闇
真っ暗な場所にいた。じめじめとした空気が肌にまとわりつく。そして腐敗臭とも磯臭さともつかない異臭。きっとここは墓場だ。しかも地中深く、古代の集団土葬のために掘られた穴。周りはきっと骨だらけ。それでもここが何らかの空間ーーこの地球上に存在する空気を伴ったどこかであると信じたい。当の本人たち、ナオユキとスグルの胸中をよぎる最悪の想像、それは自分たちがすでに死んでいるのではないか……? ということだった。
「なあ、ナオ」タカシが言った。「俺たちどうしちまったのさ?」
「わからん」ナオユキは答えた。
「さっきの無線で助けを呼ぼうよ」とタカシ。
「無駄だ。ほら、バッテリーが切れてる」
「何がさ?」
「ほら、スイッチ入れても光らないだろ? 電源ランプ」
「何も見えないよ」タカシは言う。「電源ランプどころか、真っ暗で何も見えない」
「そうか……」
「ねえナオ、そこにいるんだよね」タカシが言った。「……触るよ」
タカシの吐息と衣擦れの音が近づき、闇を手探りでかき回す気配が伝わる。そして左の上腕に何かが触れた。びくっ、と仰け反るナオユキ。
「へへ、びびってやんの」タカシが言った。
「ほざくな、条件反射だ」ナオユキが言い返す。
「どこも怪我ない?」タカシはナオユキの全身をくまなく触る。
「ああ、ちゃんと感覚はある。どうやら無事のようだな」ナオユキが答える。
「顔、触るよ」タカシが言う。
小さな手、女のように華奢な指がナオユキの輪郭を伝った。妙な気持ち。悪友にこんなふうに顔を触られるなんて、考えたこともない。
「ナオユキだ。これは紛れもないナオユキの顔だ」タカシが言う。「じゃ、今度は俺の番ね」
まるで楽しんでいるかのようにタカシは先を促し、闇の中で待ちに入った。
「じゃあ……触るぞ」
ナオユキが手を伸ばした。
「お前、熱がないじゃないか」
一通りタカシの体を検分し、いよいよ顔の輪郭を確かめた時のことだった。熱がない……。あんなに熱かったタカシの額が、まるで氷のように冷たくなっていた。嫌な想像が頭をよぎる。そんなわけはない。ナオユキは一度自分の額に手を当ててから、再度タカシの額に手のひらを重ねた。……安堵。体温が全くないわけではない。タカシを家から連れ出した時の高熱に比べればかなり引いているのだけで、自分の額とさほど変わらない温度である。ああ、だいじょうぶ、タカシはちゃんと生きている。
「熱が引いているぞ。具合はどうだ?」ナオユキは聞く。
「あ……」タカシが言う。「そういえばすげえ調子いいかも」
突然タカシが立ち上がった。依然闇の中、目視できたわけではないが、タカシの額がナオユキの手を離れ、ぐんと上がったのだ。
「むやみに動くな! ここがどういう場所かわからないんだぞ、天井だってーー」
「ヤッホー!」タカシが叫んだ。「ヤーーーッ、ホーーーッ!!!」
声が反響した。「ヤ」と「ホ」がまるで追いかけっこでもするかのようにこだました。
その音響的反応に、言葉を交わさずともここがかなり広い空間であることが二人にはわかった。
二人は同時に吹き出した。しばらく互いの体を手のひらで叩き合い、こみ上げる笑いに身を任せた。反響する笑い声が二人を愉快に包み込んだ。
「さあどうする?」ナオユキが口を開いた。
「とりあえず一服する?」タカシが答えた。
次の瞬間、目の前が真っ白になった。一瞬の閃光。痛いくらいの眩しさ。そしてやけに懐かしいガスの匂い。
瞬間、タカシの顔が見えた気がする。ライターの炎は一度では着火しなかったのだ。それにしてもなんて用意周到な奴。これだからタカシは侮れない。しかし、抜け目がないとは言い切れない。もしここが本当に地下空間なら? もしここが遥か地中の採掘場だったら? 思いつきで火を焚くなど危険きわまる行為だ。引火性のガスが充満している可能性だって考えなくてはいけない。だが咎めるのはやめた。タカシの直感、それを信じても良い。いや今は信じるべき時なのだとナオユキなりに直感した。
シュボッ……。ライターが着火した。目は先ほどよりも闇に慣れたようだ。その奥に陽炎のように揺れるタカシの顔。手前にはボックスケースから飛び出した2本のタバコ。決して好きにはなれないタバコだが、なぜか今に限っては切ないほど欲していた。
2本のタバコが炎を吸い込む。紫煙が光を拡散させ、広がる闇をぼんやりと浮かび上がらせる。
息を飲んだ。二人は向かい合っていたが、互いの顔は見ていなかった。その背後に浮かび上がった、闇と煙が織りなすモザイク画に意識を総動員した。
「見たか……?」ナオユキが問う。
「ああ……見た……」タカシが答える。
「同じものを見たとは……限らないよな」ナオユキ。
「じゃあ、今度はこっち……」
タカシはライターを右側に向けた。ナオユキにとっては左側。先ほどは紫煙が拡散レンズの役割を果たしたが、もう一度タバコをふかす気には二人ともなれなかった。煙越しでは結局見えない。はっきりとこの目で確認する必要があった。だから、何か燃やすものはないかとポケットを探った。ハンカチと財布があったが、少し考えて二枚重ね装着していたマスクを一つ外した。どうせ熱は引いているのだからマスクは必要ない。タカシは躊躇なくマスクに火を移し眼前の暗闇に放り投げた。
ぼわっ……。明かりが広がった。そこに浮かび上がったのは部屋。すなわち何者かが意図的に飾りつけた空間であった。人の手が入った道具が雑然と、いや奇妙なルールにのっとって陳列されていた。だが、強烈な違和感。その用途と配置に整合性が見られない。
タカシはもう一枚のマスクを炎と共に放り投げた。
石壁にはゴム長靴が妙な角度で打ち付けられ、漁業用の投網が床を這い、天井からはモビールの如く吊り下げられた釣り糸にコンビニの袋や菓子パンの袋、様々なビニール袋がぶら下がっている。その他にもあらゆる漁業の道具、錆びてねじ曲がって原型のない自転車、木箱、発泡スチロールの塊、不揃いの靴やグローブ、レンズの抜けたメガネ、などなど数え切れない廃品が展示(?)されている。
「ねえ、なんかこういうの見たことある……」タカシが言った。「全然違うよ。違うんだけど、なんて言うか……知ってるような気がする」
ナオユキにはわかっていた。こんなことをするのはガキだ。さもなくばカラス。拾い集めたゴミに執着し、盲目的な価値をつける。ガキもカラスも世界を知らない。未知を集めるのに必死だ。そして未知を塗り替える。我がものとする。未知を既知へと上書きする。未知……既知……既知……。
「キチだ」ナオユキは言った。
「そう! 基地だよ!」タカシが言った。「ガキの頃さ、俺らもこういうの作ったじゃん」
床に放ったマスクが燃え尽き、再び闇が二人を包む。だが、タバコの火種は保ったまま、わずかな明かりが視界をつなぐ。
「とりあえず行ってみるか」ナオユキが動き出す。
「ちょい待ち」タカシが言う。「一応説明しとくけど、タバコの残りは12本。かなりライターの節約になるよ。これ種火として使えばいいもんね。だから吸ったりふかすのは禁止。まあ、俺たち元々ふかしタバコなわけだけど。そんで、タバコの火だけでは弱いじゃん。だから大事なところでは何か燃やすわけだけど俺結構あるよ。燃やすもの」
いい終えると同時にタカシは財布から紙幣を取り出す。千円札が8枚と五千円札が1枚。
「もちろんこれは最後の最後ね」とタカシが指先でひらひらさせる五千円札。
ナオユキは心底、この貧弱な悪友を頼もしいと思った。ここにいるのがタカシで良かった。タカシには度胸がある。そして何よりユーモアが秀でている。度胸は訓練できても、ユーモアだけは天性のものだ。今、励まされているのはナオユキの方、それは揺るぎない事実であった。
二人は闇の美術館を探訪した。だがその前衛的すぎるモダンアートを理解する感性など持ち合わせていなかった。そのために紙幣を燃やして明かりをとるのもばかばかしい。だから脇目も振らず前進した。やがて突き当たりに達した。そこには扉があった。しかしその文字からイメージできるような扉ではなかった。察するに、打ち捨てられた船の残骸から引っぺがした戸板状のものが通路の突き当たりを塞いでいた。ナオユキが戸板を除けにかかった。両手で持つとやけに重たく感じた。腐った泥が詰まっていそうな感触だった。持ち上げるのが困難なわけではないが、なにか死体でも担いでいるかのような背徳感がつきまとった。
空気が変わった。タカシが千円札をくしゃりと潰し、火種を移して放り投げた。慣れたものである。千円札は転がりながら、大広間を浮かび上がらせた。そう、大広間であった。今までの洞窟状の通路ではない。高さも広さも比ではないようだ。おそらく、ここがメーン。その用途など皆目見当がつかないが、メーンルームであることは違いない。調べる必要がある。ここがどこで、どうやって脱出するのかを。残る紙幣は千円札が3枚、五千円札が1枚。あと燃やせるものと言えばタカシのハンカチと互いの衣服のみ。種火用のタバコは残10本。それと肝心要のライターが1。これだけで闇を攻略しなくてはいけない。炎の消費を最小限に抑え、脱出経路を見つけるべし。まるでゲーム。リセットの効かない命がけのゲーム。だが希望がないわけではない。ナオユキにはタカシが、タカシにはナオユキがいる。一人じゃないんだ。きっとうまくいく。闇はあくまで二人の外。互いの胸のうちには希望の光が満ち満ちていた。




