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カゲヤマという病人

 それは壁と同化していた。壁のシミか、西日が落とした影なのかと思った。だが、それは生きていた。かろうじて生命活動を維持していた。一瞥して誰の目にもそうだとわかった。だが、その乾いた笑い声は生気にあふれていた。決して大きな声ではないが、心の底から愉快で仕方がないといった様子が聞く者の心を揺らした。今、誰もがその病人から目を離せなかった。

 病人である。通常より豪華なリクライニング機能の付いた車椅子に、ずり落ち防止のベルトで固定、更にクッションで密着させられ、ほぼ台座と同化したオブジェと化している。だが薄着である。浴衣一枚という極端な薄着。はだけた胸元から洗濯板めいた肋骨が覗く。顔も瘦せこけ、なぞるような頭蓋骨が皮膚の下に見える。そして何より目を引いたのが、胃瘻(いろう)の管だった。点滴のそれよりは遥かに太いその管は、クリーム色の液体で満たされ、頭上に吊るされたはち切れんばかりの医療用バッグにつながっている。病人の顔色はどす黒く、異様に伸びたすだれ状の白い眉がその表情を隠していた。だが、その翳った瞳の奥からは堂々たる知性が垣間見えた。笑っているのはこの病人なのだ。しかし、どこから見ても余命いくばくもない姿である。さもなくば、復活直前のミイラのような印象を達郎は受けた。

「何を聞きに来た?」

 ふいにたっぷりとした太いテノールが響いた。乾いた笑い声はそのままに、例えば和音に一筋の旋律が加わるように音が乗ったのだ。だが、誰の耳にも、笑い声と太いテノールは同一の楽器であった。

「お前たち、何を知りたいんだ?」

 今度ははっきりと聞き取ることができた。笑うミイラから発せられる王の声。まるでファラオのお告げ……。そんな漠然としたイメージが一同の脳裏をよぎった。


 病人はカゲヤマと名乗った。その、さも重篤患者めいた外見とは裏腹に、発する声のみには覇気があった。歳は、推測が難しい。明らかに小林守俊老人よりも若くは見えるが、反面その衰弱ぶりが年かさを隠蔽した。それにしても、どう考えてみても、この骨と皮ばかりの体からこのような重厚な声が生まれるのが不思議でならない。きっとこう見えて有名なオペラ歌手だったのかもしれない。そう想像すば納得が行くような気がした。

 カゲヤマは言った。

「あのじいさんはだめだ。すっかりだめになっちまった。だけどな、あれはあれで幸せなんだ。メシが食えてクソも出せて、悪い部分は脳みそだけ。しかもすこぶる人気があるよ。みんなあのじいさんが好きなんだ。俺もな、実際嫌いじゃない」

「カゲヤマさんは、どこが悪いのですか?」大胆にも恵子が聞いた。

「物を食えん。胃袋は取った。肉も骨も、最近では皮もボロボロだよ。だけど脳みそだけはまだまともだ。少なくとも本人はそう思っている。あのじいさんとはまるで逆だな。それで、あんたたち何を探っている?」

 彼は何かを知っている。達郎は直感的にそう思った。そして自分達に多大な興味を抱いているようだ。ここは一か八か……。

「失礼ですけど」と、ふいに木村が口を開いた。「カゲヤマさん、お仕事は何をしてたんですか?」

「俺か」カゲヤマは答えた。「俺は、船大工だ」

 オペラ歌手という一抹の期待は早くも泡と消えた。

「昭和三十一年……」木村が続けて尋ねる。「だから、ええと、だいたい六十年くらい前ですね、その頃も船大工だったんですか?」

「そうだよ。俺は根っからの船大工だ」

「では」今度は達郎が尋ねる。「集団赤痢事件のこと、覚えておいでですか?」

「当たり前だ。脳みそはまともだからな」カゲヤマは答えた。「あれはひどかった。戦争ほどではないがな、それでも地獄だった。よくもこんな立て続けにってな、お天道様に恨み節だぜ。忘れもしない、終戦の五年後だったんだ……」

「原因はなんだったんですか?」木村が尋ねる。

「赤痢だろ? チフスだろ? なんだか知らねえが、伝染病だろうよ」

「何か、変な噂はありませんでしたか?」達郎が尋ねる。

「それより俺の質問に答えてねえな」カゲヤマが言う。「……あんたたち、一体何を探っている?」

 皆、口をつぐんだ。誰かが言い出してくれれば良いと願った。だが、まるで喉に石でも詰まったかのように、先の言葉が出て来なかった。カホリとヨリコだけがその理由を知っていた。とても漠とした理由だが、おそらくそれは、奴の呪いなのだ。遺伝子に、半ば暴力的に、引っ掻くようにして刻み込まれた奴にとってのタブーなのだと彼女たちは理解していた。

 その気まずい空気を貪るようにカゲヤマは感じ取った。

「出やがったか……」彼は言った。「出たんだな……出やがったんだな……。おい、あんちゃん、はっきり言ったらどうだ?」

「……ええ」達郎は答えた。

「そんな曖昧な返事はよせ。自分の口でちゃんと言うんだ。でないとな、いなくなっちまうぞ。あいつはな、逃げるのがうまいんだ。それも、ただ逃げるんじゃねえ。俺らの頭の中から逃げちまう。それをやってから本当に逃げるんだ。だからちゃんと自分の口で言え」

「出ました」突如、少女の声。

「ん?」カゲヤマは声の主を探す。

「あいつが出たんです」カホリの声だ。「私の友達は襲われました。その一人はあいつに体を乗っ取られました。戦います……私たちは戦うことにしました。あいつと戦って、友達を助けます」

「ほう……一人マシなのがいるじゃねえか」カゲヤマは満足そうにうなずく。「お嬢ちゃん、見たことあるぜ。あのじいさんの孫だな。じゃあまんざら無関係でもねえやな。何の因果か、不思議なもんだぜ。でもな嬢ちゃん、うまくやれよ。この場合、歳は関係ねえんだ。今はあんたがリーダーだからな」

 カホリは不承不承、うなずく。

「俺らの世代は誰でも知っていることだ」カゲヤマはそう言い、震える右手を持ち上げ、最初は達郎、そしてカホリへと順繰りと指先で狙いをつけた。そしてこう言い添えた。「子どもの世代はその半分……そのまた子どもは数えるほど、そしてひ孫で雲隠れ。全てはあいつのお望み通り」

「どういうことでしょうか」達郎が尋ねる。

「まあ聞け、質問は後だ」カゲヤマは言う。「俺らだって何も知らんさ。ただ言われた通りにやっただけだ。だがな、あれは赤痢でもチフスでもなかった。俺は南方から帰ってきた人を知っているんだ。だから赤痢のことはよく聞いた。だから俺にはよくわかった。あれは赤痢なんかじゃなかった。もっとひどい……そうだな、あれは……戦争みたいなもんだ」

 カゲヤマの話は続いた。話して行くうちに、野太く覇気のある声はだんだんと失われた。声はかすれ、錆色の思い出が、喉の水分をじくじくと吸い取っているかのようだった。今ではどこからどう見ても、ひどい病人だった。

「最初は海に毒を撒かれたかと思った。ロシアか中国だろう。漁師がやられ、その家族がやられ、年をとったものが最初に死んだ。血を検査したが町では何もわからなかった。吐くでも下痢をするでもなく、土左衛門みたいに体が膨れ上がった。熱も出なかった。苦しげでもなかった。ただ、動かなくなり、全身水ぶくれで、夢見るような顔して、死んで行った。あんたのじいさんーー当時は偉い学者さんだったよーーが赤痢と断定したのは、ずっと後になってからだ。だが、子どもたちは平気だった。普通は子どもと年寄りがやられるもんだ。だけど子どもは一人も死ななかった。赤ん坊だってぴんぴんしてた。中には興奮して海で遊びたがるガキもいたんだ。これには参った。気味が悪かったよ。この、凍えるような季節の海だぜ。大人がばたばた死んで行くのに、子どもは無邪気に遊んでやがる。目がらんらんとしていてな、言っちゃあ悪いが、ぶん殴ってやりたくなくなった……」

 カゲヤマは目を瞑った。このまま眠ってしまうのかと思った。そして全てはなかったことに、白昼の夢として片付けられるーー。だが、カゲヤマは再び口を開いた。もう、消え入りそうな、儚い声色だった。

「とにかく、海には近寄るな、ってお達しが来た。俺らが呼ばれたのはその頃合いだった。役場に呼ばれて説明を受けた。だけど役人はいなかったな。みんな、魚連団の役員だった。じいさんもいたよ。嬢ちゃんのじいさん、学者のじいさんな。俺の仕事は船大工だ。だから呼ばれた理由はなんとなくわかっていた。なんのために作るのかは見当もつかなかったが、俺は船を作ることしかできねえ。だけどあいつらの言うことを聞いた時、俺らは耳を疑った。あいつらはこう言ったんだ。『潜水艦を作れ』って……」

「潜水艦!?」思わず達郎が言う。「どうして……」

「そりゃあ、もちろん、奴をぶっ倒すためさ。『ブルーボーイ作戦』だってよ。笑っちまったぜ。あのじいさん、GHQとつながってるんじゃねえかって噂だったよ。なあ、本当のところはどうなんだい?」

 急に話を振られたカホリは戸惑うしかできなかった。GHQは確か連合国軍最高司令官総司令部のことだ。歴史の授業で、ここにいる木村から学んだ。しかし祖父から戦争の話を聞いたことはなかった。それよりも、ブルーボーイ作戦……!? それってなんだか……。

「水色の子ども」ヨリコの声だ。

「ほう……」カゲヤマが反応した。「そっちの嬢ちゃんもなかなか肝が座ってらぁ。そうよ、水色の子どもさ。俺たちもそう呼んでたよ。だけど魚連と研究所の人間は横文字で呼んでいた。そう呼べば格好がついたんだろうさ。自分たちがバカげたことをしてねえって、さもお上の命令で動いてるんだって、そう思い込みたかったんじゃねえかな。あくまで俺の推測だがな」

「続きを聞かせてください」達郎が言った。

「まあ、急かすなよ」カゲヤマは続けた。「俺らはその『ブルーボーイ』をぶっ倒すために潜水艦を作った。だが、もちろんそんなもの誰も作ったことがねえ。旧陸軍の技師が手伝ってくれるわけでもねえ。俺らが作るのは漁船だ。戦艦なんぞまるっきり畑が違う。だけど俺らは作った。あのじいさんの言う通りに、どこで誰が書いたかもわからん設計図通りに、俺らは潜水艦を作ったのさ。終戦の五年後に、家族にも、お国にも内緒でな!」

「ちょ、ちょっと待ってください」木村が口を挟む。「それは……あまりにも……」

「荒唐無稽だと言うんだろう」カゲヤマが言う。「もし本当の話だとしても、なぜこうもペラペラ初対面の奴らに喋るのかって言うんだろう。それで結局のところ、あのじいさんなんかよりも俺の方がひどくボケちまってるって言うんだろう。そうなんだろう?」

「いえ……そんなことは……」

「いや、いいんだ」カゲヤマは続ける。「俺自身も、ついさっきまで忘れていたんだから。あんたたちが来るまで、あのじいさんのこともただのボケたじじいだと思ってたくらいだからな。俺はきっとこの話を墓場まで持って行くつもりだったのかもしれん。ともすれば、俺もボケちまったのかもしれねえな。あのじいさんを見てたら少し羨ましいような気もして来るんだからな。うまいやり方だぜ、ボケるってのは」

 カゲヤマは乾いた声で笑う。豪胆な笑い声はどこかえ消えた。やがて咳が出始め、喉はひどく擦り切れた。

「でもな……」カゲヤマは声を絞り出す。「あんたたちが聞きたかったのはこういうことなんだろう? 全員の顔に、そう書いてあるぜ。ようやく腑に落ちたってな」

 各々が「腑に落ちた」という言葉を飲み込み、まさに自身の内臓の中にその意味を探した。そんな面々を尻目にカホリが口を開いた。

「それで……どうなったのですか?」

「頓挫したよ」カゲヤマは答えた。「そもそも、こんな田舎町の設備では作れるわけがなかった。材料だって足りないし、何より技術がない。まるっきり、漁船とは違うんだからな。それに、どう見ても普通の潜水艦ではなかった。それでも俺らの中には詳しいやつもいたんだ。大日本帝国軍に心酔しているようなやつがな。そいつが言うには、これを動かすにはどう考えても動力が足りないということだった。特にアームの部分が余計だとーー」

「アーム、ですか?」達郎が聞いた。

「そうだ。腕がついていたんだ。二本のな。俺は全体の設計図を見たわけではないが、ひょっとしたら足もあったかもな。とにかくバカみてえな話だった。金が良かったから引き受けたが、こだわりの強い職人は断っていたよ。あれは、多分金持ちの道楽だろう。大方、そんな話だったよ」

「となると……」達郎が聞く。「その、水色の子どもは結局どうなりましたか?」

「知らん。消えたんだろうさ。あのじいさんが言うようにただの伝染病だったのかもしれん。伝染病ってのは、俺らが思ってるよりもずっと得体の知れないものなのかもな。だが、俺らは見たよ。俺はこの目で見たのものをちゃんと覚えている。あれは最後だったな。あれを最後にあいつは消えた。ちょうど今で言う弁天島だ。その位置にあいつが立ってた。海の上にだぜ。でかかったな。陸からでもでかく見えるんだから、実際は相当なものだろう。俺たちはな、ボートで近づいたんだ。怖くないって言えば嘘になるが、何しろ確かめたかった。そうでもしなきゃ夜も眠れねえよ。だがな、ある程度近づくと潜っちまう。見かけによらず臆病だなってんで、ちょっと岸に戻るとまたひょっこり出てくる。その繰り返しだよ。何か言いたいみてえだった。そこに、その場所に、何かを訴えてるみてえだった。だから、俺らは鳥居を立てた。怪しい場所には鳥居を立てるって昔から決まってんだ。そしたら本当に消えちまったのさ。神社が建ったのはもっと後の話だけどな」

 鳥居と神社が建った由来……!? 何というトンデモ論なのだろう。これではまるで三流小説。民話? 昔話? それとも漫画? いずれにしても子ども騙しの絵空事。少年時代の空想が、カゲヤマの中で長い年月をかけて発酵したのか。そう考えるのが自然だ。だが、そんな気持ちとは裏腹に達郎たちの胸は熱かった。胃まで燃えるようだった。目の前の病人の口から絞り出された物語は、預言者の言葉のように白い光を放った。

「疲れた」カゲヤマは言った。「悪いが、もう休む」

 胃瘻のパックも既に空だ。彼は左手に握りしめていた呼び出しボタンを押した。ワイヤレスのもので、彼専用の物であるようだった。

「俺がボケないうちにまた来いよ」

 そう言い終えると、例の女スタッフが早歩きで現れた。手慣れた手つきで胃瘻パックが下がるキャスター付きの点滴棒と車椅子を同時に押し、物々しい車輪の音と共に移動を始めた。まるで旧時代の戦車のようであった。

 達郎と木村は顔を見合わせた。どこか悪戯めいた視線。それでいて妙に悟ったような、やけに落ち着いた表情。この瞬間、達郎は強烈な既視感にめまいを覚えた。これはおそらく、幼少期、山でヒグマに遭遇した時の感覚と同じだった。およそ現実とは思えないような巨大動物の身のこなし。そこに見え隠れする明確な知性。そして隠しようもない圧倒的なパワー。そのパワーの前ではあまりにも自分は無力だった。諦めるしかない。諦めるという概念すらも場違いに思えた。次元が違ったのだ。生命の質そのものが、ヒグマに対して劣っていると感じた。その時一緒にいた友人と交わした視線が現在に蘇った。息子の担任教師である木村の瞳に当時の神秘体験が投影されたのだ。

 一言で言えば秘密を共有したということだ。カゲヤマと名乗った病人を含め、この場にいる全員とではあるのだが、特に木村とのつながりを強く感じた。それは一重に、男性同士というある種神聖な屈託のなさに由来しているのかもしれない。

 彼らは施設を後にした。誰も口を開こうとはしなかった。口を開けば大事な何かが壊れてしまうと感じていた。だがカゲヤマは言っていた。「自分の口でちゃんと言うんだ」と。わかっている。目をそらしてはいけない。日常に戻っていはいけない。今、目の前にある非現実に飛び込む必要がある。彼ら全員で。今この場にいる五人で。そして別行動をとる彼らの頼もしい四人の戦士。達郎たちは咀嚼していた。腑に落ちた非現実を消化している最中であった。それほど時間はかからないだろう。おそらく、シーンが変わるまでの余韻を保っているのだ。それぞれの役をこなしているのだ。次のシーンまでセリフは必要ない。十分に彼らの背中が語っている。と、聞き覚えのある声が施設内に轟いた。

「ちがうちがうちがう! ちがうと言ってるだろうーー!!」

 小林守俊氏の声だった。こもってはいるが、すごい音量だ。おそらく自室から叫んでいるのだろう。

「そうじゃない! だから何度も言ったじゃないか! この子は逆子だってーー!!」

 カホリが肩をすくめて、皆に言う。

「うちのおじいちゃん、昔はお医者さんみたいなこともやっていたって……」

 ふっ、と優しい笑みがその場を包んだ。大人たちは微笑み、女友達はぷっと吹いた。

「素敵なおじいさんね」恵子がそう言い、カホリの腕を組んだ。まるで姉妹のようだった。

「奥さん! しっかり! おーい!! 湯を! 熱い湯を沸かしてくれーー!!」老人の声が響いた。

 どうやらお産のようだった。しかも逆子で相当な難産のようだった。その鬼気迫る一人芝居を遠くに聞きながら達郎は思った。ーー学者という者は、かつては医者のようなこともしていたのだな……。

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