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S・O・S

「何かあったらすぐに大声で知らせるんだぞ」と言い残し達郎がいなくなってから何分経っただろうか。おそらく5分も経ってはいまい。だが少年たちにはその5分が永遠に思え、はたまた突飛なことに一瞬にも思えた。永遠と一瞬はそう変わらないものだと、少年たち特有の素直さで理解ているところだった。

 と、達郎が戻ってきた。ラベルを剥いだペットボトルと、大きなシリンジをそれぞれの手で握っていた。

「できたんですか? 特効薬……」スグルが言った。

 達郎は「ああ……まあね」としか答えなかった。特効薬という表現についても訂正したい気持ちがあったが、あながち間違ってもいないのかもしれなかった。特効薬……一連の非現実的出来事がある種の病巣であるならば、これ以上にふさわしい言葉はない。

「何も変化はなかったかい?」達郎が聞いた。

「はい。ジンケもほら、離れていましたし」

 なるほど。我が息子は部屋の隅にいる。座って休めばいいのに、銅像のように突っ立ったまま。我が息子ながら、少々不気味だ。

 達郎だって恐ろしかった。だが、この場で唯一の大人であるという当たり前の事実が重くのしかかった。「ええい、ままよ」と胸の中で唱えながらボトルに手を伸ばした。中の液体は静止しているかに見えた。だが、長く見つめると確かに動いていることがわかった。何か特殊な攪拌装置であるかの如く、ごくゆっくりと渦を巻いていたのだ。

 覚悟とは裏腹に作業は難航した。シリンジに装着した針をコルク栓に刺すのだが、これがうまく行かない。途中で針が折れてしまう。コルク栓とはこんなにも硬いものだったのか。考えてみればそうだ。何年も、何十年も、くすぶり続ける液体を中に閉じ込めておかなくてはいけないのだから。

 ここでスグルが助言した。「刺さなければいいのでは?」と。なるほど、その通り、すこぶる賢い子だ。コルク栓に刺すから針が折れてしまう。ならば、ガラスとコルク栓の間に通せば良いのだ。ほんの少し(ごくごく僅か!)栓を緩め、円筒状のガラスに沿うようにして針を入れると、容易に貫通した。そして皆の無言の承諾を得た後、一滴だけ特効薬を垂らした。まずはお試し、一滴だけーー。

 ぴちょん。すぐさま波紋。その音波、鼓膜に届いて静かに増幅ーー。

 渦巻きが止まった。攪拌から解放された液体は、ただ重力に従うのみの存在へと戻った。

「ジンケ」スグルが言った。

 呼ばれてジンケが近づいた。

 ボトルの中の液体は反応なし。呪いの力から解放されたせいなのか、難破船の破片が次々と浮上した。

「やりましたね、おじさん」スグルが言った。

 成分はスグルの証言からヒントを得た。病院で効き目があったとの、スプレー型手指消毒液、ジェル型手指消毒液、そしてスグルが水鉄砲に詰めて使用した市販の消毒液。それらの違いは単純にアルコールの濃度だ。スプレー型とジェル型のアルコール濃度は80%前後であろう。市販の物は消防法における危険物の指定を受けていない物と仮定して55%前後。後者の効き目が薄かったことはこれで説明がつく。そして、スプレーとジェルの違い。スグル少年の聞いた話だとスプレーは即効性、ジェルタイプには貫通力があるようだ。にわかには信じられない話だが、ここにいるガイ少年(あくまで乗っ取られ時)の事例を取って説明してくれた。いわばスプレーは火炎でジェルは溶岩なのだ。ではなぜエタノールが効く? 酒だからか? 敵は、酒が苦手なのか? そのあまりに安易な仮説は、なぜか強い説得力を持って達郎を駆り立てた。相手を微生物と考えるのはよそう。人間と同等な知能を持った生命体。彼らが生まれて初めてアルコールを摂取したらどうだろう? あまりの不快さに悲鳴を上げるだろう。しかし苦痛が治った頃、なぜかまた欲しくなる。時間が経てば回復することも理解する。そうなれば、特効薬は効かなくなる。彼らを喜ばせる物でしかなくなる。あまりに突飛な仮説だが、この子たちを見ろ。彼らはその突飛さだけでここまで来たのだ。そして彼らの直感はこの上なく正しい。今現在、町を、いや世界を救おうとしているのだから。

「それで、その中身、成分は何ですか?」スグルが言った。

「ああ……」達郎は答えようとした。これはカクテルだ。無水エタノールを緑茶で割り、アルコール濃度を80%に調整した。こんなに強い緑茶ハイを人間が飲んだらかなり危険だが、敵はすでに一度飲んでいる。これより薄い酒に効果を期待することはできない。ドリンクメニューは他にもある。飲み慣れないように味を変える必要がある。バー達郎が用意したカクテルはざっと10種。どれもこれも強烈なアルコール度数を誇る。その頂点に位置するのが燃料用アルコール、いわゆるメタノールである。危険物第四類アルコール類・第二種有機溶剤と喚起され、引火性は極めて高く、人体が摂取すると命の保証はできない。まさに毒。アルコールの中のアルコール。カクテル名はスピリッツ・オブ・スピリットだ。頭文字を取ってS・O・Sとでも銘打てばオーセンティックなバー請け合い。ああ、若き日の達郎はバーテンダーになりたかった。思えば妻と出会ったのもバーだった。こんな形で夢が叶うなんて運命とは皮肉なもの。かなり横道にそれたが、S・O・Sが効かなければ軍のミサイルでも持ってくるしかないだろう。

「それは企業秘密だよ」達郎はそう答えた。子どもに酒の話はしたくないし、何よりこれはあくまで達郎の直感。言葉にするとその効果は消えてしまいそうな気もする。

「さあ、次はどうする?」話題を変えるべく達郎は言った。

「僕たちは行くよ」息子が言った。

「行くってどこに?」達郎が言った。「それに僕たちって、おいおい、父さんを置いて行くのか?」

「これは僕たちの戦いなんだ」

「おい、それは違うぞ」達郎は言った。「とても子どもたちだけで手に負える話ではない。この特効薬のことだってある。危険なんだ。劇薬、危険物なんだ。本来なら、警察に通報すべきーー」

「そう」ジンケはさえぎった。「その通り。大人には大人にしかできないことがある。もしもの時のために、警察をどう動かすか父さんは考えておいて」

「な……」達郎、絶句。

「あいつらはさ……」ジンケが言った。「大人がいちゃダメなんだ」

「いや、父さんも行くぞーー」

「子どもには子どものルールがある。子どもが本気で遊ぶ時は大人がいちゃダメなんだ。大人の前では子どもは子どもでしかない。だけど子ども同士なら、戦士になれる。あいつも子どもなんだよ。ウォーターボーイ。水色の子ども。あいつは僕らと遊びたいんだ。本気で、真剣に、全力で遊ぼうって言ってるんだ……」

 この子は誰だ? そう感じている自分に達郎はぞっとした。息子の形をしているが、中身は別物。いや、これは今に始まったことなのか? そもそも奇妙な息子だった。それでも妻に似て心根の優しい息子だった。妻……!? そうか、今の息子からは妻の面影が消えている。それとは別の、子どもならではの残酷さがちらほら垣間見えるのだ。

「わかった」気圧されたかのように達郎は言った。「でも、どこで何をするつもりか、事前にちゃんと教えてくれ。そうでなければ認めることはできない」

「もちろん。それは子どもの義務だからね」

 そう言ってジンケは無線機を差し出した。

「逐一これで連絡するよ」

 達郎は無線機を受け取った。

「……お父さん」と最後にジンケは言った。

 その一言は呼びかけでも問いかけでもなく、ただ、子どもが父親を慕う時の一言だった。絶大の信頼と果てしない愛情がその言葉には満ちていた。

 その瞬間だけ、息子の表情に妻の面影が戻った。こんなに愛おしい息子を一瞬でも別人だと感じてしまった自分を恥じたい。つくづく情けない父親だと責めずにはいられない。

「わかった」熱い眼差しを込めて達郎は頷いた。

「スグルくん、君にこれを託そう」次に達郎はスグルを呼びつけ、バー達郎特性カクテルのレシピを急ピッチで説明した。聡明な子だ。スグルなら理解できるだろう。特に重要なのはメタノール。最終兵器S・O・S。

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