邂逅2
ミルクと野良猫が混ざったような匂いだった。目が慣れるとそれほど薄暗いわけでもなく、匂いと明るさは不思議と調和していて、素直に感じたのはただ心地良いということだった。規則正しく連続する小窓にはこれまたこぢんまりとしたブラインドがあてがい、漏れた光が淡いレースのような日なたを床に落とす。そして雑然と積み重なる生活の欠片がほどよい塵と混ざり幻想的な一つの作品となる。ここはトレーラーハウスの中。時間の支配から逃れた唯一無二の中立地帯である。
おばさんは「奥で寝てるよ」とだけ言った。キッチンに引っ込み、カチャカチャと陶器の触れ合う音を立てながらコンロに火を灯した。つんとしたガスの匂いがみぞおちを撫でた。新聞紙一枚ほどのスペースしかないキッチンだったが、その分濃縮した残り香が立ち込めているような気配があった。
「ずっと寝てるの?」ヨリコが聞いた。
「ああ。最近はずうっと寝てるね。て言ってもお漏らしするわけではないよ。その時になると起きるみたいだね。おばさんが寝てる間にね」
「ちょっと見て来てもいい?」
「ああ。見ておいで。おばさんはお茶でも淹れてあげようかな」
ヨリコが目で合図した。「行こう」というサイン。まるで我が家であるかのように慣れた足取り。カホリはおっかなびっくり着いて行った。何をそんなにびくびくするのか、床も壁も空気でさえも異なる素材だとでも言うのか、空間をかき分け移動するこの行為がおよそ現実味を感じない。こんなのは初めてだ。でも嫌なびくつきではない。高熱が続いた浮遊感、そして朦朧としながらも笑いが込み上げてくるあの感覚に少し似ている。
うなぎの寝床。トレーラーハウスのどん詰まりはまさに寝室だった。玄関よりもさらに小さいと言える、まるでホビットの家。そう、大作家トールキンが夢に描いた良心が帰る場所、かのホビット庄の匂いが寝室の丸い扉に立ち込める。ここは特に違う。ここだけは特別だ。この中にあの人がいるのだ。
ヨリコが躊躇なく扉を開けた。気後れしたが、つんのめるようにして後に続いた。先ず最初に目に入ったのが二つのベッドで片方のベッドには猫が三匹ーーそれはすなわち無人のベッドでありーー、もう片方のベッドはこんもりと膨れていた。大きさからして老人か子ども。ひょっとしたら中に犬でもいるのかもしれない。その程度の膨らみだった。しかし、髪の毛がはみ出していた。艶のある黒で、上質な毛筆のようにきめの細かい頭髪だった。
「いつまで寝てるのよ」とヨリコが言った。この場にそぐわぬキツいもの言い。だがその中にも肉親のみに許された無尽の親しみが垣間見えた。
ヨリコは散らばった髪の毛を邪険に束ねた。そして見覚えのある顔がほんの一部だけ見えた。それだけでピンときた。額と眉、そして無邪気に閉じられた瞼を見ただけでカホリにはわかった。
寝ている少女とは、同級生のヒカルだった。
無垢な寝顔だ。胎児のままの寝姿、その口元で乾いたよだれの跡、掛け布団からはみ出した小さな小さな握りこぶし、どれを取っても幼児、純粋無垢な幼き生命。
ヨリコだけではなく同級生の女子なら誰でも一度はヒカルの世話係をしたことがある。カホリの記憶では二度だ。実際はもっと多いかもしれない。だが思い出せるのは二度。どれもこれといった思い出はない。会話という会話もなかった。何を聞いても、何を命じても、「そう」とだけ口にする。それ以外の言葉を知らない、いや、それだけで事足りるとでも言いたげに「そう」を使い分ける。肯定も否定も同じく「そう」。認めたくはないが正直イラついた。これといった思い出はないのだが、それだけは覚えている。同じ年に生まれ、同じ学校の同じクラスに通う女の子なのに自分とは違うのだ。かわいそうと言うのは違うと思う。ヒカルがハンディキャップを持っていることも、時に未熟な男子たち(女子たちだって例外ではない)にからかわれる対象になることも知った上でカホリの性根が確かにイラついたのだ。「そう」を判別するには表情の微妙な変化を見分けるしかない。普段の何気ない会話とはわけが違う。多大な集中力を要する。だから疲れる。だからやきもきする。そんな時、カホリは案外せっかちなのだった。
その技能に長けているのがヨリコだ。ヨリコは普段からヒカルの世話を買って出た。誰に頼まれたわけでもなく、周囲の者は「変わり者同士、ちょうど良いではないか」という暗黙の了解を与え合った。しかしあまりにも配慮の足りぬようなヨリコの態度に皆少なからず嫌悪した。ヨリコとしては誰隔たりなく、それがたとえハンディキャップを持ったヒカルだとしても同じく接しただけなのだ。いや、むしろヒカルが他者より劣っているとは感じていなかったからなのかもしれない。ヨリコとヒカルは通じ合ったのだ。言葉以前、霊性そのもので語り合うことができた。
「あんた、どこ行っちゃったのよ」ヨリコが言った。
無論、返事はない。依然としてヒカルは健やかに眠っている。そう、どこかの誰かと同様に深い昏睡状態に落ちたままだ。
「まったくもう……」ヨリコは手を伸ばす。「ほら、起きなさいよ」と言いながらマシュマロのようなヒカルの頬をつねる。さらに引っ張り、ねじり上げる。
「ちょ……ヨリコ!」カホリはたまらず声をかける。
そのつねり方は単なるいたずらレベルを越えていたのだ。よく熟成した手打ち麺の生地のようにヒカルの頬は伸びに伸びた。そしてすぐに赤く鬱血した。これは傷害と言っても過ぎないだろう。
そうだった。ヨリコのヒカルへの愛情は常軌を逸していたのだ。小学校の時分は母親にでもなったかのように親身に世話をした。からかう悪童たちからも身を挺して守った。だが、中学に上がるとヒステリックな継母に変化した。教室の雑巾がけさえまともにできないヒカルに対し、恥も外聞も気にせず多大なストレスをあらわに叱りつけた。ほんの少し歩みよるならば、無垢な少女のままでいるヒカルに嫉妬しているようにも見えなくはなかった。だから教師を含め周りの者たちは何も言わなかった。ちょっとした育児ノイローゼのようなものだと各々個々を誤魔化していたのだ。
ヨリコは動きを止めた。カホリの叱責に応じたのだ。なぜか、よくぞ言ってくれたと言わんばかりの落ち着きぶり。憂いのベールを帯びた表情。
「いなくなっちゃったのよ……」ヨリコはつぶやいた。
「……て、どういうこと?」カホリは聞く。
恨めしいような目をヨリコは投げてよこした。その質問に対する答えは知らない。と言うよりもそもそも何を聞かれたのかわからない。あなたの国の言語は殆ど聞き取れない。とでも言いたげな顔。
ーーわかった。ような気がする。だがまだ言わない。カホリはまだそれを言葉にしない。声に出すと、二度と止められない歯車が回り出しそうで怖い。
言葉を待つ間、ヨリコは再び眠り姫で遊びだした。今度は乱暴ではない。愛猫をあやすかのように、そっと優しく指で梳く。
「ジンケと同じ……」カホリは言った。「ねえ、そうなんでしょ? ジンケくんと一緒でここにはいない。どこか、別の場所にいる……」
「そう」ヨリコは答える。「でも厳密には違う。ジンケは戻りたくても戻って来られない。でもヒカルは違う。戻れるのに……戻らない」
「どうしてなの?」
「残念ながらそこまではわからない。あたしはこいつと喋ってみなきゃわからない。でもカホリ、あなたは違うでしょ」
言っている意味はすぐにわかった。触れれば良いのだ。カホリは触れることで知ることができる。そう、ヒカル本人から授かった力だ。あの時、カホリはヒカルの霊と遭遇した。それ以来の能力なのだ。この愛らしい寝顔を見ていると、その事実が霞んでしまうようだ。ヒカルが、あの人……、突如病室に現れたまばゆいばかりの光……。そう、文字通りヒカルは光であった。
カホリは近づいた。
「ただ、お昼寝してるように見えるね。ジンケとはちょっと違うみたい。だってジンケくんて、やっぱりちょっと病的だったもの……」
本当にヒカルがあの人なのだろうか。こうして間近に見るとますます信じられない。だってヒカルは同級生だ。それに、こういうことはあまり考えたくはないが、ヒカルはあれだ……他とは違う。ヒカルには障害があるのだ。それがどうして、私たちを導くあの人であるというのか……。
手を伸ばした。散らばった髪の毛は長い間洗っていないようだった。脂ぎって、フケも目立った。耳の中には垢もあった。だが不潔とは感じなかった。生きて行くのに必要な汚れだ。長く眠るのに必要な汚れなのだ。ならばこれも生の輝きと言えるのだろう。
手を触れる。畏れはなかった。手はヒカルの額に吸い込まれた。それが日々の習慣、何の変哲も無い日常を切り取ったかのように自然な振る舞いだと言えた。ふと、心地良い揺れを感じた。地震? それともめまいだろうか。いや、確かに自身の内部から伝わる振動ではあるが疲れから生じる類ではない。言うなればゆらぎだ。眠りに落ちる瞬間のゆらぎ。強い既視感と共に押し寄せるゆらぎ。ハーブティーの香気に潜む心地良い酔いの如きゆらぎ。そう、これは計り知れぬ安心。たちまちのうちに、天と地の区別もないどこまでも安心な世界にカホリは降り立ったのだ。
目が眩むほどの光の中にカホリはいた。光は一つであり同時に無数だった。点のようでもありとてつもなく巨大であるとも言えた。光の中を流れる時間は永遠であった。そしてそれが一瞬を指していることもカホリにはわかった。そう、カホリは理解した。光は一つの意識、同時に大勢の意志、そして人類の永遠なる友であった。類を隔つにも関わらず、地球上のどの生物にも真似できぬほどの親愛。そしてイヌ科の動物をも到底及ばぬ忠誠心。カホリは理解したのだ。理解すればするほど、それを上回る〈悲しさ〉が押し寄せた。これ以上知りたくはない。だが、ここにいればどんどん彼らの〈悲しさ〉が押し寄せる。そう、悲しみは必要な時にだけ取り出し不要になれば捨てるべきものだ。だが、彼らはその生涯を全て悲しみに費やす。悲しみと共に生まれ、悲しみと共に朽ちる存在なのだ。これでは悲しすぎる。一体どこに喜びを見出すというのか。それなのに、どうしてこれほど人類を愛せる? ヒカル、あなたたちは、優しすぎる。真に悲しむべきは私達でなければいけないのにーー。
「カホリ?」ヨリコの声。
浅い眠りから覚めたかのようだった。意識は遥か彼方へ飛んでいたはずなのに、ここから一時も離れることはなかった。ヨリコのことも、キッチンにいるおばさんも、このトレーラーハウスのこともちゃんと意識できていた。そしてヒカル……。この赤ん坊のように眠るヒカル、ヒカルの額の奥に広がる広大無限な宇宙、この指先を通して知った光り輝く友人たちの存在。ヒカルは扉でだった。こちら側も、扉の外も、確かに存在している。二つの世界は確かにカホリを通して一つになったのだ。
「わかったわ」カホリは言った。「ヒカルがあの人。真っ白な光の正体はヒカル。そう……ヒカルなの」
カホリの頬を涙が伝った。それが全てだと言わんばかりにヨリコは小さく頷く。
「どう言っていいかわからないよ」カホリは言う。「ヨリコ、どこまで知ってるの?」
「そうね……」ヨリコは答える。「ヒカルとはずっと友達。あたしってほら、人と馴染めないたちだから、だからヒカルもそうなんだって、最初はそう思ってた。でも、ヒカルの中の本当のヒカルを知ったらあたしとは似ても似つかない人だってわかった。あたしは何て言うか、卑屈で自尊心の塊で、はっきり言って性格悪い。それはわかってるの。ヒカルは逆だった。持って生まれた障害のことで人を恨んだり羨んだりしない。すごいと思ったわ。あたしもそうなりたいって思った。でも、だからと言って聖人君子ってわけでもない。ちゃんとバカなの。そう、ちゃんとドジでおバカで世間知らず、あの子にはちゃんと愛嬌ってもんがあるのよ。あたしはヒカルのそういうところが好き……」
ヨリコは一度言葉を切った。わかっている。カホリが知りたいのはこんなことではない。しかしこれから話すことは、ヨリコ自身半信半疑なのだ。いわゆるこれは、口に出すのもはばかれる秘め事というものである。
「もう一つ、決定的なこと、それはヒカルが霊だってこと」ヨリコは続ける。「これはさ、あたしだけの秘密だったんだ。もう誰に言っても信じてもらえないってこともわかってたし、言う必要のないことだって思った。むしろ誰にも言うべきことではないって。とにかくヒカルは霊になって体を出たり入ったりできるの。ジンケもそれができるけど、ヒカルの場合は逆なの。ヒカルは余所から来たのよ。今目の前にいる女の子はヒカルの容れ物でしかない。いえ、かつてはこの子にも心があったのかもしれないけど今は違う。元々のヒカルとは全く別物なの」
カホリは絶句した。ヒカルヒカルとヨリコは言うが、一体誰がヒカルで何がヒカルなのか、ちょっと待て、整理させて欲しい……。
「ごめん。そこまで断言してはいけないのかもね。元々のヒカルはきっと今のヒカルの中に存在している。きっと、お互いあってこそのヒカル。やっぱりあたしが好きなのはドジで人間臭いヒカルだもの。純粋なあの人だけだとしたら、こんなに気さくに話せない。そう、あたしは霊の姿を診ることができる。霊の声を聴くことができる。だからヒカルことあの人と意志の疎通ができる。あの人は何でも知っているのよ。でもヒカルの体に入るとテンでダメ。体が合ってないんだと思うでしょ? でも違うの。ヒカル以外にあの人を宿す体はないって言ってた。それも血のーー」
「ちょっと待って」カホリが飛びつく。「なんか、まるで人じゃないーーみたいな言い方……。あの人って……あの人あの人って言ってるけど……ちょっと待って……ヒカルは一体……」
「見たんでしょ?」ヨリコが言う。「そんなにうろたえることないじゃない。そりゃあ、つい最近力に目覚めたってのは同情するけど、カホリは見たんでしょ? あたしが知るよりも、ちゃんと理解したんでしょ?」
そうだった。カホリは見たのだ。ヒカルを、彼らを、あの人を……。だがそれが何であるのか、まだ現実世界に変換できずにいる。ただ強烈な印象、彼らの正体という次元を超えた巨大なモザイク画が頭の中をぐるぐるかき回す。私は見たのだ。彼らを……彼らという、種をーー。
「お茶が入りましたよ」おばさんの声がした。
ドアを開ける音も、特徴的なすり足の音も一切なく、いつの間にかおばさんは室内にいた。
「ちょうど喉が渇いた頃だろう?」
おばさんが持つトレーには上等なティーセットが乗っていた。カップからは熱い湯気。とろけるような花の香りが妖精のように踊った。




