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ねじりパン

 二人の少女と一体の霊は、一路徒歩で集合場所へと向かっていた。何を悠長に歩いてなどいるのだ、そう思われる読者もいるだろう。しかし少女たち、特にカホリにとって今必要なのは心が回復するまでの時間、そして適度な有酸素運動だった。運動は脳の細胞をも活性化させる。それはコンピューターで言えば最適化とでも言えるような作業であり、カホリという少女はほとんど習慣的にそれを行うことにしていた。実際、思考というものは脳のみにあらず、全身の機能をもってして成立しているのではないか、という自前の論考をカホリは隠し持っていた。

 だからカホリは沈黙を守った。黙々と前へ進んだ。普通ならば問うのであろう。突然現れた級友が何もかもを知っているのだと言う。そしてカホリの力になれるのだと言う。そんな謎めいた級友は質問攻めにするのが当たり前だ。だがカホリはそうはしなかった。優先順位を頑なに守った。今は心身の回復。心と体のウォーミングアップこそ必要なのだ。

 それにヨリコはヨリコで忙しいようだった。しきりに独り言を繰り返している。まるで誰かと会話でもしているかのようだ。元々、薄気味の悪い女子ではあった。かつては霊感少女を自称してクラスからつまはじきにされていた時代もあった。ということは本物だったのであろうか。彼女は得意の霊感でカホリの窮地を知ったということか? まずい、歩調が乱れる。一つ気にすれば芋づる式に興味が沸く。まだアップが不完全だというのに、知的好奇心の方が勝ってきた。こんなの、私らしくない……。

「さっきから誰と話しているの?」ついにカホリは聞いた。

 二人は立ち止まった。

「ジンケよ」ヨリコは言った。

 意味がわからない。ジンケくんは、病院にいる。

 再びカホリは歩き出した。会話はこれで終わり。保留。わけのわからない情報は保留にかぎる。

「僕は見ていた。そうジンケは言ってる」ヨリコが言った。

 カホリは歩く。海風が冷たい。

「君は僕を救ってくれた。命の恩人だ。ありがとう」とヨリコ。

 何かが引っかかった。ヨリコの謎めいたつぶやきもそうではあるのだが、それよりも、もっと物理的な何か、言葉にできない違和感が生じている。並んで歩くカホリとヨリコの間に窮屈な歪みのようなものを感じるのだ。

 カホリは立ち止まった。ヨリコもまるで鏡のように歩みを止める。

「何かいる……」カホリはつぶやく。

 なんだろう。そこに何もないことはわかっているのに、かげろうのようにほんの少しだけ、空間がねじれている。そして厚みもある。普通の空気が真水だとすれば、それは無色透明で高質量のオイル。見た目はほとんど変わらないのだが、光の透け方が明らかに違う。そして何者かがそこに潜んでいるのだという漠とした真実。一度見つけてしまえば二度と見失うことはない。おそらくは何らかの目の錯覚のようなもので、そうと認識すれば逆にその部分しか見えなくなる。

「誰なの……?」カホリは言った。

 つい数分前のことだ。同じものを見た。その程度こそ雲泥の差ではあるが、確かに同じ類のものだ。あの光……カホリとジンケを救い、儚く散ってしまったあの光だ。それとは比べられないほど微量ではあるが、これもまた内に光を宿している。そうカホリには感じられた。

 ヨリコはただ固唾を飲んで見守った。カホリの身に起こっていることは予想がつく。かつてヨリコも体験したことだ。あの人との接触によって未知の能力が覚醒しようとしている。しかしヨリコの場合は幼かった。何が起きてもそのまま受け入れる柔軟さがあった。だが今のカホリは違う。精神構造は大人のそれと変わりがない。どう出る? 目の前の未知をどう消化する? ヨリコの興味はそこに終始した。

 カホリは何もない空間に手を伸ばした。もはや自分の意思で行動しているとは思えなかった。夢現つな自動運転。半ば催眠に近い状態ではあるが、それを誘発しているのは深層心理に潜むカホリの本性そのものであった。指先は何かに触れた。そこに確かに、何かがいるのだ。今までのカホリなら、ただ生温かい風が指の間を通り過ぎた、ぐらいにしか思わなかっただろう。だが、今のカホリはやけに落ち着いていた。狩りに目覚めた野生動物のように静かな本能の中で佇んでいた。

 両手の指先に集中し、その十本の触覚で何者かに触れた。自らの指先から微量な電気が放出されたような感覚、それが隅々まで行き渡り、まるでエコーのように何者かを浮き上がらせているようだ。目はすでに視覚を放棄した。全ては指先のエコー。輝く電流が幾千も行き交い、反射して、交差して、実像を結ぶ。空気の隙間に潜んでいた謎の生命体は、カホリという新たな画像処理機能を経て、白日のもとに晒された。

「ジンケくん……」カホリがつぶやいた。

 ーーそうだよ。僕はここにいる……。

 ジンケが言った。

 カホリには聞こえていなかった。だが、エコーの反射が輝く神経パルスとなってジンケの意思が直接脳に伝わる。

「どういうこと……!?」急に恐ろしくなってカホリは手を離した。冷や汗をかいている。体も小刻みに震えている。だが、これは恐怖だけが引き起こした現象ではなかった。この状態には覚えがある。走った後ーー。しかも全力で、体力の限界まで追い込んだ後。体内の蓄えを使い果たした飢餓状態、そして呼び起こされる深い多幸感。そう、私は深く感動している……。

「いるのね?」カホリはヨリコに聞いた。

 ヨリコは黙ってうなづく。

「あの光……」カホリは指先に尋ねた。「私を助けてくれた光も、やっぱりジンケくんだったのね」

 ーー違う。あれは僕ではない。あれは……あの人の正体は……ヨリコに聞くと良い……。

「見えているの?」遮るようにヨリコが聞いた。事実、カホリの指先で何が行われているのか、気になって仕方がないといった様子。

「見えてはいない」カホリは答える。「不思議なんだけど、そこに何かがいるってのはわかる。でも触らないとはっきりしないの。こうして触ると何もかもがわかるような気がする。ここにジンケくんがいるってことも、わかる。こんなこと初めてなのよ」

 ーーサイコメトリーだよ……。

 ジンケが言う。

 ーー僕が深い瞑想に入った時、この世の全てと繋がった感覚になる。相手が生き物ならば、その体験と記憶を共有できる。物質ならば、そこに宿った残留思念のようなものを読み取ることができる。それを瞑想に入らずとも、フラットな状態で行えるのがサイコメトリーだよ。超能力の中では比較的社会に認められているものさ。とりわけ警察の捜査なんかにね……。

「今の聞こえた?」ヨリコは聞く。

「やっぱりこれも……」カホリは答える。「聞こえてるわけじゃなくて、メッセージが届いてる感じ。なんて言うか、聞くのと読むの中間……」

 そこまで言ってカホリは愕然とした。得たばかりの、この不思議な能力が何かに酷似していたのだ。記憶に新しい恐怖。人生で最悪な忌まわしさ。そう、ガイが行った、あのイソギンチャクのような指の動き、そしてGPSのような探査能力。ましてやジンケの体液を外から操作するような真似までした、あの人外極まる能力を彷彿とさせたのだ。だが、それは忘れることにした。次なる疑問が沸いて出たのだ。何にも増して優先すべき当然の疑問だ。どうしてジンケがここにいる? 病院で眠っているはずではないか。

「ジンケくん……どうしちゃったの?」カホリは聞いた。

「幽体離脱よ」ヨリコが答えた。「一から説明すると時間がかかるわ。これからみんなで集まって詳しく説明するけど、はしょって説明すると、ジンケは幽体離脱して、そして戻れなくなっちゃったの」

「そう……」カホリは復唱した。「幽体離脱……」

「さ、行くわよ」ヨリコは言った。


 二人は歩き出した。ジンケはその後を追いながら、先ほどカホリに触れられた時のことを考えた。学年一と謳われる才色兼備に直接(とは言えないかもしれないが)脇の下を触られたことへの淡い感傷もあったが、それよりも相手の心に直接触れた感慨の方が上回った。そしてカホリが侵入してくると同時にジンケ自身もカホリの深い部分に触れてしまうような気がして、たまらず精神を閉ざした。そう、心の奥底の扉は閉ざしたままにしたのだ。でなければ二つの心は溶け合ってしまう。精神感応者同士が干渉し合うことへの興味、そしてその計り知れない悦とした快楽にジンケは呑み込まれてしまいそうだった。いけない。深追いは禁物だ。今はまだ、考えるべき問題が山積みなのだ。例えばそう……なぜカホリはこのタイミングで能力に覚醒したのか? 答えは明白。別の力に触発されたのだ。ではその力とは、おそらくヨリコがあの人と呼ぶであろう、あの光の来訪者のことであろうか。そう考えるのが自然な流れではあるが、カホリ自身がさりげなく隠蔽した心のうちの戸惑いも忘れてはいけない。カホリのサイコメトリー能力はガイが持つ人外能力との共通点も否めないのだ。ではジンケの場合はどうだろう? ジンケ自身は、あの人側だと信じている。物心つかぬ頃からあの人の影を感じていた。決してそれとは気づかぬように、あの人の教えを受けて育ったと言っても過言ではない。しかし現にガイが敵側に回ってしまったということは、あの人と、言葉にするのも忌まわしい水色の子どもは何らかの対称関係にあると言えるのかもしれない。それでもカホリはこちら側だと信じたい。信じるに値する理由もある。僕を守ってくれたからだ……。

 目の前を歩く二人の会話が耳に入った。

「ねえ、お昼は食べたの?」とカホリ。

「食べてない。食べる暇なかった」とヨリコ。

「私、おなか減ると思う」

「じゃあ、途中でパン買っていこうよ」

「マエダのパン!」

「そう、マエダのねじりパン」

「みんなの分も買ってってあげよう」

 ヨリコは指折り数える。

「何人いるの?」とカホリ。

「多くて八人かな」

「一人二個として、二千円あれば足りるかな」

「あたし二千円ある」

「私も三千円持ってる」

「じゃあ一人千円ずつ出して、足りない分はあたしが出す」

「いいよ、私が出すよ」

 女子というものは不思議だ。学校でこの二人が話している姿を見たことはない。変わり者のヨリコは一人でぶつぶつ言っていることが多い。男子なら誰もが憧れる存在のカホリは、そう言えば特定の女友達というのを持たず、休み時間も一人で本を読んでいることが多い。ひょっとしたらこの二人は根っ子の部分で似た者同士なのかもしれない。

 ジンケはこうも考えた。マエダのねじりパン……。最近めっきりご無沙汰だ。あれはとてもおいしいものだ。月に一度、学校給食にマエダパン屋が卸しているねじりパンが出る。あれを食べると午後の授業が夢心地だ。サクッと揚がったパン生地と星のかけらのような砂糖。いつまでも口の中に残る幸福の味。あれは猫にとってのマタタビのようなものだ。少年たちの前でねじりパンをちらつかせたらいちころ、どんな秘密でも吐くだろう。ああ……僕はいつまで食べられないのか。このままでは食欲というものを忘れてしまう。現に、マエダのパンの話を聞くまで食べるという行為を忘れていた。食べなくても良い体は確かにとても潔い。食べたいという欲求を捨てれば、人は新たな次元に到達するのかもしれない。でもそんなのはごめんだ。超越すればするほど孤独。ごはんを食べない人生なんて悲しすぎる。そんなものに僕はなりつつあるのだろうか。なりたいのかと聞かれたら、僕はまだまだ若いのだから、なりたくないと大声で叫んで良いのだと思う。

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