者たちがいることこそ食料問題が解決しているということを示す証左であろう。


「それは……何とも困った人たちだな……」と言った清十朗にくすくすと聖女は笑った。しばししてその笑いも止む。自然と彼女は「……さて」と真剣な顔になった。

「このあたりで説明はもうよいでしょう。私の話に関してはこれであなたにもわかってもらえたと思います。改めて清十朗、この話を実現するために、どうか私に知恵と力を貸してはくれませんか」


 清十朗は再び額に手を当てて悩んだ。たしかにこれまでの言葉を聞く限り聖女の話は素晴らしいものだ。実現すれば戦によって辛い思いをする人はいなくなり、幕府は新鮮かつ有益な文化を持つ国と交流が持て、飢饉にあえぐ民たちは飢えから解放される。その実現のために家光誘拐という罪深い工程はあるもののそれは話がまとまれば免罪も同じだろうし、そのあまりに難儀な工程も大陸を生み出すという異次元的な策を持ち出してきたほどの聖女なら不可能事ではないと思われた。だがそれでもなお彼を悩ませるのはやはり与えられた命は何においても果たさなければならないという忍者の鉄則が故であった。


 忍者に任務の是非を判断する頭は必要ない。何があろうとも与えられた使命の達成だけに邁進するのが彼らの心得なのだ。それは遠方との連絡がすぐには取れぬこの時代には絶対の心得であった。そのためそれはこのように善案を提示されたときでも変わらない。が、清十朗は聖女の話の素晴らしさに果たしてこの鉄則に従うべきか悩んだ。彼はまさに上司に指定されたやり方より上手い方法があるのに、と歯噛みする社員そのものであった。


 ただ彼の悩みの天秤に乗っているのはその心得だけではなかった。彼が加えて考えているのはこの話を実現したあとの自分たち個人の待遇であった。それというのもこの話、実現させて自分たちにどれほどの得があるのか、という疑念があった。本来の任務を果たせば自分たちには望むがままの褒美が与えられ、その上清十朗がそれよりも欲しいと言った忍者としての皆からの承認、そして自己確立感が得られるだろう。対してこの話を取ればたしかに食料支援などの恩恵は受けられるだろうが、恐らく褒美の件はうやむやのまま格落ち、悪ければ立ち消えの恐れがあり、忍者としての自他からの承認もどこか歯車がズレてしっくりと来ない感じがする。何故なら話を完結させるのはあくまでも二人の王であり、もしくは聖女であろうからその辺り間違いなく対談に入っていけず端に突っ立ったまま蚊帳の外となるだろう清十朗には大成果を上げたという実感、達成感が薄まって感じるのが絵に浮かんで予想できるからである。それはこれまでの山を渡り野に寝、敵国に命がけで忍び込むという旅を思い出せば間尺に合わないようにも思われた。だがそのような理由があっても、人に備わる博愛心に則ってやはり簡単には切り捨てられぬほどの聖女からの話であった。おまけに切り捨てるとはつまりこの話を提案してきた聖女を害するに決めるということなのだ。


 ついに清十朗は頭をかきむしった。任務を果たすか話に乗るか、その天秤はどうしても傾かず。三人の先輩忍者に相談しようにも一体彼らはこのことに何と言うだろう? それを思えば軽々とは相談できないのであった。考えに考える清十朗は無意識のうちに、

「おれは忍者として、忍者として……」

 と軋るように漏らした。


 その声を聞いた聖女がちょっと渋い顔をした。彼女は忍者として、という言葉に、談判しに行ったときテューマー王が口にしていた王としてそうしなければならない、という言葉を思い出したのである。


「……忍者として、王として、そう言いますが、その想いは本当に果たさなければならないものですか? 大勢の人々の命や幸せが失われるとわかっていてもそうしなければならないことですか?」


 小さく呟かれたこの言葉を清十朗は聞いていない。何も耳に入らず、一人頭を抱える彼の悩乱は時ごとに深まっていった。聖女の手を取るのか、はたまた聖女を害するか。どちらにしろ選んでどうなるかは知れぬ二つの道だ。ただ何にせよ、いずれの道を進むのか――それを示す運命の『サイコロ』は彼の両手にそれぞれ握られているのであった。

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