二十四話 冷餅柔膳の死の魔手
王城の敷地内には本城や聖女の塔の他にも馬屋や菜園など様々な施設が設けられていた。この兵舎もその一つである。兵舎の側には稽古場や屋外の訓練広場が付属しており、ソーラコア兵たちは当番に当たると一月この兵舎に泊まる。そしてその数百人によって万が一何かしらの危機が起こったときのために待機するのだ。
朝、地平から顔を出した太陽がこの高地の王城と並んだ位置にあると感じる時間帯、その兵舎から出てきた二人の人物があった。横から受ける朝日を若草のような緑の髪で照り返すオネストとユールズの兄弟であった。
「城へと入るのだからシャキッとしてくれよ」
「……あい」
答えた途端に大あくびをする弟ユールズと朝からすでにシャンと背すじを伸ばし、いかにも謹直真面目の感のある兄オネストはよく掃除された石畳を歩いて城の方へと向かった。彼らの行き方では途中、中庭を通る必要がある。二人は白い色味が目に立つ回廊に入ると、中央に白い噴水が置かれ、色とりどりの花壇が設けられ、黄緑の芝生のよく手入れされている美しい中庭を横切って小さな扉から城に入った。次いで二人はすれ違う人たちと挨拶を交わしながら城を登り、中層にある一室に入った。
魔法のランプに灯りをともせばそこは絢爛たる書斎の一室。つまりは二人の隊長であるリィン・マクベスの執務室であった。室内は壁に全面赤い布が張られて、やたらに派手で絢爛なようだがゴテゴテした感じはない。執務室を与えられている者は各々好きなように私物を持ち込んで部屋を飾ることが常で、ここもそうしてあるが、本棚を奥にして左右の飾り台や机の上に置かれた細工品は全て閑寂とも思われるような光を放つ上品な銀細工であった。そんな精妙に作られた銀細工によって真っ赤な室内も品よく収まった執務室。オネストとユールズが部屋の左右に用意された机へとそれぞれ向きあって着席した。着席した途端にハアーっと深い息を吐いて気だるげに背もたれへと寄りかかるユールズにオネストが呆れたように言った。
「なんだ着いて早々。隊長が登城なさる前に書類を読んで整理をしておかねばならんのだからしっかりしてくれよ」
「それはわかってるけど……いくらなんでも整理する書類が多いよ。昨日からの残りだけど、改めてこれを見たら気疲れするさ」
ユールズの机の上には大量の書類が積み上げられていた。一枚一枚はもちろん薄い紙の書類であったが、それらが積み重なって人の顔ぐらいの高さはある。椅子から立ち上がりそれを半分取ったユールズが、
「戦が始まっているのだからそこは仕方がない」と言って椅子に戻った。
「戦か……」
呟いたユールズは背もたれに頭を垂らし天井を見上げた。眠いようなぼうとした目で天井を見上げ、しばし紙の擦れる音を黙って聞いていたユールズはオネストをチラチラと見下ろし、
「まさか戦が始まるとはなぁ……なあ、前から聞きたかったんだけど、兄さんは、兄さんはこのことどう思ってるんだ?」
とぎこちなく言い出した。書類をめくる手を止めてオネストが目を上げた。
「どうとは?」
「いや、別の世界に来たっていうのも驚いたのに、いつの間にか戦を始めることになったからさ。しかも、相手は魔族じゃなくて人間だ。俺たちって人間を相手に戦ったことなんかないだろう? だからそんな戦をやることをどう考えてるのかな、と思って」
「なんだ? もしかしてお前、陛下が行われたこと、つまりは戦を始められたということに不満を持っているのか?」
粛々としていたオネストの目が心なしかギロリと鋭くなった。慌てて姿勢を正したユールズが、
「そういうわけじゃないけどさ。ほら、兄さんは異文化とか知るのが好きそうだろう? それも別世界の文化だ。せっかくそれを勉強できる機会が来たのにそういうところどう考えてるのかな、と思って」
と言った。
こう言われてなお目を鋭くしたままのオネストが厳粛な声で、
「くれぐれも言っておくが、そういうことは他所では絶対に口にするなよ。兵科兵団の人間が、それももうすぐ出陣しようという部隊の者がそんなことを言っているのを聞かれては咎めを受けるかもしれないからな」
「わかったわかった」
こくこくと頷くユールズに「本当か?」と聞いたオネストの目が元に戻っていった。いや、続けて、「それで、人間との戦が始まることについてどう思っているかだったか……」と呟いた彼の目は次第に何か弟の心情を察し、労わるようなものへと変じた。
「それは文化うんぬんを持ち出されたら俺も惜しいなとは思うよ。けど、陛下のご意向はけっして間違っていないと俺は思う。何しろ救国物召喚で起こったことが予想外過ぎた。今は図太くもやや落ち着きを取り戻しているが、当時は国ごと別の世界に召喚されて、城勤めの人も民もみんな困惑していただろう。そういうときに他の国から強圧をかけられては、これはもう反抗するのは仕方がない。むしろソーラコアを守るためには大人しく話を聞くよりも反抗して正解だったと思う。人間、困惑しているとどうしても相手の言うことによく従ってしまうものだからな。戦を始めることによって人々の意識が固まり、ソーラコアの体勢は強固になったはずだ」
「……つまり、兄さんは戦が始まってよかったと思ってるってこと?」
「まあ。まあ……」
「けどさ兄さん、人間を相手に戦えるか?」
「戦うさ。たとえ魔族でない何者が相手だろうと戦う。それが俺にも、そしてお前にもある意義だろう」
「意義って?」
「人を守ること。……であったが、しかし今は、ソーラコアを守ることだろうな。お前はソーラコアを守るために戦うんだ」
静々と言ったオネストは書類に目を通す作業に戻った。その兄の姿をまつ毛にやや沈痛な影を落として見ていたユールズはふと「そういえば」と言い出した。
「聖女様はこの戦のことをどう考えておいでなんだろう?」
「陛下が反抗を決断なされた後、陛下の執務室にひとり赴く聖女様の姿が見られている。しかもなかなか足早で慌てたご様子であったそうだ。だからもしかしたら、その執務室で何か一悶着あったかもしれない」
「要は、聖女様は戦には反対ってこと?」
「さあ? それは俺にはわからない。ただ、今オッフェンバック断結界が張られていることからわかることがある」
「それは?」
「聖女様の意義も俺たちと同じということだ。だが断結界がある限り、我らは敵の侵攻を決して受けることなく、安全に事を運ぶことができるということは、それに感謝するべきだろうな」
「……」
それから二人は書類の整理にかかった。そして二時間ほど経ったときであろうか、机に数束に分けて書類を並べ、既に自分の分の仕事を終わらせていたオネストが椅子から立ち上がると、「まだ終わらんか?」と聞いた。
「もう終わる」
眉根を寄せて書類を眺めるユールズが答えると、オネストは「では、俺は連絡事項がないか聞いてくるからな」と言って執務室を出て行った。
オネストが出て行った数分後、兄と同じく書類を並べたユールズもまた仕事を終わらせた。終わらせて、いかにも疲れたといった長い背伸びをした彼は息を吐きながらそのまま背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「あーあ、やっと終わった。といっても、まだ朝の仕事が終わっただけなんだけどさぁ。やっぱり、進軍が近づくと部隊の運営事務なんかが増えるよねぇ……」
解放感に任せて独り言をつぶやくユールズは机の上の書類を一枚とるとそれを見上げて「はあ……」と重い溜息を吐いた。
「それにしても、そろそろ俺たちの部隊も進軍か……。ううん、戦場に行ったところで俺は本当に人なんか斬れるのかよ?」
どうやら先ほどの溜息は疲労によるものというより、この悩みから来たものらしい。この悩みに関しては二時間ほど前にそれを察した兄オネストより心得らしきものを説かれたのだが、魔族なら斬ると決めたら怖さ知らずにきっぱり斬る彼もやはり人間を相手にすることになってはそう易々と割り切れる話でもないようだ。当然と言えば当然の話である。
「そのことで他の部隊にちょっと精神的におかしくなった人も一人出たみたいだしなぁ。いやそもそも、向こう側もどうしてまだ戦を続けようとするのかなぁ。勝ち目がないことがわからないのかな? それがわかってくれれば俺も行かなくて済むのになぁ」
オネストがいなくなったことをいいことにぶつぶつと一人でぼやくユールズがしばしして最後にもう一度溜息を吐くと、背もたれから身を起こし手に持った書類を机に戻した。そして彼は天を仰ぐようにまたも椅子の背もたれにもたれかかる。そこでふと「ん?」と気付くことがあった。天井を見上げた彼の眉間にしわが寄る。不審げに向けられた目線の先には穴が開いていた。天井は焦げ茶色の木板で造られているのだが、そこに二十センチ四方の四角形の穴が開いていたのである。
「……」
ユールズは急なことに困惑して言葉もなく、ただじっと目を凝らしてそれを見つめた。不思議なことにその穴は先ほど書類を取る前に見上げたときには確かに開いていなかったのである。ということはつまり、穴はこの一、二分ほどの間に突如出現したことになる。ではこの穴は何だ? いつのまに、どうして開いた?
このことを思い悩乱するユールズは微動だにできず穴の先の暗闇を覗き上げていた。暗闇の中には何がいる気配はない。だいたい、この城はレンガ造りにして高層的な構造の建造物であるのだから天井裏といえるほどの広い空間はない。排水管等の所要あって部屋の合間には空間が設けられてはいるだろうが、それも人が存在することのできない狭さであるはずだ。にも関わらず、人為的としか思えない出来事が起こっている。
そのとき、部屋の灯りに照らされて暗闇の中に一瞬ぼうと何かが浮かび上がった。それは確かにニタリと不気味に笑う青白い色をした細長い男の顔であった!
「あっ!」とユールズが叫ぶ間もなく、穴から手が出てきて彼の口元を鷲掴みにしてしまった。天井から椅子に腰かけたユールズまでは数メートルの距離があるのに、その手はユールズの口元を凄まじい力で掴み黙らせてしまったのである。続いて、その手はユールズの身体を腕一本で持ち上げた。中々の身長があり、たくましいユールズの身体が白い綱に吊り上げられるように浮かび上がる。
この突然起こった異常事態にはさしものユールズが混乱し、滅茶苦茶に手足を振りまわすだけであった。とはいえ、たとい冷静であったとしても口は塞がれているし、剣もいま腰にはないため彼にできることはなかったであろう。振り回される足に椅子が蹴倒される間にもユールズの身体はゆっくりと持ち上がり、やがて天井まで到達すると穴に頭がはまった。そこでユールズの身体には数秒の静止があった。そしてユールズの身体がまたも動き出すと、決して穴より小さくない彼の肩が不気味にぐにゃりと畳まれ、そのままずるりと全身穴に飲み込まれていった。人ひとり飲み込んだ木板の天井に幾度も恐ろしい微動が走った。恐ろしい微動? いや、それよりも世に恐ろしいのはその後の瞬間であったろう。数瞬の後、天井の微動はぴたりと止まった。
執務室に再び閑寂の時が訪れた。それからまた数秒後、音の消えた執務室に再び例の手が現れた。天井から異様な長さで伸び出てきたその手は倒れた椅子を起こすと穴に戻っていった。そして、天井の穴も蓋がなされて塞がれて、執務室は何事もなかったかのようになった。ただ一つ消えたユールズの存在以外には。
オネストが帰って来たのはその二分ほど後であった。
「あれ? ユールズめ、どこに行った? そろそろ隊長をお迎えに上がらねばならんというのに」
消えた弟ユールズに首を捻りながら、オネストは部屋の正面にあるリィン・マクベスの机まで来た。そこで彼は小さなほこりを摘み取ったり、飾られた銀細工の位置を直したりする。隊長を迎える前の最後の気遣いといったところだろう。そんな彼の背後で、天井の穴が魔口の如くスーッと開いた。
ユールズを飲み込んだ魔口が再度牙を剥こうとしている。今度はその兄オネストに向かって。穴の縁に五本の白い指が歯のようにかかった。
すると、その瞬間、何に感付いたかオネストが顔を振り仰いで背後を見上げた。
「……」
彼の目の先にある天井――そこには何の異常もなかった。先ほどまであったはずの穴は消えている。何の異常もない天井を見て、自分が何故このような行動を取ったのかかえって不可解そうに首を捻ったオネストはそのまま身体を反転させると、途中「仕事は終わらせているな」とユールズの机を覗きこんでは部屋を出ていった。
誰もいなくなったはずの執務室――そこに制することのできぬこもったような声がじんわりと広がった。
「……危ういな。こやつと違ってなかなか敏いではないか。奴を狙うのはちと手間がかかるかもしれん。……。だが、奴はおそらくこやつとは兄弟であるに違いない。それならば、やはり狙うは奴にしよう。物事は関連があるからこそ想像を掻き立てるからな。それに、兄弟ならばひとり魔天に送るのはかえって不憫でもある。お前も寂しかろう? なあ?」
昼の喧騒のなくなった静かな夜である。一日の仕事を終え城内を出たオネストは、石畳を歩きながらついに帰って来なかったユールズのことを案じていた。最初いつまで経っても帰って来ないユールズを不思議に思い、周囲の人にその所在を聞き、いくら待っても帰って来ないため次第に憤慨して○○に謝ったりしていた彼であったが、さすがに夜になっても姿を現さないことに不審を覚え心配を始めたのである。常日頃ユールズに対して叱ることは多いが、決して邪険にはしない兄オネストであった。口元を撫でながら歩くオネストはいつの間にか兵舎にたどり着いた。茶の木造りで三階建て、数百人が泊まれるだけに中々大きな兵舎であった。オネストは中に入ると玄関を抜け、右手に扉の並ぶ白木造りの内装をした廊下を歩き始めた。
「帰ってるかな?」
とオネストは呟いた。
実は彼は昼にもここを訪れ、二人が使っている部屋を覗きにきたのだが、そのときユールズの姿はなかったのである。しかし夜になった今ならば帰っているかもしれない。それを確かめんとオネストは歩みを速めた。
彼が足早に歩く白木造りの廊下は薄暗かった。今は夜だし、廊下にはランプもなく明かりといえば窓から射す月光だけだからそれも当然だが、普段よりもいっそう暗く感じられた。それというのも今この兵舎には人がいる様子がないからである。夜といえども戦時中の今はみな忙しく、未だ多くの人が城内や馬屋などに残っている。オネストも最近ではこの時間に仕事を終わらせたことはないが、弟のこともあって○○に早く帰されたのであった。そのため部屋の扉から漏れ出る灯りもなく、白い廊下は薄暗くそして人気がなかった。
そんな廊下を歩いていると不意に、
「ふふふふふ」
という含み笑いのようなものが聞こえてきた。オネストははじめてビクリとすると足を止めた。
今の笑いはちょうどオネストが通りがかった扉の一室から響いたものらしかった。兵舎に人がいる様子はないといったがどうやらいないこともないらしい。見開いた目でじいっと灯りの漏れ出ぬその扉を見ていたオネストはややあってハッと我に返るとそそくさと自室に向かった。今は他のことに構ってはいられない。ともかく一刻も早く確認すべきは弟が自室にいるかどうかだ。そのことに、自室が近づいてくるにつれてオネストはいよいよ不安を大きくし始めていたのであった。よくよく考えて、もし自室に帰ってユールズがいなければこれはもう大変な大事だ。人が黙って消え、誰に聞いてもその姿を見た者はいなかったのだからちょっと異常なのはその通りだが、今が戦時中という状況なだけに人が消えたという事態に対する懸念は深刻というべき様相を呈してくる。もしユールズが消えたまま明日を迎えることになればそのことは隊長を始めとし多くの人間に報告しなければならない。そうなれば戦時中というピリピリした状況ゆえに、これはちょっとした問題となってひと騒ぎとなるだろう。いや、そんな役職上の心配ではなく、ユールズとは兄弟という深いつながりを持っているオネストは今の事態に何かとりかえしのつかない心の半分が喪失してしまったような嫌な感覚、予感を覚えてきているのであった。もし部屋に帰ってユールズがいなければどうしよう?
その感覚を払拭すべくさらに足を速めたオネストは間もなく彼らの自室の近くまでやってきた。そこまで来た彼はあるものを見たのである。廊下の右手に並んだ扉――やや離れたところにあるその内の一枚から灯りが漏れているのを。
「あっ!」
と声を上げたオネストは慌ててそこへ駆け寄った。前にしてみると、それは確かに二人が自室として使用している一室の扉であった。この男らしくもなく口を半開きにしたままそれを眺めていたオネストは目も口も閉じて鼻から深い息を吐いた。
「帰っていたか。……まったく、どんな事情があったのか知らんが、今回ばかりはそうそう許せんな。どこかに行くなら書置きの一つも残しておけと言っておかねば」
呟くオネストは言葉に似げなく微笑を浮かべていた。彼はその調子のままドアノブを掴み、軽快に扉を開く。すると――、
「えっ?」
という虚を突かれたような声を漏らした。
部屋の中には――しかし誰もいなかったのである。
部屋は六畳ほどで物といえば二段ベットや観音開きのクローゼット、あとは小さな机があるだけだから人がいないということは一目見てわかる。たしかに人はいないのに、小さな本が数冊並び無造作にペンの置かれた机の上には二本のろうそくを立てた燭台が置かれ自身をおぼろに浮かび上がらせていた。
先ほど安堵の感を覚えただけにオネストはこの光景には呆然とした。そしてあっけにとられたまま燃えるろうそくの火をぼんやりと見つめていた彼は「燭台があるということは帰ってはいたのか? そしてまたどこかへ行った……」と絞り出すように言い出した。彼はともかく部屋の中へと入り扉を閉めると、机の前の椅子に座った。彼はいま自分で言った推測に従ってユールズが帰ってくるのを待つことにしたのである。彼はろうそくの弱い火だけが辺りを照らす、隅々まで明るいとは言えない部屋の中、時計の音だけを聞きながらその火を見つめてじっと座っていた。
それから二十分ほどが経った。そのうちに腕組みをする彼は尻をもぞもぞと動かし重い溜息を吐いた。座っているうちに待つのがもどかしく、辛くなってきたと見える。彼はふと燭台の乗っている机の端に目をやった。そこには灯りのついていないランプが置かれていた。魔法を使って灯りをともすランプである。そのランプをぼうと眺めていた彼はふいに「……ん? そういえば」と眉をひそめた。そのときである。オネストの背後で、「ぎい」というような木のきしむ音がした。同時にろうそくの火も揺らめいた気がした。背後とはつまり扉の方面であった。帰って来たか! とオネストが振り返る。が、そこには誰もおらず扉も閉まったままであった。今の音はすなわち家鳴りか何かだったのだろうかとオネストは思った。
「はあ」と息を吐き頭をかいたオネストは遂に椅子から立ち上がった。再三の肩透かしによってオネストは辺りを探してみようと思い立ったのである。それに、火のついた燭台は置いてあるのだからユールズはそう遠くにはいないはずなのだ。ただ座っていたはずなのに小さく息を乱すオネストは部屋を出ると玄関に向かうため先ほど進んできた道をまた歩き出した。
歩きながら見る右手の窓の外にはレンガ造りの広い通路が映っている。その通路にユールズの姿を探すがやはりおらず、また誰かがここに帰ってくる姿もなかった。にもかかわらず、部屋を出てしばしのち不意にオネストは足を止めたのである。窓の方を向いていた彼の顔が妙にゆっくりとなめらかに前を向く。前方に伸びるのは左手に扉が並んだ薄暗い廊下だが、並ぶ扉の一枚の下端から何かが小さく飛び出している。オネストはそれを視界の端に捉えたのであった。
「……。あれは……足か?」
薄暗い廊下なのに、飛び出したそれはいやに浮き立って見える。まさに、それはくるぶしまで飛び出した人の白い裸の右足としか思われなかった。そんな不気味なものが扉は完全に閉まっているのに骨のないものの如く飛び出している。当然そんなもの、先だっては存在しなかった。無意識にぐびりと音がするほど大きく唾を飲んだオネストは、よろよろとその右足の下へと寄った。
「これは……ユールズの足」
見下ろして、こう断定できたのは兄弟だからこそか。いやそんなはずはない。いくらなんでも足を見ただけでそんな判定ができるはずがない。しかしこの言葉を自然と漏らした口に、オネストはハッとして手を添えた。その顔には凄まじい恐怖の相が浮かんでいた。
「……」
数秒するとその手はゆっくりと口から離れてドアノブへと伸ばされていった。さしものオネストも手が震えている。ドアノブを掴んだ彼は思い切って腕を引いた。このときオネストには気が回らなかったことだが、足の挟まった扉が開くはずはない。なのに扉はひっかかりもせず開き、右足はいつのまにか部屋の内側へと通り抜けていた。通り抜けた右足――これにはむろん持ち主があるはずだが、その持ち主は開いた扉の側にはいなかった。かといって切り離されていたわけではない。扉から離れた右足は、数メートル先の椅子に座っていた持ち主の下へ床をこすりながら勢いよく戻っていった。
数メートルも伸びていた右足が元の長さに収まったことで、扉側を向いて座っていた持ち主に衝撃が走った。持ち主の身体はややのけ反り、それにより何とこの人物の首が頚椎のないように後ろ向きにダラリと垂れた。と見るや、すぐに反動を起こして首は胸元へとはね返ってくる。後ろ向きに垂れた際少し左向きにずれたためか首の皮が綱のように細くねじれ、顔が正面を見るように向きを変えながら。胸元に首を袋のように垂らすこととなったこの持ち主――上下逆とはなっているが、扉の方を見やるその顔は確かにユールズであった。
扉を開き、灯りのない部屋に踏み入れたオネストは部屋の窓から射す月光に照らされたこのユールズの姿をはっきりと目の当たりにした。彼はついに弟と対面したのである。瞬間、愕然たる面持ちのオネストが大きく口を開いた。弟の酸鼻な姿を目にし、しかも彼からしてみればその姿となったのは自分の行いがきっかけであったのだから脳も精神も一瞬に灼熱し、続いて出る悲鳴はこの世のものならぬ凄まじさになるはずであった。
が、そのとき、扉の脇に置かれていたクローゼットの扉から二本の綱のようなものが飛び出し素早くオネストの顔と手首を掴むと、彼をあっけなく床に引き倒し、そのままクローゼットへと引っ張ってしまった。オネストの頭がクローゼットの半開きの扉に挟み込まれる。いちど肩がつっかえたオネストの身体は、しかしすぐにくびれるとクローゼットの中に引き込まれた。それは続く胸や腰も同じであった。
オネストの全身を飲み込み扉の閉じたクローゼットにガタガタと震えが走る。次第に収まると、中から聞こえてきたのはオネストのものならぬ男の声であった。
「無事、完了。しかし、こやつの心を乱すためとはいえちと手数をかけすぎたなぁ。真に手間のかかるのはこれからだというのに」
このように、魔族すら斬り伏せるほどのユールズとオネストの二人は剣の振るいようもなく抹殺された。しかし意外にも、秘密裏に暗殺されたはずの彼らの死はその翌日、城中にいる全ての者たちに知れ渡ることとなった。翌朝、彼らの遺体が城の西側にある城内への通用口に上から吊るされ晒されているのが発見されたからである。西側とはつまり城の玄関ではなく、また聖女様の塔とも真逆の方向であった。ただ、上から吊るされた遺体とは遺体としても尋常な状態ではなかった。それらは首を切り落とされたため両脇の下にロープを通されて吊るされていた。しかも遺体は首を除き皮をひんめくられたかのように全身の赤い皮下を晒していたのだ。上にはそれぞれの首が乗せられ、血の気の失せた顔とその皮下による紅白の対照は鮮やかなだけに凄まじいおぞましさであった。
並んだ二つの遺体を見上げて、人々が円を作りつつ誰も下ろしてやろうともできずにただ喉をひきつらせるだけであるこの絵図は、まさに温和な情感のある王城に突如現れた地獄相であった。いったい誰が、いつの間にこんなことをやったのか。誰がやったにせよ、この行いをやってのけた手並みや精神に人々は戦慄し頭のジンと痺れる想いがした。そしてその中で、遺体を見上げる人々はその遺体のさらに上空から何者かの笑い声が降ることすら幻聴した。




