見舞客4
「わかったな」ガイに非ずのものが言った。「変な気を起こすんでねえど。ちゃんと見えてるからな。おまえはいい子にしてたらいいんだど。いい子にしてたら、後で何か食わしてやる。イカでもタコでも好きなもん食わしてやるからな」
ガイは魚眼でカホリを見張った。と同時にベッド上のジンケをも見下ろした。しかし、何やら思うように視界を確保できないようで、彼は首を90度ひねった。すると左目でカホリ、右目でジンケ、というふうに視界を割り振ることができた。カホリは今にも失神してしまいそうだった。
「ジンケぇ……」ガイ非ずの者が言った。「やってくれたよなぁ……ジンケぇ……」
ジンケは眠ったままだ。目を閉じ、静かな呼吸を続け、まるで赤子のように健やかに眠る。見る者の心を痛めるのは彼につながれた線。点滴の管、心電図の電極。彼の命は完全に管理されている。
ガイに非ずのものは数ある線の中から点滴の管に目をつけた。肘の内側の柔らかい部分から伸びる透明なチューブを舐めるように目で追い、車輪付きの三脚棒のてっぺん、薬液の入ったパックに到達する。その間も後ろの目はカホリへの監視を怠らなかった。ガイに非ずものは片手を伸ばした。手指消毒用アルコールで焼けただれた方の手だ。皮膚の色素は完全に消え失せ、薬液のパックと同様に中の液体が透けて見える。いわば手袋のようなものだ。やや青みがかった液体で膨らました透明な手袋。その親指以外の四本の指が小気味よく薬液パックを弾いた。タタタン。それはフラメンコギターで言う、ラスゲアード奏法と同じ指の動きだった。すると中の薬液がぐるんと一回転した。原理はわからないが、とにかく飼い馴らされたうなぎのようにパックの中で一回転して見せたのだ。
そして渦が生まれた。鳴門海峡に発生するあの渦潮のように、薬液パックの中身が渦を巻いたのだ。それに呼応するようにジンケの体がのけぞった。まるで高圧電流を流されたかのように、激しく胸を突き上げ、ほとんど脳天とつま先だけで体を支えていた。ミシミシと軋むあばら骨の音まで聞こえた。
カホリは悲鳴を上げた。少なくとも自分ではそのつもりだった。だが声は極端に萎縮していた。わずかな悲鳴は喉のあたりで出たり入ったりを繰り返した。興奮した犬のようであった。
「たいしたやつだよぉ……ジンケぇ……」ガイに非ずのものが言う。「どうしてぇ……あんなまねがぁ……おまえがこわいぃ……」
何かが起きそうだ。ガイに非ずのものが再び指を弾いた。薬液パックの中身が猛烈に回転した。その回転数が目に見えた。透明なはずなのに渦巻く線がはっきりと見えた。血が混ざっていたからだ。そう、パックの中身は宿主である少年の組織を循環させていた。あの細い管の中で、プラスとマイナス、動脈と静脈、陰と陽が交差していたのだ。理論上ありえないことだ。循環させるには管がもう一本必要だ。到底信じられることではないが、ガイに非ずのものが、とにかくそのように操作しているのだった。魔術……そう言えばいくらかは理解できるだろう。そして血で染められたパック内の渦潮を、まるで古代のヘブライ語でも解読するような身振りで「ふむふむ」とわざとらしく拍子をとりながら熱心に首を縦に振るのだった。
「だいぶひみつがわかってきたどぉ……」ガイに非ずのものは言った。「わかるかぁ……カホリぃ……おれはいまジンケを読んでるんだどぉ……毒がないかしらべてるんだどぉ……あんなまねをしたジンケだから、食えるかどうか調べるひつようがあるんだどぉ……」
なんて言った? 食う? ジンケを食う……?
薬液パックの中身は一度真っ赤な鮮血に染まった後、次第に透明度を取り戻した。医術に紛れ込んでいるからこそ、その違法性を強く感じる。これは、自然の法則を無視した現象だ。
「おお、毒はないみたいだどぉ……」
怪物は言った。次にカホリが見たものは、生涯、いや孫の代まで伝染するほどの恐怖だった。だからカホリは独身の誓いを立てた。ここで終わりにしなければいけない。この恐怖は、血脈で伝えてはいけないのだ。
再びカホリは悲鳴を上げた。今度はさっきよりもうまく叫べたと思った。しかし、吐き出したはずの声は何故か我が耳に届かなかった。そのかわり、くぐもった大量の泡の音がカホリの耳になだれ込んだ。
何かが聞こえた。いや、それは聞こえるというよりも内耳に直接響いた。例えれば、音叉が立てる閉ざされた音。だが確実に目的意識を持った悲痛とも言える信号。音楽教師恵子にはそれがどうやら誰かの悲鳴に聞こえて仕方がなかった。
そもそも、病室を訪れてからずっと引っかかるものがあったのだ。それが何だと言われても到底説明できない。恵子が時折聞く音は、誰にも聞こえない類の音だからだ。昏睡状態のジンケ少年からは、限りなく残響に近い音がした。生きている者からも、死んだ者からも、ましてや眠っている者からもこんな音はしない。もちろん昏睡状態なのだから、聞いたことのない音がすることもあり得る、そう己を納得させかけた時に生徒が二人やって来た。ガイという少年はよく知らない。だが、恵子の腕を強く握りしめたカホリから伝わった心臓の音、これはよく知っている。友の安否を気遣っている音ではない。不安と恐怖に急き立てられる音だ。
女の勘、と言ってしまえば安っぽく聞こえる。だからこれは、いわば音の勘。音に忠誠を誓った音楽教師が、生徒のためだけになし得た奇跡の技。きつく腕を握りしめたカホリから聞こえた心臓の音。そして、内耳でキーンと響く悲鳴のような信号音。これは同じ種類の音。同じ楽器が奏でる音。導かれる答えは一つ。カホリちゃんが、助けを求めている。
ーーあのガイって男の子、妙な真似をしなかったか?
したのだ。全員で見たのだ。なのに、そこには触れずに、見て見ぬ振りを決め込み、こうして病院最上階にあるレストランへ向けて大人三人分の歩みを揃えているのだ。ああ……あの出っ腹を見た。あの、ありえないほど膨張した腹。そして面白いでしょと言わんばかりのわざとらしい笑顔。腹……笑顔……腹……笑顔……あの異様に大きな腹……。百歩譲って笑顔は良しとする。だが、あの腹はどう考えてもおかしい。たとえ力士でも、たとえ六つ子を妊娠したとしても、人間はあんな腹にはならない!
恵子は立ち止まった。生徒の父親と同僚の教師はリノリウムの床を滑るように歩き続ける。エレベーターは間近。何か言うべきか、常識の範囲内なら言うべきなのだろう。だが、言うべき言葉が見当たらない。とにかく気になる。とにかくカホリに用があったのだ。そういうことにすれば良い。用の中身は後で考えれば良い。恵子は歩くのと同じ速度で踵を返し、元来た道を駆け出した。
悲鳴は泡の音となって消えた。自らが溺れかけていることに気がついたのは再び悲鳴を上げようとして思い切り息を吸い込んだ時だった。カホリは水中にいたのだ。正確には、カホリの頭部だけがすっぽりと水の中に埋まっていた。
悲鳴を閉じ込めた気泡が視界を覆い、やけに塩辛い水が食道に流れ込む。反射的に軟口蓋が閉じられたが、僅かな水が気管へと侵入した。カホリは激しく咳き込んだ。なにしろ水中でのことなので、失った空気は戻らない。その酸素への本能的な渇望が、逆にパニックを回避する手助けになった。溺れてはいけない。息を止め、まずは何が起こったか見極めなくてはーー。
カホリは目を見開いた。確かに水の中にいる。両腕を持ち上げた。水の重さ、水圧というものを感じない。目の前に持ち上げた両手はさらりとした空気に触れている。その手で顔を触ろうとする。だがすべすべしたゴムのような感覚で遮られる。何かの膜がカホリの頭を丸ごと覆っているのだ。たまらず両手で搔きむしる。だがぬるぬる滑って爪が立たない。それ以前に膜の強度が尋常ではない。これはまるで海獣の表皮。イルカ、いやクジラ並みだ。
パニックになるな。パニックになれば終わりだ。まさか殺すはずがないのだから。それでは私を連れてきた意味がない。きっと私は必要なのだ。認めよう。ガイに非ずものは私に好意を持っている。だから私を殺すはずがない。パニックになる必要はないのだ。息はまだ持つ。2分間は保つ自信がある。落ち着いて。酸素を大事に。気絶だけはしないで。何が起こっているか、何を成すべきか、冷静に判断して。そしてできることなら正しいことをして。悪事を食い止めるの。あいつの思い通りにさせないで、ジンケくんを救うのーー。
だが果たして何ができる? カホリは閉ざされた世界で考えた。目は見える。かなりクリアだ。まぶたを開いたままでも痛くはない。この水、汚染されてはいないようだ。手も動く。残留酸素を刺激しないように、下半身に神経を集中する。膝は曲がる。つま先も動く。きっと問題なく動ける。残留酸素の許す限りは、ある程度自由に動けるはずだ。さて、どうする? そろそろ、苦しくなってきたーー。
ガイは己の変化に露ほども気づいていなかった。ただ、心の底からジンケが心配でたまらなかった。いつからか記憶に紛れ込んだ「やってくれたなジンケ」という感情は、友情の裏返しのようなものだと思っていた。だが、その嫉妬と悔しさと恋慕にも似た憧れの感情を反芻する度に、波打ち際で石を投げつける別の友人たちの姿が脳裏に浮かぶのだった。これはガイにも不思議なことだった。そこにジンケはいないのに、激しくジンケを感じるのであった。
病院のベッドで眠るジンケは哀れだった。ガイはどうしても助けてあげたい。そのためには新しいガイの全く新しい世界へ招待することだと信じて疑わなかった。そう、あの猫ちゃんに招待されたように。そして今も猫ちゃんと共にあるように。だが、そのためには食べてもらわなくてはいけない。猫ちゃんの場合もそうだった。ガイが猫ちゃんを食べたから、こうして一つになれたのだ。ジンケは眠っている。それもただの眠りではない。深く深く、海の底のように真っ暗な眠りだ。到底、何かを食べることなんてできない。さて、どうしよう。ガイは、新しいガイに助言を求めた。自分の中に別の自分が存在していることに違和感はなかった。それは決して表には出ないはずだから。誰の心にも秘密の部分というものはあるはずだから。ただ、今日はちょっとだけ、本音がでしゃばり気味なだけ。ガイは己の変化になど露ほども気づいていないのだから。
新しいガイは、こう助言した。食べてもらえないのであれば、食べてあげれば良い。我々の世界では、どちらも同じことなのだーー。
幸いジンケに毒はないようだった。だから存分に食べてあげようと思った。ジンケのために。ジンケの病気を治すために。ジンケとこれからも一緒に生きていくために。
ガイは、そしてガイに非ずものは、あんぐりと口を開けた。すぐに口角が裂け、どこまでも開き続ける顎の感覚にガイは歓喜した。きっとこれはワニの顎なのだ。俺は全身顎の塊、顎で考え、顎で味わう、咀嚼の帝王ワニなのだ。
ーージンケ……いま喰ってやるど……!!
急に目の前の景色が歪んだ。しかも景色はそのまま凍りつき、ガラガラと音を立てて崩れ始めた。脳天に焼けるような衝撃。飴色に熱せられたハンマーで一撃の元に撃ち抜かれたかのような感覚。熱い……そして寒い……。頭の中が空っぽだ。えぐり取られて心細い。だけど、俺は、新しい俺は頭だけで考えちゃいない。脳天をえぐられたぐらいどうってことはないのだ。だが何が起こった? 攻撃されたのか? まさか、誰が……誰がこんな大それた真似を……?
ガイは振り返った。足取りも、その意識も、大晦日に大酒を飲んだ時みたいに虚ろな状態だった。真後ろにいたのはカホリだった。カホリの自由はガイの新しい特技『水鉄砲』で封じたはずだった。だが、カホリは『水鉄砲』を喰らったまま、ここまで歩いてきたのだ。感服すべき事実。やはり見込んだ通りの女。これだからこそ嫁にしたい。いや、感心している場合ではない。まずい、意識が遠のく。血が、いや水が足りない。カホリは何をした……。どうしてそんな目で俺を睨む? その手に持っているのは何だ? 何かの容器。空っぽだ。透明の容器に何か書いてある。文字だ。手指……消毒用……ジェル……。ジェル!? カホリぃ……まさかおまえは……俺の脳天に……ジェルをぶちまけたのかぁ……!?
カホリの呼吸は限界だった。病室の入り口に置かれた手指消毒用ジェルの存在に気がつくまで10秒。病院のロビーでガイの右手にダメージを与えたスプレーと、病室に備え付けられている見舞客用のジェルタイプとの違いを考え、若干ためらったロスタイムが5秒。それを取りに行くのに15秒。ガイに気づかれないように忍び足で近づくこと20秒。容器の蓋を開けるのに5秒。これが本当に効くのか、ガイの右手をただれさせたロビーでの一幕を思い出し決心を固めるのにやはり5秒。いざ、ガイの脳天めがけて容器を裏返し、ジェルがどぼどぼとこぼれ落ちるまで3秒。ここまで1分強経過。2分間は保つ自信があった。だが、すでにカホリは限界だった。緊張と恐怖が体内の酸素をむさぼる。だって、目の前で人間が溶けているのだから。脳天に円柱状の空洞を作り、なおも意識を保っているのだから。もうダメ……。カホリは最後の空気を悲鳴と共に吐き出し、今まさに肺はバックファイアさながら大量の水を吸いこもうとしていた。
ガイが遠のく意識の中で出した指令は『回収』だった。見るのも聞くのも考えるのも、何をするにも水が足りない。今はとにかく水の補給。彼がつい先ほど取得した特技『水鉄砲』を回収するのだ。
あわや窒息という瞬間、カホリは水の牢獄から解放された。途端にその場にへたり込む、嵐のようにむせ込む。肺に水が入ったが、気絶するほどの量ではない。何とか意識を保ち、次の動作に入らなければ。ひょっとしたら、いやかなりの確率で、あいつの逆鱗に触れてしまったのだから。
残された最後の力を振り絞り、カホリの頭部を覆う水の塊を吸い込んだ直後に芽生えた感情は怒りだった。愛が憎しみに変わる瞬間をガイは身をもって堪能したのだ。ーーやってくれたなカホリぃ……。憎しみの対象がジンケからカホリに移った。ーーこの売女め! 目の前でへたり込む少女は、海岸に打ち上げられた海草のようだ。ガイは本気で叩き潰したいと思った。次なるガイの特技、なだれ式の『水ボンバー』をお見舞いしてやろうとさえ思うほどだった。
尋常ではない威圧感。心身のダメージとは別に、カホリはその異様なプレッシャーを被捕食動物の潔さで理解しかけていた。それはすなわち、受け入れるということだった。もう戦うだけ戦った。十分だ。思い残すことはない。ごめんねジンケくん。でも許してくれるでしょう。こんなに勇気を出して立ち向かったのだから。一矢報いることはできたのだから。だからこれ以上は無理。今目の前で、不気味な笑みを浮かべながらみるみるパンプアップしていくかつての同級生の姿を見上げながらこの私にこれ以上何ができる? もう見たくないの。感じたくはないの。恐ろしいことには関わりたくはないの。
そう、カホリが全てをあきらめた時、窓ガラスがきらりと光った。ーーなんだろう? 全く別のことで気を紛らわすのはきっと得策だろう。あのきらきら光る窓ガラスの一点だけを見つめて、あとはガイの好きにさせよう。何をされても、私が最期に見るものは、きらきらきらめく光のダンス。
最初は気のせいかと思った。いわゆる星が飛ぶという状態なのだろう。脳の酸素不足のせいで視界にノイズが走るのだ。だが、肩で激しく呼吸し、次第に酸素を取り戻すにつれ、光の点はより明瞭に見えるようになった。こうしている今も目の前ではボディビルダーの如く筋肉ならぬ筋水隆々へと進化するガイがいる。そんなグロテスクな状況の中でも、カホリの意識は平静きを取り戻しつつあった。窓にきらめく光の点を見ていると、なぜか心が落ち着くのだ。
すると妙なことに気がついた。光は窓から発せられているのではない。当然のことだが、光というものは窓の外から射し込んでいるのだ。ではなぜ、あのようにガラスの表面でちらちらと光る? さらに注意深く観察すると答えはすぐにわかった。光に気を取られすぎていた。単純なこと、窓ガラスにヒビが入っていたのだ。まるで蜘蛛の巣のような幾何学模様のヒビ。その中央、最もヒビが深いであろうポイントから、蛇の舌のような光の筋がちろちろと出入りする。なるほど、理由はわかった。では聞こう、これは一体何なのだ?
それは青虫のようであった。生命力の光に満ち満ちたやわらかい幼虫。ヒビ割れたガラスの隙間に生皮の兜を突き立て、まだ見ぬ外界への旅立ちを夢見る若人。カホリは無意識に「がんばって」と祈った。がんばってがんばってがんばって……。なぜそう思ったのだろう? 囚われの己自身を、その謎の光に重ねたのだろうか。それとも天の助けが舞い降りたと藁をもすがる思いで信じ込もうとしたのだろうか。ーーどちらでもいい。何か起きるべきなのだ。このいたいけな少女をここまで痛めつけたからには、その分を取り戻すほどの天変地異でも起きない限り納得はできない。もしここで少女の短い人生に終止符が打たれるならば、それなりの演出を求める。神の名の下に、奇跡という名の演出をーー。
ついに光は窓ガラスを突き破った。だが、割れて粉々になるというわけではなかった。確かにガラスのヒビは一段階食い込みを増したかのように見えた。だがそれは細かな溝に染み渡った淡いの白光がそう錯覚させたのかもしれなかった。奇跡に理論など通用しない。とにかく光は外から中へ、侵入したのだ。
つー、と白い線。決して速くはなく、だからと言って遅いわけでもなく、光の筋は時空のトンネルを邁進する宇宙船のような実直さで対象物との距離を縮めた。カホリの予感は当たっていたのだ。光が狙うのは彼奴。かつての級友、ガイに非ずものだったのだ。
じゅっーー。焼けるような音、そして焦げるような匂いがカホリの元へ届いた。今や窓ガラスのヒビは銀色に輝く蜘蛛の巣。その至る所から白銀の光がガイに向かって伸びていた。
じゅっーーじゅっーーじゅっーー。まるで高熱の糸。ガイに非ずものはようやく異変を感じた。カホリの目の前で見る影もないほどマッチョな肉体へと変貌したかつての級友は、今、全く逆の行程をたどり出した。背中からおびただしい量の蒸気。かさが減っているのだ。
とっさにガイは振り返った。カホリの視界は彼の背中で埋め尽くされた。まとわりつく白銀の蜘蛛の糸。もうもうと舞い上がる蒸気。ともすると、むせ返るような磯の匂い。ガイは光り輝く蜘蛛の糸を必死に払いのけようとするが、もがけばもがくほど光の筋は絡まり続ける。すると蒸発のスピードは更に増し、パンプアップしたガイのかさは減り続ける。何かとっておきの技でもあったのだろう。もごもごと口を動かしながら何度もお決まりのポーズを取ろうとするが、すでに光の束でがんじがらめ状態のガイでは滑稽な仕草を繰り返しているようにしか見えない。危機は去った。そうカホリは確信した。蒸気が緩み、ようやく光の束から解放された時、ガイは元のサイズに戻っていた。いや、元より縮んでいる。そのようにカホリに見えた。
ガイは怯えていた。正体不明の攻撃を受けたのだ。しかも、相手は見えない。この光っているものが相手なのだとしたら、全く対処の仕様がない。水は光に触れることができないのだから。
ガイは一瞬カホリを睨んだ。カホリの仕業なのかと思ったのだ。だが、カホリもまた怯えていた。この中で一番無力なのはカホリに違いないのだ。では、あの光は何だ? ジンケか? 昏睡状態のままでもこれだけの力があるというのか? ならば、とどめを刺すまでだ。こうなったら悠長に味わってなどいられない。直ちに息の根を止めねばなるまい。だが、ガイは動けなかった。力がほとんど抜けていた。あんなにみなぎっていた人に非ずの力はどこかへ消えてしまっていた。今となっては、ただの人間の子どもなのだった。
ガイの体から離れた幾筋もの光は、海中に漂う寄せ集めの海藻のように一束にまとまりつつあった。最初はクラゲのように未発達な塊だったが、それは次第に人の形へと近づいた。ガイやカホリとさほど変わらない大きさの人間である。だが、次第に光の強さは弱まり、ほとんど幻影、見る者によっては幽霊の類だと思われるような儚さにまで薄まった。力が抜けたのはガイだけではなかったのだ。この謎の光もまた、力を使い果たしたようだった。
だが、光は引かなかった。ほとんど霞のような光量になりながらも、ただ一人赤子のように眠るジンケ少年の盾となった。両手をいっぱいに広げて、健気な守護の意志まで示した。それを見たカホリは得体の知れない感動を味わった。ーー光は助けようとしている。
ガイは勝負に出た。泣きっ面を隠しもせず、ただ無様に級友が眠るベッドに躍りかかった。ただ、そのゾンビのように突き出した両腕にはあからさまな悪意が満ちていた。両手は半月をかたどり、まるで三蔵法師の三番弟子、沙悟浄の得物である半月刃の宝杖のようであった。彼は、人間が潜在的に持って生まれた殺人術、喉締めを遂行しようとしていたのだ。
ーー喝!!
まばゆい光が病室内に満ちた。実際に「喝」と聞こえたわけではないが、全てを飲み込む真っ白な光は神の鉄槌そのもののように感じた。
直後、光は嘘のように去った。この怒涛のような数分間の出来事、全ては夢で、幻で、真っ赤な嘘である。そう信じ込むに値するほどの平和な静寂が訪れた。まさか、時も若干巻き戻されたのではあるまいか。カホリは咄嗟に病室内の壁時計に目をやったが、そもそもの時間経過を記憶していなかったので無駄な徒労に終わった。
ーー助けなきゃ! 急に強烈な使命感が押し寄せた。光は去ったのだ。もう私しかいない。今ならきっと私にもできる。光があれだけ尽くしてくれたのだから。ほら、ガイは動いていない。ベッドの脇で呆然と立ち尽くしている。今なら、私にも、できる。
カホリは立った。あれほど恐怖にすくんでいた足は問題なく動いた。大きく空気が変わったのだ。嵐の後の空のように、澄み切った空気がカホリを全面的に支援した。立ち上がると同時にクラウチングスタートの要領でちょうど三歩でガイの肩に手が届いた。そして思い切り引き寄せた。こちら側を向いたら思い切り引っぱたいてやるつもりだった。だが、振り上げた右手はそのまま停止した。ガイは泣いていた。
ガイは、己の両手を見つめながら滂沱の涙で頬を濡らしていた。
……戻ったのか? カホリはそう思った。この表情、知っている。幼くて、無力で、過ちへの対処も知らず、ただ悲しみに打ちひしがれる、純真無垢な子どもの顔だ。
「ガイ……」カホリは声をかけた。
その時ドアが開いた。
転がり込むように入って来たのは音楽教師の恵子だった。
ガイは教師の姿を認めると、追い立てられるように駆け出した。泣き腫らした顔を片腕で隠し、半ば恵子に激突する勢いで闘牛の如く駆け抜ける。唖然とした恵子はベッドの側で立ち尽くすカホリに答えを求める。カホリは悲哀に満ちてたまらないという顔で半歩恵子に近づく。だがすぐにその手を胸に当て気まずそうに俯く。何が起こった……?
恵子はすぐさまベッドに駆けつけ病人の様子を探る。寝息が聞こえる。心電図のモニターも正常。顔色も悪くない。
「ガイのやつ、かなりショックだったみたいだな」
後ろから声がした。木村が来ていた。恵子の後を追って来たのだ。
恵子は再びカホリの顔を見た。目を合わせる。何があったの? と目で問いかけ、目の奥を探る。
少女の潤んだ瞳の奥には、言い尽くせないほどの心的外傷が読み取れる。恵子は音楽の他に児童心理学も専攻していた。この目は知っている。あまりのショックで今にも心を閉ざそうとしている。ひどい虐待を受けた子どもの目だ。
たまらず恵子は抱きしめた。さほど身長の変わらぬ子どもを、自分の元へ引き寄せ、その小さな顔を自らの肩に埋め、不慣れな手つきで頭を撫でた。
「えっ……!?」
そのただならぬ雰囲気に弾かれるように木村が飛んで来たが、恵子は一言「だいじょうぶです」と答えた。ベッド上の少年に異常がないことに気づいた木村は女同士の抱擁に居心地が悪くなり、さほどかゆくもない頭をかく。
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……」そうささやきながら恵子はカホリの頭を撫でる。
「カホリもショックだったんだな」上ずった声で木村が言う。「でもだいじょうぶだからな。きっと良くなって、またみんなで会えるんだからな……」
自らの声が全く響かないことに更に居心地の悪さを感じ、「川上先生、じゃあ俺、お父さんの所行ってますんで……じゃあ」と言って木村は病室を出る。
恵子はそれには答えず「だいじょうぶ」とささやき続ける。それはまるで子守唄のようで、次第にカホリの緊張はほぐれる。ほんの少し、カホリが恵子の腕を握り返して来たところでささやくのを止め、更にしっかりと抱きしめた。
「送って行くからね」恵子は言った。
紅潮した頬を、ただ教師の首元に押し付けてカホリはそれに答えた。




