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山へ

「それで、医者は何と言っているのですか?」木村が聞いた。

 物語の舞台はまだ病院内。木村と達郎は最上階のレストランにいた。テーブルには洋風ランチのセットが二人前、まだ手をつけられない状態で湯気を上げる。

「身体的にはどこにも異常はないそうです」達郎は答えた。「おそらく眠り病の一種だろうと。思春期の子どもの中には、ごく稀にですけど、重度の眠り病や夢遊病の類が報告されているらしいんです。だけど大抵のケースは、何事もなかったかのように目覚めて当たり前のように日常生活に戻るんですって。だから何も心配いらないって、そう医者は言っています」

「そうですか……」木村は言う。「でも、なるべく側にいてあげたいですよね」

「不思議なもので、僕はそれほど心配してないんですよ。息子、何ていうか、ちょっと変わっていますでしょ?」

「いえいえ」木村は言う。「確かにちょっと、他の子とは感じが違うかもしれませんが、それが個性です。前にも言いましたけど俺は好きなんですよ、ジンケくんのことが」

「いえいえ」達郎は苦笑いを浮かべつつ「食べましょう」と皿を促す。木村は軽く手を合わせてライスから頬張る。

 ランチプレートの上にはミックスフライ。達郎は付け合わせのサラダに箸をつけるが、ふと思いとどまる。ミックスフライの一つがカキフライだった。

「木村先生」達郎は言った。「ちょっと気になることがあるのですが……」

 木村は揚げたてのエビフライにかぶりつくところだったが、会食の相手が見せたやけに神妙な顔つきに箸を止めた。

「食事の後に、ちょっとお付き合い願えませんか?」

「はあ……」

 木村が目を丸くしていると、急に華やかな声が割り込んだ。

「あ、おいしそーう!」恵子が小走りに席に着いて、「同じものをください」と店員へ告げた。


 コンパクトカーのドアが開く。

「どうぞ、狭いところですけど」運転席の恵子が言った。

 木村は助手席に、達郎は後部座席に乗り込んだ。大の男が二人座ると、恵子のコンパクトカーは数センチ沈んだ。

「助かります」達郎が言った。「恥ずかしながら車持ってないんですよ」

「俺も持ってないです」木村が同意する。

「でも、不便じゃありません?」恵子が聞く。「特に冬の間とか」

「不便は不便ですけど、なければないでなんとかなりますね。遠出をするときはレンタカーを借りるようにしています。通勤と買い物は自転車で。確かに雪が降ると自転車も乗れません、冬は運動不足になりがちなので歩くようにしてますね」

「なるほどー」恵子は感心する。「でもこういうときは便利ですよね、車って」

「本当に助かります」と達郎。

「楽チンですね」と木村。

 恵子の運転する車は一路、臨海研究所へと向かう。



 スグル、ナオユキ、タカシの三人は、ちょうど金物屋と和菓子屋と製麺所に囲まれた交差点へと差し掛かった。製麺所の裏から山頂へと続く遊歩道への入口がある。ここは数分前にヨリコが使った、いわゆる正規のハイキングコースである。スグルがジンケと一緒の場合、このルートは使わない。急傾斜で最短距離、いかにも登山といった雰囲気のルートを使う。だからスグルには新鮮だった。連れ合いによって選ぶ道も変わるものなのだ。

「そういえば」ナオユキが言った。「ハッセどこ行ったかわかるか?」

「知らない」タカシが答えた。「買い物でも行ってるんじゃないの? この前、牛のモツが欲しいって言ってたから。売ってないんだって。魚ばっかりだよこの町は、ってぼやいてたよ」

「そういえばそんなこと言ってたな」ナオユキはつぶやく。

 町の食料品店には地物の新鮮な魚が安価で並ぶが、畜産肉に関しては輸入物が多い。しかも内臓系となると卸し以外で入手するのは困難。運良く手に入っても加熱用のレバーか加工済みのホルモンくらいだろう。ハッセが熱弁していた牛モツの煮込みとは、ハチノスと呼ばれる牛の第二胃をトマトベースのスープで煮込んだものだ。イタリアではトリッパと呼ばれ、現地ではお袋の味、代表的な家庭料理だ。もちろんナオユキもタカシも食べたことはない。モツ煮と聞けば子どもの舌はそれほど食思を示さないのだが、それがイタリア料理だと聞けば途端によだれが垂れるから不思議だ。列車で片道一時間半もかければ畜産業が盛んな町に出るので、ハッセが本当に買い出しに行っているとすれば、夕方には戻るかもしれない。

「お袋さんと田舎に帰ってる可能性はあると思うか?」ナオユキは聞く。

「うーん」タカシは考える。「いつもなら、『それはないね』って答えるけど、あんな事があった後だからな……。あいつ、ああ見えてすごい母親想いだから、あえてお母さん守るためにも田舎に引っ込んだのかもしれない」

「……だな」ナオユキは深く相槌を打つ。

 ハッセの母親はスナックを経営している。夜毎酔っ払い、ケバケバしい化粧で顔を染めた母親を目にするたび、「クソババア」の怒号を飛ばしていた。しかし、決して憎んでいるわけではなかった。きっと、嫉妬していたのだ。嫉妬できるまでに成長した。水商売というものを理解したのだ。だから今では料理をする。店のつまみもハッセが考案するほどになった。それ以上の親孝行があろうか。反抗期にはある一定の到達点があり、そこに達してしまえば、あとは緩やかに降下するのみ。ハッセはスタートと、その上昇速度が抜きん出て早かったのだ。そうナオユキは考えている。

「余裕があったら帰りに寄ってみようか。戻ってるかもしれない」ナオユキは言った。

「オッケー」とタカシは答えた。

 と、ナオユキが足を止めた。スグルが先頭を行き、タカシを挟んでナオユキがしんがりを務めるのだが、数メートル先、丸木で組んだ足場で数えれば十本先ぐらいの茂みの中に小さな動物が見えたように感じた。最初はキツネだと思った。この地方では野生のキタキツネを目にする機会が多い。神々しさと愛らしさが同居した魅力的な野生動物であるが、キタキツネは寄生虫エキノコックスの代表的な宿主でもある。保健所では肌の接触は絶対に避けるよう指導している。だがキツネにしては小さい。子どもか? いや、子ギツネなら目に覚えがある。毛は灰色で鞠つきできそうなほどにふわふわな綿毛。キツネの幼児期はほとんど子犬と見分けがつかない。それとは違うのだ。もっと小型で、こちらをじっと見ていた。キツネは子も親も警戒心が強いのでそのような行動は取らないはずだ。きっと気のせいだろう。いや、山の中だ。何かしらの野生動物がいるのは当然。人間の方がよそ者なのだ。ナオユキは懸命に忘れようとした。だが、どうにも気になって仕方がない。気がつけば網膜に焼きついた見間違いを追っている。忘れようとすると今度は向こうから追いかけてくる。

「なあ、今そこに何かいなかったか?」ついにナオユキは聞いた。

「え?」スグルが立ち止まる。「何が?」

「そこだよ。ちょうどスグルの左足、何か小さいのいなかったか?」

「いや、いなかっと思うけどわかんないな。俺前見て歩いてたし」

「タカシは?」ナオユキは聞く。

「わかんない」タカシは答える。「ていうか実はさっきからいろんなもの見えてるから。熱のせいかな。ナチュラルハイさ」

 もし、タカシが同じものを見ていたら、こんなにおちゃらけてはいられないだろう。事実、ナオユキは足がすくんでいた。這い寄るような恐怖。あいつがここにいるわけがない。いたとしたら野良だ。野良に違いない。同じ毛色など腐るほどいるだろう。あいつは死んだ。俺たちの目の前で死んだんだ。ありえないやり方で、殺されてしまったんだ……。

「すまない。気のせいだ」ナオユキは言った。

 山の中腹で遊歩道は終わる。タカシが「げえ」と毒づく。道は険しく、足場は悪い。発熱中の少年にはさすがに堪えると見える。

 ナオユキが手を貸そうとするが、タカシはその手を押し返す。

「まだいいよ。今かなり良い感じだもん。もうちょっと引っ張ってみる。ウンコだって限界まで我慢した方が、出した時の気持ち良いじゃない?」とタカシ談。

「もうすぐ着くぞー」スグルが言う。

 こんな所に何がある。スグルが言うには秘密基地とのことだが、あまりに幼稚、子どもじみている。スポーツは好きだ。だが山で遊ぶなど興味の範疇ではない。アウトドアと言えば聞こえが良いが、キャンプの類にも生まれてこの方興味がない。なぜ家があるのに、あえて外に衣食住を求めるのだ? まるで知性を感じない。それにガキが作った住居などたかが知れている。建築は科学だ。建築は人類の進化そのものだ。見よう見まねのおままごとでは到底真似できない。原始人の真似事ならわからないでもないが、そんな不衛生な建物に病弱なタカシを連れて行くのもいささか不安である。

 しかし、それを一目見るなりナオユキの懸念は一瞬にして消し飛んだ。丈の高いススキ林から抜け出ると、そこには一軒の山小屋があった。今にも熟練の鹿撃ち猟師が出てきそうな機能的な佇まい。大きさも十分。丁寧に萱まで葺いていある。都市には都市の建物があり、山には山の建物がある。その景色に溶け込んだ造形美に、ナオユキは内心わくわくしていた。

 スグルが得意そうな顔で入り口を開ける。体を半分に折って入るような小さな入り口だが、茶室のようで趣がある。秘密基地とはよく言ったものだ。秘密にしたくなるのも理解できる。

 中は暖かかった。それでもスグルは「今火を起こすから」と言った。ナオユキは「だいじょうぶなのか?」と聞いた。密室で火を焚くと一酸化中毒になる、という意味だ。スグルはやはり得意そうな顔で木箱を部屋の中央に置き、その上に立つ。「来いよ」と目で促されナオユキも箱の上に上がるとスグルは填め込み式の天井を押し上げた。それは開閉式の物見櫓で、外に顔を出すと見事な内海の景色が広がった。潮の匂いが鼻をくすぐった。

「な」自信ありげにスグルは言った。


 火を起こすと暑いぐらいだった。枯れ草から燃やし、小枝、棒状のやや太めの枝、と段階を経て薪をくべた。全てそこらで拾ってきたような材料だった。その手際に感心して、ナオユキは本物の火遊びというものに興味を覚えた。最初はかなり煙たかったが、スグルがどうやらお手製の煙突を取りつけると気にならなくなった。一斗缶とホールトマトの空き缶を連結させたもので、これはこれで立派なストーブだった。

「ねえ、これなんだろう」タカシが言った。

 部屋の隅にタオルケットにくるまった何か大きなものが立てかけてある。スグルも最初は首をかしげた。こんなものはなかったはずだ。しかし、小屋の入り口を隠すための萱束がどかされていたのを見たときに、先にヨリコが来たのだと気づいたので、その中身を自ずと理解した。だが、なんと言って良いものか……。答えあぐねているとタカシが先にタオルケットの端をつまんだ。

「あ!」タカシが言った。「これ……」

 少し引っ張っただけで察したようだ。スグルの位置からも赤いボディがタオルケットの隙間から見える。ふと気になり、ナオユキの顔をうかがったが、なんの表情も示していなかった。彼の記憶にはないのかもしれない。

 タカシはタオルケットを剥ぎ取った。

「ジンケのやつじゃん! 俺これ欲しかったんだ。すごくねえ!? 例えばさ、俺のベッドにこいつ寝かせときゃ、うちのママさんどんな顔するんだろう。バスとか電車とかでもさ、こいつ座らせりゃ絶対おもしろいよ。それにしてもあの時はビビった。ジンケがあんないたずらできるなんて知らなかったもん」

「なんだそれ?」ナオユキが聞く。

「覚えてないの?」タカシが言う。

「ああ、その赤いのも、その話も、全くわからん」

「去年の夏休みの課題でジンケが持って来たやつだよ。普通は観察日記とか読書感想文とかさ、中学生だったらそうなるじゃん? だけどジンケはこれ……」タカシは急にケラケラ笑う。「ああ、確かに意味わかんないよね! 俺、初日は休んだんだ。ウイルス性の胃腸炎でさ。で、次の日学校行ったら、俺の席にこいつが座ってて! 俺ジンケの隣の席だったじゃん? ぞくっとしたよ! 実はこっちの俺が偽物で、そっちの俺が本物なんじゃないかって思ったもん。ジンケも知らないよって顔してるしさ! いやー、あれはしてやられた」

「ああ」ナオユキはやはり表情を崩さず、「そんなこともあったな」と言う。

「ナオってば本当にマイペースだもんな。火事になっても普通に寝てそうだよ。まあ、そこがナオの良いところなんだけどね」

「ジンケ……」突然スグルが言い、「ジンケ! おい、いるのか!」などと、言うだけでなくロボットの肩を揺さぶった。

「ちょ、やめ……やめてやめて!」それを見たタカシが笑い転げる。「シュールすぎるって!」

 抱腹絶倒のタカシは、たまらずポケットから喘息用の吸入器を取り出し、死に物狂いで口に咥える。

 ロボットは沈黙を守る。

 タカシのしゃくり上げるような笑い声が響く中、スグルは若干気恥ずかしいような面持ちで座席の用意を始める。

 ナオユキもそれを手伝う。やはり表情は崩さない。事実、このちぐはぐなやり取りよりも、心は全く別のものにとらわれていた。

 先ほどスグルと一緒に物見櫓から頭を出した時だ。我が町の素晴らしい景色に魅了されつつも、視界の隅で何かが動いたような気がした。その時は考えないようにした。だが時が過ぎるにつれて、焼きついた網膜の中で次第にピントが調整された。それは想像に過ぎない。だが今はもう確信している。遊歩道で見かけた動物と全く同じもの。しかも見られているのはこっちの方だ。つけ回されている。ナオユキの方が監視されている。……あの猫。ボートに乗せて海に放ったあの猫。謎のバケモノに生きたまま食われた、まだ生まれて間もないあの子猫。俺のせいで死なせてしまった、あの子猫!

 いるはずがない! たとえ生きていたとしてもこんな場所まで来られるはずがない。野生の猫ではないのだ。人間に絶大の信頼を寄せる愛玩動物。こんな山中では瞬く間にカラスやキツネにやられてしまう。では幽霊か? 俺を恨んで化けて出たのか? なるほどそれなら合点は行く。取り憑かれても仕方がない。それだけのことをしてしまったのだ。それにしてもこの胸騒ぎはいけない。気がおかしくなりそうだ。司会の隅にちらつく影が、常に意識の薄皮をつまんで引っ張り上げる。あんなに愛らしかった子猫の顔が、ふとした瞬間に無数の牙を剥き、たちまちに襲いかかって来そうだ。確かクリオネがそうではなかったか? 流氷の天使と呼ばれるクリオネが、獲物を捕食する時に恐ろしい姿に豹変するのではなかったか……? なぜかナオユキの思考は仄暗い海の底へと引き寄せられた。

 その時、外で物音がした。ナオユキは飛び跳ねそうになった。何かがいる。何かがものすごいスピードで迫って来る。身構える隙もなく、小屋が細かな振動に包まれる。

「誰か来たかな」タカシが呑気に言う。

 スグルは客人を迎えようと入口に近づく。

「待て!」たまらずナオユキは言う。鋭い刃物のような、場を律する囁き声だ。

 スグルもタカシも一瞬凍りつくが、またすぐに何事もなかったかのように動き出す。何かを警戒する理由が見当たらないのだ。

 ナオユキは入口との距離を測った。二歩で十分。一秒もかからずにスグルを押しのけ、何らかの攻撃に転じることができるだろう。全体重を乗せて放つ一撃は相手がたとえヒグマでもかなりのダメージを与えられるはずだ。しかし、俺が想像している相手は猫だ。それも死んだはずの子猫……。

 しかし小さな入り口から顔を出したのは猛獣でも幼獣でもなかった。人だ。それもかなり上質な、エルフと見紛うが如く美しい。……カホリだ。ナオユキが密かな恋慕を寄せる、カホリその人だったーー。

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