老人
何度か来たことがあるカホリ以外は、逐一遠慮がちな挙動を見せた。じれったいカホリは、まるで自分が施設の職員になったかのように皆を誘導した。
特に達郎には思う節があった。達郎は両親を早くに亡くしていた。まず父親がすぐに逝った。まだ達郎が二歳の頃である。母親は達郎を成人に手が届くまで育て上げると、パートタイムの仕事を難なくこなしたかのような気楽さで逝った。膵臓がんであった。だから妻が死んだ時も、なんとか耐えることができた。もちろん消えてしまいたいほど悲しかったが、人の死にはある種の耐性があるのも事実だ。しかし前向きにはなれない。人生に折り合いをつけるには、これは呪いだと言い聞かせるしかなかった。言ってみれば自分だけが不死なのだ。彼らと同時に死ぬべきはずだったのに、バラバラに切り裂かれたまま、数年かけて再生しようと、意志を持った無数の肉片を本能のままに放置している状態なのだ。どんなに深い傷でも、時間をかければある程度は治る。そう達郎は否が応でも学んだ。
おそらくこの施設の入居者は死んだ両親より一回り以上は歳が上だろう。そう理解しても、どこかに両親の幻影が潜んでいるようで敷居をまたぐのが躊躇われた。達郎は父親ほども年の離れている男性にはどう接して良いのかわからなかった。これは幼少期から変わらない習性であり悩みで、旧友たちの父親の前に立たされる極端に萎縮したものだ。自分自身が父親になってからは、そんな悩みなど毛ほども気にしなくなったが、今ここに来て鮮烈に蘇った。
受付には誰もいなかった。カホリが呼び鈴を押した。機械的なコール音が、ただただまっすぐに飛んだ。その間、カホリは面会の台帳に記入した。いかにも手慣れた仕草だった。
しばらくすると中年の女性が現れた。その動きやすそうな服装からすると介護をする側の職員だと思われた。
カホリは祖父への面会を申し出た。
職員は人の良さそうな笑顔を大人へと向けた。達郎、木村、恵子の三人は精一杯の笑顔でそれに応えた。
「どうぞ」と職員の女は言って、来た方向へ取って返した。館内にはひっきりなしにナースコールのような音が響いている。きっと彼女たちは息をつく暇もないのだろう。
「こちらです」代わってカホリが言い、皆を案内し始めた。
カホリの祖父である小林守俊氏は食堂にいた。
辺りにはまだ昼食の匂いが漂っている。それに尿と消毒の匂いが混ざり、どことなく生のパン生地が醸すイースト菌の香りに近い。そう脳が認知する。
突然カホリが皆を振り返り、重大な忘れ物をしたかのような青い顔をして言った。
「うちのおじいちゃん、ちょっと……」
皆はその先を聞くまでもなく察した。食堂の壁を背にレスリングのユニフォームのような拘束帯で車椅子に固定された老人はマネキン人形のように硬直していた。その超然とした佇まいに「ちょっと……」どころではない印象を受けたのだ。
「おじいちゃん」カホリが声をかけた。
老人はその声でハッと我に帰った。どうやら遠い異国にでもトリップしていたかのようだ。
「おお……」老人はカホリを見た。だが焦点は合っているようには見えなかった。そのげっ歯類のようにつぶらな瞳は、まだ別世界を彷徨っているかのように見えた。「よく来たなぁ、さあさ、こっちにおいで……」老人は手招きをしたが、カホリはそれには答えず話を続けた。
「今日はお客さんがいるの。ほら……」と言ってカホリは皆を紹介した。
老人のつぶらな瞳がさらに縮まる。どうやら目の前の人影を認識し始めたようだ。
達郎が前に出る。
「どうも、初めまして、臨海研究所のーー」
老人はその先を言わせなかった。「かんだくん!」と達郎を一喝し、ものすごい剣幕で怒鳴り始めた。
「遅いじゃないか! 一体何時だと思っているんだ! だから何度も言ったじゃないか! もういい! せっかくのお膳立てが全部パーだ! かんだくん! わかっているのか! 全部、全部、すべてがパーなんだよ!」
白い唾が飛び散り、老人の口元を汚した。達郎は唖然とするしかなかった。「かんだくん!」そんな達郎を叱責するように再び老人は怒号を飛ばした。
「おじいちゃん!」カホリが飛びつく。「失礼でしょ! この方はかんださんじゃないの!」
老人は硬直した。まるでモグラの目だ。顔の大きさからして異様に小さな二つの黒目は、まるで周囲の空間から何か不穏な空気を吸い寄せているかのように、とてもとても不気味に見えた。
「そうかそうかそうか……」一転して、老人は声を和らげた。「おお、おお、そうかそうか、こっちへおいで……」そして己の膝頭を皺だらけだが大ぶりの手で小刻みに叩き、「こっちへおいで」と繰り返した。
カホリといえば、やはり祖父の不気味な誘いには乗らず、ただ申し訳なさそうな顔を達郎へと向けた。
達郎はバトンを受け取るが如く彼女の祖父へと視線を走らせた。
小林守俊氏はコーデュロイのズボンに鹿の子柄のシャツ、臙脂色のチョッキの上にさらに和柄の半纏というなかなか洒落た格好だった。左手には硬く丸めた新聞を手にし、時折開いては神妙に活字を追った。だが、よく見ると新聞は上下逆さまで、破れ、ところどころ穴が空き、とても読めるような状態ではなかった。
達郎はカホリに目で問いかけた。そのつもりはなかったのだが瞬間的に片目をつぶったようで、少女にはそれがウィンクだととれた。カホリは妙にどぎまぎしながら小さく頷いた。言わんとしていることはわかった。旧友の父親は祖父と少し話をさせてくれと目のみで訴えたのだ。
達郎は近づいた。老人の目線まで腰を下げ、新聞記事の過去とさかさまの世界へ没頭する老人に肩を並べた。
「先生」達郎は言った。「かんだです……」
老人の目が一瞬キラリと光った。
「僕は神田です。今日のことは本当にすみませんでした」
「かんだくん」老人は言った。強い好奇心を抑えつけ、あくまで慇懃な声でこう言った。「五時……、そう言ったな。かんだくん、君は五時だとそう言ったはずだ」
「五時……」達郎はしどろもどろに答えた。「はい。すみませんでした。五時(腕時計を見るとまだ五時前であったが)には間に合いませんでした。大変申し訳ありませんでした」
「そうかそうかそうか」突如顔をほころばせて初代所長は言った。「君にはいつも世話になっている。すまなかったね。そうかそうか。いいからちょっと、こっちへ来なさい」
再三孫にしたのと同じ仕草で初代所長は達郎を誘った。自身の膝を叩いて、まるで猫でも呼んでいるかのように「こっちへ来なさい」と言うが、これは冗談などではなく、いたって真摯に膝の上へ乗れと言っているのだ。
「はあ」達郎はそう答え、できる限り近くへ寄った。老人の頭皮から濃い脂の匂いがした。
「いいか、かんだくん……」老人は達郎に耳打ちした。「五万だ……。五万でどうだ……?」
「五万……ですか?」達郎は尋ねる。
「おいおい……」老人はほとんど部下の耳を愛撫しながら言った。「しらばっくれちゃあ困るよ。そう堅いこと言うなって。かんだくんだってこの世界のことわかっているんだろう? 五万だぞ。五万でお願いしているんだから、なあ、頼って……」
なんのことかさっぱりわからなかったが、その誘惑気味で湿っぽい口調から何かいかがわしい誘いをしていることは理解できた。五万……。五万円で初代所長は一体何をさせようとしているのだろう……。
「わかりました」達郎は答えた。「そのかわり、僕の質問に答えてもらってもよろしいですか?」
「よかろう」老人はきっぱりと言った。
「昭和三十一年に発生した集団赤痢事件についてお伺いします」達郎は言った。
「小林所長は当時、役所や漁業組合と連携して感染源の究明に奔走したと聞いておりますーー」
老人の表情は読めなかった。虚空を見つめ、盲のように動じない。
「その時、何か、おかしな噂はありませんでしたか? 例えば……荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、化け物の類が現れたとか、非科学的な現象が起きたとか、何か妙な噂が蔓延していたとかーー」
「おお、なんだその話か」所長は答えた。「君はあれか、いくおちゃんのところのお孫さんだな」
「いえ、あの……」達郎はうろたえる。
「ふざけるな」所長は努めて簡潔に言った。そして次第に語気を荒げ、「私にだってね、意地があるんだよ。あんたたちがね、いくおちゃんに対してやったことは、絶対に許されることではない。いいか、見くびるなよ。……幽霊だ。幽霊なんだ! たとえいくおちゃんが幽霊になってしまったとしても、それでも、どうしたって守ってあげたいじゃないか!」と怒鳴った。
「す、すみません……」達郎がへどもど謝罪しかけると、
「かんだくーん!」と老人が絶叫した。だが彼の探す「かんだ」なる者は、すでに達郎の元から遠くへ旅立ったようだった。だから老人は遥か彼方に向かって声の限り叫ぶ。
「かんだくーん! かんだくーん!」
あまりの騒がしさに、先ほどの女職員が小走りで駆けつける。
「ちょっと休ませますね」
そう言い残して、女職員は興奮する老人をなだめつつも巧みに車椅子を操作し、夏の終わりのちんどん屋のような儚さで消える。
一同はただただ唖然としてそれを見送る。すると一陣の風が吹き抜けるように乾いた笑い声がカラカラと響いた。
見るとそこには何かがいた。誰一人として気がつかなかったが、ずっと最初からそこにいた。それはさも病人であった。でないとすれば極めて前衛的なオブジェであった。まるで生気のかけらもない人間のようなものがカラカラと笑い声を上げていたのだ。




