研究所
恵子のコンパクトカーは峠を登る。そこは少年少女たちが会する山小屋とは別の高台。そして外湾を望む町のもう一つの絶景。その断崖絶壁の麓に目的地の建物はある。達郎が務める臨海研究所だ。
一度峠を登りつめてからダートを下る。もちろん舗装はされていないので巻き込んだ小石がコンパクトカーの底で弾ける。その度に恵子は顔をしかめる。もちろん車は大事にしているが、それよりも鉱物と金属がかち合う音が耳に刺さって仕方がない。どうやら、カホリの一件があってから、より聴覚が敏感になっているようだ。
「本当に良かったんですか?」後部座席から達郎が尋ねた。
「いいですよ」助手席の木村が答える。「もちろんいいですよ」
「お二人でご予定があったんじゃないですか?」と達郎。
「いや」返し矢で木村が答える。「ないです、ないです。僕はあの……ないです」
恵子は「ふふ」と笑う。
「それに」と木村。「研究所、見ておきたかったんですよね。ほら、春の社会科見学で来ますし。どっちにしろ下見したいなって、思ってたんです。ね、河合先生」
「そうですね」恵子は答える。「私はあんまり関係ないですけど」
「ありますよ!」木村、半ばむきになる。「来年度には副担持つじゃないですか。そしたら、同行しなくちゃいけないんですから」
「ああー」恵子は唸り声を上げる。「副担かぁ、私音楽だけで精一杯なんですけど。だったら保健の先生と音楽にして欲しい……」
「そんなの聞いたことないですよ。保健の先生兼、音楽教師だなんて」
二人の歯に衣着せぬ物言いに達郎は声を立てて笑ってしまう。思えば息子が入院してから笑ってなどいなかった。胸の内が清々しく感じる。ああ、希望を持つのも悪くない。実に前向きになれる。
「しかも他の職員さんいないんですよね?」木村が聞く。
「はい。私だけです」
「こんなチャンスなかなかないですよ。研究所がプライベートで貸し切りだなんて」
「大人の社会科見学ですね」恵子が言う。
「そりゃあいい」達郎が続いて言う。「大人の社会科見学かぁ。いいですねそれ」
木村は静かに外を見る。別に見る景色などないのだが、そうやってただ耳に意識を集める。鈴音のような恵子の笑い声を耳で集めて持ち帰る。そんなことを一人静かに考えている。
人気のない研究所は薬品の匂いが強かった。普段からこんなに鼻につくのか、それとも大掃除、つまりは大々的な消毒を終えた後なのか、もしくは人がいないとこれだけ匂いが持続するのか、要は人という存在が毒を中和してしまうのか、それをわざわざ聞くわけにもいかず、ただ木村は鼻の血管がむずむず疼くのに任せていた。
中に入ると波の音が弱まった。研究所は海に面して建っている。まさに崖の下だ。よくこんな場所に建てたものだと木村は思う。100メートルほど離れた場所に寄宿舎がある。現在は無人だ。学徒が研究のためだけに集まる場所。ここにあるのは波の音のみ。とても寂しいと思う。研究者は寂しいと感じないのだろうか。それともある種の寂しさが知的探求心を向上させるのだろうか。波の音は弱まった。だが、逆に波はとても近く感じた。潮と薬品の匂いが混ざり、やはりとても寂しいと思える匂いだった。
達郎は資料室へ二人を通した。
当初、木村だけに話すつもりだったが、成り行きで今は音楽教師の河合先生がいる。達郎は少し迷った。木村には不思議と何か通じ合うものがあったから話してみようと思ったのだ。しかし先ほどの車内での空気感、この二人もどことなく深みのある、そしてささやかな人間味で結ばれているようだった。だからこの女性も交えて良いと判断した。
「これを見てください」達郎が本棚から取り出したのは年表だった。郷土資料館にでも置いてありそうな町の営みを記録した冊子。発行元はもちろん彼らが暮らす町である。
「ここです」開いたページには西暦表示の年代とそれに準じる主な出来事。江戸時代後期から綴られ、それに付随した二段の表の上段には日本史上の主な出来事、下段には町の成り立ちが記されている。この町は天正十八年に幕府が漁場の請負、いわゆる場所請負制の拠点として統治したのが始まり、とある。
達郎は何を言いたいのだろう。社会科教師の木村は否が応でも好奇心を刺激された。てっきり科学の授業でも展開されるのかと思いきや、これは歴史ではないか。しかもかなり限定された郷土史。
「それと、これです」達郎はもう一冊、分厚いファイルを取り出した。製本されているわけではなく、古めかしい厚手の帳面に、黄ばんだ書類の束が窮屈そうに紐で閉じられている。表紙には研究所の刻印と『年代別水質調査』との文字が読み取れる。
「こっちは昭和六年、研究所か設立した翌年からの記録なんですけど」達郎は話しながら、二つの書物を縦に並べ、さらに使い古したレポート用紙を追加して置いた。「わかりやすく書き出してみました」
なにやら達郎が書き記したものはこの二冊の相関表のようだった。年代別に別々のデータを並べている。日本の主な出来事は省き、一段目に町の成り立ちと出来事、水質調査のデータ、そして三段目にこれまで目にしなかった項目、【事件】と銘打った表が追加されている。
「犯罪史です。警察署がインターネットで公開しているんです」達郎が言った。
町と水と事件。まだ何を言いたいのかわからない。恵子に至っては耳を傾けてすらいない。何か目を悦ばせるものでもないかと、あちこちを物色している。木村は促されるままに手書きの表を見た。
昭和六年、臨海研究所設立。昭和十一年、町立病院設立。昭和十六年、上水道ができる。昭和十八年、空襲で重油タンクが燃える。昭和三十一年ーー。
そこで木村の目は止まった。この欄には町の出来事はない。目を引きつけたのは今まで空白だった事件欄ーー。
「腸チフス、および集団赤痢事件……」思わず木村は口にした。
「はい」と達郎が答える。「私が生まれる前のことなのですが、当時としては未曾有の事態だったそうです。共同の水飲みポンプが感染の原因ではないかと言われていますが、その感染源も含め、はっきりとは解明されていません。ただ、当時牡蠣が豊漁でした。まだ天然の牡蠣もあり、非常に高値で売買されてました。しかし町は牡蠣の販売を自粛しました。感染源が貝だという可能性も考えたのでしょう。そして見てください……」
達郎が指したのは水質調査の欄。「亜鉛値急上昇」と読める。
「こちらもどうぞ」達郎は本式の帳面も開いた。複雑な折れ線グラフだ。専門家以外に読み取ることが難解なのはすぐに見て取れる。しかし、意識は「亜鉛」という文字を追っていたので、「亜鉛」の数値が年間を通して一番高くなっているのは理解できた。
「それで、これは一体……?」木村は尋ねる。
「わかりません」はにかんだような笑みを浮かべながら達郎は答える。「専門外なんです。私は野鳥の研究が専門でして、海のことはさっぱり……」
達郎は資料棚からまた別のファイルを取り出しながら続ける。
「同僚の米山がいれば詳しく説明してくれるんですけどね、あいにく彼は里帰り中でして」
取り出したファイルは真新しい。表紙はやはり「水質調査」で、今年の西暦が記されている。
「今月のものです」そう達郎は言って資料を開いた。
経年の差こそあれ、どうやら同じ折れ線グラフ。凝視するは一点のみ。亜鉛の数値がトレースしたかのように一緒であった。
みぞおちがぎゅっと縮んだ。これが何を意味しているのかは木村にはわからない。だが、嫌な感じだ。みぞおちに撃ち込まれた弾丸から汚染物質がじわじわ広がっていくかのような不快感。なぜだ? なぜ亜鉛の数値が半世紀前と同じだからと言ってここまで不穏な気持ちになる? 第一この数値が意味する事すら知らないと言うのに。
「木村先生」達郎が言った。「ここも見てもらえます?」
達郎が指した箇所は、古いグラフ余白部分、お情け程度の備考欄だが、判読ぎりぎりの達筆で『臨時招集』と記されている。
「これは研究所のアーカイブを抜粋してコピーしたものです」
更に達郎が差し出した用紙には昭和三十一年当時の年間スケジュールが一面に網羅。その活字群の中で赤いマーカーで囲まれた部分が目に飛び込む。すぐにその意をつかむことができず、木村は声に出してそれを読んだーー。
「漁業連合団特別臨時会議……」
もはや言葉はいらなかった。相手の顔を見ればわかる。何を言わんとしているのか、まるで我が事のように理解できる。水質調査の特異点、そして形態こそ違うが町を襲った未曾有の凶事、おそらく半世紀前も魚連団主催の会議で同じような議事が繰り広げられた事であろう。ただそれだけでは何も判断できない。事実だけでは異常を認められないのだ。一歩踏み出す覚悟がいる。そのためには直視しなければ。彼の息子の奇病。そして見舞いに来た生徒の奇行。おかしい……。おかしいのだ。はるか古代に退化したアンテナが、埋没した皮下組織の中でエコーする。尾骨が、盲腸が、扁桃腺が、五感以外の感覚で訴えるのだ。これは何かがおかしいと!
「へー」恵子が素っ頓狂な声を出した。「おもしろい年表ですね。大橋が完成したのが昭和六十一年、出来てからまだ三十年しか経ってないんですね。それまでどうしてたんですか?」
「ああ」達郎が答える。「フェリーですよ。湾の北側、今では湖北って言いますが、南は湖南ですね。その湖北と湖南を行き来するにはフェリーも出てたし、個人の渡し船もたくさん出てました。なんせ漁師町ですからね」
「へえ!」恵子が歓声を上げる。「ちょっと素敵ですね。私も船乗りたかったな。船って乗る機会がないですもの。日常的な交通手段に船があるって、なんかこう、ロマンがありますよね」
「僕も小さい頃乗った記憶がありますけど」達郎が答える。「確かに楽しかったですね。だけどやっぱり事故も多かったですよ。海が時化てる時なんかも無理して渡る人もいましたし、それに一番の問題は冬ですね」
「冬?」
「ええ。冬は船が出せないんです。凍ってしまいますから」
「凍る!」恵子が驚く。「でも海ですよね?」
「厳密には汽水湖ですよ。湿原を流れる川の河口になってますから、淡水と海水の半々ですね。完全ではないけれど凍結するんです。それに当時は流氷も来ていましたし、今よりもずっと寒かったですから」
「へえ。じゃあ船が出せないわけですね」
「はい。車だと湾の外周をぐるっと迂回するわけですから、ものすごく時間がかかるんです。すると人間はどうにか楽をしたくなります。どうするとおもいます?」
「まさか……」恵子、青ざめる。
「どうぞ、直感に任せて」
「歩いて……?」
「正解です」達郎、続ける。「氷の上を歩いて渡りました。橋が完成した時、僕はまだ小学生でしたから、さすがに歩いたことはありませんけど、昔はかなりの人が歩いて渡ったと聞いています。本当、びっくりする話ですけど、死んだ人も相当な数だったそうです」
「え……」恵子が言う。「落ちて……ですか?」
「はい。淡水の湖なら車で走っても割れませんけど、海水が混ざってますからね。それに流氷だとなおさら危険ですよ。でも流氷ってどうしても乗ってみたくなるんですよね。あれは、うん、ロマンがありますよ」
「乗ったことあるんですか?」
「ええ、まだ子どもの頃、息子よりも小さい頃です」
「だいじょうぶだったんですか?」
「当時の子どもはみんな流氷遊びをしてました。そりゃあ危険ですけど、大人の目も行き届いてましたからね。子どもは子どもなりに安全策も講じるものです。やっぱり今の子どもよりも器用でしたね。船を運転出来る子もいたくらいですから」
「じゃあーー」木村が突然割って入った。「大橋が出来てから文化がガラッと変わったというわけですね?」
「文化というか、生活はかなり変わりましたね。とにかく便利になりました。昔は湖北と湖南で妙な敵対心というか緊張感がありましたけど、それも次第になくなり、一つの町という意識が強くなったような気がしますね」
「神話みたいだ」木村が言った。「おもしろい町っすね。ほんの三十年前まで生活の中心は海だったわけですよ。海は恵みを与え、死へと誘う。いわば神です。そして神をめぐって町は二つに分かれる。対立、競争、未来永劫戦い続ける。なんとなくバロンとランダのお祭りを彷彿とさせますよ。バリ島の民間信仰です。バロンは善、魔女ランダは悪。両者は鏡のような存在で、永遠に世界の支配をかけて戦い続けるんです。この町にはそんな神話のモチーフが散りばめられているように感じますね。そうだ、海にお社あるじゃないですか、あれっていつからあるんですか?」
「あれは……」達郎が答える。「いつからだろう。多分、大橋が完成した時と同じくらいだと思いますけど、そんなに古くはなかったと思います」
「やっぱり」木村が言う。「大橋の完成と共に神はいなくなったんです。便利さと引き換えに神を手放したーー海中深くに封じたんですよ。古い神様っていうのは厄介なんです。わがままで気まぐれで享楽的。社ってバリアなんですよね。人間本来の混沌としたいにしえの空気を遮断してるんですよ。だからなんとなく浄化されるような気持ちになる。神殺しの罪悪感から逃れるために社で祀る。俺はそう考えてます。って、いい歳してマンガの読みすぎですかね?」
おどける木村だが、聴講生は神妙な顔つき。達郎だけでなく恵子までもがいつになく強ばった表情を見せる。
「何が起こっているんですか?」恵子が聞いた。
男二人は顔を見合わせるだけで何も答えられない。
「さっきからずるいです。私にはわからない話ばかり……。何かがおかしいのは私にもわかっているんですよ」
「それが……」達郎は言う。「僕らにもよくわからないんです。とにかく何か引っかかる。それで調べてみたら、この資料の通り、昭和三十一年と現在の奇妙な類似。ああ、そうだ。僕と木村先生は昨日呼ばれたんです。魚連団にーー」
達郎は昨夜の臨時会議のことを恵子に話して聞かせた。恵子の顔から今までの柔和な気配は消え失せ、まるで氷の彫刻かのように冷淡な表情を見せた。木村はその顔を見ているだけで、厳しく責められているような気持ちになり、思いがけず女性の二面性というものを再確認した。
「その代表さんってカホリちゃんのお父さんのことですよね?」恵子が言った。
「そうか」達郎が言った。「やっぱりそうですよね。小林さんの娘さんか。さっきは気づかなかったなぁ……」
「カホリちゃん怯えてたんです」恵子は言う。「さっきの、あの男の子……だいじょうぶなんですか?」
三人の脳裏を共通の映像が結んだ。ガイ少年のにたにた笑いと、ありえないほど膨張した腹。見て、おもしろいでしょ、と言わんばかりの自信に満ちたあの表情……。
「ガイく……」達郎は言いかけて、言い直す。「磯貝君は息子とは古い仲ですけど、確かに様子はおかしかったですね。それに……」
達郎は顔を上げる。二人の視線を十分に確認して、胸の鼓動が太鼓のように、その重低音に内側から押しつぶされそうになりながら、ゆっくりと両手を持ち上げた。端から見れば「妊婦」のジェスチャーである。だが三人には別のものが見えていた。まさにガイ少年の肥大した、こぼれ落ちそうな腹である。
「俺たち何をのん気にやってるんだろう」
「私、カホリちゃんの側にいなきゃ」
木村と恵子の声が同時に出た。
「俺、磯貝探します」
「私はカホリちゃんを……」
またもや二人の声は重なり、なぜかバラバラに出て行こうとする。
「ちょっと待ってください!」達郎が言う。「どうして気がつかなかったんだろう……」
二人が足を止めた。後ろ髪を引かれ、そして思い切り引っ張って欲しいとでも言いたげな目で、当研究所の職員を仰ぎ見る。
達郎は机の上から資料をつかみ、飛びかかるように二人に迫る。それは今まで散々引用した「水質調査」の過去帳で、乱暴にめくった頁は巻末の名簿欄、そしてただ無言で一点のみを指すーー。
【所長/小林守俊】
「小林……」夢を見ているかのようにつぶやく。
「そうです」達郎が言う。「当研究所の初代所長は小林守俊。魚連団の代表を務める小林美津雄の父親で、カホリちゃんの祖父にあたる人です」
「確かですか?」木村が言う。「小林なんて苗字、いっぱいあるでしょう?」
「ありません」達郎が言う。「この町で小林と聞けば、それは小林一族のことです。どの小林も遡れば同じ川に辿り着くんです。だからと言ってたくさん枝分かれしているわけでもない。小林一族は少数精鋭……。個々の能力が高く、家族経営に徹してどんどん事業を発展させました。古くから町に住んでいる人間なら誰でも知っていることです。初代所長の小林守俊は小林美津雄の父親です。今はっきりと思い出しました」
「会いに行きましょう」恵子が言った。
「会うって?」木村が聞く。
「会って話を聞くんです」恵子が言う。「その、今と似ている時代、さっき見せてくれた年代に何が起こったのか、その人なら知っているんでしょう?」
「しかし」達郎が言う。「大胆な行動に出るのは得策ではないような気がします……」
「だからカホリちゃんに会うんです。カホリちゃんと話をしてから、おじいちゃんにも話を聞くんです。簡単なことですよ」
あっけらかんとした物言いに度肝を抜かれたが、二人の男は確かに納得させられた。
「じゃあ、まずはカホリちゃん探しで良いですね?」
言うが早いか恵子は部屋を出た。間もなく外からエンジンの始動音が聞こえたので、それに触発されたかのように木村が後を追った。達郎も続いたが、研究所の施錠に手間取り、自分だけがひどく遅刻しているような強迫観念を味わった。今にもエンジンが回転数を上げ、タイヤが砂利道を踏みしめる音が聞こえて来そうだった。達郎は最後の鍵をかけるなり、猛然とダッシュした。




