バトル3
空中で体勢を変えることは容易ではない。だがナオユキはそれをやってのけた。体を動かしたという意識はない。今回もやはり命じるだけで事足りた。逆に体が先なのかもしれない。追って思考がついていく。意志を持つ肉体。きっと、体内のジンケがリードしてくれているのだ。
超人的なベリーロールで毒沼の外に脱出した。着地はかなり不格好で口に砂が入った。体勢を整える前に毒沼の大きさを目で測る。危なかった。つい鼻先で硫黄めいた瘴気が〈ぽこん〉と泡を立てた。試しに口の中の砂粒を弾丸の如く吐き出す。水面に触れた砂つぶはたちまち蒸発した。酸なのかアルカリなのかわからないが、猛毒であることに変わりなかった。
近づきようがない。双頭の友人は、己の下半身を融解させ、身の回りに毒の沼を生成した。毒沼は蜘蛛の糸の液体版、その効果もエグいもので、相手の生体組織を溶かして吸収するという理解不能なものだ。これは最大の防御であり最大の攻撃。いくらナオユキが至高の身体能力を手に入れたとはいえ、これでは歯が立たない。何か武器がいるな……そうナオユキは考えた。
まだ口の中に砂の質感がある。その石灰めいた味に導かれるように足元の砂利を握りしめた。硬く角ばった感触ーーこれは磯砂利、中には石包丁並みに鋭利なものもある。やってみるか……。ナオユキはブレイクダンサーさながら、上半身と下半身を別々の方向にねじった。
スリングだーー!
びゅん、という音と共にナオユキの体は竜巻となった。その凄まじいエネルギーはほんのごく僅か持続し、始まりとは別の方向にねじれたナオユキの体がそこに残った。だが、その威力は絶大だった。荒ぶる竜巻が気まぐれに射出した石つぶてはショットガンさながら標的を蜂の巣にした。そう、ガイもといハッセもとい哀れなタカシを人質に取った驚異の合成人間は今や質の悪い板海苔のように穴だらけだったのだ。
「タカシ……」その破壊力にナオユキは凍りついた。思いつきにしてはひどすぎる殺傷力。これではタカシまで傷つけてしまっただろう。そうに違いない。
「びよーん」間抜けなユニゾンが響いた。聞き間違えるはずがない。ガイとハッセのだみ声だ。彼らは再生していた。びよーん、と口にする度、数にして10の穴が塞がる。びよーん、びよーん、びよーん。これですでに40。ナオユキが手にした磯砂利の数はいくつだった? せいぜい50が関の山だ。それすなわち、ノーダメージ。
だがナオユキは同時に安堵もした。このようにいとも簡単に再生できるということは中のタカシも無事だということだ。そしてどうやら物理攻撃は完全に無効化される。ならば好都合。全力を出せる。彼奴の体を粉々に切り裂いても中の友人たちは無事だというわけだ。これで心置きなく核を探せるというもの。とはいえ不安要素は尽きない。何か重大な見落としをしているような気がする。相手にしているのは人間ではない。動物でも植物でもない。元々地球内に存在していたものか、はたまた宇宙からやってきたエイリアンなのか、それを知ったところで何も変わらないが、とにかく人類の常識で考えると痛い目に合う。本当に核はあるのか……? それはあるはずだ。ジンケもそう言ったではないか。ある意味彼奴らに一番近い存在であるジンケの言うことを信じなければ何を信じれば良いのだ。だが、核……その気配がしない。彼奴の余裕、彼奴のおどけっぷり、嘘つきの天才を信じて疑わない幼児期の狡猾さを感じて禁じえないのだ。ならば……俺はどうする?
「さすがナオユキだ、底が知れねえや」ハッセが言った。
「それでこそ四天王最強の男」ガイがそれに答える。「誰にそそのかされたか知らぬが、元は我らと運命を共にする同士。我らと同化し、それぞれの方角を支配する四兄弟なのだべ!」
二人の距離はごくごく近い。まるで愛をささやく恋人同士。それもそのはず、二つの頭の出処は一つの首なのだから。
彼らは油断していた。明らかに危機を感じてはいない。自分たちは安全だという裏付けがある。だからこそナオユキは理知的になった。強大な力が備わったからこそ、その力に溺れないために、攻撃的な狩猟から、理知的な採集へと本能のシフトチェンジを行った。
ダッシュ。目指すは毒沼のきわ。助走が足りない。すかさず飛び込み前転。きわを越さないように動作を極めてコンパクトにまとめる。まるで歯車。座標は保ったまま生み出す推進力。視界がぐるりと一周し、再び地面を捉えた。きわだ。すかさず軸足を突き出し、全体重を投げ打つ。彼は投擲競技の槍と化した。毒沼を飛び越え、標的へ向かって諸手の切っ先を突き出す。だが助走が甘かったか……。その勢いとは裏腹に槍の進路は見当違い、とまでは行かないものの、苦し紛れに角度を変えた切っ先で怪人の頬をかすめ取る。
「あれ?」頬をかすめ取られたガイ側の口が言う。
ナオユキは毒沼を飛び越え後方の岸に着地。ややバランスを崩し、肩で受身を取る。決して諸手は開かない。中に雛でもいるかのように、ドーム状に保ったまま。〈よし、成功だ〉心の中につぶやいた。
〈確か捨てていなかったはずだ〉ナオユキはズボンの後ろポケットを探った。くしゃりとしたビニールの感触。マエダのパン。揚げ油と粉砂糖にまみれたマエダのパンのビニール袋。取り出すや否や、諸手の中身を袋に突っ込む。スライムか……? これによく似た和菓子も知っている。食べたことはないが確か水饅頭。ついさっきまで級友の頬だったものが、今や無色透明のゼリー状。ナオユキは採取した。敵のサンプルをかすめ盗ったのだ。
「あれ?」ガイが損失した頬に指先で触れる。むず痒くてたまらないといった様子だ。だがそこに皮膚は存在しない。切り口からとろりとした透明の液体が垂れる。
すかさずナオユキはビニール袋の口を縛り、今度は上着のポケットに突っ込む。ビニールが破れるようなことがあってはいけない。上着の左のポケット。ここは死守しなくては。さあ、次はどうする。一旦、逃げるが賢明か……?
と、嫌な匂いが鼻をついた。足元で気泡が弾ける音がした。生臭いヘドロ臭が目に見えるような質感でナオユキの顔を撫でた。毒沼だ……。一瞬の気の迷いが、致命的なミスとなった。ガイは演じていたのだ。かすめ盗られた頬に気を取られたふりをしながら、捕食の網を忍ばせていたのだ。
がくんと膝が落ちた。踏み外したのか? 下り階段の最後の一段が計算外だった時、こんな予期せぬ衝撃に包まれる。だが違う。肉体と精神の不一致治っではなく、これは現実に膝が落ちたのだ。水たまりほどの深さしかないはずの体液の沼に、膝まですっぽりと落ちたのだ。
この下はどうなっている……? 途端に恐怖が押し寄せた。タカシが取り込まれる一部始終を見ていたのだから予想はつく。だからこそ、膝を持ち上げてみたい欲求が削がれる。もうすでに、膝から下は消えたのだ……。
ナオユキはやみくもに駆けた。膝下の所在などどうでもいい。とにかく脱出しなければ、負けは確定だ。だが、まさに底なし沼にでもはまったかのように、もがけばもがくほど状況は泥沼。そして沈んだ部分はもう二度と浮かんで来ない。沼との接地点から現在のナオユキが始まるのだ。沼から下はこの世にあらず。暗黒宇宙の掃き溜めなのだ。
接近戦だ。もうそれしかない。力で力をねじ伏せるしか道は残されていない。ナオユキは沼の中心へ向けて、思い足を引きずり始めた。
リングの中央にはヘビー級のボクサーが待ち受けていた。成長期の少年三人分の質量。一人50kgと考えても単純計算で150kg。およそナオユキの倍だ。無論、このような巨漢とやりあったことなどない。そもそも誰とも本気で殴り合ったことなどなかった。勝つ方法などいくらでもあったからだ。だが、今回は違う。万策が尽きた。勝つ術を見出せない。超自然的なジンケの力で肉体を強化された状態でこうなのだ。そして、何より時間がない。すでに最終ラウンド。こうしている間にも無慈悲なカウントダウンは進み、存在そのものがシュレッダーにかけられる。細切れになれば……もう日常には戻れない。
無様! 悪あがき! どう呼ばれても構わない。恥も外聞もかなぐり捨て、勝ちに執着してやる。涙と嗚咽を漏らしながらでも最後までしがみついてやる。死にたくない……俺はまだ死にたくないし、ダチだって死なせたくない!!
「おおお!!」
ナオユキは突進した。そこには何の計算もなかった。強者に対する原始的な力の誇示であり、たがの外れた威嚇であった。時に被捕食者が捕食者を喰らうこともある。野生にはまだまだ不思議が満ちており、その本質はパワフルかつダイナミックなのだ。
捕食者は不意をつかれた。やけくそで突進してきたものと見えたが、ただの体当たりなどではなく、それはいわゆるラグビーのタックルだった。踏ん張ったのもつかの間、瞬く間もなく捕食者は空を見上げていた。
ナオユキは勢いそのままに組みついた。今や全身が怪物の皮膚に触れている。真夏の苔むした沼のようなその感触は不快の一言ではあまる。あまりに過ぎる。しかしいかなる心理的反射も今は無視せねばなるまい。手を休めるわけにはいかない。間髪入れずナオユキはマウントポジションを取り、この地球ごと破壊するつもりで流星のような殴打を決めた。
水が弾け、塩辛い液体が舌先を濡らす。
相手は両腕でガードを決めるが、まるで話にならない。弱すぎる。格闘の面では完全に素人。だが手は弱めない。水の一滴になるまで拳を打ち込んでやる。どれだけ再生しようと、それ上回るスピードで破壊してやる。この塩辛い液体は汗なんかじゃない。こうして手合わせすればわかる。こいつは運動などしない。鍛えるべき筋肉も存在しない。ただの模倣だ。仲間たちを利用して、ふざけて、真似して、遊んでやがるーー。
新たな怒りがふつと沸き、脳に気泡のようなものを生じさせた。おそらくこれは水に対するアンチテーゼ、爆発的に連鎖する怒りのガスだった。
〈打撃だけでは生ぬるい……〉
一度ガスが充満すると、抑えきれない破壊衝動が今か今かと点火を待ちわびた。どこか排泄行為を極限まで我慢するかのような焦燥感を伴いながらナオユキは相手の腰を持ち上げた。
重機だ。ブル、ショベル、トラクター。足場の悪さなどクソ食らえ。圧倒的な力の前にはアメーバ野郎の出る幕なし。感じるぞ圧力。怒りのガスを閉じ込めたエアサスペンション。それが俺たち。そして力の源は霊。もはや俺のCPUと化した風変わりなあいつ! 俺たちならできる。俺たちなら勝てる。さあ、行こうぜジンケよ!
「おおおお!!!!」
一気に持ち上げた。これがガイ、ハッセ、タカシ、三人分の重量か? それにしては重過ぎる。まるで巨大な貝柱だ。全精力を持ってしてこじ開けられるのを拒否。だがそれも重機の前では無駄な努力。自然物は圧倒的力学の前にひれ伏すのみ。それが知恵。それがテクノロジー。それが人間の超科学!
べり。鈍い音がした。べりべり。何かが剥がれる感触。ナオユキは腰を落とした。べり、という音をもっと明確にするための挙動。持ち上げると同時に腰を落とすことによって、対象物の乖離を促す。べり。特大の昆布を根っ子ごと引き抜くかのように、巨体は持ち上げられた。
バックドロップだ! 巨体は天高く舞い上がり、その到達点から直下降の雪崩式。計算通り。雪崩式のバックドロップは十分な距離を稼いだ。巨体の後頭部の到達先は毒沼を越えた先。その起源は古代エジプトにまで遡る人類の英知。言わずと知れたアスファルトだ!
まるで噴水だ。遠目に見れば、観賞用の噴水と戯れる少々頭のネジの外れた大柄の少年だと思われるかもしれない。だが次第にその水量を落とし始めた噴水の末路を見れば気も変わるだろう。変わったところで思考停止が関の山だが、何かとんでもない事態だとは想像出来る。新手の遊戯に興じる少年たち、いや、重大なトラブルに巻き込まれた少年たち。そう、少年たち! 激しく飛び散った噴水の飛沫から、一人、また一人と少年たちが投げ出された。彼らは三人、それぞれが溺死寸前の虫の息である。
「にゃああ……」
空耳か……? いや、猫の鳴き声など珍しいものでもない。その辺の草むらにでも潜んでいるのだろう。それよりも問題は彼ら、生きているのか死んでいるのか微動だにしない。生まれたばかりのウミガメのように全身を青白い粘液で包まれ、ミイラのように横たわっている。それなのにーー、
毒沼は消えない!!
未だナオユキの膝より下は毒沼に浸かったままなのだ。一体なぜ……? 万事休すか? これで終わりなのか? いや、孫氏曰く、絶体絶命の危機にこそ活路は開かれる、なんてことを言っていたはずだ。違うかもしれないが、千年以上前にそんなことは言っていたはずなのだ。すなわち、勝者は諦めないのだ。諦めないから負けないのだ。この状況、これこそが活路を見出す土俵以外ではないのだーーなぜ毒沼は消えない? ガイとハッセとタカシを吐き出してもなお、毒沼が存在するのはなぜだ? なぜだ! この強い疑問、腹立たしい、憎たらしい。だがこの疑問こそ答えへの道標。逆転の発想だ! なぜ……この毒沼こそが本体、この毒沼こそが核だからだ! それ以外に答えなどない!
がくん。また一段、水平線が近づいた。すでに膝下は水の中。答えが出たところでもう遅いのかもしれない。よくやった。善戦したと言えよう。最期まで諦めるつもりなどないが、どこか清々しいような気分も混在し始めている。これが死期を悟るというものなのか。悪くない。これはこれで、一つの到達点なのかもしれない。
〈だめだ……〉
内なる声がこだました。
〈あきらめちゃ……だめだ……〉
ああ、わかっている。まだお前の力を全て引き出していないことも十分にわかっている。しかし、戦いは数学ではない。足し算でも引き算でも掛け算でも割り算でもないのだ。ジンケ、お前ならわかるはずだ。戦いとは、儀礼である。戦いから得るものは、新しい自己だ。そのためには一度死ぬ必要がある。混沌の海をくぐり抜けて、価値ある生を見出すのだ。
ずしりと重い感触がナオユキの背中にのしかかってきた。
ああ、これもわかっていた。お前は完全にそっち側についちまったんだ。お前の意思で、お前自身の選択で、こうなっちまったんだな!
ガイ。怪物の呪縛から逃れ、粘液まみれで息も絶え絶えのガイ。だが、いつの間にやらナオユキの背後に近寄り、かつ大胆にも覆いかぶさり、その全体重を持ってして毒沼に沈めようと躍起!
「ナオユキ……いい加減に……観念するんだど……」
ああ、このまま行ってしまおうか。お前とはとことん話し合う必要があるようだしな。お前の気持ちもわからないでもないよ。強い者に巻かれる気持ち……それもまた真理だ。お前とは、とことんやりあう必要が
ある。拳だけでなく、談判の場でもな……。
と、ナオユキの左右に二つの影。よし、みんなで行こうや……。そうナオユキが観念しかけた刹那、現状とは別のベクトル、沼に引きずり込むのとは逆の浮力を感じた。
言葉はない。だが感じる。諦めかけた心に寄り添い、そっと背中を押す温かい手。これはあの時と同じだ。三人が一人になった時、二人の友達が勇気を分けてくれたあの時。
ハッセがいた。そしてタカシがいた。二人はナオユキを両側から支えた。沈まないように。そう、決して沈まないように。沈むわけがない。ガイ一人に対してこちらは三人。皆、亡霊のように憔悴しているが、三人揃った今、沈むわけがないのだ。
「くそおおおおおーーー!!!」ガイが苦渋の叫びを上げた。「みんなで行くんだどーー」
びちゃ。何かが弾けた。ナオユキの頬にもその何かが付着した。つんと鼻をつく匂い。これは……、わかりかけた時、目の前のガイが焼けた。「ぎゃあ!」と鳴くや否や、蒸気を上げて溶け出した。
「ユキちん! だいじょうぶか!!」
スグルだ。スグルが駆けつけたのだ。と、何かが飛んで来た。ぴゅん、という音と共に、今度はハッセの方に着弾した。
「あちっ!」焦燥していたはずのハッセだったが、飛び上がるように叫び悪態を撒き散らした。「てめ何すんだこのやろ!」
「ごめん外した!」スグルは喰い気味に返し、すぐさま二の矢を放った。
銃? スグルが抱えている物はどう見ても銃であった。しかしなぜ? マシンガン? ショットガン? ライフル? さすがのナオユキも銃の形状については無知。だが、とにかく言えるのは、スグルが脇に抱えているブツは余程の代物だということ。一体どこであんなものを……。
当のスグルは駆けつけながら銃を乱射した。流れ弾がナオユキにも当たるが痛くもかゆくもない。我が同胞、ハッセとタカシは火の粉のシャワーを浴びたかのように「あつい、あつい」と連呼。
ナオユキは匂いを嗅いだ。再びつんとした匂いが感じられた。これは病院の匂い。これは注射の匂い。これは消毒液の匂い。間違いない、これはオキシドールの匂い。
「弟の友達が団地に住んでるんだ!」スグルが叫んだ。「サバゲーが好きでさ、これはウォーターガンだけどよくできてるだろ! だけど、どこに住んでるかうろ覚えだったから時間かかった! ついでに消毒液も分けてもらった。そいつの母ちゃん潔癖性なんだ! 量が足りなかったから、焼酎もらって薄めてみたけど、案外効いてるみたいだな!」
駆けてくるスグルを見ながら、救われたという純粋な想いに束の間を捧げた。だが、その安堵への埋没は不意に(殆ど暴力的に)遮られた。まさに心臓が凍りつくとはこのこと、疲労困憊のさ中に全体重を投げ出した先が剣山だった、というような痛みすら伴う驚き。スグルの背後に何かがいたのだ。何かがスグルを追いかけていたのだ。そして、ナオユキはその何かを知っていたのだった。
「スグルーー!! そいつだーー!! そいつが核だぁぁーー!!!」
ナオユキは叫んだ。と同時に駆け出した。しかし、何だこの違和感は? 妙だ……何故ダッシュできる? ちゃんと大地を蹴っている。足も無事(靴はどこかえ消えてしまったが)だ。俺はちゃんと走れている。それもそのはず、あれほど難儀を強いられた毒沼が忽然と消えているではないか!
それ即ち、目論見は的中ーー、且つ核は確定。しかしあんなに小さな体にあの毒沼がすっぽり収まるのか? そんなことはどうでもいい。理屈の通じる相手ではないということは嫌でも思い知らされた。それより今は、スグルが危ない!
弾丸のように飛び出したナオユキの剣幕に瞬時にしてスグルは悟った。そして未だ感じたことがないおぞましい気配に戦慄した。即ち、ようやく遭遇することと相成ったわけだ。自分だけ超自然的体験のおあずけを喰らわされて来たことに不満を持っていたことは確かだ。だが今では悔いる。こんな経験なぞいらない。それほど背後に迫るおぞましさには我慢がならなかった。ーーいる。敵はぴったりと背後にいるのだ。
チャンスは一度きり。振り向きざまに照準を決めて発射しなければいけない。躊躇するとやられる。生まれて初めて意識した生存本能が全力でそう訴えていた。
だいじょうぶ。たとえ外したとしても、そうナオユキがいる。振り向くと同時に、きっとナオユキも加勢してくれる。一人じゃない。一人じゃないんだ。
スグルはそのままのスピードで体を反転させた。
猫!? それも子猫! まだ乳飲み子、警戒心の全くない、人間を区別なく母親だと慕う刷り込みの申し子。完全なる家猫がスグルの後を追って来ていた。
「撃てぇぇーーー!!!」背後でナオユキが叫んだ。
これを撃つ? だって子猫ではないか。撫でて欲しくて、遊んで欲しくてたまらないといった様子の愛玩動物100%ではないか。
ーーだが、撃つ! 理由など知るか!!
スグルは撃った。この時すでにアドレナリンが全身を駆け巡っていた。銃口から発射される薬液がスローモーションで再生された。自分には射撃の才能があることをスグルは漠然と知っていた。ジンケが霊になるように、ナオユキが神の運動神経を誇るように、スグルには類い稀な空間認識能力があったのだ。そこに的があるならば理屈抜きで着弾させることができる。これはひとえに才能以外の何物でもなかった。
だから着弾は確実だった。弾道は正確だった。圧縮して押し出された薬液の矢がまっすぐに子猫の眉間めがけて放たれた。
生まれて初めての超自然体験としては過激すぎた。もう二歳若かったらトラウマものだ。だが十四歳は神秘の時代。心的外傷を糧にする唯一の変革期なのだ。
子猫の頭が二つに割れた。灰色の脳が見えた。すると脳も二つに割れた。断面ははち切れんばかりのゼリー状で、精巧に細工された水菓子のようだった。ーーフェイクなんだ。これは、いわゆるクリオネなんだ。スグルはそう思いながら、薬液が子猫の割れた頭部を通過するのを傍観した。かわしたのだ。自らの頭部を分断させて、着弾を逃れた。スグルの才能は根本から覆されたのだ。
「スグルーー!!」ナオユキの怒号。
衝撃。世界がゆれた。いや、アメフト並みのタックルで突き飛ばされた。間一髪、二股に分かれた子猫の頭部が鋭利な触手と化してまさに大バサミの如くスグルを両断する直前だったのだ。
ナオユキ……。いや、もう一人いる。ナオユキの肩にしがみついた亡者のような顔色のタカシ。
「猫ちゃんさまぁ……」
蚊の泣くような声が届く。背後ではこれまた亡者のような顔色をしたハッセに取り押さえられたガイ。だが既に被疑者の戦意は喪失しているようで、すがるような目つきで化け猫を見つめている。
それよりナオユキ、未だ戦意を保ち未知の敵に戦いを挑む勇気ある男。その彼に刃が向けられた。ナオユキは丸腰だ。しかも(原因不明だが滑稽にも)タカシを背負ったままだ。刃……そう、まさに刃としか言いようがない。超自然的なことに免疫などないスグルには見たままに理解するしかない。子猫の頭が二つに割れて、まるで巨大なクワガタのような武器と化したのだ。いくらナオユキでも分が悪い。そうさ、わかっている。これがこちら側のフェイク。まだスグルのターンは終わっていないのだ。
ショット! スグルは静かに引き金を引いた。発射された薬液はまるで見えない糸で導かれるかのように化け猫の片方の刃に着弾した。
「ぎゃあああ!!!」
さかりのついたメス猫のような叫び声をあげた。片方の刃が湯気を上げて溶け出し、その表面に浮き出す擬態模様かのような猫の目がスグルを睨みつけた。
すると、猫が飛んだ。そう、まさに羽ばたいたのだ。どこからともなく現れたワシの羽根が猫を持ち上げた。いや、羽根は化け猫の背中から生えていた。そしてこれもやはり、どこか水菓子のように潤っていた。
飛んだら飛んだで撃ち落とす。羽ばたいた鳥ほど狙いやすい獲物はないのだ。
ショット! 発射された薬液は頭上で拡散、放り上げたスパイダーネットかのように獲物を捕らえた。
「んぎゃあああ!!!」
怪物は叫んだ。そしてまっしぐらに落ちてきた。宙で踊り狂う。奇声を上げながら、ぐるぐる、ぐるぐる、目まぐるしく、どこか見覚えのあるような動物のパーツで組み上げられたルービックキューブの如く、世界最小の博物館はここにありと言わんばかりの貪欲さで超高速の擬態博覧会を繰り広げる。そしてみるみる大きく、重量を増し、遂には巨大な……海獣ーー。
トドだ! 空から1トンはあろうかという肉と脂肪の塊がスグルめがけて落ちてくる!
こんなのあり!? スグルの思考は麻痺した。停止した。こんなもの、いくら薬液を浴びせても意味がない。イヌイットだって舌を巻いて逃げるはずだ。だって、トドは空から落ちてこないのだから。
衝撃ーー。終わったと思った。しかし、本当に終わったのならば思うなんてことは不可能なはずだ。どうやらまた吹っ飛ばされたようだ。今はアドレナリンのおかげで平気だが、数時間後には全身が激痛に見舞われるだろう。スグルは目を開けた。視界いっぱいに飛び込んで来たのは隆々たるナオユキの背中。信じ難いことだが、あのトドを支えている。ウェイトリフティングの要領で持ち上げているのだ。注目すべきはその背筋。スグルの知る限り、ナオユキはこれほどまでにマッチョではなかった。ホルモンを過剰摂取したボディービルダーの如く筋肉が溢れかえっているではないか!
タカシがいない。いや、これまた信じ難い映像にスグルの情報処理能力は追いつかない。まるで抽象画だった。タカシはナオユキに同化していた。まだスグルには芸術というものがわからない。だからシュールレアリズムの真意など到底理解できない。だから見たままをありのままで受け入れるしかない。タカシはナオユキと同化していたのだ。ナオユキの肩甲骨のあたりから野生のキノコのように生えていた。スグルはこう理解し(ようと努め)た。きっと、タカシの(表に出ていない下半身が)ナオユキのあり余る背筋を助けているのだ。そして気になるタカシの上半身、タカシの意志を率直に遂行する両の腕はナオユキの剛腕を助力するようにトドの喉元へと伸びていた。しかしタカシのような細腕では何の助けにもならないのは目に見えている。そう、タカシの狙いとは単なる腕力サポートではなかった。刮目せよ、あのもやしのような細腕を、ミミズのように脈打っているではないか。すわ! 彼は吸い取っているのだ! 如何、そうでなければあのあり余る背筋は説明できない。自身の下半身だけでは足りるわけがない。策士タカシである。彼はトドを、水色のこどもが送り込んだ刺客たる怪物を、自らが吸収された経験を応用して吸収し返し、ナオユキの筋力へと転化させたのだ。科学的根拠など一切ないが、それがスグルの目に映った現実だった。
形勢は逆転しつつあった。トドはトドであることに迷い始めた。再び博物学のルービックキューブが展開した。きっと彼奴にはわからない。この場合、どの野生動物が有利になるのか、皆目わからないのだ。
「ぎゃああああ!!!!」
猫が叫んだ。ダメージを与えているのはタカシだった。ナオユキのマッチョは既に完成されている。剛腕は相手の自由を奪うことに終始、盛り上がった背筋からはタカシが浮き出し、吸収して収まりきらないぶよぶよの液体を、蜜を腹に溜め込んだミツツボアリの如く肥大させている。
もう巨大な海獣はそこにいない。獰猛な猛禽類もそこにいない。波打つアメーバの中に愛らしい子猫が顔を覗かせているだけだった。
今なら狙える。スグルは銃を構えた。あれが、あの子猫が核なのだ。
目が合った。そのせいで引き金を引くのが一瞬遅れた。それは単なる子猫の目だとは思えなかった。瞳の中に海が見えた。一個の生命体ではない、何か途方もなく大きな意志を感じた。それが強くもなく、決して弱くもなく、嘆願したのだ。〈やめて……〉私たちは無害です。私たちに危害を加えないでください……と。スグルは従おうとした。従う余地はないように感じられた。しかし、途端に恐ろしくなった。この心境の変化が不気味だった。それは嘆願ではなかった。それは洗脳だった。スグルはあの、深海のような瞳の奥に、瞬時にして魅了されたのだ。
バシュッ!
薬液が炸裂した。しかし突如現れた壁によって遮られた。着弾した薬液は壁を溶かしはした。だが、壁は分厚かった。壁は激しかった。子猫が最後に選んだ野生の牙は、海そのもの、すべてを薙ぎ払う津波であった。
うずたかく巻き上がった海竜は、まず肥大したタカシをさらった。それは津波であり、うず潮であり、台風であった。あらゆる海の脅威をわずか四畳一間に集約していた。タカシを失ったナオユキは、友人を追うべく荒波へとダイブした。そして彼の姿が完全に見えなくなる寸前、まばゆい光が海中を照らした。
『スグルーー!!!』
声はスグルの心の中に直接響いた。それはナオユキとジンケ、二人の声だった。
そして荒れ狂う波の壁を突き破って何かが飛んで来た。それはかつて慣れ親しんだキャッチボールだった。まさに水を切るような直球をスグルは難なくキャッチした。水風船。マエダのパンのビニール袋に水を詰めてある。〈やつの生体組織だ。分析を頼む……〉ナオユキのメッセージがボールには詰まっていた。
ザッパーン!
大波が打ち上げられた。波飛沫がスグルの顔を濡らした。舌は塩辛かった。今度はジェットコースターの如く雪崩式の下降を始めた波は大地をえぐる勢いだった。しかし大地はその底知れぬ包容力なのか、類を見ない水はけの良さなのかを発揮し、大波を次から次へと飲み込んだ。
約三秒後、脅威の水芸は終演を迎えた。ただ一つ、小さな水溜りを残して、何もかもが消えた。怪物も、ナオユキも、タカシもそこにはいなかった。
振り返ればハッセとガイはいるだろう。彼らも現状に目を丸くしていることだろう。特にガイには問い正したいことがたくさんあるが、今は何も考えられなかった。スグルは一人だった。スグルは無力だった。絶望と失意のどん底だった。正真正銘、途方に暮れていた。こんな時頼りになるのは……。
不意に赤いものが目に入った。ぐしゃぐしゃに潰れた赤いロボット。そうだ、ジンケだ。ジンケならばいるはずだ。幽体離脱したままのジンケならば、きっと助かっているはずだ。こんな状況だからこそ、ジンケが必要なのだ。
スグルは無線機のスイッチを押した。
「ジンケ……ジンケ……こちらスグル……応答せよ、ジンケ!」
答えはなかった。
ショットガンを肩から下げ、片手に水風船、もう片方で必死に無線交信を試みる少年は、ただひたすら孤独だった。




