同時進行
物音で目が覚めたが頭は朦朧としていた。一瞬だが完全な記憶喪失に陥り、今自分が慣れ親しんだベッドの中にいるものとばかり思っていた。しかし、互いにまるで子猫のように添い寝する相手を認めた瞬間、記憶が奔流となって溢れた。そう、それは決して良い記憶ではない。いっそこのまま眠り続けてしまいたい。ただひたすら夢であって欲しいと願う自分がいるが、互いに添い寝する相手からはそんな自分を叱咤されているような気がする。互いである。二人の少女は互いにそう感じているのだ。
誰かが来る。梯子を上ってくる物音が迫る。さすがに二人はベッドを出た。寝姿を見られることはエチケットに反する。しかも他人の家だ。埃っぽい屋根裏部屋の空気が肌に触れると嫌が応にも現実が蘇る。迎えが来たのだ。いよいよ、戦いが始まる。
しかし彼女たちの予想とは少し違う顔が梯子の最上部から飛び出した。一瞬ジンケだと思った。だが彼の父親だ。当たり前だがよく似ている。先ほど共にに介護施設を訪問した時には感じなかったが、本当によく似ていた。
「君たちは帰りなさい」達郎は言った。
「ジンケくんたちも同じ考えですが?」カホリは聞いた。
「聞くまでもないな」達郎は答えた。「とにかく女の子は帰らないといけない。あとはおじさんたちでなんとかするから」
「げぇ」ヨリコが毒づいた。「歯の浮きそうなセリフ。それに多分なんとかできないと思う。特におじさんには」
「ちょ……」カホリはたしなめようとしたが言葉が続かない。そう、今自分たちを帰らせることはあまりに横暴だ。もちろん帰りたい気持ちはある。帰りたい気持ちが何より強い。だが、この戦いは今始まったことではない。この戦いは私たちの戦いなのだ。それでも、目の前のおじさん……ジンケによく似た彼の父親は部外者ではないと感じた。彼もまたこの戦いに招かれていた。そうだ、貝託士の因縁は世代を超えて根が深い。
「具体的に何をするの?」ヨリコが聞いた。「今から何をしてどうするの?」
「その……いや……」達郎は言葉を探した。何か説得力のある言葉を。だが驚くほど頭の中が真っ白だった。事態をほとんど掌握していないのだ。かろうじて知っていることは、自分の経験のみ。そうだ、あれを言えばきっと……。「武器が出来たんだよ」
「武器?」カホリは聞いた。
達郎は話した。スグルがナオユキから託されたサンプル。研究所での一幕。そしてメチルアルコール、というあまりにも単純な弱点。
「弱いと思う」ヨリコが言った。「そもそも病院の消毒液がやつらに効くって証明したのはカホリだし、それにおじさんが作ったって言うやつも結局実験段階でしかないんだし、本体に効くかどうかはわからないじゃない。それに、そもそもだけど私たちに帰りなさいってジンケが言ったの? あたしたちのリーダーはジンケ。おじさんじゃなくてジンケなんだから」
「ああ……」ここまで言われては何も言い返すことはできなかった。達郎は観念して外国人がするようなジェスチャーをした。両の手の平を肩の上に開く、万国共通の『降参』。
「ジンケはやる気なんでしょう?」ヨリコは聞いた。「そしておじさんも……」
「そうだ」達郎は答えた。「できれば子どもたちは巻き込みたくない。 だけどこれは君たちが言うように……やっぱり君たちの戦いなのかもしれない。でも、きっとおじさんの戦いでもある。それはわかってくれるよね」
うん、とヨリコ。
「じゃあ、僕は君たちと一緒にいよう」
この一言がカホリの心をつかみ、ヨリコの猜疑心をほんの少し溶かした。大人は……大人の男はやはり必要なのだ。これは本能であった。少女二人が内なる女性を意識した瞬間だったのかもしれない。級友の前では盾にもなろう。だがこの男の側では、きっと女でいてもいい。
「ジンケくんたちはどうしてるんですか?」カホリは聞いた。
即答できなかった。息子からは無線を預かり、『逐一連絡する』とだけ告げられていた。だが、まだ何の連絡もない。自宅に戻ればいるかもしれないと思った。だが女の子の靴が二足あった。すぐにこの二人だとわかった。家に帰そうと思ったのは父兄としての判断だ。何か行動したかった。親として……。息子の所在もわからない親ではあるが、何か正しいことをしたいのだ。
不意に手の甲が冷たくなった。
カホリの絹のような手が、達郎の手の甲に重なった。
その物腰、伏し目がちな表情、すべてがぞっとするほど美しかった。
「おじさん……ジンケくんを信じてあげて」
カホリの瞳に吸い込まれた。この瞳……いや瞳の奥の温もりには見覚えがあった。亡き妻のものだ。いや違う、亡き妻と培った愛の蓄積によく似たものが瞳の奥に存在した。達郎は魅了された。精神のダムは決壊し、カホリの瞳へと流出した。
この瞬間、別なことが起こった。カホリとしては達郎の心を読んだつもりだった。それだけの筈だった。しかし、達郎の体に異変が起こった。
「カホリ!」ヨリコが叫んだ。「何したの!?」
達郎が発作を起こした。てんかんの発作そっくりだ。
それだけではない。達郎の腰の辺りから「ブー」というハム音が出ている。無線だ。カホリとヨリコが持つ無線も同様に唸り声を上げていた。
「おじさん!」カホリは達郎の肩を揺さぶった。今度は心の力を使わない。読心術の力が何か悪い影響を達郎に及ぼしたのか? 怒涛のような懺悔の想いで達郎の肩を揺さぶるが、意に反して彼の発作は激しくなるばかり。まるで電気椅子だ。
「あ!」ヨリコが叫んだ。そして何か思いついたように自身の無線機に呼びかける。「ジンケ? ジンケなんでしょ!?」
ピタリと発作は止まった。口からは泡を吹いている。まるで死んでしまったかのようだった。カホリは涙で曇った視界のまま達郎の体をさすった。自分のせいだ……。
すると達郎の手はカホリの手を握った。さっきの逆だ。あまりのことでカホリは力が抜けた。
むくりと起き上がった男は既に達郎ではなかった。表情はない。だがこの無表情、見覚えがあった。
「君のせいではないよ、カホリ」
何者でもない男は抑揚のない声でそう言った。
× × ×
一行は車の中にいた。山道。運転するのは無免許のハッセ。助手席にはスグル。後部座席にはガイ。そしてジンケ。ジンケはどうやら眠っている。悪路に突き上げられる車体もなんのそので死んだように眠っている。
「こんな道あるなんて知らなかったよ」スグルは言った。
「これな」ハッセが答えた。「国の許可なく開発したんだってよ。山の上にパークゴルフ場作ろうとして。だけどこの山は誰のものでもない。勝手に道路作ったらダメなんだってよ。これは道路と呼べるモンでもねえけどな。まあほとんど獣道ってなもんさ」
ハッセのハンドル捌きは巧みだ。かろうじて土砂が露出しているだけの急勾配を右へ左へ軽やかに走らせる。ハンドルだけではない。クラッチとアクセルの流れるような動作も見事。まるでタイヤそれぞれが四速歩行の動物であるかのように闊歩した。運転免許のないスグルでも、並の大人よりも格段に上手いと感じた。
「そういえばさ」スグルは言った。「誰に運転ならったのさ? まさか、お袋さんじゃないよな?」
「タカシ」ハッセが答えた。
「え?」スグルは聞き返した。
「だからタカシ。俺の教官はタカシよ」
「タカシ? あのタカシが?」
「だからそうだって。車の運転はタカシに習った。母ちゃんに教わるよりもタカシがうまいかんな。あいつプロだぜ」
「タカシが……運転……!?」
「俺らの中で本物の天才は誰かってなったらそれはタカシよ。あいつはマジだ。運転に関しちゃマジでやべえよ。ニュータイプだもん。マジで」
「ニュータイプ?」とスグル。聞いたことがない。
「聞いたことねえか?」ハッセが言う。「ああん……要はなんでも運転できるってことよ。フォークでもトラクターでもタイヤショベルでも、運転席に座ればわかっちゃうのよ。タカシが言うにはな」
スグルは言葉を失った。
「マジですげえから」ハッセは言って。ブレーキを踏んだ。
一行は山中の秘密基地に到着した。
× × ×
暗黒。ぼうっと灯る火種。それはまるで宇宙の果ての忘れられた恒星。
「どこまで続くのかね、この道は……」タカシの声。
タバコを松明の代わりに利用するためには随時息を送り込んで火種を燃え上がらせなければいけなかった。要はふかし続けなければいけない。いくら肺に入れないとは言え、大量の煙で舌先がピリピリと焼けた。二人はもううんざりだった。
残るタバコの本数は十本。そろそろ、地上で言うところの貨幣というものを燃やさなくてはいけないな、そうタカシは考えていた。
「気をつけろ。右にカーブするぞ」ナオユキは言った。
「また右?」タカシは聞いた。
「ああ。右だ……」
ナオユキはあえて追求しなかったが、暗黒の回廊は突き当たると必ず右に折れた。理論的に何かおかしいと思える。気づいてから慌てて歩数を数えはしたが、この暗黒だ、感覚がおかしくなりすぐに挫折。しかしだ、ずっと右に曲がり続けるのは常識的におかしい。それなのにナオユキは追求するのをやめた。ここは常識でものを考える場所ではないと直感的に悟っていたのかもしれない。それ以前に、考えても仕方がないではないか。二人は進み続けるしかないのだから。
「ねえ、ナオ」タカシが言った。「そろそろだと思うんだ。とりあえず、ゴールは」
ナオユキにはタカシの言葉の意味がわからなかった。この状況だ。友人が重度の錯乱状態にあることは疑いの余地がない。もしくはまた高熱がぶり返したのかもしれない。しかし燃え尽きそうなタバコに再び息を強く吹く込んだ時、その意味がわかった。暗黒の回廊はついに観念したのだ。今度の突き当たりは右にも左にも折れていなかった。行き先は上。自然物なのか人工物なのか一見判別のつかない石段が二人を待ち受けていた。上り階段。とにかく感じたことは、上で良かった。これがもし下りであったなら……想像したくはない。
「オレさ、距離を測ってたんだ。最初がさ、88m。次が80m。その次が72m。ほら8mずつ減ってんのさ。だからぐるぐる中心に向かって時計回りに進んでたんだよね。オレが思ったのは、中心に着いたら今度は反時計回りに来た道と平行して別の通路を同じくらい進むってパターン。よく迷路なんかであるだろ? この通路の幅が1mないくらいだからそれくらいの余裕あるんだ。ほら、8mずつ減っているから十分別の通路あるって意味ね。で、もしそうだったらヤバいなって思ったんだけど、だってそうじゃん? だとしたらもう……火もたないもの」
測る? 一体どうやって? タカシの口調には自信があった。まるでレーザー距離計でも使って測ったかのような言いぐさ。しかしそんなものはないし、あったとしても無理だ。光のない場所ではレーザー距離計は使い物にならない。ではどうやって? いや、タカシならばあり得るのかもしれない。これはナオユキ、ハッセ、タカシの間だけの秘密であったが、三人は時々無免許で車を乗り回していた。タカシが言い出したことだ。なぜかタカシは運転ができた。得意だと言っていた。ナオユキもハッセもタカシに運転を教わった。ナオユキは苦手だった。物を動かすというのが何故か煩わしいと感じた。ハッセはまあまあ筋が良かった。それでもタカシに比べると大人と子ども、いやプロとアマだった。タカシはどんな乗り物でも運転できた。だからきっと、脳の使い方が違うのだ。何か特別な領域を持っているのかもしれない。そうナオユキは己を納得させた。
「上は広いよ」
タカシはそう言って石段を上り始めた。まだ何も見えていないのに「広いよ」と断言した。
今はタカシの言葉が真実だった。宇宙の果ての灯火だった。見失わないように、後を追った。




