貝託使
青い目をしていた。こんなヒカルの目は見たことがない。まるで盲人のように色あせて、それでいて海のように澄んでいた。
「そう……」ヒカルはそう言ってカホリを見上げた。
焦点の定まらない瞳、小刻みに震える唇、かすかに持ち上がった小さな指先。
母性が弾けた。深い慈しみが体の中心から溢れ出た。唐突な愛情に突き動かされ、カホリはヒカルの手を掴んだ。するとーー、
雷に打たれた。「そう」という雷鳴。「そう」というヒカルの声が体内で反響した。猛烈な光。響けば響くほどその光量は増す。そう……そう……そう……!!
〈カホリ……〉
光の中から呼びかけられた。声……ではない。音ですらない。これは光だ。光そのもの。光が直接、カホリに話しかけているのだ。
〈ああ、カホリ……〉光は言った。〈こうしてあなたとお話しすることをどんなに心待ちにしていたか……〉
「ヒカル……?」
〈そうよ。わたしはヒカル。幼馴染のヒカル。クラスメイトのヒカル。みんなに助けてもらってばかりのヒカル〉
「どうして今まで黙っていたの!?」
〈できれば黙ったままでいたかった。唖のままで良かったの。だけど、あれが始まってしまった〉
「あれって……」
〈そう。かつてブルーボーイと呼ばれ、わたしたちが水色のこどもと呼ぶもののこと〉
「何なの!?」カホリは言った。「あれは何? ヒカル、あなたのことは何となくわかった。だけど、あれは……、あいつの正体は何なの!?」
〈貝託使よ……〉
カホリ、絶句。貝・託・使。その言葉を聞いた途端、あるイメージがカホリを貫いた。それは螺旋。ぐるぐる渦を巻いた槍。足の裏から脳天まで、無遠慮に串刺し。ヒカルとの会話は言語ではないのだ。カホリはすでに理解してしまった。聴いて理解するヨリコとは違う伝心能力。これがカホリの真骨頂。精神感応の凄みだ。
「違う……」カホリは言った。「ヒカルとは違う。ヒカルのお母さんとも、この町を守り続けてきた他の貝託使たちとも違う。全く別物……」
〈そう……〉ヒカルは言った。
「あれは……」口にするのが怖かった。そしてバカバカしい。だけど、理解してしまった。貝託使たちが脈々と受け継いできた知識の海を今ヒカルからもらった。同期したのだ。「……巻貝」
〈ご名答……〉
どこかで聞いたフレーズ。そうか、これはヒカルの口癖。それがヨリコに移った。ご名答……ご名答……。
〈ブルーボーイ、そして水色のこどもは巻貝の仔。わたしたちが戦う相手は、すなわち巻貝の貝託使のこと〉
巻貝!? 何を言い出すかと思えば巻貝!? 巻貝の貝託使!? じゃあ、ちょっと……まさか、次に言っちゃったりするのは……まさかのまさか……。
〈そう、私は……私たちは二枚貝。御察しの通り、ご名答。私たちは二枚貝の貝託使……〉
絶句。じゃあ何? 敵はサザエとかツブ貝とかの巻貝で、対する私たちはアサリやカキの二枚貝だっての!? え……ちょっと待って……。私たち……? たちって、あれよね? ご先祖たちのこと……指してるのよね。
〈いいえ。すでにカホリが御察しの通り、貝託使は一人に非ず……〉
「まさか……」カホリは言う。「ヒカルの声を聞くヨリコ、ヒカルの心を読める私、ヒカルと似たような力を持つジンケ……。いいえ、それだけじゃない。ヒカルに関わるみんな。ヒカルを中心に輪を作った、私たちみんなが貝託使……。ヒカルの意志を受け継いだ私たちが貝託使!」
〈ご名答!〉ヒカルは言った。〈でも、悪いと思っている。申し訳ないと思っている。本来私一人でやるべきことを押し付けてしまった。本当にすまないと思っている〉
「いいのよ。わかっている。ううん、ずっと前からわかっていた。ヒカルが私たちに力を分けてくれたことは私たち知っていたの。今この瞬間まで記憶の底に封じ込めていた。だって、こんなこと起きなければそれが一番良いのだから。貝託使なんて必要のない未来の方が価値があるんだもの。でも私はヒカルに会いたかった。本当のヒカルにもう一度会いたかった。そうよね? これが正しい気持ちよね?」
〈そう。私もそう。同じ気持ちよカホリ……〉
気のせいだろうか、ヒカルの声、いや思念そのものが小さくなった。
〈……も……うれし……けど……もう……〉
「ヒカル? どうしたの?」
〈ごめ……もう……〉
弱い。もうほとんど聞き取れない。思念を読み取ることができない。
「ヒカル! ダメ! まだ聞きたいことがたくさんある! ねえ、もうちょっとだけ……」
パンッ! と弾けた。平手打ちを受けたような、フラッシュを浴びたかのような感覚。伸びきったゴムが一瞬で元の形に戻ったかのような感触とも言える。カホリは正気に戻った。思念のみの世界からこの現実へ、トレーラーハウス内のひと時へカムバックした。目の前にはヨリコがいた。鬼気迫る顔で口づけしそうなほど近くにいる。
平手打ちされたのだろうか? カホリは自らの頬に触れるが痛みの余韻はない。
「話したのね?」ヨリコが言った。「ヒカルと……あの人と話したのね?」
「そう……」カホリは答えた。誰かの口調が移っていることにうつったことにほのかな充足感を覚えた。
「なんて言ってた?」
「巻貝」
「え……?」
「巻貝の貝託使だって、あいつ」
「なに……」
「それで私たちは二枚貝。ヒカルと私たちは二枚貝の貝託使」
「うそ……」ヨリコは言った。「おばさん、本当なの?」
「ああ、本当だとも」おばさんは答えた。「あの子が言ったんだろう? じゃあ本当だ。乳母の私には知る権利がないけど、あんたたちは違う。ヒカルは言ったんだね? 私たちって」
「そう……」カホリは答えた。
「じゃあ、あんたたちが貝託使なんだ。あんたたちが二枚貝の貝託使なんだよ」
「あたしたち……」ヨリコは言った。
「ねえ、ヒカルを助けてやっとくれよ」おばさんは言った。「酷なお願いなのはわかってる。だけど、ヒカルは弱いんだ。生まれてこのかた、人並みってことがないんだ。この子には荷が重すぎたんだよ……」
「おばさん」カホリは言った。「私たち知ってた。最初から知ってた。ヒカルは最初から私たちに教えてくれてた。だから当然、助けるわ。それに、今まで助けてもらっていたのは私たち。普通の子どもでいさせてくれたのーー」
突然カホリは泣いた。堰を切ったように涙と嗚咽が溢れ出した。ヒカルは一人で戦っていたのだ。一人ぼっちで、普通の子どもとは無縁の人生を送っていた。言ってくれればよかったのに……。なにも、私たちは、そんなに薄情ではないのだから。
「よかったねヒカル……」おばさんは言った。「ずいぶん時間はかかったけど、おまえ、良い友達を持ったね……。ようやく普通の子どもになったんだね……」
おばさんも泣いた。涙こそ流さないが、その両目に下がった深い皺が、干上がった涙の河を連想させた。ヨリコも泣いた。しゃくりあげてヒカルの額をぺちと叩いた。赤子のように眠るヒカルは、その湿っぽい空気に安堵した。愛情は母で、親愛は友で、大いなる宿命を背負った不完全な少女は愛に満ちたゆりかごで健やかに眠った。




