貝
「話は聞かせてもらったよ」おばさんは言った。「どうやら、来るべき時が来たってことのようだね」
おばさんはヒカルが眠るベッドに座り、少女二人はもう片方のベッドに座った。スツールにティーセットとクッキー。バターの香りのする不揃いだが食欲をそそるクッキー。
「ほら、あんた、さっき言いかけたことあるだろう?」おばさんはヨリコを見て言った。
「あたし?」ヨリコ、虚を突かれつつも。「ああ、血のことか……」
「そうさ、血さね。血のことをちゃんと話しておやりよ」
「うん……」ヨリコはうつむく。「でも、あたし、うまく話せないかも。これは全部ヒカルから、あの人から聞いた話だもの」
「いいんだよ。ヒカルがあんたに話したってことはその器があるってことさ。人から人へ伝える、語り部としての器さね」
「うん……」ヨリコは眠ったままのヒカルを一瞥してから話し出した。「血の話しだったわね。そう、ヒカルの体がどうしてあの人を宿すことになったかということ。まさに血が関係している。ヒカルは代々、貝託使の家系に生まれたのよ」
「開拓使?」カホリが言う。「開拓使って、あの、歴史の教科書に出てきた、土地を開墾したり道路を作ったりした人たちのこと?」
「そのカイタクシとは別よ。あたしが言ってるカイタクシは貝託使。貝に託された使者のこと」
「カイ?」
「そう」
「カイって、ひょっとして、あの貝のこと?」
「そう」
「アサリとかカキとかツブとかの貝?」
「そうよ」
「そっか」カホリは口をへの字に曲げる。「漁師町だから、そっか、ヒカルの家も元々漁師だったのね」
「そうじゃない」ヨリコは言う。「むしろその逆。貝託使は貝に仕え、貝を崇め、海よりの警告を代弁する神官。さしずめヒカルは巫女ってことね」
「う……」カホリは頭を抱える。「展開が急すぎてついてけないわ。とにかくヒカルは巫女さんってことね。あれ、そしたらおばさんも巫女さんなの?」
「いいや、おばさんは巫女でも貝託使でもないよ。私はね、ヒカルとも血は繋がっていないんだ。乳母って知っているかい? そうさね、私はヒカルの乳母だった。私は先代の貝託使であるこの子の母親の下女だったのさ」
うば、げじょ、耳に馴染まない音。歴史小説の中でしか知らない言葉。そして、かいたくし。これはわかる。まだ耳に馴染む。だけど知ってるかいたくしとは全く違う。こんな話、聞いたことがない。でもわかる。不思議と理解できてしまう。おばさんの声が遠い昔の記憶を掘り起こしているみたいに、聞いた瞬間に事実となる。
「ヒカルのお母さんは……?」カホリは聞いた。
「死んじゃったね」おばさんは答えた。「この子がまだ乳飲み子の頃に……。元々弱い体だったんだ。貝託使の一族はね、短命なのさ。だから私みたいな乳母がいる。でもね、早すぎたよ。この子の母親は早く逝きすぎた。この子に何も教えないまま死んじまった」
「そんなことない」ヨリコが言った。「ヒカルはちゃんと教わった。だってあの人がヒカルの中にいるんだもの。お母さんも、お父さんだって、ちゃんとヒカルの中にいるって言ってた」
「そうだねぇ」おばさんは言った。「確かにそうだねぇ。ヒカルは貝託使なんだ。貝託使には貝託使の生き方がある。ようく理解しているつもりだけど、私もだいぶ年をとったのかね」
お父さんのことは聞くまい。聞いても湿っぽくなるだけだ。同情しても仕方がない。カホリは確かに恵まれている。このトレーラーハウスで眠る少女とは別格の身分だ。だが、幸せの度合は計れるものではない。一方的な価値観で判断できるものではないのだ。ヒカルの寝顔を見ていると、どうしてか、幸福が満ち満ちている。この無垢な寝顔、胸を締め付けるほど健やかではないか。
「貝託使は人に非ず」おばさんが言った。「そう教えられて育ったよ。貝託使の女は私らにとっては神さんだ。貝託使にとっては貝が神さんなのさ。でもこの子は……」
それきりおばさんは口をつぐんだ。カホリにはわかった。手を触れずともわかる。おばさんの目は我が子を見るような目。嫉妬したくなるような慈愛の眼差しだ。
「これはヒカル……の中のあの人に聞いた話」ヨリコは話し出した。「あたし達はある意味みんな貝なの。もちろん生物学上は人であることに変わりはない。だけどこれは学問を超えた先にある話しなの。例えばだけど、空の袋と中にお金がたっぷり詰まった袋があるとするでしょ。空の方はただ単に袋って呼ばれる。お金が詰まった方は袋とは呼ばれない。何て呼ぶ?」
「お金」とカホリ。
「そう。お金よ。中身を指してお金と呼ぶ。でもこれはあたし達人間の価値観でしょ。価値観が逆転したような存在があたし達のことを貝だと分類したら、これはどういうことかわかる?」
「私達の中には……貝が詰まっている……?」
「イエス。袋の中のお金を指すように、あたし達の中に貝を認めたということ」
「ちょっと待って」カホリが言う。「そんなことある? 私達って、そんなに貝食べるかな。だって、他にも色々食べるでしょ」
「それは人間側の理屈でしかないの。あたし達を貝と分類するような存在は表面的に見ていない。時間の概念、その捉え方が違う。たとえ、生まれてから一度も貝を食べたことのない人だって、彼らから見れば貝になる」
「それって……」
「歴史よ」ヨリコは続ける。「人類はずっと食べてきた。人種に問わず、貝を食べることによって人は進化したの。人類は火と貝によって今日の文明を築き上げたのよ」
「プロメテウスは罪と引き換えに火をもたらした……」
「いい線行ってる。要はプロメテウスの他にもう一人いたってこと。それがいわゆる第一の貝託使、パンドラよ」
「パンドラ……!?」
「聞いたことあるでしょ。全ての悪と災いを封じ込めたという箱。その箱って何のことかわかる?」
「まさか……貝?」
「ご名答」ヨリコは話す。「あたし達は貝を食べることによってヒトになった。貝は食べるだけじゃない。貝殻は刃物にもアクセサリーにもなる。もちろん身は栄養満点。乾燥させれば保存食にもなる。ヒトにとって都合の良すぎる食料よ。そして都合が良くなればヒトは楽をする。楽をすれば欲が出る。欲が出れば争いが起こる。まさに悪と災いを呼び寄せたの」
カホリは聞く。傾聴に値すると言えよう。まさか偏屈なヨリコから文化人類学の師事を受けようとは。
「でもわかる?」ヨリコは尋ねる。「パンドラの箱の底には希望があったのよ。その希望に仕える者が、あの人であり、貝託使であるヒカルなの」
「わかったようなだけど、わからないこともある」カホリは言う。「だったら貝の目的って何なの? どうして人間に関わろうとするの? だって結局食べられてるだけじゃない」
「盲点」ヨリコは言う。「そう考えているのは人間だけ。食べることで進化したのがあたし達。だとしたら食べられることで進化した生物がいたって不思議ではない」
なんという逆説。発想の転換にもほどがある。食物連鎖、弱肉強食こそが世の中のコトワリ。それを覆すなど正気の沙汰ではない。でも……。だとしたら……。
「種……」カホリは言った。自分の意志とは裏腹に、口が勝手に動いた。「個ではなく種……。種に特化した進化……」
「またまたご名答」ヨリコは言う。「ほら、あたしが教えなくてもちゃんとわかってる。貝は種。種そのものが一つの生命体なのよね」
「確かに、生物としては不自然なくらい不完全だわ。硬い殻の中はほとんど内臓だけだし、まるで進化を拒んでいるみたい」
「そこんところはよくわからないけど、進化はしているの。だってそれがヒカルだもの。それが貝託使だもの」
「え……」カホリは絶句する。
そうか。気の遠くなるような歳月を経て貝がたどり着いた進化が貝託使なのだ。きっと貝はその遺伝情報をヒトと結合させることによって精神への干渉を可能にした。食べられることによりヒトと同化できるようになった。いや、その度合いはわからない。寄生しているのだろうか、支配しているのだろうか、このヒカルの無垢な寝顔を見る限り答えは否である。きっと共存の道を模索し続けた答えが貝託使なのだ。ごくわずかな選ばれた人間に、貝の想いを託した。ヒトと貝の希望そのものがヒカルだ。ではあれは……? 例のあれは一体何なのだ。ヒカルとは対極に位置する無機質な悪。あれは……一体何なのだ!?
「そう……」
声がした。ヨリコでもおばさんでもカホリのものでもない声。そう、この声はヒカルだ。スズメが鳴いたようなか細い声。あどけなくてぎこちない赤子のような声はヒカルのものだ。
そう、ヒカルが喋ったのだ。




