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聖地

 どの町にも聖地が存在する。だがそれは祭り上げられた社でも荘厳華麗な寺院でもない。決して観光案内図の類などには取り上げられるべきではないのだ。ゆえに聖地。いわば忘却の掃き溜め、沈黙の堆積、ただそこにひっそりと佇む英知の名残こそが聖地たる所以なのだ。

 この町で言えば、港湾から外海をつなぐ岩礁地帯がそうであった。臨海研究所が建つ崖のちょうど真下、打ちつける波と吹きすさぶ海風によって絶壁は鋭利に船首の様相を呈し、波と岩礁地帯の境目は引き潮によって白日に晒されていた。神秘的である。一日の殆どを波の下で過ごす自然の大回廊はまるで磨き上げられた大理石。岩のくぼみには小魚が身を休め、温められた一枚岩の上を幼いカニが横歩きする。だが、ここを知るものは町でもごく僅かに限られる。そもそも人間の領域ではないのだ。だからこその、聖地。

 さて、歩みを進めてみよう。回廊を形成する岩肌はなまめかしい。確かに岩だがどこか生物的な印象。生温かい生きた岩の感触を足裏に感じながら奥へ奥へと進む。見上げると反り返った崖に目がくらむ。この瞬間に落石が起きないのが不思議だ。行く手はみるみる険しくなる。崖と岩肌と波が互いの領域を奪い合うかのようにせめぎ合い、まるで螺旋を描くように回廊が歪む。すると唐突に道は開ける。古代の集会所、沖縄で言うところの御嶽(ウタキ)と言ったところか。そこに人がいた。

 ただならぬ気配であった。一人ではない。統制の取れた、秘密めいた集団。皆、黒装束を身にまとい、頭部はやはり黒頭巾で覆われている。

 儀式かーー? 集団は岩棚を背にして海の方を向いている。それぞれの角度は微妙に違うが、厳密に計算されているかのような幾何学模様を形成する。岩棚、岩肌、射し込む陽光、穏やかな波、その全てが今この瞬間に狙う定めたかのように調和していた。

 集団の中心には台座があった。何か封建的な雰囲気を匂わせた古代の代物に見えた。その上にはやけに毛羽立った岩のようなものが鎮座していた。貝だった。それは通常存在しないであろう巨大な二枚貝であった。

 突然一人の黒装束が唄った。それは祝詞のようなのっぺりとした唄で、一節を歌い上げたらすぐさま残りの黒装束が復唱した。今度はまた別の黒装束がソロを務め、すぐさま全員が復唱した。言葉は聞き取れない。おそらく言葉ではないのだろう。母音を並べただけの稚拙な即興歌。しかし、今では唄の輪のようなものが空間を満たしつつあった。まるで渦を巻く結界が目に見えるようであった。

 最初に祝詞を上げた黒装束が突然その身を翻し、中央の台座に向かった。巨大な二枚貝、地の法則を無視して天を仰ぐが如くそそり立つ。それは貝。貝の中でも最も進化を嫌うもの。ただ静かに、微動さにせず、己が扉の内側に精髄を貯蔵する。それは結晶。それは宝石。それを人は、牡蠣と呼んだ。

 黒装束は巨大な牡蠣に仰ぐような所作を行い、今度ははっきりとした口調で言った。「一重積んでは父のためーー」

 別の誰かが続けた。「二重積んでは母のためーー」

 それぞれが言い終えると同時に小石を海へと投げ入れた。注意して見なければ見失うような小石だ。それは儀礼というよりは、退屈を隠しきれない子どもの行動によく似ていた。だからこそ異様であった。

 また別の一人が同じ行動をなぞった。「父上こひし 母上こひし ただただ父母の事ばかりーー」

「母の涙は氷となり 其の身を閉ずる嘆きこそ 子故の闇の呵責なりーー」

 今では小石は雨あられのように降り注いでいた。権利取得済みの黒装束たちが次から次へと石つぶてを放り投げる。海面は削られ、白い飛沫が絶えない。

「仏の前に奉る 中より這い出る子ども等は 胞衣を頭に被りつつーー!!」

 不意に動きが止まった。あられのように降り注いでいた小石が止んだのだ。黒装束たちは向きを変え、全員が中央の祭壇へとそれぞれの利き腕を振り被った。

「唯 願わくば地蔵尊 迷いを導き給えかし!」

 野太い声だった。明らかにこれまでの黒装束とは違う。その張りと艶のあるバリトンはこの団の長であることを明確に表していた。

 その声が号令となり再び小石が放たれた。しかし今度は海へではない。あろうことか、中央の祭壇だーー。

「一重積んでは父のため!!」

 長の風格を備えた黒装束が怒号を飛ばす。衆の投げた小石が祭壇の大牡蠣をぱらぱらと打ち鳴らす。

「二重積んでは母のため!!」

 心なしか石が大きくなったかのように見えた。大牡蠣への衝突音が先ほどよりも鈍い。

「父上こひし 母上こひし ただただ父母の事ばかり!!」

 ごちり。重たい音が時を止めた。ごつん。ごつん。ごつん。続けて、目に余る大きさの石が大牡蠣を叩いた。牡蠣の殻は欠け、見る見る形を損なう。

「ひっ!」誰か叫んだ。

 長ではない。その甲高い悲鳴は尋常ではない恐怖の音。そもそもこんなところに来るんじゃなかったという後悔の響きも含まれる。そうーー集団の中で最も海に近い場所で手に余るほどの石を振りかぶったままの姿勢で持った一人の黒装束は恐怖していた。自分の後ろには誰もいない。いるはずがない。ただ、静かな波があるだけなのだ。なのに、一体、誰が自分の肩を叩いた!?

「ああっ!!」

 彼は悲鳴を上げた。もんどりを打った。肩に触れたぞっとする感触(やけに水っぽい感覚)から逃げるように飛び跳ねたのだ。

「あっ……あっ……」

 彼の恐怖は伝播した。誰もが恐怖の対象を見定めようとした。そして皆一様に「あっ…」と声にならない声を漏らした。

 何かがいた。この異様な光景の中では逆に正当な存在感を示す何か。まるでダリの絵画のように強烈な異彩を放つ何か。そう、それは子どもだった。子どもの形をした液体であった。

「ひいっ!」

 誰かが悲鳴を上げた。と、たちまちに前衛の黒装束たちが逃げの姿勢をとった。

「仏の前に奉る!!」

 長の怒号。集団がぴたりと止まった。

「中より這い出る子ども等は!! 胞衣を頭に被りつつ!!」

 そう叫んだ長はありえない腕力で祭壇の大牡蠣を持ち上げた。

「お前が蒔いた種なのだ!!」長は言った。「お前が我々を傷つけた。お前が掟を破った。だから我々もお前たちを傷つける。そうしなくてはいけない。これは公平なことなのだ。我々とお前たちで交わした契約だ。それが共存だ。我々とお前たち、いや、お前との共存の形なのだ。お前もそれを学ばなくてはいけない……」

 水色の子どもは入り江に突っ立ったまま、意味ありげに首を傾げた。

「助け給えと願うなり!! 六趣輪回の苦しみは!!」

 長が再び祝詞を上げ、集団は再び石を投げた。標的は水色の子どもーーではなく長が掲げ持つ大牡蠣。長に石が当たることなどお構いなくそれぞれの黒装束は全力で投げる。恐怖がそうさせるのだ。半狂乱である。だが長は飛来するつぶてを避けようともせず大牡蠣を掲げたまま祝詞を上げる。狙いを外れたつぶてが実際に長の膝や脛を強打するが一向にひるむことはない。

 と、鈍い、力任せに骨をへし折ったかのような音がした。どこぞの力自慢が投げた豪球が大牡蠣の殻を打ち砕いのだ。ぱらぱらとこぼれ落ちる石灰片、そしてどろりとした貝の組成液が長の肩を汚した。

「やめい!!」長が叫んだ。

 集団の息遣い以外、世界は沈黙した。

「私とてこんなことはしたくない」長が言った。「だが、これはお前のせい、が蒔いた種なのだ……」

 長は態度を一変させた。親が我が子を諭すような慈愛を込めた口調だった。そして捧げ持った大牡蠣を祭壇に戻そうとした刹那、弩弓の如き衝撃が場を貫いた。

 一瞬何が起こったのかわからなかった。だが目ざとい一人の黒装束は長がやられたのだと思った。しかしそれは間違いだった。別の感の良い黒装束は「違う!」と叫んだ。彼が指さしていたのは長が両手でかき抱く大牡蠣だった。大牡蠣の中心には穴が穿たれていた。その穴から一筋の水柱が地面と平行に走っていた。辿った先には子どもがいた。水色の子どもの片手に当たる部分がロープのように伸び、大牡蠣の中心を穿っていたのだ。

「何……!?」長が言った。

 次の瞬間、長の両手の間で大牡蠣は崩壊した。厚い殻は粉々に砕け、中の身がどろりと露呈した。長の膝から下は灰色がかった液体でぐしょ濡れになった。

 そこからが地獄だった。

 逃げ出す者もいた。ほとんどがそうだったと言っても過言ではない。だが、逃げおおせる者は一人もいなかった。ある者は腿を撃ち抜かれた。ある者は腱をを断ち切られた。水色の子どもの鞭のような液体触手によって完全に自由を奪われた。だが命までは取られなかった。長は想像した。これではまるで、獲物を弄ぶ幼い猫だ。我々は遊ばれているのか……!?

 水色の子どもが向かって来た。倒れた黒装束たちの間を縫うことなく、まるで倒れる位置まで計算して傷つけたかのように、一本の道が出来ていた。子どもは長のいる祭壇まで一直線に歩いた。いや、今では小走りになっていた。まるで球遊びをせがむ子犬のように無邪気な足取りで駆け寄ってきた。

「化け物め!」長は叫んだ。「お前は……お前は……親を殺したのだぞ!!」

 子どもは足を止めた。いや、目的の位置まですでに達していただけなのかもしれない。子どもの興味は大牡蠣の骸だった。長は気づかぬうちに後ずさりをしていた。自分が逃げたという感覚はなかったが、人間に残されたわずかな野生的本能が、未知の生物との距離を取りたがるのは当然のことだった。

 子どもはその場にしゃがんで観察した。「親」と呼ばれた物体はすこぶる醜かった。自分とは似ても似つかない。それは内臓の寄せ集め。ゲロの詰まったビニール袋を大小合わせて束ねたものにも見えた。こんなものが「親」? かつてはそうだったのかもしれない。自分にもこういう時代があったということも理解できないではない。しかし、今となっては、この汚物と自分を結びつける点もなければ線もない。ただ、これに命があるのだとすれば、自分がすべきことはただ一つ。

 子どもは親を踏み潰した。

 ぐちゃ。剥き身の一番厚い部分が音を立てて破裂した。中からどろりとした灰色の液体が溢れ出した。続けて血のような磯臭さが周囲の空気を押し上げた。子どもは跳ねた。まるでステップを踏むように、ぐっちゃぐっちゃと「親」を踏んだ。

「この化物! お前は……お前という者は……」

 長は見た。どう見ても子どもは楽しんでいた。新しいおもちゃを与えられた幼児が、その遊び方もわからず早々に破壊してしまったかのような光景だった。虫を殺すのに躊躇しない子ども。良心を学ぶ以前の子ども。いや、この水色の子どもに限って無知などという先入観を持つべきではない。だが無垢ではある。無垢ゆえに邪悪。どうだ、その証拠に踏み潰すのに飽きた子どもはおままごとよろしく手頃な石で「親」の成れの果てをすり潰しているではないか!

「どう?」そう言われたような気がした。小首を傾げた子どもが長を見上げる。その目のない顔で、透明な思考で「どう? ぼくすごいでしょ?」と得意になる。これには恐怖を通り越して理不尽な怒りを覚えた。

「お前は……親を殺したのだぞ!!」

 うるさい。子どもはそう感じた。この人間はさっきから同じ文句ばかり繰り返す。おそらく考える力に欠如しているのだ。おもしろくないな。あの子たちとは種類が違う。あの子たち、特に生身の体を持たない少年。あれはどこか自分と似ていておもしろい。もっと知りたい。あの子が好きだ。他の子たちも悪くはない。遊び相手としては十分。しかし、ここにいる大人たちはおもしろくない。嫌いと言ってもいい。おそらく、卑怯なこともしている。「親」を人質に取るだなんて、あの子たちなら絶対にしない。もっともっとまっすぐな遊び方をするはず。だからーー。

「若! 危ない!!」

 別の声。長は、声が聞こえたと同時に何者かに突き飛ばされた。見えていなかったのだ。怒りで我を失っていたせいだ。子どもの、水色の触手が鋭利なガラスの刃となって飛んで来るのが見えていなかったのだ。

「若……」男が言った。「逃げろ……ここはもうだめだ……」

 男は長に覆いかぶさっていた。他の者達同様の黒装束だったが、体がひときわ大きく、身のこなしも含めて屈強であった。そして何よりの特徴は「若」という呼称だった。

 男が頭巾を取った。この男の顔を我々は知っている。菅原警部。『漁連団歳末特別臨時会合』で発砲事件の経緯を説明した刑事だ。そして今やこの集団の『長』であり菅原警部にとっての『若』でもある男の顔も認めることができた。菅原に窮地を救われた時に頭巾はどこかに消えていた。この男は漁連団代表、小林宏海。カホリの父であり、初代臨海研究所所長・小林守俊の息子であった。

 菅原警部は拳銃を構えていた。

「若……潮時だ……ここは任せてもう行け」

 そう言うなり菅原は発砲した。まさか我が町で二度目の発砲事件の張本人になるとは考えてもみなかった。だが、これでいい。揉み消すのは簡単だ。ただし、自分が生きていればの話だが……。

 銃弾は水色の子どもを貫通した。菅原が「逃げろ!!」と叫んだ。他の黒装束、身動きが取れず息も絶え絶えの負傷者たちも「若!!」と連呼した。二度目の発砲音が響いた。子どもの頭が破裂した。やたらめったらに石が飛んだ。負傷者たちも命の限り加勢する覚悟だった。四方八方から飛来する石つぶては子どもの肉体を無残に削り取った。

 だが子どもは止まらなかった。歩くそぶりを一切見せず菅原の目の前まで迫った。なおも子どもは止まらなかった。銃を構える攻撃的な人間に臆することなく、まるでそこには何も存在していないかの如く、菅原の中を通過した。

 もう撃つ気力もなかった。撃っても無駄だとわかっていた。胸の前に構えた拳銃が子どもの中に飲み込まれた時、これが例えバズーカ砲だったとしても無駄なのだと悟った。そして深い深い暗黒の海が自分の思考を通過した瞬間、菅原警部は気絶した。

 逃げろ。小林宏海はそう叫んだ。自分自身にそう叫んだのだ。だが声はどこにも届かず、脚は完全に麻痺していた。事細かく言えば、おそらく五歩だけ逃げることができた。悔やまれるは後ろ向き。これがなおさら恐怖を煽る。せめて真正面から悪魔を睨みつけてやれば、思いもよらぬ底力が湧くかもしれない。この全身の麻痺だって気力で撥ね返してくれる。と考えた瞬間、麻痺が解けた。たまらず小林は踵を返した。まるでダンサーのようなターンだった。ああ、きっと逃げれば良かったのだ。なぜならこれを見ずに死ねたのかもしれない。子どもは既に子どもの形ではなかった。言うなればこれは、無垢で邪悪な津波だった。

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