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仲間集め

 ナオユキとスグルは共に通う学舎からほど近い公団住宅に来ていた。日本全国の公団住宅がそうであるように色はグレーとクリーム色の中間。だが、ベランダの部分だけがなぜか臙脂色に塗装されていた。古い建物だ。エレベーターはない。各住居のドアはサビを隠すために何度も上塗りされているが、その中身はがらんどうで、叩けば鈍い鐘のような音がした。ハッセが住んでいるのは最上階である7階。駆け上がった二人の少年は白い息を吐き、背中からも白い湯気を上げた。

 ナオユキはドアを叩いた。「ハッセー」と呼びかけながら間を空けて何度か乱暴なノックを繰り返す。

「押せば?」スグルが指をさして言う。表札の下の、チョコレートのような黒い押しボタン。

「壊れてんだよそれ」ナオユキはそう答える。

 反応がない。ドンドンと叩く度にドアはガランガランと鳴る。その音がやけに神経にさわる。人が出入りする度にこんな音が鳴るなんて、ナオユキにもスグルにも考えられないことだ。だが住めば都とも言うではないか。ハッセにとってはこの極悪カウベルの音こそが、我がスウィートホーム、望郷の調べとでも言えるのかもしれない。

 しかしこの押しボタン、やけに気になる。無論、チャイムには違いないが、ブザーと言った方が好ましいように思えてしまう。この押しボタンの形状からは「ビー」という無愛想な音、愛嬌の無い電子音を期待する。そんな音で呼び出される家人の気持ちはどんなものだろう。まるで檻。ブザーで行動を管理された檻の中の猿ではないか。

 スグルが妙な衝動にとらわれている間、ナオユキは至って慣れた手つきで無線機を取り出した。この展開を予測し、むしろこっちの方が確実だと言わんばかりに落ち着き払った行動。そして手際良く交信開始。

「ーーこちらナオ。ハッセ、応答せよ、どうぞーー」

 慣れた口調。使い古した定型句。スグルは単純にかっこいいと感じた。受信と送信が切り替わる「ブツッ」という音が好きだ。あの瞬間がたまらなく好きだ。心からそう思う。ああ、細い針だ。ごく細い針を脳に突き刺し、ほんの少しだけ息を吹き込む。そんな音に聞こえる。その向こうには見知らぬ多次元世界が待っているような気がする。そう、無線機はすごい。無線機さえあれば世界は無限なのだ。

「ーーこちらナオ。ハッセ、いるのか、聞こえているのか? どうぞーー」

 加えてナオユキはドアを乱暴に叩くがやはり反応はない。これだけやって返事がないのだから、本当に留守なのだろう。

「仕方ない、次行くか?」スグルは聞く。

「帰ったのかもしれないな」ナオユキは言う。「ハッセさ、お袋さんの田舎が遠くにあるんだよ。年の瀬にはお袋さん帰るんだ。だけどハッセはめんどくせえって言ってこっちに残る。だけど今年は一緒に帰ったのかもしれない」

「ハッセってお母さんと二人なんだっけ?」

「ああ」ナオユキは答える。「あいつは強いやつだよ。一人でも平気なんだ。まあ、お袋さんがいない時はここがたまり場になるけどな。ハッセの作るメシは旨いぞ。あいつ、かなり出来の良いシェフだよ」

「へえ……」いろいろな世界があるものだなとスグルは思う。ハッセの料理か……噂には聞いた事があるが、一度呼ばれてみたいものだ。ハッセの作るメシは旨い……。ナオユキが言うのだからそうなのだろう。

「行こうぜ」ナオユキはあっさりと踵を返す。

 スグルは鋼鉄のドアを眺めた。一度も開くことはなかったが、ハッセに関する新たな情報は獲得できた。今回の件には関係のない情報かもしれない。だが、何がどこで繋がるのかなんて誰にもわからないのだ。一見無駄とも思える情報が、事件を一気に解決に導くことだってある。そうだ、大いにあり得る。特に名作と謳われる推理小説ではそれがお約束の展開。ああ……これではまるで探偵ではないか! スグルは内心わくわくしていた。不謹慎が興奮に拍車をかけ、瞬間的だが何か大きな予感めいたものに支配された。将来、これから十年や二十年先も、こうしてナオユキと一緒に何かを捜査している。そんな強烈な既視感が恍惚とも思しき慄きと共に、大いなる精神世界へ去来したのだった。


 打って変わってここは一戸建てが並ぶやや高級な住宅地。色や形はそれぞれ違うが、どこか一様に似通った様相を呈する。動物で言えば毛色や斑点の有無。人間で言えば六等身内の血縁が有するそこはかとない類似性。より無機物に限定すれば生産的なモノカルチャーとでも言おうか、だがそこまで言ってしまえば冷徹が過ぎる。しかし人々は往々にして、そんな冷酷の中にこそ幸福を求める。

 タカシの家はそのような住宅地の中にあった。混沌のかけらもない小綺麗なモデルハウス。広告通りのガレージにイメージ通りの自家用車。庭は芝生。門には花壇。玄関にはアンティークな自立式のポスト。ウッド調ハンドメイド風の表札は無害性、そして独創性をも象徴する。しかし全てはカタログで揃う。一通の註文書で家の性格はカスタマイズ可能なのだ。しかし少年たちは知っている。どんな家に住んでいようが、彼ら子どもたちにとってそれほど重大なことではない。あたたかな布団と十分な食べ物さえあれば満足するのだ。もし家に不満を訴える時が来れば、それは大人になりつつあるということ。家というものは外に出るためのドアでしかない。休み、育み、家族の愛情を感じるための結界。物理的には空間を壁で仕切った概念でしかないことを、子どもたちは潜在的に理解している。

 今回のナオユキは至ってノーマルな行動をとった。インターホンの前に立ち、姿勢を正してチャイムを押す。ややあってスピーカーから「はーい」と声が出る。若くて明るく、だがいかにも母親的な声。

「あらナオユキくん」

 ナオユキが名乗る前に壁の向こうの(おそらくキッチンにいる)夫人が訪問者を名指しにする。そしていくつかのドアを通り過ぎる物音、あっという間に気配は一枚のドア越しになり、「ちょっと待ってね」と声が近づく。鏡でも見ているのだろうか、少しの間があり、ドアが開く。ここがタカシの家。そしてこれがタカシの母親。スグルの目から見ても、若々しくて美人だ。

「あら、今日はハッセくじゃないのね」と夫人がスグルを見やる。スグルは反射的にうつむく。なんだか気恥ずかしい。タカシが男にしてはきれいな顔をしているのだから、その母親が美人でも不思議はない。だが、なんだろう? この母親には照れてしまう。それとは逆にナオユキの堂々たる姿。スグルが初対面というのを抜きにしても、ナオユキと夫人の距離がやけに近い。おかしな話だが、恋する男女に見えなくもない。特に夫人の表情。体も妙にくねらせてナオユキにあえて嬉しくて仕方がないといった様子。本当に、本当に、おかしな話だ。

「ごめんなさいね、タカシったら、熱を出して寝てるの。寒くなるといつもそう。二人がうらやましいわ。だって見るからに丈夫そうだもの」

 と言って夫人はナオユキの厚い胸板に指先で軽く触れる。スグルは見ていられない。まさかその手をナオユキがとり、その場に跪いて口づけでもするんじゃないのか? そんな予感さえしてしまうのだが、そんなことは起きない。起きるはずがない。だが、どうしてもこの華奢な夫人がナオユキの胸にしおらしく寄り添う姿が目に浮かんでやまない。

「そうですか」ナオユキが言う。「お大事にとお伝えください。元気になったらまた遊ぼうって」

「タカシきっと喜ぶ。ナオユキくんも懲りずにまた来てね。それともちょっと寄って行かない? お友達も、お茶でも淹れるわ」

「いえ」ナオユキは答える。「今日は別件もありますので、これで失礼します。また近々様子を見に来ますので、その時はお見舞いさせてもらいますね」

「わかったわ。お友達も、またね」と夫人はスグルに流し目。スグルはぎょっとして目をそらす。ドアが閉まる音でようやく視線の呪縛から解放される。

「後妻だよ」ナオユキが言う。「若いんだ。まだ二十代だって聞いた。だけどその分過保護だ。過保護が行き過ぎてる。ちゃんとした母親になりたいんだろうけど、そのプレッシャーがかえって束縛を強くする。少しでも熱が出ようものならタカシは監禁状態だ。俺たちに対するあの目、見たろ? がんばり方が空回りしてるのさ」

「なるほど」スグルは答える。「タカシも大変なんだな」

「ああ、大変だ。タカシほど大変なやつはいないな。だけど、俺としては礼節を尽くすしかない。ごく稀にだけど、外出を許可してくれる日もある。だけどそんな日は態度が全然違うよ。三日も寝てないみたいな顔してさ、一言も口聞かないんだ。きっとあれだな、躁鬱が激しいってやつなんだろうな」

 と言いながら、ナオユキはスグルを連れて家の裏に回る。

 二階に窓が見える。その階下に浴室とトイレの小窓。その隣には巨大なテラス。奥はきっとリビングだろう。テレビの音がかすかに漏れ、レースのカーテンの向こうには先ほどの夫人の影。ナオユキは適当な小石を拾い、二階の窓に向けて投げる。「コチ」とガラスが音を立て、中のカーテンが(閉まってはいるのだが)ほんの少しだけ揺れる。スグルには目視できなかったが、ナオユキはカーテンの隙間にピーピングトムの如くぎらついた眼を発見。そして再び小石を投げる。だがカーテンはわずかな隙間をぴしゃりと閉じる。

「あいつめ……」ナオユキは悪態をつき、無線機を取り出す。

 スグルは固唾を飲んで見守る。

「ーーこちらナオ。タカシ、いるんだろ、大事な話がある、応答せよ、どうぞーー」

 やはり応答はない。

「俺からも言ってみる」スグルは言い、無線機を取り出す。「ーーええ……もしもし、こちらスグルだ。タカシいるんだろ、具合が悪いところごめんよ、だけど大事な話なんだ、頼む、応答してくれ、どうぞーー」

 二階のカーテンが揺れる。隙間から再び死人のような目。今度はスグルにも確認できた。

「ーーおいタカシ、びびってんのはわかるけどな、このままじゃ俺たち一生びびったままだぞ、出て来いよ、スグルも仲間だ、他にもいるぞ、とにかく出て来い、もう動き出しちまったんだよ、そうやって一人でいるよりずっといいぞ、どうぞーー」

 再びぴしゃりとカーテンが閉じる。ナオユキは食い入るように無線機を眺める。すると、針に魚がかかったかのようにスピーカーがノイズを弾き出す。「ジジッ」という巨大な耳垢が取れたかのような音。これだ、これをスグルは待っていたのだ!

「ーー今日は、マジで、調子が悪い、どうぞーー」タカシの声。

「ーー熱は何度ある? どうぞーー」

「ーー38度、どうぞーー」

「ーーじゃあがんばれ、寝込むなら夜に寝込めばいい、今はやることがある、今は今しかないんだぞ、どうぞーー」

「ーーだいぶ抵抗力が落ちてる、今外に出たら感染しちゃうよ、わかってるだろ? 1つの感染が10の感染を呼ぶんだ、どうぞーー」

「ーー完全防備で来いよ! キツかったら俺がおぶってやる! どうぞ!ーー」

 しばらく無音が続いた。スグルはこの二人の関係を今更ながら不思議に思う。タカシは昔から病弱だった。筋肉アンドロイドの異名を持つナオユキとは共通点など皆無だと言える。だが、事実二人は仲が良い。休み時間にはいつも決まってタカシがナオユキの机の上に座る。まるでチンパンジーとゴリラの友情物語だ。机の分だけ上背が伸びたチンパンジーことタカシがゴリラことナオユキを見下ろす形になる。体の大きさこそ雲泥の差だが、上下関係はチンパンジーに分があるように見えなくもない。それでいて、お互いそのような関係を楽しんでいるかのようにも見える。ナオユキに対してそんな態度を取れるのはタカシだけであった。ハッセですらも、そんな大胆な真似はしない。おそらく、本能的にナオユキより先に出ることを避けるのだろう。だからタカシは特殊なのだ。町で唯一の猛獣使いと言えよう。

 入学当初、ナオユキはその類まれな体格とアウトローな顔立ちのせいで、すぐに上級生から目をつけられた。『不良』を自称する彼らはナオユキを体育館の裏に呼び出し、今では過去の遺物として語り継がれる伝説の通過儀礼『ヤキ入れ』の準備を進めていた。

 だが、彼らは本気ではなかった。血なまぐさい縦社会など今時流行らないことにも彼らは気づいていた。ただ軽く脅して、笑いのタネにしてやるつもりだった。彼らだって怪我はしたくない。殴られたくもなければ、拳を痛めてまで人を殴りたくはないのだ。

 それはナオユキとて同じこと。できることならケンカは避けたい。10発殴らなければいけない状況を、1発殴られて避けられるのであれば進んで後者を選ぶ。もちろん相手の技量を見極めてからの判断ではあることは言うまでもない。よほどの侮辱を受けない限りは相手に合わせてやるつもりだった。

 不良グループのリーダーらしき男は見るからにいけ好かない顔をしていたが、話す内容にはちょっとしたセンスを感じた。

「このシマは俺らが仕切っている。お前は見たところなかなか有望な人材のようだ。だから特別に二つの選択肢を与えよう。俺らの手下になるか、ならないか。その二つだ。なるなら俺が一発殴る。入会金としては格安だ。ならないなら一発ずつ。ここにいる俺ら全員から一発ずつ殴られる。それで晴れて放免だ。放免って意味わかるか? 自由にしてやるってことだよ」

 そうリーダーは語った。いやらしい笑みを湛え、欠けた前歯が牙のように光っていた。彼の前歯はシンナーの吸い過ぎで溶けたと噂されていたが、実際にはスケートリンクで転倒、顔面を強打した際に欠けたものだった。彼はナオユキの返事を今か今かと心待ちにした。このやけにガタイの良い新入生の口からどんな言葉が飛び出しても、「冗談に決まってんだろ!」と笑い飛ばしてやるつもりだった。要は肝試しだ。この緊張感、そして弾けるような開放感。これこそ生きていると実感出来る瞬間なのだ。

 ナオユキは誰にも気づかれないようにほくそ笑んだ。この状況を楽しみ始めている自分がいる。最初は一発殴られて終わりにしようかと考えた。別に手下になることもない。その後、無視を決め続ければ良いだけだ。だが、このリーダー格の男には妙な親近感を感じた。そもそもこいつは人を殴るつもりなどない。目を見ればわかる。闘争心のかけらもない目だ。この男はただ駆け引きを楽しんでいるだけ。ではなぜそんなことをする? 満たされないからだ。家庭にも学校生活にも居場所を感じられない。断言するが、この男は俺とは似ても似つかない。だが、きっと過去に同じものを見たのだ。人生は光り輝く一本道だと信じて疑わない幼少期、光の屈折か何かで視界から消え失せた通路。薄ら寒く、目を背けたくなるほど無機質な入り口。逃げるように走り抜けるが、すぐにまた別の通路が現れる。逃げても逃げても無駄。まるで手招きをするかのように、同じ入り口が現れる。もう戻れない。もう光り輝く一本道は戻ってこない。たとえまっすぐ進み続けても、視界の隅には常に暗黒の通路が存在する。きっと、この男も見たのだ。だからナオユキはもう少し付き合ってやることにした。二つの選択肢は放棄しよう。

「すみません、許してください」そうナオユキは言った。直立のまま、表情を変えずに、よく通るバリトンが大地をかすかに震わせた。空気がぴりりと張り詰めた。まるで放浪の武芸者だ。とんでもない奴に関わってしまったと、ゴロツキどもはこの瞬間初めて理解した。……やらなきゃやられる。途端に未発達な生存本能がパニックを起こし、彼らは拳に力を入れた。そして他の誰にも言えないが、下半身にはハッタリが効かず、それぞれが一様に逃げ腰であった。

 時代劇さながら、まさに大立ち回りが始まろうとする矢先、予期せぬ声が届いた。

「やめろ!」

 女とも男ともつかない声色だった。と同時に小柄な学らん姿の少年が駆けて来た。知っている少年だった。病弱でほとんど学校に出て来ない、確かタカシとかいう学友。ふとナオユキはその走り方に注目した。確かに体の線は細い。顔も女みたいで肌の色も青白い。だけど、それほど悪い走り方ではない。それなりの筋肉が伴えば、良いランナーになるだろう。そんな気がしてならない。病弱にしては運動のセンスがあるように思えるのだ。

 駆けつけたタカシは激しく息をしながら言った。

「お前ら卑怯だ。やるならタイマンだ。タイマンしようぜ。そっちで二人選べ。正々堂々勝負しろ!」

 見るからにひ弱な少年にそこまで言われたら引くわけにはいかない。グループのリーダーは嘲笑を浮かべながら快諾。だが、正々堂々やるつもりはない。この虚弱なガキをタイマンでぶちのめしたら、あとは数に物を言わせて大物を仕留める。予想に反して荒々しい事態になりそうだが、これも致し方ない。どちらにせよ、この巨人新入生には灸をすえる必要があるのだから。

 しかしナオユキは見てしまった。タカシの袖口に光る物を。それは握りの太いカッターナイフで、刃はほんの数ミリといった程度、切りつけても重傷にはならないように調節されていた。ナオユキは衝撃を受けた。この小男が隠し持った理不尽な度胸に感動すら覚えた。そしてにわかに嫉妬した。勝ち目のない戦い。そして勝つためには手段を選ばないという覚悟。あらゆる卑怯を味方につけて血を流すのも厭わない。そんな戦いをナオユキはしたことがなかったのだ。

「ようタカシよ……」ナオユキは言った。「俺は正々堂々ってのが大嫌いなんだ」

 言い終えると同時に体が動いた。相手は全部で6人だ。ナオユキはまず一番手近にいた上級生の顔面を右のストレートで打ち抜いた。相手はその場に崩れ落ちそのまま気絶した。そして流れるように次の相手の下腹に拳を沈めた。相手は鷺のようにぎゃあと鳴いて、やはりその場に崩れ落ちた。今度は気絶せずに終始うなり声を上げていた。そこからはさほど変化のない繰り返しだった。顔面、腹、顔面。5人続けて全て一発で仕留めた。何度も練習を重ねた殺陣であるかのようだった。残すは前歯の欠けたリーダーのみとなった。

 リーダーは平然としていた。少なくともナオユキにはそう見えた。なかなか肝が据わっているなと感心しても良いくらいだった。だが彼は突然の事態にうまく順応できないだけであった。少し遅れて、例えば遥か上空で大鷲がぐるりと旋回するほどの間をもって、リーダーはびくんと、それこそ全身に高圧電流を流されでもしたかのように飛び跳ね、それから地に足が着いたと思うと一目散に逃げ出した。

 もう十分だと思った。それに逃げ足は異常に早かった。さすがのナオユキも、死にもの狂いで逃げる相手へ追いつくには骨が折れる。これだけやればもう十分なのだ。と思った矢先、リーダーが不自然に横っ飛びした。何かを避けたわけでも躓いたわけでもない。真横から衝突されたのだ。タカシ……。それはタカシだった。

 タカシは衝突したそのままの勢いでリーダーに覆いかぶさり完全なマウントポジションをとった。そしてぎこちなく左右の拳で一発ずつ殴った。最初は驚いたリーダーであったが、上半身を押さえつけるこの小男が想像よりもずっと軽いこと、そして殴られた顔面もほとんどダメージを受けていないことに気がつくと、ロックされた両腕を力任せに引き抜き、間髪を入れずに小男の喉を締め上げた。

 だがタカシは身を引くどころか逆に押しつけてきた。充血した目玉が飛び出すほど睨みつけ、食いしばった口から吹き出した泡がリーダーの顔に垂れた。タカシは必死に手を伸ばした。同じように相手の首を絞めつけようとしているのかと思いきや、その手には光るものがあった。ーーカッターナイフ。震える右手の先でカチカチと音がする。少しずつ刃が出てきているのだ。リーダーは恐怖した。刃はまっすぐリーダーの首を狙っている。こいつ……いかれてやがる!

「まいった!」リーダーは叫んだ。「俺の負けだ! おい、なんとかしろ! こいつをなんとかしてくれ!」

 ナオユキに懇願しているのだった。ナオユキの方がまともなはずだ。この状況ではきっと味方になってくれるはずなのだ。根拠があるわけではないが、彼は人間由来の友愛と呼ばれる精神を信じるしかなかった。一時停戦を望む。不測な脅威には善悪の壁を超えて協力するしかない。タカシはまさに脅威、そして狂気であったのだ。

「もういい、タカシ」

 不意にタカシが浮いた。ナオユキが両脇を持ち上げたのだ。その瞬間、カッターナイフを握った右手がぶんぶんと宙を切り裂いた。リーダーはぞっとした。血の気が引くという感覚を実際に味わい、ほんの少しだが失禁もした。タカシはその後もしばらく、猿のおもちゃの如く空中で暴れたが、徐々にゼンマイは切れたようで、やがてぐったりとうなだれ、激しくむせた。ようやく喉の痛みに気づいたらしい。

「……悪かったな」

 そうリーダーは言って、手下を連れて帰った。それっきりそいつとは話していない。学校で顔を合わせても向こうが目をそらす。そもそも向こうから視界に入らないように努めているのかもしれない。この一件からタカシとの付き合いが始まったのだが、病弱なイメージとは裏腹に話してみると実に愉快なやつだった。その異常な好奇心と肝の座り方は、どこか生き急いでいるようにも見え、タカシが無茶をするたびにナオユキの胸は締めつけられた。その華奢な骨格も、女のように細い黒髪も、骨が透けて見えるような青白い肌も、なぜだか羨ましく思える時もあった。ナオユキ自身が有する肉体、運動神経、明晰な頭脳、どれも自ら欲したものではない。それはタカシとて同じこと。二人は互いの長所にも短所にも急激に惹かれた。お互いが遠いどこかで失われた自分自身のかけらのように思えたのだ。


 再び無線機は応答した。

「ーーこちらタカシ、準備オッケー、今から出る、どうぞーー」

 そして一階のトイレの小窓が開いた。なんとなくスグルは、二階の窓からロープで伝って降りるタカシの姿を想像していたので、少々残念に思った。

 まず足が出た。身をよじらせながら、尻、続いて胴が出た。上着を何重にも重ね着しているようで、着ぶくれの部分が窓枠に引っかかって上手く出られなかった。するとナオユキが慣れた手つきで着ぶくれを介錯し、その両足を引っ張った。ようやく肩まで出てきたところでスグルも手を貸した。クラスでいちにを争うほどの小柄な少年は、真っ赤な顔を外気にさらし、湯気が出るほど熱かった。

 一番外側の上着は肩までめくり上がりキルティングの裏地が見えている。その下にも外套は二枚、この様子だと肌着にインナー、下手したら十二単を地で行っているかもしれない。マスクも二重に当てていて、もごもごと何か発するが上手く聞き取れない。どうやら「手伝って」と言っているようだ。めくり上がった上着をナオユキとスグルで直してやる。だるま状態のタカシはほとんど身動きが取れないのだ。

「だいじょうぶか?」ナオユキが声をかける。

 タカシは首を縦に振って答えるが、視線が定まっていないようだ。マスク越しでもその上気した顔色が見て取れる。こっちまで熱が出そうだ。だが意外にもその足取りはふらつきもせず、三人は抜き足差し足、家を離れた。

 しばらく歩くとタカシは言った。

「だんだん気持ち良くなってきた」二人の注意が集まるとタカシは続けた。「正直、熱が出た時って、気持ち良いんだ。そんで動きやすい。ちょっと体が浮いてる感じ。マジで思い切れば飛べるんじゃないかな。今なら何でもできそうだ」

「疲れたら言えよ。おぶってやるから」ナオユキが言う。

「うん、ありがとう」そう答えてタカシはテンポ良く小石を蹴る。それは以外にも高く舞い上がり、信号待ちの自動車のフロントガラスに当たる。

「あ!」三人は同時に声を上げ、慌てて駆け出す。どうしてか、タカシが早い。本当に宙を駆けているかのような滑稽な走り方。無性に笑いが込み上げる。なんだか童心に帰ったような気分。世間的に見れば紛れもない童心真っ只中の三人かもしれないが、本人たちが童心を意識した時点で彼らはすでに童に非ず。この感覚、冬休みへのありがたみ。思えばスグルだけ恐怖と対面していない。でもこれだけの仲間がいれば問題はないように思う。それほど事態は深刻ではない。そうスグルは直感する。

 腕時計を見ると時刻は12時30分。もう山へ向かった方が良さそうだ。ハッセのことは諦めるとする。ユキちんとタカシを連れ出しただけでもかなりの成果だろう。これからどんな冒険が待ち受けているのか、非常に楽しみである。スグルだけが唯一楽観的なのであった。

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