山小屋会議・後半
タカシの話を聞いたカホリはあからさまに顔をしかめた。睨みつけてこそいないが、明らかな非難の表情をナオユキに向けた。原因は猫だ。ガイから譲り受けた子猫を海に放置して遊んだことを話したのだ。もちろんその理由も目的もタカシは説明した。だが、こうして端から聞けばあまりに子どもじみた行為。子猫を手作りのボートに乗せて海に放つなど小便漏らしのガキでもしない。ナオユキは恥じた。あの時はどうかしていた。後ろめたさなど微塵も感じなかった。だがジンケは言っていたではないか。自分の意思とは別の力で動いていたと。全ては今のために。そしてこれからのために。あらかじめ用意されていた選択肢を引かされていたのだと。
だがこの視線は辛い。いっそ思い切り睨みつけてくれた方がどんなに楽か。カホリが見つめる先はナオユキのずっと向こう側。時を遡り、夏のグラウンドのあのひと時。共に死力を尽くして競い合った混合リレーのゴール。酸欠の嵐の中で交わした、たった一つの会話。ーー何が欲しい? ーー猫が欲しい……。それ以来、二人の間には猫がいた。まるで守護聖獣のように、見えない猫が二人の距離を一定に保っていた。あの時の親密な空間は聖域として保存されていたのだ。
しかしタカシの説明に例の存在、〈水色の子ども〉なる実在する非現実が登場してからはカホリも意識を切り替えた。そして、話を聞くうちに自分以上の恐怖に巻き込まれた彼らに同情さえした。同質の恐怖、同質の非現実、この筆舌にし難い経験が二人の間の猫を取っ払った。かわいそうだが、今はそれどころではない。カホリにもジンケの言う、あらかじめ用意されていた選択肢、というものがなんとなく理解できていたのだ。
「あいつはでかかった」タカシの話は続いた。「あいつは透明だった。後ろの景色が透けて見えたんだ。最初は俺らのことなんか見向きもしなかった。多分腹を空かしていたんだと思う。猫ちゃんと、猫ちゃんを狙っていた鷲ーーほら、ナオが石を投げてやっつけたやつーーに夢中だったんだ。だけど俺らがぎゃーぎゃー騒いで石を投げたら、ようやくあいつもこっちを向いた。それが不思議なんだよ。顔なんてのっぺらぼうなのに、こっちを向いたってわかったんだから。不気味なんだぜ。あいつちゃんと俺らのことわかってたんだ。あのゼリーみたいな顔見るとさ、『順番を待て』って言われてるような気がした。鷲、猫ちゃん、俺たち……。順番通り、俺らのことも食べる気だったんだ……」
重い空気が立ち込めた。食べられるーー。皆がそれを意識した途端、遠い祖先の被捕食者としての記憶が蘇り、心の底から震えた。
「そこでジンケが来たんだろ?」タカシが聞いた。
「ああ、僕が来たのはその頃だ」ジンケが答えた。「今にも猫が飲み込まれるところだった。みんなすごく怒ってた。だから僕は自分の意志で来たって言うより、みんなの感情に吸い寄せられたような気もする」
「俺はさ、体も弱いし、何にもできないからさ、とにかく気持ちだけは負けないようにしたんだ。あとはナオがどうにかしてくれるって。いっそ俺の力もナオに全部あげようと思った。そしたら、本当にそうなったんだ」
「うん。僕もそういう意識だった。君たち一人ずつだとどうしたってやられると思った。だから何とか三人を一人にできないかと思った。三人重なれば、それだけ硬くなる。あいつはもっと硬かったけど、ひょっとしたら足し算がかけ算になるかもしれないって思った。それに、真ん中にナオユキがいたから……。ナオユキはなんだか特別に感じた。公式の組み合わせによっては、かけ算それ自体が二乗になるかもしれないって思ったんだ」
「さすがガリ勉」タカシが言う。「言ってる意味はよくわかんねえけど、とにかく俺たちはつながったんだ。俺とハッセがサブエンジンでナオがメインエンジン。俺らが後ろでガンガン吹かせば、エンジンブルブル絶好調になるんだ」
「うん。すごかったよ。あんなに上手く行くとは思わなかった。あれはきっと三人だからできたんだと思う。三人の絆が強いから」
「いやいや、ジンケ様のおかげでさあ。なあナオ」
「ああ」ナオユキは答える。「あれがジンケのおかげだとはな。原理はわからないがとにかく助かった」
「何度も言うけど、それはお互い様だよ」ジンケが言う。「原理は僕にもわからないんだ。そこにヨリコがいればきっとわかる。ヨリコは視たり聴いたりすることに長けているんだ」
「そうよ」ヨリコが言う。「あたしには視える。聴こえる。過去に嘘つき呼ばわりされたこともあったけど、全部水に流すわ。大事なのは、あたしには確かに視えて聴こえるということ」
「だからみんな一緒にいることが大事なんだ」ジンケが言う。「個々の能力を活かせばきっとあいつに対抗できる。一人一人ではかなわないけど、みんなで一つになれば、きっと……」
「そうだぜ!」タカシが言った。「みんなでつながってジンケのあれをやれば、うちのナオユキ様な無敵だ。無敵の王様ムテキングだよ。すごかったんだぜ。こんなでっかいコンクリの塊をぶん投げたんだ。こんなにでっかいんだぜ! 20キロはあったな。まるで大砲だよ。ローマ帝国の投石機だよ。映画で見たことあるもん。学校休んだ時は家で映画ばかり見てるからわかるんだよね。それがさ、あいつまで届いて、命中したんだ! 死ぬよ! 普通なら一発で即死さ! 木っ端微塵だよ!」
「だけどそうはならなかった」ナオユキが言った。「あろうことか、あいつはキャッチした。片手で、難なく、そして……投げ返した」
タカシが青ざめた。あの時の絶望が瞬時によみがえり、体調が最悪だったのを今更ながら思い出した。
「俺が投げたのとは比べ物にならなかった」ナオユキは続ける。「遠投ってのは弧を描くもんだ。だから遠くへ飛ばせるんだ。だけどあいつは直球を投げた。マウンドじゃねえんだぞ。ホームラン級の距離があるんだぞ。どんだけ回転をかけたって直球なんてありえない。だけど、あいつはやったんだ。証拠だってある。船にコンクリがめり込んだ跡が残ってるんだ」
「それとさ、忘れちゃいけないのが」タカシが言う。「あいつさ、ナオを真似してるみたいだった。投球フォームがそっくりだったもの。まるで見せつけるみたいにさ、『どうだ見たか』って笑ってた……」
「笑ってたかどうかなんて、知らねえよ」とナオユキ。
「でもさ、余裕ぶっこいてただろ? 力の差を見せつけて、しめしめって感じで、遊んでやってるみたいな顔してさ、次に会う時までせいぜい鍛えときなって言い残して帰っただろ?」
「だからなんで〈顔〉とか〈言う〉とかわかるんだよ。あいつは目も口も鼻もねえんだぞ」
「なんとなくだよ」タカシは言った。「なんとなく、俺にはわかったんだ」
「休憩!」突然、スグルが大声を上げた。「いやー、正直、脳みそ爆発しそう。俺だけ何も見ちゃいないからね。とにかくいったん休憩しよう。休憩ったって別に何もないんだけどさ、雑談でもしないともたないよ。そうは思わない?」
「確かにそうだな」とナオユキ。
「質問コーナーにする?」タカシが提案。
「いや、いったんきちっとリセットした方がいいよ」スグルが言う。
「そうかも。ちょっと頭が追いつかないわ」とカホリ。
「ね、そうだろう?」スグルが続ける。「やばい話はやばい話でするとして、俺たちの親睦を深めるような普通の会話も必要だよ。ほら、このメンバーで集まることってないだろう? こんなことが起こらなければ、なかったと思うんだ。それに正直言うと俺だけ蚊帳の外って感じでさ。俺だけが、その超常現象的な事を何も経験していないんだ。信じていないわけじゃない。いや、そもそもこうしてジンケがここにいるわけだから、信じるも信じないもないんだけど、俺たちの絆の深め方を偏ったものにしない方がいいと思う。何て言うか、うまく言えないけど、こういう超自然的なものに立ち向かうには、もっと別の力も必要かな、なんて。恥ずかしいけどさ、友情だよ」
「よく言った」ヨリコが言った。「はい、いったん普通の中学生に戻って休憩、という名の雑談タイム!」
少年たちは話した。普段のこと。学校のこと。天気のこと。昨日の夕食に何を食べたのかということ。先生について。冬休み。親についてーー。だが、おませなタカシが発した一言が、健全な喋り場を瞬時にして凍りつかせた。
「カホリさ、好きな男いんの?」
意識は終結した。女子であるヨリコもそこに加わった。この手の話を異性とするのは、彼らにとってはまだタブー。
「そういう話はちょっと……」カホリは言った。
「はい、否定はしないってことね」間髪入れずにタカシがつなぐ。「じゃあ付き合ってるやつがいるかどうかだけ教えて」
「いない」
タカシはヒューと口笛を吹いた。表現としては下品な部類に入るのだが、その音色は吸い付くような湿り気を帯び、耳に心地良かった。小さなつむじ風までが目に見えるようであった。
この時、赤いロボットであるジンケ少年は、自分一人だけが雑談に参加していないことに苛立ちを感じていた。少年少女たちの生の会話に、生身ではない自分が参加することへの引け目があったのだ。そして同時に今がチャンスだとも思った。場が恋愛の話になったのなら、スグルとヨリコに話を振るのはどうだろう。二人が付き合っていることを公表する手助けをしてやるのだ。
「はいはい、そろそろ休憩終わり」と、スグルが鶴の一声。「タカシも変なこと聞くなよ。せっかく良い感じの空気だったのに」
「スグルちゃんもお堅いでさあね」挑発気味にタカシがつぶやく。
ジンケは安堵した。言うべきではないことを言うところだったのだ。もしスグルとヨリコの関係をほのめかすようなことを言っていれば、スグルは激怒したかもしれない。デリカシーに欠ける行為である。そう考えると、なぜそんなことを言おうとしたのか自分がわからなくなった。これは生身を離れた時間に比例して、人間的な感覚を失い始めているのであろうか。それとも、自分は元々感情に難がある人間だったのだろうか。そのどちらも大いにあり得ると思う。
「ジンケ、続きたのむよ」スグルが言った。
「あ……うん、今までの話をまとめると……」考えても仕方ないのでジンケは議事を進めることにした。
出来事を時系列でまとめた。漁師の久坂夫妻が遭遇した事件をファーストコンタクト。ナオユキら、ジンケを含めた四人が遭遇した事件をセカンドコンタクト。そして記憶に新しいカホリが病院で遭遇した事件をサードコンタクトとした。するとスグルが挙手して発言した。
「ガイは? ガイがあいつに乗っ取られたってのはいつになる?」
そうであった。ガイは一人でいるところを襲撃されたのだ。どんなに恐ろしかったことか、想像だにできない。だがその時期は予想できる。セカンドとサードの間に違いないのだから、〈2・5コンタクト〉と銘打つことができる。
「2・5次元か……」スグルがつぶやく。
「コンタクトでしょ」タカシがつっこむ。「ジンケが言うには2・5コンタクトだっつってんでしょ?」
「ああ、まあそうなんだけど」スグルは続ける。「なんとなくそう思ったんだ。ガイは俺たちとは別の時間軸にいるって。2・5次元ってさ、二次元と三次元の間って意味で、よくゲームで斜め見下ろし型視点の街並みとかあるだろ? あれって二次元に違いないんだけど、表現しているものは三次元なんだ。絶対に現実ではないんだけど、それに近づこうと努力している。ガイはそっちの世界に行ってしまった。どんな気分だろうな、ガイ……」
ジンケは想像した。ゲームの中に閉じ込められたガイ。液晶画面の中で必死にもがいているガイの姿。一番辛い目にあっているのはいるのはガイだ。ガイを差し置いて、自分だけを悲観してはいけない。
「まだ生きてんのかな、ガイ……」タカシが言った。
「わからない」カホリが答えた。「でも、最後にね……ガイ、泣いていたの……」
「泣いていた?」とスグル。
「うん……正気に戻ったみたいで、泣きながら逃げて行った」
全員が同じことを考えた。ガイ。本名、磯貝晃〈いそがいあきら〉。恰幅が良く、浜言葉の強い、情報屋めいた、風変わりな幼馴染。プライドが高く、決して人前で涙を見せるタイプではない。そのガイが、泣きながら逃げた……。
「助けましょうよ」ヨリコが言った。
「おう、助けるぞ」ナオユキが言った。
「もちのろんよ」タカシも言った。
「ええ」カホリも、「よし」スグルも、「うん」赤いロボットも続いた。
六人の少年たちの間に、見えない光の輪ができた。物質的には決して存在しないものであったが、それぞれの胸の内には確かに感じることができた。それは家族の絆にも似た、少年たちの永遠の誓い、そして善意への絶対的な忠誠であった。
「突拍子のない話をするよ」赤いロボットであるジンケが沈黙を破った。「タカシ、僕らが初めて出会ったのはいつだい?」
「突拍子のない人が突拍子のない話をしたって一向に構わないけど」タカシは答えた。「小学校に入った頃だろう?」
「違うんだ」とジンケ。
「じゃあ幼稚園?」カホリが質問する。
「俺とタカシとカホリは同じ幼稚園だな」とナオユキ。
「俺とジンケは保育所だ」とスグル。
「あたしは違う町にいた」ヨリコが言う。「みんな覚えてないかもしれないけど、小三の頃転校してきたんだから」
「突拍子のない話はここからだ」ジンケが言う。「僕たちは全員、同じ場所で会っていた。多分小学校に上がる前、互いの存在も名前だって知らない頃だよ。僕だって最初は夢かと思っていたんだ。だけどさっきのスグルの話、2・5次元という言葉を使えば理解しやすいと思う……」
皆の意識が集まる。それぞれが、杞憂とも言えるような、何かしらの気づきを頬に翳らせて。
「僕が見た夢はこうだった。とても平和な世界。そこには人間らしいものはいないけど、すべての種族が平等に存在していた。野菜も動物も、命あるものはみんな二本足で立っている。それぞれに優劣はなく数の偏りもない。そんな場所だった。徹底的に管理された市場のような場所だったのかもしれない。みんな目的があってそこにいるんだけど、通過点に過ぎないんだ。だから、種を超えた人情のようなものを大事にする。穏やかで平和な時間をそれぞれが望む。通過点だからこそ、和を維持できるんだと思う」
「永世中立国みたいな?」スグルが言った。
「そう」ジンケは続ける。「でも、もっと自然に存在している場所。国ではなく、そこに足を踏み入れた途端、種族を超えた和が生まれるような、とても浄化された世界なんだ。だけど、そこに突然あいつが現れた。あいつは土足で踏みにじった。和も人情も、良心を積み上げて作り上げた世界を、破壊しに来たんだ。そう、僕は2・5次元の世界で水色の子どもに出会ったんだ。ただ、向こうの世界では子どもなんかじゃなかった。あれはそう……嵐だった」
「嵐……」ヨリコがつぶやいた。「あたしは覚えているの。この町に引っ越してくる前だった。あたしはジンケに会った。でもそれがジンケだとわかったのはずっと後の話。嵐……そう、あたしは嵐も覚えている。だから怖い。だから恐ろしい……」
「私も見た」カホリが言った。「今聞いてなんとなく思い出したの。思い出している最中、かな? まだはっきりとはしないけど、すごくファンタジーな世界だった。みんなもいたのかな……ちょっとまだわからないけど」
「俺も見たよ」タカシが言った。「でも俺、夢って毎日見るし、みんなもよく出演するから、どれがその夢だったかちょっと難しいけど、でも確かに見たよ。いろんなモンスターが買い物してるんだろ? 嵐のことは覚えてないけど、そうか、あれってみんなが出会う前の夢だったのか……」
「すごいなみんな」スグルが言った。「俺、夢って全然見ないんだ。いや、わかるよ。見てるけど起きた瞬間に忘れてるってことはね。俺の夢にはよほどインパクトがないのか、俺がよっぽど忘れやすいのかはわからないけど、とにかく覚えてる夢って一つもないんだ」
「それは逆にすごいと思う」カホリが言った。
うんうんと皆が頷く。
「で、ナオ?」タカシが聞く。
「俺は……」ナオユキが言う。「まあ、なんとなくだな。なんとなくそんな夢を見たような気はする」
嘘だ。彼らは思った。特にジンケ、ヨリコ、カホリの霊感組は強くそう感じた。タカシとスグルに関しては、ナオユキという人間をよく知っていた。だから嘘だと気づいた。ナオユキは「まあ、なんとなく」どころではなく、はっきりと覚えているはずだ。ジンケに次いで、2・5次元での出来事を記憶しているはずだ。彼らは不思議とそう思った。
「そんな夢の話より、もっと具体的な話をしないか?」ナオユキは言った。
「いや」ジンケが答える。「今話すべきなんだ。スグル以外はなんとなく覚えているんだよね? その場には僕ら全員がいた。ガイもハッセもいた。もう一人いたのを覚えていない?」
彼らは視線を泳がせた。記憶を辿る目の動きだ。
「僕らは嵐を乗り切ろうと、輪になって手をつないだ。すると、そのもう一人が降りてきたんだ。輪の中心にーー」
前述の通り、ナオユキは覚えていた。むしろジンケよりも克明に記憶しているのかもしれない。だからこそナオユキは苛ついてもいた。その原因をはっきりと説明するのは難しいが、このお友達な雰囲気に嫌気が刺していたのかもしれない。一番嫌いなものは傷を舐め合う集団心理。ただ、この状況が普段とは全く別物だということもわかっている。なるべく皆に寄せてものを考えようと努力はしているのだが、土壇場で地団駄を踏んでしまう。おそらく原因はジンケだ。ジンケの存在、そしてその話が本当だということ。自分がジンケと同じ夢を見て、それが何と別次元の出来事だったということを否定できない。むしろ今一番議長にふさわしいのはナオユキ自身かもしれない。全員のことを覚えているのだ。輪の中心に降りてきたというもう一人のことも覚えている。いや、正しくは思い出した。つい今ほど、頭が割れそうな勢いでフラッシュバックしたのだ。ジンケのやつ、よくもまあ平然と受け入れられるものだ。あんな体になったのだから、受け入れざるをえないのだろうが、ナオユキの場合、もう少し時間が欲しい。もう少し多数派でいたい。何でも超常現象に結びつけるカルト集団にだけはなりたくなかった。
「あ!」カホリが叫んだ。「わかった! あの人……私を助けてくれたあの人……ジンケの病室で、空から飛んできた、真っ白な光……」
「そう!」ジンケが言った。「タカシは? 何か覚えてない?」
「う〜ん」首をひねるタカシ。「俺が見る夢って全部悪夢じゃん? 助けてくれる人なんていないんだよね。なに、その人? 光ってるの?」
「うん。光ってる」ジンケは答えた。「というより、光そのものなのかもしれない。僕は思うんだけど、その人が僕らに力を与えてくれるんだと思う」
「俺たちに?」タカシが聞き返す。
「そう。僕はご覧の通りの状態で。ヨリコには見えないものが見える。そしてカホリは……」
視線がカホリに集まる。
「私は……」カホリが言う。「なんかちょっと変なの。まだよくわからないんだけど、今まで感じなかったものを感じるようになったのかな。こう……触ればわかるような気がする」
「ちょっと試してみよう」ジンケが言った。「タカシがいいかな。カホリ、タカシに触れてみて。僕の時みたいに」
「え、だって、あの時はなんて言うか、ジンケ外に出てたでしょ。このおもちゃの中じゃなくて」
「そう、僕は幽体だった。カホリは幽体の僕に触れたんだ。それで僕とわかったんだ。だから生身で試してみよう」
カホリは目でタカシに「いい?」と聞いた。タカシは多少びくついたが、ピエロのように口角を上げて「どうぞ、ご自由に」の意思表示をした。カホリは手を伸ばす。待ち受けるタカシはその白い指先に呼応するように自身の手の甲を持ち上げる。不思議な光景である。打ち合わせたわけでもないのに、半ば本能的に儀礼は進む。白い指先と、これまた青白い手の甲が触れた瞬間、タカシは全身をびくっと震わせる。それに恥じるように苦笑を浮かべるが、脳と表情筋の伝達はすぐに遮断される。タカシは一瞬にして深い催眠状態に落ちた。
「おい」即座にナオユキが声をかける。
タカシの瞳孔が極限まで開く。唇は麻酔を打たれたかのように弛緩し、よだれが糸を引いて落ちる。
「おい!」ナオユキが声を荒げる。
「カホリ! もういい! 十分だ!」ジンケも言う。
突如、カホリは弾かれたかのように手を離す。そして、まるで真っ赤に焼けた鉄に触れた時のように猛烈に手を扇ぐ。
「タカシ! だいじょうぶか? おい!」
ナオユキはタカシをびんたする。すると電気ショックを受けたかのようにタカシが体をのけ反らせ、居眠りを取り繕うあの滑稽な仕草で「だ、だいじょぶ……」と答える。
「カホリは? 平気?」ジンケは聞く。
「ええ……」放心状態のカホリはたどたどしく答える。「でも、ジンケの時とは違った。あの時は、ただ自然と、それがジンケだってわかった。だけど、これは違うの。まるで映画みたい。無理やり映画が頭の中に入ってくる。止まらないの。ずっと、私が、タカシの人生を生きて行くの……」
カホリの頬を涙が伝った。
「強すぎるんだ……」ジンケが言う。「生身の人間同士では情報が多すぎる。共有し過ぎてしまうんだ。僕が軽率だった。これは危険なことなのかもしれない」
「どういうことだよ」ナオユキが聞く。
「きっとカホリの力は」ジンケが答える。「テレパシーとサイコメトリーの両方だと思うんだ。聞いたことはあるでしょ。相手の考えていることがわかる。触っただけで、見聞きするよりも多くのことがわかる。それがただの石ころだとしても、物質に付着した情報を引き出すことができる。カホリの場合、その力がずば抜けて強いから、相手が人間だとオーバーヒートする。触る方も、触られる方も、歯止めが効かなくなるんだ」
「やれやれ」まだ朦朧した意識でタカシが言った。「俺とカホリはどうやら一線を越えちゃったみたいだね」
そんなタカシを一瞥して、カホリは恥ずかしそうに目を伏せた。
だが、カホリはタカシの全てを知ったわけではない。再生した記憶は幼少時のタカシだった。それでも凄まじい情報量だった。まだ幼いタカシの目を耳を、そして心を通して、感動と好奇心に満ちた黄金の時代を追体験したのだ。とても素晴らしい体験だった。だが同時に悲しかった。人の記憶は銀塩写真である。枠内であればその風景を切り取ってコピーするのだ。だから、当のタカシ本人が気にもとめないことまでカホリには理解できた。幼いタカシは確かに幸せだった。だが、その両親は必ずしもそうではなかった。無垢なタカシが知らないままに、ファインダーに切り取られた両親の表情は苦悩に満ちていたのだ。それを察するとカホリは何も言えなかった。ただ目を伏せることしかできなかったのだ。
「僕は幽体離脱」ジンケが続けた。「ヨリコは霊視能力。カホリはサイコメトリーに目覚めた。これは他のみんなにも起こり得ることだと思う……」
ジンケは言葉を切って皆を見渡した。実際には厚紙製の赤いロボットがぐるりと首を回したのだが、既に違和感を覚えるものはいなかった。そして無線機の声はこう告げた。
「そして……起こすことが僕らの武器になる」
一同は吸い込まれた。心の表面でざわつきが止まり、その奥深くの静かなる瞑想の園へと着地した。そこで見つけたのは穏やかな闘志と、潔い決心だった。それはまるで、歴戦のツワモノが今際の際に悟る静けさによく似ていた。
「俺は別に必要ないけどな」ナオユキは言った。「タカシにもスグルにもハッセにも、まあ……場合によってはガイのやつにも、その力ってやつが目覚めるかもしないってわけか」
赤いロボットは首を縦に振る。
「そりゃあ楽しみだ」タカシが言う。「で、どうすれば、その光った人に会えるんだよ?」
「待つしかないと思う……」ヨリコが答えた。
「なんだ?」ナオユキが言う「お前何か知ってるって言い方だな」
「あんたたちよりはよく知ってる。昔から、友達だから……」
「じゃあ早く呼んでよ」タカシが言う。「ほら、ぐずぐずしてられないじゃん。俺も早くパワーアップしなくちゃだし」
「こっちから呼ぶことはできないの。とても、デリケートな人だから」
「じゃあ行くぞ。居場所は?」とナオユキ。
「知らないの……」
と言ってヨリコは口を閉ざした。しおれた花のように直角に首を折り、膝頭の一点を見つめる。何も見えず、何も聞こえず、何も感じない、という無感動のストライキ。皆はこの姿に見覚えがあった。それはヨリコが魔女裁判にかけられた幼年期、過度に追い詰められた時に見せる逃避の構えであった。
「まあいい。とりあえずはガイ救出作戦だろ?」ナオユキは言った。「それとさっさとハッセも捕まえなくちゃな。どっちが先だ?」
「ハッセ」とジンケ。
「よし。じゃあこれを配っておく」
ナオユキはバッグから無線機を取り出した。三つだ。すでにタカシとハッセに手渡している他、スグルが持っていた分はスグルの手により赤いロボット用拡声器として接続されているので、残りは三つ。ナオユキはそれぞれ、スグルとヨリコとカホリに無線機を配った。これできれいさっぱりバッグは空。
「スグル、チャンネルを合わせてやってくれ」
「オーケー」スグルは女子の無線機を調整する。「ジンケも同じチャンネルにしておくからな。これでいつでもジンケと話せる。あはは、すごいや」
「電源は入れっぱなしにしておいてくれ」ナオユキが言う。「電池は買いだめしておけよ。いつでも応答できるようにしておくんだ」
「ラジャ」と男子が答える。
「よし、チェックしよう」
スグルが号令をかけると、皆、こぞって送信ボタンを押す。辿々しくも瑞々しい「こちら○○」「△△どうぞ」が行き交い、ほんの少しの興奮が甘酸っぱいような匂いを伴い、小屋の空気を熟成させる。
「なんだか変な気持ち」送信ボタンから手を離したカホリが言う。
「探偵になったみたい」ヨリコが言う。
「探偵ってよりも特殊部隊だな」スグルが言う。
「CIAだよ!」タカシが叫ぶ。「それも海軍上がりで、戸籍上では死んだとされる神出鬼没のヒットマン!」
「じゃ、行くぞ」スグルが第一に立ち上がる。「ジンケは俺が背負って行くよ」
担がれた赤いロボットを見て、一同は改めてこの急遽結成されたチームが異様なものであることを知ったのだが、「ボスがロボットだなんて、イカしてるぜ!」というタカシの一言で、妙な納得と、恥じるような、そしてまた脇の下をくすぐられたかのような、なんとも言い難い複雑な感情に浮き足立った。
「疲れたら交代してやる」ナオユキがスグルに言う。
「……トイレ行きたい」ヨリコがつぶやく。
「私ん家、近いから寄って行く?」カホリがヨリコに耳打ちする。
ガヤガヤと小屋の中はかき回され、義務教育の成果とでも言うべき整理整頓が惰性的に行われ、とうとう空っぽになる。最後に外から扉が閉まり、藁で目隠しされると、揚げたパンとコーヒーの匂いが壁に染み込み始め、小屋は本格的な眠りの準備を始めた。




