守り手
少年は消えかかっていた。少なくとも少年自身にはそう感じられた。そもそも肉体とは縁が切れていたが、それでもヤスリで削られ、万力で潰され、ローラーで薄く引き伸ばされているかのような心境だった。
途中まではナオユキと一緒だった。そう、確かに一緒に運ばれた。やつに吸収され、胸糞の悪い液体の中を強制連行されたのだ。だが途中で弾かれた。消化器官だとでも言うのだろうか。霊体である少年は第一の腸を通過できなかったのだ。そう考えるとおぞましい。タカシもいたのだ。ナオユキとタカシは一体どれだけの腸をくぐり抜けたのだろう。彼らは生身だ。あのどす黒く、胸糞の悪い液体の中を生身で通過したのだ。追わなければ、いや、それ以前にもっと踏ん張るべきだった。取り込まれる瞬間、逆に取り込んでやろうかとも考えたのだ。もっともっと集中すべきだった。だが本音を吐けば、一切取り入る隙がなかった。無知で無謀な試みだとすぐに悟った。それに……おそらくだが、霊体である少年は海水と相性が悪かった。集中力も霊的なパワーもあの胸糞の悪い液体の中では半減したのだ。きっとそういうことなのかもしれない。昔から塩で邪を祓うということは、きっとそういうことなのだ。少年は、薄れ行く意識の中で、ぼんやりと思った。
もう、自分がどこにいるのかもわからない。空気中であるのか、水の中なのかすらわからない。そうか……ここは宇宙の果てなのかもしれない。
ああ、ナオユキもタカシも、そうだハッセもやられた。負け戦さ。あまりにも無謀な挑戦だったのだ。彼らは死ぬ。子どものままで死んでしまう。こんなにも若くして殺されるのだ。そればかりか、悪魔として再び生きることになる! こんなに残酷なことって……。せめて人間のまま死なせてやりたい。僕にもっと力があれば……。今の十倍、いや百倍の力があれば……。そうでなくちゃ役立たずだ。話にならない。この戦いにはお呼びじゃない。
このまま死ぬのだろう。いや、既に死んでいるのかもしれない。死ぬってことは、ずっと永遠に、この消えかかった存在のまま、どことも知れぬ不確かな世界を彷徨い続けることなのか? いやだ……。そんなのあんまりだ。せめて誰か、友が欲しい……。
身を守る鎧もない。潮の流れに逆らう重さもない。貝殻を失った貝はこんな気持ちなのかもしれない。僕はむき出しのまま、漂い続ける……。
〈あき……めないで……〉
声? ああ、いよいよ正気じゃなくなった。狂気の海へ真っ逆さま。これならこれで良い。もっと聞かせて、優しい声。
〈わたしはここ……ここにいる〉
やはり声は聞こえた。声は光っていた。断じて狂気ではない。少年の霊性がそう感じた。声の元をたどった。すると彼の消えつつある霊体が輪郭を取り戻した。彼の周囲を淡い光が舞っていたのだ。そう、まるで世話好きのホタルであるが如く、少年を気遣い、舞っていた!
〈消えない……あなたの体は不滅なの……だから、そう念じさえすれば、あなたは何度でも復活する〉
「君は……」少年は語りかけた。「そうか……」そして不意に理解した。「君か……君なんだね。やっと、やっと会えたんだね……君が、僕らのあの人なんだね!」
〈そう!〉
ホタルは一層まばゆく光った。
〈わたしは……ずっとあなたのそばにいた……〉
光は、ぼんやりとだが、人の顔を形作った。
「君は……!」少年は驚愕した。「ヒカルちゃん……!」
〈いつも優しくしてくれてありがとう。本当はね、ちゃんと直接そう言いたかったんだけど、あの体だとうまくいかないの……〉
理解した。強烈な理解はほとばしる朝日の如き、共に少年の霊的輪郭も明確さを取り戻した。
「そうだったのか……ヒカルちゃんが僕らをずっと見守ってくれていたんだね!」
〈ううん〉ヒカルは言った。〈その逆。わたしがみんなに助けてもらっていたの。本当はね、頼っちゃいけないって、一人でなんとかしなくちゃいけないって、そう教わった。でも、わたしは弱い。弱くて心細くって、ついみんなを巻き込んでしまった。特にジンケくん……ごめんね半分以上も……〉
ぼんやり浮かぶヒカルの顔がしわくちゃに歪んだ。
「半分って?」少年は聞いた。
〈わたしの力……。貝の力……。さっき彼らにも分けたから、もうほとんど残っていない〉
貝の力? 初めて聞くのに馴染みがある。遠い夢の合言葉。子守唄のワンフレーズ。貝の力……その言葉を聞いた途端に、意識のどこかでスイッチが入った。古いけど馬力のあるエンジンがぶるぶると起動した、そんなふうに感じた。
少年は手を伸ばした。先ほどまでは自分の形すら忘れてしまっていた。気力を失い、己の輪郭もアメーバと化していた。だが今は違う。光を浴び、近くて遠い友人に再会した。貝の力……という鍵が太古のエンジンを始動させた。そしてそれが当然の行動、極めて儀礼的な弐の手であるが如く少年は手を伸ばした。光に、いわんやヒカルにその手で触れるために。
そしてヒカルは受け入れた。今まで誰も触れたことのない、己の本質的(究極なまでの)部分への接触を許した。いや、逆に許しを請うたのかもしれない。もしこれが絵画だと言うのであれば、光に救いを求める少年、はたまた主の御手を額にかき抱く少女、この二つの解釈で芸術界は二分するだろう。
理解ーーいや覚醒とでも言えば良いのであろうか。少年の霊が少女の霊へと触れた瞬間、ノスタルジアの比ではない、強烈な回帰の情が溢れ出した。そして馴染みの深い、同一的(言わば肩を並べて越冬する鹿群れに通ずるような)、同種族としての深い安心が少年を包み込んだ。そして少年と少女の霊はその幽かな属性を無視するかのように極めて物理的に絡み合った。らせんである。少女の有する幾万年のDNAを、少年がコピー、いやこの場合正しく言うのならば復元したのである。
思い出した。人と貝の知られざる歴史。悲しいほどの人への献身。そして痛ましいほどの友愛。どれもこれも純粋だった。恐ろしいほど無垢であった。人が人であるための道理は全て貝から受け継いだもの……。もしそうでなければ? 人が貝に選ばれなければ? 人は獣を脱していなかっただろう。人は貝を通して命の尊さを学んだのだ。そう、僕は今……貝なのだ……。
「……彼らにも分けたって?」少年は尋ねた。
〈そう〉少女は答えた。〈ナオユキくんとタカシくん。多分間に合ったと思う。二人はちゃんと自分を保っていてくれたから〉
「無事なんだね?」
〈きっと……〉
「ハッセとガイは?」
〈あの二人には手が届かなかった。長い時間向こう側にいたせいだと思う。でも、ジンケくんたちのおかげで取り戻すことはできたわ。今は安全な場所にいるけど、無事とは言えない……これも全部、わたしのせい……〉
「そんなことない」ジンケは言った。「僕らは元々そういう役目だったんだ。ヒカルちゃんを守る、貝託使を護衛する役目だ。ずっと昔からそう決まっていた。ヒカルちゃんが一人で決めたことではない。ヒカルちゃんが貝託使であるように、僕らは八人の守り手だ。ハッセもガイもそうなんだ」
〈守り手……〉
「そう。僕らは守り手。来たる日には身を挺して貝の巫女を守る八人の戦士だ。運命さ。人と貝が共存し始めた頃から決まっていたこと。ずっと、ずっと、決まっていたことなんだ。そうなんだろう?」
ヒカルは何も答えない。
「わかるよ……」ジンケは続ける。「この僕も理解した。理解はしたけど納得はできない。だって僕らはまだ子どもだもの。こんなこと今まで誰も教えてくれなかった。大人はみんな何してるの? 僕らがこんな目にあって、こんなふうに事実を知るまで見て見ぬ振りを決め込んでいたの? そもそも大人は知っているの? 僕のお父さんはきっと知らない。中には護衛の戦士もいたかもしれないけど、来たる日を通り過ぎて、普通に大人になったんだ。そうやって知らないままでいる大人がほとんど全員、全人類なんだ。唯一知るのは貝託使。貝の巫女だけが一人で真実を背負いこむ。ひどい……あんまりだよ……」
〈責めてはいけないわ〉ヒカルは言った。〈いつの世だって、貝託使と守り手たちは決して幸せとは言えなかった。だからこそ、人と貝との調和が保たれる。だから、もしわたしたちが悲しいと嘆くのであれば、それはそのまま人々の喜び、貝たちの喜びになるの。ねえ、ジンケくんだって、わかっているんで……〉
「それじゃあまるで生贄じゃないか!」
〈そう〉ヒカルは答えた。〈わたしは生贄。進んで生贄になるわ。それが貝としての生き方なのよ〉
何も言えない。わかっているのだ。自問しているのと同じ。ヒカルの言葉はそのまま自分の声なのだから。だから、何もかもが腑に落ちる。だが、自分の中の子どもが騒ぐ。道理、体裁、秩序に対して反骨の構えをとる。くだらない自己防衛。だがそれこそが自分勝手な人間らしさ。少年のほとんど、子どもらしさなのだ。
突如怒りが湧いた。世の中が不公平であることは薄々気づいていた。だからこそ識者は公平という概念を振りかざすのだ。わかっている。わかっているのだ。だが、自分が選ばれたのであるならば、せめて母親がいて欲しかった。生贄の一部として生きるのであれば、誰よりも幸福でありたかった。それこそヒカルを見ろ。障害を抱え、両親もいない。ヒカルこそ、誰よりも幸福であるべきだ。ああ……こんな葛藤は無駄だ。だってわかっている。公平と不公平、幸福と不幸、どれも数字で割り切れる次元ではない。だって僕は不幸ではない。母親がいないけど、時に枕を涙で濡らすけど、僕は僕であることに幸福なのだから。
「ひとつ聞いてもいいかな」ジンケは言う。
〈いいわ〉
「僕たちが選ばれたのにはどんな理由があるのだろう……」
〈あなたたちの祖先が関係している。わたしの祖先もまた深く関係している。目に見える祖先ではないわ。ひとつ、ふたつ、みっつもよっつも前の世代。貝は時を読むの。わたしたちのように流れを読むのではなく、その奥行きを読む。現在も過去も一枚の絵画の中で読み取る。そうやってわたしたちは選ばれた〉
「じゃあ、僕たちは勝てるんだね?」
〈わからない〉ヒカルは答えた。〈彼らもまた貝。わたしたちとは別の進化を遂げた貝なの。彼らが共存を望んでいるのかどうかわからないけど、わたしたちとは人を境に平行線をたどってきた。お互いに干渉しない。それが暗黙の了解だった。でも、彼らは狂うの。時を蓄積した大地がマグマを噴き上げるように、彼らは破壊の使者を産み落とす。それが……〉
「水色のこども」
〈そう。時に水虎、時にブルーボーイと呼ばれた破壊者……〉
「止めなきゃ」少年は言う。無意識に体に力が入る。そう、この感覚。霊体となってから久しい肉の感覚。絞れば絞るほど力が増す筋肉の妙技。これが……足りなかったのか……!?
〈そう。止めるの〉ヒカルは言った。〈だからジンケくんにわたしの力を全部あげるね〉
「え……?」
答える間もなく爆発が起こった。熱も音もない、ただほとばしる光だけの爆発。
〈わたしのことなら平気。どちらにせよ、わたしにはもう何もできない。ただ、見ているだけしかできないの。だからわたしはジンケくんの中で生きる。不安や迷いは、わたしが受け持ってあげる〉
「そんな……」ジンケは言う。「だめだ……。そんなことさせられない。僕がヒカルちゃんを守るんだ。君が僕のためにーー」
〈そう〉光の中から声がした。〈そうよ。あなたがわたしを守る。あなたは守り手。それも一番の守り手。ええ、あなたの中にはわたしがいる。ずっと前から決まっていたこと。あなたは、そう……護衛の戦士、無二の守り手、屈強で鋭利な……貝の殻……〉
もう二人の区別はつかなかった。少年の霊、その流動的で迷彩的とも表しがたいおぼろげな皮膚に光が宿っていた。いや、光はその内側から発していた。たちまち、凄まじいスピードで、まるで血液のように、まるで光り輝くコイルかのように、腕を足を、その指先の隅々まで行き交っていた。
「ヒカルっ!!」少年は叫んだ。眩しい。目を開けられない。内側からまるで洪水のように光が押し寄せる。これはなんだ? 自身の眩しさで、まぶたが焼け落ちてしまいそうだ。だめだ……止まらない……このままでは、目が、押し破られるーー!!
飛び込んだ景色は壁だった。なんの変哲もない、無機質な白無垢の壁。続いて物質が目に止まった。蛍光灯、そのフード、視界の端にはカーテンらしきものが波打つ。そうだ、ここは病室だ。
目が覚めたという感覚は薄い。気だるくもない。節々の痛みもない。十分な沐浴のあとに、日光とそよ風だけで肉体を乾かしたかのようなベストコンディション。眠りを想起させるものは何一つない。ただ、両方の目頭に目やにがあった。共にカチコチに乾いていた。まばたきすると痛かった。片方は自然に落ちて、片方は指で取った。
半身を起こしてようやく消毒液の匂いが鼻をついた。特に何も考えずに、左肘の内側に刺さった点滴の管を抜いた。映画でよく見るようなシーンだった。管は想像していたよりも深く刺さっていて、ぬるっと抜けた。このぬるっとした感触はどんな映画でも表現できていないように感じた。とても不気味な感触だったが、生身でしか得られないこの感触に心がざわついた。
少年は立ち上がった。まだ、どこか浮いているような感じがあった。足裏に力を込めると、遅れて硬い床の感触が返ってきた。これもまた新鮮だった。着替えて、それから部屋の外に出た。
病室は通路の奥にあった。ホテルで言えば安い角部屋だ。少し進むと通路が交差した。人の気配がどっと増えた。せわしなく看護師が歩いていた。そのうち何人かと目が合った。感じの良い笑顔で会釈された。誰も、少年が入院患者だとは思わなかったのだ。そして年端の行かぬ少年だとも思わなかった。生命力に満ち満ちた青年であると彼女たちは判断した。中には隠れて頬を染めるような手合いもいたのだ。少年自身にも自覚はあった。自分が大きく感じたし、常に数分先の出来事を予言できるような落ち着きが備わっていた。錯覚だと思っていた。全快した爽快感がそうさせているのだと思っていた。
だが事実だった。少年の上背は10センチも高く、顔つきは成熟していた。その理由、その種明かしは、すべてを見通せる守り手の少女であるヨリコに再会するまではわからなかった。




