少年vs液体(1)
外に出るとハッセが言った。
「ちょっと俺ん家に寄れ」
以前、顔色が悪く、重度のジャンキー状態のハッセが言ったのだ。
「なんでだよ、時間がないんだ、俺たちジンケの親父さんに会いに研究所へ行くんだぞ」スグルがそう反論した。
「だから俺ん家に寄れ。その方が早い」
ハッセはそう言い、重たそうな体を引きずりながら、研究所とは逆の方向へ歩き始めた。驚いたことにジンケが隣に並んで肩を貸した。残されたスグルはガイを一瞥した。ガイは上目遣いでスグルを見ていた。『如何様にも……』、という召使根性がその目の中に宿っていた。仕方がない。スグルは従者を伴って二人の後を追った。
ハッセの家は、ほんの数刻前に死闘を繰り広げたあの公団住宅だ。門に辿り着いた途端にスグルの背筋は凍りついた。どうしたって入りたくない。だがハッセは躊躇せずに門をくぐった。直後、
「乗れ」
と言った。
そこは駐車場だった。門を抜けてすぐの場所にある駐車スペース。一台の自動車がテールランプを点滅させた。
「乗れ」もう一度ハッセが言った。
ハッセがエンジンをかけた。
助手席にはジンケ、後部座席にはスグルとガイ。いまだ誰も口を開かなかった。
「運転できるのか?」たまらずスグル言った。本意ではなかったが、この状況、当たり前の質問をするのは自分の役目だと悟ったのだ。
「ああ、問題ない」ハッセが答えた。
大きな車だった。車の知識は乏しいが、これはおそらくピックアップトラックとか言うものだろう。車内は十分な広さ。五人は乗車できる。そして荷台がある。単純にかっこいい。運転するハッセはさらにかっこいい。トラックは動いた。太くて大きなタイヤが尻の下で上下した。
「どうやって覚えたのさ?」スグルが尋ねた。
ハッセが首を回した。ぎょっとしたがその口元には笑みが浮かんでいる。よくぞ聞いてくれた、とっておきの答えがあるという様子でなかなか答えない。その間、全く前を見ない。車は動いたまま。途端に怖くなり、内心「早く答えろ」とスグルは思った。
「教わったに決まってるべ」ハッセは口を開いた。「教官がいるのさ、へへ……教官がな」
ようやくハッセは正しい運転姿勢に戻ると激しくハンドルを切った。公団住宅の敷地から道路に出たのだ。嵐のような遠心力。ここだけ重力が半転したかのよう。たちまち隣のガイが横滑り、スグルに密着した。うわあ、変な匂いがする。汗臭さと磯臭さが混ざった匂い。
「ごめ……」ガイは言った。
こいつ、こんなにすぐ謝るやつだったっけ? スグルは思った。すると匂いについては急に申し訳なく感じた。あんなことがあったからこんな匂いがするのだ。彼は被害者だ。一番被害を被ったと言っても良いくらいなのだ。ガイ……彼はもうちょっと気遣ってーー。
ぐん! 今度は真正面から吹きつけるG(重力)。ハッセがアクセルを目一杯踏んだのだ。
「ひょう!」ハッセが声高に叫んだ。
ピックアップトラックはゴウゴウと風を切りながら直進した。
ガラス板には様々な微生物が映し出されていた。単細胞生物は美しい。まるで生きたペイズリー模様。その透き通った臓器に至るまで遺伝子に直接訴えかけるような根源的な美がそこにある。顕微鏡を覗くスグルはほとんど無意識、超自我の領域ではたと感じる。これは永遠の世界だと。
研究所に到着した当初、まず親子の対面に気まずい思いをしそうになった。ジンケの父であり研究所の職員である達郎は驚愕とも怒りとも取れる爆発的な態度を息子に向けたが、それは一瞬で終わった。よくテレビドラマで見るような「どうして!?」「何が!?」といった大人の一方的なパニックを予想したのだ。しかし達郎はそうはならなかった。ただ静かにスグルたちを研究室に案内し、「ちょっと失礼するよ」とだけ言い、息子と別室に消えたのだ。耳をそばだててはみたが怒号が行き交う気配はない。研究所内はいたって静かで、かすかに波の音が聞こえるだけだ。
「お待たせしたね」達郎の声がした。
ジンケもいる。なにやらお盆にティーカップを乗せている。カップからは湯気が立ち、心安らぐような香気を運ぶ。
「君たちにはまだ早いかもしれないけど、これはそんなに強いものではないから」
そう言って達郎はスグルたちの前にカップを置いた。コーヒーだった。液体の黒い表面が静かに波打ち、光の反射と熱い湯気が折り重なり、モノクロの万華鏡のようだった。
皆、席に着いた。オフィスというより作業台だった。
「いただきます」スグルはコーヒーに口をつけた。濃かった。今まで飲んだコーヒーの中で一番の濃さだった。しかしほのかに甘く、何と言うか、素直で効きそうな濃さだ。コーヒーのことはよく分からないが正直うまいと感じた。
ハッセもガイも飲んでいた。二人とも同じように、いやそれ以上に感じているようだ。ずるずると音を立て、貪るように啜った。
「見てみたかい?」達郎が言った。
「はい」スグルは答えた。
「どう思った?」
「前にも授業で見たのとほとんど変わらないと思います。これ、特定のプランクトンが多いとか少ないとかはないのでしょうか?」科学はスグルの得意分野だ。
「そのような兆候はないね。試しにもう一度撹拌して、何度かサンプルを取り直してみるといい」
小さなビーカーに液体の一部が入っている。言われるままにガラス棒で撹拌し、スポイトで採取、新しいガラス板にサンプルを乗せ、顕微鏡で覗く。こうして作業すると液体はただのサンプルだ。ただの海水。それ以上でもそれ以下でもない。しかし……。
「何も起きませんでしたか?」スグルは言った。
スグルから達郎にガラス瓶を手渡した時、二人は恐怖を共有した。瓶の中身が動いたように感じたのだ。それは波紋のように二人の脳まで届いた。これは確かなシンパシー。
「うん、起きなかった……」
達郎とて恐ろしかった。瓶の中身が動いたように感じたのは確かだし、スグルと交わしたシンパシーを疑ってもいない。だが、曲がりなりにも科学者である。恐怖より理性を尊重する術は習得済みなのだ。
瓶の中身はまず二つに分けられた。今ここにある液体はビーカーに取り分けたもの。もう半分は試験管に分け、海水成分の分析装置用として別室で保存しある。一本はすでに解析済み。今月の調査結果と同様、亜鉛がやや強いというだけで特に異常はなし。
「ジンケも見てみなよ」スグルが言った。
スグルは席を空けようと腰を上げた。その流れで一瞬だがスグルの頭部と作業台の距離が縮む。ちょうど液体の入ったビーカーが顔に近づいた。
ジンケが隣に来た。
どくん。液体が動いた。スグルの顔の直近でビーカーの中身がぐるんと動いた。
すぐさまスグルは達郎を見た。
達郎はーー恐怖した。スグルと同じものを見、おなじ圧力を感じた。
しかしジンケだけが整然と作業をこなそうとした。まるで従順な助手。よろめくスグルを押しやり、中腰のまま顕微鏡を覗いた。覗いた。覗いた。
「笑っている」ジンケは言った。
笑っている……!? 何を言っているのだ? 顕微鏡を覗いて笑っているなどと、そんな隠喩めいた表現など不適切。ここは科学。美術でも文学でもない!
スグルはすぐさま顕微鏡に飛びついた。恐怖はどこかへ行っていた。椅子を後ろに倒したこともジンケを突き飛ばしたことも意識にはなかった。ただ彼の脳を支配したのは「笑っている」という言葉のみ。
プランクトンが……笑っている。海藻型も動物型も、声を合わせて笑っている。その配置、その振動、その根拠のない笑顔。先ほど覗いたペイズリー模様とは毛色の違う美しさ。これはダリ……これはピカソ……この世には存在しない類の美だ!
「あぶない!」達郎が叫んだ。
その鬼気迫る声に我に返ったスグルは顔を上げた。ミクロの世界から帰還したが、目にしたものは同じだった。ダリでありピカソであり、タロウオカモトだ!
まずビーカー。そして熱いままの水飴を一気に持ち上げたかのような液体。それは場にいる誰よりも高い位置から見下ろし、静かな脈動を湛える。
「……スグルくん」達郎の声がした。
今度は冷静だ。静かだが、その刺すような声色から、「落ち着いてその場を離れろ」という指示を汲み取れる。
だがなぜスグルにだけ言うのか? なぜ自分の息子を案じないのか? その答えはすぐにわかった。かのジンケは逆向きだった。皆と逆のベクトルで動いていた。そこには恐怖も驚きもなかった。獲物を狩るハンターのように、そびえ立つ液体を見つめていた。ここは彼の猟場なのであった。
スグルは音を立てず、忍びのように達郎の元へ移動した。
ジンケと液体は睨み合っていた。液体の形状はつらら。そびえ立つ先端が鋭利な槍のようでもあり、カタツムリの触覚のようでもあった。
ようやくわかったことがある。液体はジンケに反応したのだ。ジンケが近づいたから姿を現した。現代科学をもあざ笑う巧みなカモフラージュを解き、海面へと浮上したのだ。これには達郎も脱帽だ。しかし「やはり……」という気持ちもあった。漠然と抱いていた海水への疑念はある意味正しかったのだ。
「みんな下がっていて」ジンケが言った。「閉じ込めてやる」
その言葉を合図に液体が動いた。挑発に乗った、ということか? 天井まで届きそうな位置にあったつららの先端は、一直線にジンケ目がけて突出した。
すかさずジンケはガードした。
しかしガードで防げるのか? ウォータージェットという技術がある。水を最高気圧の状態で小径のノズルより噴射することによって信じられないほどの切れ味を生む。確かダイヤモンドまでも切れるのではなかったか? スグルの知識の片隅がそう告げたが、この液体がそこまでのことをやってのけるとは考えたくもない。だが、もしそうだとしたら、とても生身の肉体で防げるものではない。どうする、ジンケ……!?




