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邂逅

 スグルは走った。心臓があり得ないほど騒いだ。どくどく、という鼓動がはっきりと耳に聞こえた。それは途中から「ごくりごくり」という、何かを飲み込むような音に変わり、体が明らかに異常をきたしていると感じた。恐怖や興奮状態に対して、心臓は何をしてくれるのだろう。ただ、どくどくと不安をあおるのには何の意味があるのだろう。いつでも全速力で逃げられるように、エンジンを熱い状態に保っているのだろうか。それならばいくらかは納得がいく。現に、走っても走っても、怖いほど走り足りない。

 家に着くと、ゴミと化した赤いロボットを自室の押し入れに突っ込み、替わりに旅行用のボストンバッグを引っ張り出すや否や手持ちのライフル型ウォーターガンもろとも詰め込み弟たちが所有するハンドガンタイプの水鉄砲も上から押し込み一度部屋を飛び出しかけたら強力な磁力で引き戻されたかのように再び中に飛んで戻り机の上の貯金箱をぶんどってピンボールの如く跳ね返り今度こそ部屋を飛び出した。

 次に台所に突入し食器棚の中をあさった。母親が保存用に取っておいた空き瓶の中から一番大きな物を選んでそれもボストンバッグに詰め、すぐさま玄関を目指す。

 弟二人が上着を羽織って待ち受けていた。

「戦争ごっこでしょ?」樹が言った。

 弟二人は見ていたのだ。帰りしなライフル型ウォーターガンを小脇に抱え弾丸のように廊下を駆け抜けるスグルの姿を。

「違う違う、そんなんじゃない」スグルは答えた。

「俺たちも連れてってよ。家にいるの飽きた」と樹。

「だめだ。危険だ。マジでやばいから、怪我するぞ」

「怪我なんかしないよ。水でしょ」

「夏とは違うんだぞ」スグルは語気を荒げる。「冬場の水鉄砲は生きるか死ぬかの真剣勝負なんだからな!」

「見てるだけならいいでしょ?」

「だめったらだめだ!」怒鳴った。

 年少の巧がぐずり出す。口角が下がり、表情は歪み、顔面に負のパワーを蓄積する。

 直ちにスグルはしゃがみ込み、三男と同じ目線で、その小さな肩を長兄の最高の優しさで包む。興奮状態の爆弾魔、それを説き伏せる老練の捜査官。そんな取調室の混濁した空気が二人の間を流れる。スグルは巧の耳元で何かをささやく。その何気ない一言は、巧の心をくすぐり、その清涼なユーモアが無邪気な原子炉の熱を冷ます。兄と弟の秘密の契約が今交わされたのだ。

「じゃあ、お兄ちゃん、これ使いな」

 樹が廊下を小走りでやってくる。そして、手に持った何かをスグルに差し出す。どうやら巧をなだめている間、次男は素早く部屋に戻ったようだ。

「いろいろ試してさ、当たったとき、一番割れやすかったのがこれだから……」

 ゴム風船だ。なるほど、かなりの年代物だ。小型で皮も薄く、おまけに風化具合が絶妙だ。これなら少しの衝撃で簡単に割れるだろう。水爆弾としてはこれ以上のものはない。こんなところで弟の成長ぶりを垣間見るとは……。感動だ。筆舌に尽くせない。気づけば心臓の鼓動が落ち着いている。爆発寸前だったのは自分の方だったのだ。弟たちに救われた。スグルは胸が熱くなる。これは決して燃え広がることのない、冷たい炎だ。

「ありがとう。これが終わったら、きっと遊ぼうな」

 スグルは弟二人の頭をポンと叩いて外に出る。生きて帰って来よう、そう胸に誓った。


 家の裏に空き地がある。角張った石が敷き詰められた広場は、春から夏にかけて昆布の干場として使われる。それ以外の時期は子どもたちの遊び場の一つとして数え上げられるが、いかんせん、粒の大きい角ばった干場の砂利には苦労させられる。サッカーをするにもボールの軌道を損なうし、相撲やプロレスをするにも怪我のリスクがつきまとう。要するに、ここで遊ぶのは余程の強者か愚者のどちらかである。

 スグルは空き地の中央にいた。大きくて平らな石を見つけ、その上に台所から失敬してきた空の瓶を置いた。蓋の口は大きい。そして、慎重にポケットからブツを取り出した。ナオユキから託された、奴の一部だ。

 緊張が全身を走る。汗が噴き出し頭皮が痒くなる。悪寒は伝染し、頬が、まぶたが、鼻の頭がちりちり疼く。背中も焼けつくように痒い。熱いのだ。裸になりたい。氷水にダイブして全身を掻きむしりたい。だからこそ、この仕事は迅速かつ正確に行わなくてはいけない。緊張が皮膚感覚を狂わすほどにスグルは己に言い聞かせる。

 作業工程としては、パンの袋に入った少々粘度の強い液体をこの瓶に詰めるだけである。だが液体を外の空気に触れさせることへの恐怖は時と共に増大する。なぜかと言えば生きているからだ。封を解いた瞬間、意志を持った液体がその変幻自在な能力でそこら中を自由に飛び回るのではないか、そんな予知めいたビジョンが脳を内側から圧迫する。

 いっそビニール袋に入ったまま瓶に突っ込んでしまえば良いのでは、とも考えた。しかし生来の神経質な性格がそれを許さない。袋に入ったまま瓶に入れたとすれば、ビニールのひだが邪魔になり液体の細部を逐一観察できないではないか。さもなくば瓶に移す必要などないのだ。危険を犯すのは封じ込めるためではない。標本(それも生きた!)にしなくては意味がないのだ。

 ビニール袋のきつい結び目を両手の人差し指と親指の爪でこじ開ける。こんな時のために爪は少なからず伸ばしておくべきだ心のノートにメモする。片手でじわじわと結び目を解き、もう片方の手はその下側の紙縒り状にねじれた袋を二本の指だけで締め上げる。

 一滴も逃がしてはいけない。落ち着け、今に動き出すぞ。いいか、この水は生きているのだ。だが密閉さえしていれば安心だ。冷静に進めればどんなに中で暴れようがこちらには無害。そう自分に言い聞かせる。根拠などないが、そう諭し、なだめ、激励す。

 結び目がほどけた。袋の口を逆さにして空き瓶に押し込む。その間も指の万力は緩めない。水門は閉ざされたままだ。いちにのさんでやろう。この指を離して、重力と両手の圧力で跳ねない程度に流し込む。そして素早く蓋をしよう。しっかりと、きつく蓋をひねって、振っても漏れないようにきつく閉める。

 よし、いくぞ……いち……にの……さんーー。

 息を止めながら一連の作業をこなした。液体はやはり独自の重さと粘度を持っていた。ビニール袋に残った液体をどう処理するか迷ったが、それはあたかもひとつなぎの生物であるかの如く一滴も残すことなく瓶の中に落ちた。空になった袋の内部も不思議と濡れてはいなかった。今、液体はガラス瓶の中で優雅に泳いでいる。落ちる時のもっちりとした水音がいつまでも耳に残った。

 とりあえず、終わった。スグルは息を吐き出した。百年ぶりの呼吸だと感じた。さあ、これからどうする。この液体を分析しなければいけない。ヨリコとカホリにも合流すべきだ。それにしても、この二人はどうする……?

 空き地にいたのはスグルだけではなかった。ガイとハッセが遠慮しがちな背後霊かの如く一定の距離を保ってスグルに着いていたのだ。スグルが自宅に寄った時は律儀の玄関先で待っていた。まるで忠犬、はたまた憑き物、その異様にやつれた姿と幽鬼めいた雰囲気は見る者の記憶に霞をかけるような世捨て人のオーラだった。

 二人のことを気にしても仕方がない。ショック状態なのかもしれない。しかし黙っても着いてくるのだからそれほど心配はいらないだろう。もう少し様子を見よう。それよりやるべき仕事が山積みだ。ナオユキの夢日記も気になる。そこに何かヒントが隠されているような気がする。家の人に言えば見せてもらえるだろうか。部屋の中、もしくは物置の中を物色させてくれるだろうか。せめてジンケがいてくれたら……。ジンケーー? そうだ、ジンケの父親は研究所の職員だった。この人しかいない。他の大人なら一笑に付すところだろうが彼ならきっと聞いてくれる。そして、何より話すべきだ。彼の息子の今を……。



 × × ×


 書き置きを残すこと、散らばった掃除道具を形だけでも片付けること、この二点だけは間違いなく済ませたつもり。ただ、それで留守にして良いとは思っていない。今夜はなんとなく帰れないような気がしているが、無断外泊が許されるとも考えていない。きっと大目玉だ。最悪なのは警察に通報されること。とにかく最悪の最悪を想定しても過ぎるということはないだろう。だって、これまでの人生で親の言いつけに背いたことなど一度もないのだから。

 先生たち(ジンケの父親も含む)と別れてから、一度それぞれの家に戻ることにした。もちろんヨリコも身支度をしに帰った。特に難しいような顔はしていなかった。きっと放任主義の理解がある両親なのだろう。うらやましい。今度もヨリコが私を迎えに来てくれる。目的地へ行くにはその方が近いからだ。どこへ行くのかはっきりと教えてくれたわけではなかったけど、もう私にはわかっていた。あの人に会うのは、とてもとても重要なことで、同時に私の中の芯の部分をとても悲しくさせることだった。

 悲しいといえば、ついさっき、急に胸が痛くなった。なんだろう、一言で言えば喪失感? 胸にぽっかり穴があいちゃったような、とてもやるせない感じ。いやだな。探しに戻りたい。でも何を落としたのかいまいちわからない。まさか、男の子たちの身に何かが……? そうは思いたくない。彼らは頼り甲斐があるのだ。そんじょそこらの大人なんかには負けない強さがある。結束がある。信念がある。私はそう信じる。

 外に誰かいる。早足でこちらに向かっている。この数時間で随分と感覚が鋭くなった。おそらくヨリコだろう。歩幅が彼女のものと一致する。早かった。身軽なヨリコ。自立したヨリコ。ヨリコは私にないものを持っている。なんとなく大人っぽい。彼氏が……いるのかしら?

 予想とぴったりのタイミングで玄関のチャイムが鳴った。身支度を整えたカホリは戦地に赴く心持ちでドアを開けた。



 × × ×


 シーズンオフ中の研究所を訪れる者は極めて珍しい。郵便物が届くことも滅多にないのだから、所内に響き渡るどこか懐古的な呼び出しブザーの音は当然のように警戒の色を帯びた。

 返事はせずにそっと入り口のドアを開けた。なんのことはない、見慣れた顔だった。息子の一番の親友、スグルだ。それに驚いたことにガイくんがいる。彼らの顔を見ると訳ありの表情。それは語らずとも察することができた。事態はトントン拍子に展開している。こちらからアクションを起こさずとも、勝手にトラブルが近づいてくる。もう一人、意外とも言える顔が見えた。スグルとガイ少年から少し距離を置いて、やや斜に構えた中立的な立ち位置を取っている。この少年も見たことはある。だが名前は覚えていない。かなりやんちゃな髪型をしているが、前の二人よりもずっと落ち着いた雰囲気。すでに成人の表情をしている。同じ学年でもこれだけ面構えが違うのかと、感嘆の念を覚えつつ、達郎は三人を招き入れた。


「聞いているよ」まず達郎はそう言った。

 自分一人なのでそれほど警戒されないだろう。教師の木村と川上は別行動だ。パトロールのつもりなのだろう。一箇所にじっとしていられないのは教師ならば尚更だろう。だが、探し物は得てして向こうからやってくる。これは良い傾向なのだと思う。いくら子どもの方から話したがっていても、ここに大人が三人もいれば(それが教師ならば尚)、子どもたちは理由のない後ろめたさで口をつぐむかもしれない。子どもはそれだけ生きづらいのだ。どうしてか今は痛いほどそれがわかる。

「全部聞いた」達郎は重ねて言った。「おじさんは、息子を信じている。だから君たちのことも、わかると思う……」

 この言葉で少年たちの緊張(見えないバリケードのようなもの)が解けたようだ。特にガイ少年は泣き出しそうなほど顔を歪ませ、後ろの少々悪ぶった少年までも頬を紅潮させた。スグルだけがまだ何かと戦っているかのように自制心を保っていた。

「おじさん……」スグルは口を開いた。「これ、分析できますか?」

 少年が差し出したものは瓶だった。ガラスの瓶。中は空……いや、透明? 何かしらの液体なのだろうか、ほぼ飽和状態に満たされている。これは水なのか? 妙な感じだ。なぜだか水に疑いを持つ自分がいる。いや、水だろう。そうとしか思えない。透明感が水のそれである。むしろ純水。限りなく見通せる。いや待て、水はそんなに透明だろうか、ガラスはそんなにクリアだろうか、この透明感が逆に後ろ髪を引く。何か相容れぬオーラのようなものが瓶を取り巻き、不気味な保護色をまとった何者かに覗かれている。擬態と疑惑をごちゃ混ぜにした感覚がぐいぐいと達郎の胸を締めつける。そして何より決定的なのがスグル少年の顔だ。決意、そして極限の疲労を乗り越えた精悍とも言える顔つき、その先に一瞬息子が見えたような気がした。そう、これは確かにスグルの顔だが、同時に息子の顔でもあったのだ。

「これは……?」達郎が手に取ろうと手を伸ばすと、「うわっ!」思わず声が出た。

 動いたのだ。瓶の中身が動いた。透明な液体の中で、透明な何かが動いたのだ。目の錯覚だと言われればそれまでだが、とにかく達郎は心底驚き、尋常ではない心拍に吐き気をもよおした。遅れて気づいたが、これは恐怖なのだった。



 × × ×


 タクシーの運転手はヨリコとは顔見知りのようで後部座席に乗り込むと「またお姉ちゃんかい!?」と驚きと喜びが入り混じった顔を見せた。また、カホリに気づくと急にすまし顔で、「ほほう」と心の声がつい漏れてしまったかのような声を出した。それは生まれて初めて国宝を目の当たりにした三流鑑定士のようでもあり、虚勢と戸惑いが混在した得も言われぬ反応だった。

 アメリカの荒野にはトレーラーハウスが似合う。しかしここは日本。それほど広大な荒野などない。それほど巨大なトレーラーも必要としない。だがヨリコは言った。「トレーラーハウスまで」と。

「トレーラーハウス?」運転手は聞き返した。

「とりあえず……」ヨリコが答える。「キャンプ場の方へ」

 民家の感覚はどんどん離れ、それぞれの門戸に備え付けられた犬小屋の中身も空っぽ、いよいよ道路は絶望的に生命の気配を殺す。

 このまま進むとキャンプ場だ。オフシーズンのキャンプ場。門は閉ざされ、わずかな虫とカラスのみが立ち入ることを許される閉鎖空間。タクシーは速度を緩めるがヨリコの「まっすぐ」という指示の元、慌ててアクセルを踏み込む。この少女には何か威圧的なものがある。しかし悪い気はしない。遺伝子に刻み込まれた隷属感情がこの少女に対しては心地よく働くような気がする。この子はお嬢様か? いや、どちらかといえば隣の美少女の方がプリンセスといった面持ちだ。であるならお姉ちゃんの方は世話役? いわゆる執事のようなもの? 運転手はそこまで考えて、どうにもバカげた空想だと気づき運転に集中することにした。

 このまま進むと隣町だ。隣町に入る前に一つ山を越える。通称ガス山と呼ばれる峠道は年中濃霧に包まれる。ガスとは濃霧のことで、最盛期の夏場では1メートル先の視界さえ確保できなくなる。きっと神隠しとはこのような状況で起きた事故なのだとヨリコも運転手もカホリでさえもが一度は考えるが神隠しに遭ったなどという事実は少なくとも彼女たちの記憶にはないことに行き着く。その度に胸の奥がちくりと痛み、平和に対して嫉ましく思う自分に気づきハッと思いとどまるのだ。

「そこ、右に、右の道に入って」ヨリコは言う。

「右?」運転手は戸惑う。こんなところに道なんてあったか? 閉ざされた林道の入口なら見かけなくもないが「右……」藪で覆われて先に進めるわけもないだろう。その先に何があるというのか。「お、あった、あった」と運転手は急ハンドルを切る。

 およそ道とは言えない。牧草地の出入口かのような草を踏みしめただけの地面。だが明らかに人が通った気配がある。車が通った痕跡がある。運転手の運転手たる勘がこの先に人が住んでいると告げる。彼には職業柄、人々の営みへと通じる線のようなものを感じ取ることができる。だが、彼自身そのことを意識したことはない。

 むき出しの土。申し訳程度に砂利が混じる。所々、陥没したような穴が空き、右のタイヤで避けたとしても左のタイヤが嵌り、車体はスキップめいたアップダウンを繰り返す。と、サイロが見えた。干し草を発酵させるための塔型の倉庫。今では滅多に使われることのない遺物だが、このサイロは妙に小綺麗だ。それにこんな所に牧場? 運転手は決してベテランというわけではないが町内の道には詳しい方だ。それでなくとも小さな町である。二年前に置き薬のセールスマンからタクシードライバーに転職したわけだが、セールスマン時代にも町の隅々まで飛び回っていた。その彼が知らない牧場。まるで霧の中に埋もれてしまったかのような牧場。それが今、目の前に広がっている。

 規模はすこぶる小さいようだ。古い(それもとてつもなく)自動車が一台。放牧用の広場も崩れ落ちそうな牛舎も、つがいのポニーのためだけに作られたかのように小ぶり。せいぜい牛5頭、ヤギ2頭が良いところだ。他にも用途のわからないプレハブ小屋や物置がいくつか点在するが肝心の家がない。

「へえ……」運転手は意味もなく感心したような声を出した。

「あそこ」ヨリコは言った。

 運転手はその声に押されるように足の力を緩めた。意識せずに停車していたらしい。反射的にバックミラーを見ると「あそこ」を指していたのは声の主とは別の少女だった。外見は似ても似つかぬこの二人の少女は精神的双子であり、座席の下の見えない部分は血の通ったパイプのようなものでつながっているのではないかと運転手は思った。いや、直感した。

 そして三人は見た。古き良きアメリカを彷彿とさせるトレーラーハウスをーー。


「おじさんこんなの初めて見たよ。人、住んでいるんだよね? 映画みたいでかっこいいなー。若い時、こういうの住んでみたいって思ったけど、どうなんだろ、いろいろと面倒なのかな? じゃあ千円ね。端数はおまけしとくから」

 ヨリコが支払った。カホリも財布に手をかけたが、おかっぱの少女は冷たくあしらった。それでもやはり悪いと思ったのでタクシーを降りてからヨリコの手に千円札を握らせると今度は何の抵抗もなく吸い取られた。小さな手だった。乾燥してささくれ立っていた。自分から渡しておきながら、幼いスリ師のような手だと思った。

 金を受け取ったヨリコはトレーラーハウスに直進した。その後ろ姿が保護観察官とか弁護士みたいに見えた。何か悲しいほどの使命感がその背中からほとばしっていたのだ。カホリはその決意の噴水を浴びながら後に続いた。

 トレーラーハウスは鈍い銀色、ブリキのおもちゃのようなずんぐり体型。こういったものにはどのような種類の鉄が使われているのかカホリには皆目わからなかったが普通の車体とは違うだろうと思った。頑丈さを優先するあまり塗装はしていないようにも見える。きっとど素人の自分では全てが見当はずれに違いないが、なんとなく鉛や錫といったもので出来ているような気がした。

 小さなドア。丸く切り取られたおままごとのような玄関。だが、ひどく泥で汚れている。確か家畜の糞を壁に塗り込む古代の建築様式があったはずだ。でもこれは違う。何かもっと、排他的な、それでいて自らをも虐げる贖罪的な佇まいをしている。

 ヨリコがブザーを鳴らした。「ビー」という愛想のない音。鉄の鳴き声。石化した牛のげっぷ。

 反応がない。ヨリコはブザーを連打した。何度も何度もしつこいくらい押し続けた。「ビビビビビー」。やがて、のそりと中で何かが動いた。牛が寝返りを打ったかのような愚鈍な動き。決してブザーの音に動じるわけでなく、その「のそり」とした存在は鉄の壁を隔てて一定の動作を続ける。その見えない手順に不思議と胸のたかぶりを覚える。なんだろう、夢で見たような、遠い祖先のおまじない……。

 ヨリコはブザーを押すのをやめた。もう十分だ、というふうに直立のまま待つ。少し首を傾げて音楽でも聞いているかのようなリラックスした姿勢。この時間が不思議と美しい。そうカホリには感じる。

 やがて、のそりとした気配は床を軋ませながらドアに近づく。決して急がず、決して慌てず、巨人のように、のそりのそりとドアの反対側に立つ。

 開いた。薄暗いドアの隙間にぼんやりと浮かんだ顔。老人だ。いや、それほど年老いてはいないが目の周りに刻まれた皺は深い。どうやら女。まるで魔法で老婆にされてしまったかのような女。どうしてか中身は若いままだと思えて仕方ない。

「おばさん」ヨリコはそうとだけ言った。

 おばさんはまずヨリコの足を見た。それから順繰りと頭頂部まで舐めるように眺めた。まるでヨリコの中身を見定めているかのような視線。猫のようなまっすぐな目。次にその視線がカホリを捉えた。まんまるで無感情の目だ。

「友達なの」ヨリコは言った。「あたしたちの中で、一番優秀な子」

 ぐっとおばさんの顔が近づいた。

「ほんとうじゃ」おばさんは言った。「お姫さんみたいじゃ」

 そこにあるのは無感情な獣の目ではなかった。笑という漢字そのままの皺くちゃな視線。それがカホリの全身を照らした。

 おばさんに「ほれ」と促され、まずヨリコがトレーラーハウスの中に消えた。中は薄暗くて少し湿っていた。酸素が濃いような空気だった。このおままごとのような丸いドアは別世界へと繋がっている。そう、このトレーラーハウスは異星への入り口なのだ。だが怖くはない。異星と言ってもきっと心の故郷のような場所。なぜだろう、どこか懐かしい。カホリは誘われ、そして求めるように足を踏み入れた。

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